結衣は服を畳む手を止め、気まずそうな表情をした。まさか、こんなに早く自分の言ったことを撤回することになるとは思わなかったのだ。実は、体調を崩していたこの数日で、ほむらへの怒りはほとんど消えていた。さっき、彼が転ぶ動画を見て、もうじっとしていられなくなり、京市へ行く準備を始めたのだ。「和枝さん、まだ覚えてたのね……」和枝は笑顔を見せた。「お嬢様、冗談ですよ。さあ、お荷物をまとめてください。私は大奥様にお伝えしてきます」「ええ」翌朝早く、結衣は始発の飛行機で京市へ向かった。病院に着いたが、ほむらは病室にいなかった。看護師から、ほむらがリハビリ中だと聞き、結衣は場所を確認すると、そのまま向かった。リハビリ室。ほむらは汗びっしょりで、手すりにつかまり、ゆっくりと体の重心を前に傾けていた。一歩を踏み出そうと必死だが、両足はまるで鉛のように重く、全力を尽くしても、少しも動かすことができない。彼が顔を真っ赤にして息を止め、汗が次々と流れ落ちるのを見て、リハビリ担当者が慌てて言った。「伊吹様、無理する必要はありません。毎日少しずつ進歩すればいいんです。両足が元の状態に戻るには、どうしても時間がかかりますから」ほむらは手すりをきつく握り、リハビリ担当者を見上げた。「どのくらいの時間がかかるんだ?」この足でなければ、今すぐにでも清澄市へ飛んで結衣に会いに行きたい。この数日間、彼女は拓海に彼の様子を聞くメッセージを送るだけで、一度も直接連絡をくれず、メッセージも送ってこない。きっとまだ怒っているに違いない。女性は、怒らせたらすぐに仲直りしないと、時間が経つにつれてますます気持ちが冷めて、最終的には愛想を尽かされると、誰かから聞いたことがある。もし自分がすぐに回復しなければ、結衣はもう二度と自分を許してくれないかもしれない。そう考えると、ほむらの表情が暗くなった。ほむらの鋭い視線を受け、リハビリ担当者は不安になり、おそるおそる答えた。「伊吹様、これだけ頑張っておられるなら、1カ月くらいでしょうか?」「長すぎる。2週間で普通に歩ける方法はないのか」リハビリ担当者が何か言う前に、リハビリ室のドアが開いた。「2週間で普通に歩けるですって?自分がスーパーヒーローにでもなれると思ってるの?」その声を聞き、ほむらは
「心配してないなら、一日中スマホを見て連絡を待ったり、食事中もぼんやりしたりしないでしょう」結衣の表情が変わったのを見て、時子はため息をついた。「結衣、本当に心配なら、京市行きの飛行機のチケットを取りなさい。わたくしは止めないわ」しばらく黙ったあと、結衣はようやく時子の方を向いた。「おばあちゃん、まだ、そんなに簡単に彼を許す気になれないの。あんなにひどく騙されたんだもの。伊吹家の門前で、1週間も待ち続けたのよ」「あなたが伊吹家の門前で1週間も待てたのは、あの事故の時にほむらさんが命がけであなたを守ってくれたからじゃないの?彼はあなたへの気持ちは本物よ。それに、あなた自身も前に言っていたじゃない。彼は、足が回復してから清澄市へあなたを訪ねるつもりだったから、あなたを傷つけようとしたわけじゃないって。彼の立場から見れば、彼も間違ってはいないわ」結衣は少し機嫌が悪くなった。「おばあちゃん、どうして彼の味方するようなこと言うの?私がおばあちゃんの実の孫だって、忘れたの?」「あなたがわたくしの実の孫だからこそ、こうして話しているのよ。二人が一緒にいれば、喧嘩することもあるわ。本当に、彼を一人で京市でリハビリさせるつもりなの?平気?」結衣はふんと鼻を鳴らした。「どうせ、彼は最初から私にこのことを教えようとも、リハビリに付き添ってほしいとも思ってなかったんだから」「それなら、もしあなたが心を鬼にして京市へ行かずにいられるなら、わたくしももう何も言わないわ」夕食を終えて、結衣は自分の部屋に戻ると、考えた末、やはり拓海にLINEを送った。【拓海くん、ほむらは今、どうしてる?】拓海はすぐに動画を送ってきた。ほむらが医療スタッフの助けを借りて歩行訓練をしている様子だった。彼は両手で手すりをつかみ、体を必死に前に進めていた。すぐに、大粒の汗が彼の額から流れ落ち、深く寄った眉からは、彼が今、強い痛みに耐えていることがうかがえた。ちょうど終点に着こうとした時、腕が突然滑って、そのまま床に崩れ落ちた。その瞬間、結衣の胸が締め付けられ、思わずスマホをきつく握りしめた。彼女は深呼吸をひとつすると、すぐに拓海に電話をかけた。やがて、相手が出た。「結衣先生、どうしたんですか?」「ほむら、この数日、リハビリはずっとこんなにつらいの?」
結衣は目を伏せ、ゆっくりと口を開いた。「分かったわ」そう言うと、彼女は背を向けて車のドアを開け、降りようとした。「結衣……行かないでくれ!」ほむらは手を伸ばして彼女を抱きしめ、その体を強く腕の中に閉じ込めた。その声には慌てた響きがあった。「すまない。僕の考えが、あまりに愚かだったことは分かっている。君を傷つけたことも。どうすれば、許してくれる?君が許してくれるなら、どんな罰でも受ける」「まず、放して」「放さない。放したら、君はきっと行ってしまう。僕に腹を立てて、もう二度と会ってくれなくなるかもしれない」結衣は、腹立たしくもあり、可笑しくもあった。彼が自分を騙していた時、どうして自分が怒るとは思わなかったのだろう?伊吹家の屋敷の門の前で、来る日も来る日も待ち続ける自分を見て、平然としていた時、どうして自分が怒るとは思わなかったのだろう?「ほむら、私を騙して、楽しかった?」その言葉が落ちた瞬間、結衣は、自分を抱きしめる腕が、はっきりとこわばるのを感じた。「結衣……すまない。本当に、僕が悪かった」「悪かったと思うなら、放して」「嫌だ」車内は静まり返り、互いの呼吸音さえ聞こえてきそうだった。長い沈黙の後、結衣がようやく口を開いた。その声には疲労の色が滲んでいた。「ほむら、家に帰りたい」この間、次から次へと色々なことが起きて、彼女には気持ちを整理する時間もなかった。先ほど、ほむらがとっくに目覚めていたのに、ずっと自分に隠していたと知って、結衣は急にひどく疲れてしまった。何も考えず、何もしないで、ただゆっくりと休みたいと思った。「分かった……君が帰りたいなら、僕も一緒に行く」「いいえ」結衣は首を横に振り、彼の方を向いた。「私が言った『家に帰りたい』は、私一人で帰るってことよ。それに、さっき言ったじゃない。リハビリ中は、そばにいてほしくないって。ちょうどいいわ。私が帰れば、あなたもせいせいするでしょう」「違う、結衣、そうじゃないんだ」「どうであれ、もうどうでもいいわ。放して。本当に家に帰りたいの。今、すごく疲れてる」考えるのも億劫で、ほむらを許すべきかどうかなんて、考えたくもなかった。結衣の真剣な表情を見て、ほむらの心も沈んだ。彼はゆっくりと彼女を放し、彼女の言いたいことを理解したよう
執事はうなずいた。「はい。もし本当に辛くなったらすぐにお帰りください。ご自身の健康が一番大切ですから」「ええ、分かっています。ご親切にありがとうございます」屋敷に戻ると、執事は節子の前に進み出た。「大奥様、結衣様はお帰りになる気配がありません」節子の口元に笑みが浮かんだ。「見ものわね。結衣がほむらに会いたいという思いが勝つか、それともほむらが結衣に会いたくないというプライドが勝つか」雨はますます激しさを増し、邸宅の門前では、道端に水たまりができていた。結衣は雨の中、さらに1時間以上も立ち続け、びしょ濡れの服が体にまとわりつき、寒さと空腹で、立っているのもやっとだった。顔は青ざめ、体もふらつき始め、今にも倒れてしまいそうだった。ほむらは車内に座り、雨のカーテン越しに彼女を見ていた。体は強張り、指先はドアハンドルをきつく握りしめている。運転手は思わず口を開いた。「社長、汐見様はもう1時間以上も雨に打たれています。このままでは、体を壊してしまいます」彼の言葉が終わると、車内は静まり返った。数秒後、ようやくほむらの低い声が響いた。「車を近づけろ」「はい」運転手はすぐに車を発進させ、結衣のそばに停めた。車が自分の近くに停まったことに気づき、結衣は顔を上げた。次の瞬間、彼女の手から傘が地面に落ちた。二人は雨のカーテンを挟んで見つめ合い、結衣は自分の目を疑い、その場に呆然と立ち尽くした。「結衣、まず車に乗って」ドアが開き、結衣は茫然としたまま車に乗り込んだ。車が動き出し、伊吹家の屋敷を離れてから、結衣はようやく声を出せるようになった。「あなた……いつ意識が戻ったの?節子様が、あなたを海外の施設に移したって……会いに行きたかったけど、どこにいるか分からなくて……」ほむらはタオルを取り出して彼女の髪の水滴を拭ってあげ、静かな声で言った。「あとで説明するよ。まずは、髪を乾かして」30分後、車は別の高級住宅地に入った。一軒の独立したヴィラの前に停まると、ほむらは結衣を見た。「先に入っていて。暗証番号は、君の誕生日だよ」最初の驚きと信じられない気持ちが過ぎ去ると、結衣も落ち着きを取り戻した。彼女はほむらを見て、思わず手を伸ばして彼の頬に触れた。温かい。夢じゃなかった。「ほむら、本当に目が覚めたの
「結衣に、僕への気持ちを証明してもらう必要はない。母さん、明日の朝、約束は無効になったと伝えて、清澄市へ帰してあげてくれ」節子は冷たく鼻で笑った。「約束をしておいて一日も経たないうちに無効にするなんて、わたくしがどんな人間に見られるかしら?どうせあなたは、彼女に自分の居場所を知られたくないのでしょう。この件はもう、あなたが口を出すことじゃないわ。わたくしが自分で判断して対応しますから」そう言うと、節子は電話を切り、執事に、もしほむらからまた電話がかかってきたら、もう休んだと伝えるようにと指示した。執事には、電話の向こうでほむらがどれほど怒っているか、容易に想像できた。しかし、彼もほむらの考えには納得できず、うなずいて言った。「かしこまりました、大奥様」ほむらは立て続けに何度か電話をかけたが、出たのはすべて執事だった。節子がもう電話に出るつもりがないと分かり、それ以上かけるのをやめた。彼はドアに向かって声をかけた。すぐに、ボディガードがドアを開けて病室に入ってくると、丁寧に頭を下げて言った。「社長、何かご用でしょうか?」「明日から、結衣の身の安全を守ってくれ」「かしこまりました」「それと、彼女の行動をすべて記録して僕に報告するように。何かあったら、すぐに知らせてくれ」「承知いたしました」……伊吹家の門前で12時まで待ち続け、結衣はようやくその場を後にした。それから1週間以上、結衣は毎日朝6時きっかりに伊吹家の門前に現れ、夜12時になってやっと帰っていった。節子は執事に尋ねずにはいられなかった。「ほむらの方からは、まだ何の連絡もないの?」彼の恋人が屋敷の門前で1週間も待っているのに、節子は、ほむらがまだ平然としていられるとは信じられなかった。「最初の2日間は電話がありましたが、この2日間はございません」節子は笑みを浮かべた。「天気予報によると、今夜は暴風雨になるそうね。今夜、ほむらがまだ辛抱できるか、見ものだわ。もし今夜もまだこんなに冷たくしていられるなら、わたくし、彼女に本当のことを教えてあげるわ」最初、節子の結衣への印象は確かに良くなかったが、この数日間の観察を通して、彼女の結衣に対する見方は変わりつつあり、結衣がほむらに対して真剣だということも信じ始めていた。「大奥様、本日もいつも通り
その言葉に、結衣の目に希望の光が浮かんだ。「会ってくださるんですか?」使用人はうなずいた。「はい、汐見様。こちらへどうぞ」結衣は使用人について屋敷の中に入った。ダイニングに案内されると、使用人は食卓に座っている節子に声をかけた。「大奥様、汐見様がいらっしゃいました」「ええ」節子は結衣を一瞥し、眉を上げて言った。「座りなさい。わたくしはあなたと違って、お客様に食事のひとつも出さないなんてことはしないわ」結衣は今、ほむらの居場所を知りたい一心で、節子の皮肉な言葉は気にしなかった。「節子様、ほむらが今どこにいるか、教えていただきたいんです」節子はふっと笑った。「ほむらは今、海外の専門施設にいるわ。医者によると、体の状態はすべて正常だそうよ。でも、もうほむらには会わせないわ。この食事が終わったら、清澄市にお帰りなさい」結衣は深呼吸をひとつした。「帰るつもりはありません。ほむらの居場所を教えていただけるまで、ここから動きません」その目に宿る強い決意を見て、節子は冷静な表情で言った。「ほむらがどこにいるか知ったところで、何になるの?彼は昏睡状態なのよ。あなたがそばにいようがいまいが、分からないわ。それに、一生意識が戻らないかもしれないのよ。今はまだほむらに思いがあるから、そばにいたいと思うのでしょうけど、一生、付き添っていられると思う?」「できます!」節子の言葉が終わらないうちに、結衣はすぐに答えた。節子の目に嘲笑の色が浮かんだ。「言うのは簡単よ。本当に一生、植物人間のそばにいられるっていうの?」結衣はうなずき、再び答えた。「はい、できます」「いいでしょう。そこまで言うなら、チャンスをあげましょう。この屋敷の門前で1カ月間待ち続けることができたら、ほむらの居場所を教えてあげるわ」結衣の目が、ぱっと輝いた。「本当ですか?」「もちろん本当よ。信じられないなら、今すぐ拓海を呼んで、立会人にしてもいいわ」節子の顔に嘘の気配が微塵もないのを見て、結衣は言った。「立会人は結構です。ただ、今のお約束を録音させていただいてもよろしいでしょうか」節子は一瞬言葉に詰まった。やはり、自分を信用していないということね。しかし、彼女も結衣が本当に1カ月も耐えられるのか、見てみたいと思った。結衣の録音に応じた後、節子は眉を