「美……琴」僕の目に、美琴の輪郭が──今、はっきりと映っていた。だが、彼女が霊になってしまったという事実が、酷く僕の胸を焦がした。“生きている美琴”が、もう目の前にいない。その、あまりにも残酷な現実が、僕の心を容赦なく締め付ける。「はぁ……はぁっ……」呼吸が乱れ、僕は過呼吸気味になってしまった。『悠斗君……ごめんね……。何回も何回も……ずっと話しかけていたんだけど……私の力が弱まったせいで……声が届かなかったみたいなの……』『でも……あの時、私が渡した勾玉を見て、悠斗君を繋ぎ止めることが出来て……よかった……!』……美琴は。こんな時まで、自分のことじゃなくて……僕のことを気遣ってくれる。その優しさが、僕の心を、さらに深く抉った。「美琴っ……!」僕は、叫ぶように彼女に駆け寄って──その身体を、ぎゅうっと、強く抱きしめた。もう二度と、離さないように。もう体温なんて……無いはずなのに。あの美琴の温もり、感触、匂い。すべてが──あの時のまま、確かにそこにある。……だからこそ、僕は彼女の“死”を拒んでしまう。そこにいて、触れられるのに。どうして、どうして……!!『一人にさせて……ごめんね……』美琴は、涙ながらにそう言った。その透明な涙が頬を伝うのを見て、僕の目からも、大粒の涙が止めどなく溢れ落ちた。「僕の方こそ……一人で逝かせて……ごめん……! ごめんっ……!!」僕の声は、やがて嗚咽に変わった。『ううん……私は悠斗君のおかげで幸せだった。だから……そんな顔、しないで……』美琴の言葉が、僕の心を優しく撫でてくる。「ううっ……うぅぅぅ……!」『よしよし……悠斗君も、意外と泣き虫なんだよね……』彼女は、僕をあやす様に頭を撫でてくれた。そうだよ……。君のことだから、こんなにも泣いてるんだ。「僕は……美琴のことだから、こんなにも泣いてるんだよ……」僕は、また抱きしめる力を強くした。『ちょっと悠斗君……苦しいよ……?』美琴の声に、ハッと我に返り、思わず“ばっ”と彼女から離れそうになる──でも今度は、逆に。
「ここは……」霊眼術が、まるで道を示すかのように、僕をとある場所へと辿り着かせていた。そこは──白蛇山の山頂。琴音様との激戦が繰り広げられた、因縁の場所だ。巨大な桜の木がそびえ立っている。けれど、血のように赤黒かった花びらはもうない。呪いが浄化された山頂は、がらんとした静寂に包まれ、風の音だけが虚しく枝葉を揺らしていた。(よく来たな……)その声が、再び脳内に直接響く。導かれるように桜の巨木へ目を向けると、幹からひとつの碧い光がじわりと滲み出てきた。光はゆらめきながら輪郭を帯び、やがて一人の女性の姿を形作る。古風な髪飾り。濃い青色の着物。そして首元に寄り添う、白い蛇──。呪いの象徴だった角も、禍々しい気配も消え失せ、ただ神秘的な雰囲気を宿して、彼女はそこに立っていた。「あなたは……!!!」僕が声を掛けようとした、その瞬間だった。より強く、はっきりとした声が、僕の思考に割り込んでくる。『……妾は琴音。』思考が、追いつかない。琴音様……? 心臓が、氷水で締め上げられたかのように痛む。彼女は、美琴が命と引き換えに祓ったはずだ。なのに、どうして、ここにまだ“在る”んだ。これじゃあ、美琴の死は……! あれほどの犠牲は……一体、何のために……!頭に血が上り、視界の端が赤く染まるような感覚。怒りなのか、悲しみなのか、もはや判別のつかない感情の奔流が、胸を突き破りそうだった。僕の激しい動揺をよそに、彼女は──静かに、深々と頭を下げた。『此度の件……いや……千年前からの悲劇……すべて妾が招いた事……。かたじけない。』その言葉が、僕の中で燃え盛る怒りに、さらに油を注いだ。「っ……! 何人が犠牲になったと思ってるんですか!!!!」気づけば、喉が張り裂けんばかりに叫んでいた。名もなき巫女たち。桜華さん。琴乃さん。そして──美琴。彼女たちは皆、目の前にいるこの人の呪いによって、命を奪われた。その事実が、僕の心を容赦なく苛む。『……かたじけない。』琴音様は目を伏せ、本当に申し訳なさそうに繰り返した。その表情には深い
おかしい……。いつになっても……夢から覚めないじゃないか。一体、何が起きているんだ。何か、目が覚めない原因でもあるのだろうか?僕の思考は、まるで深い霧の中にいるようだった。夢の中と思われるこの世界で、僕はひたすら、何かを探し回っていた。あれ……一体……僕は何を探していたんだっけ……。不思議なことに、こんなにも必死になっているのに、“何を探していたのか”だけが、分からなくなってきてしまっていた。だけど──これが現実じゃない、という確信だけは、なぜか脳が理解している。(違う……逃げているだけだ。)……なにから? 逃げることなんて……何も無いじゃないか。僕の心は、その問いかけに対し、明確な答えを見つけられずにいた。彼女は僕の傍に……。え? 彼女って……誰だ? 僕は……何を、しているんだ?自分と世界が、曖昧になっていく。まるで、僕という“輪郭”がぼやけて、世界の音も分厚いガラス越しに聞こえるような……そんな感覚だった。だが、不思議と──悪い気分ではなかった。このまま、曖昧な世界に溶けてしまってもいい。……とさえ思えた。 ***もう……すっかり夜だ。どうして僕は今、こんな山の中にいるんだろう。なにか、自分より大切な“何か”を、探していたような気がする。でも……それが何か、今の僕には分からなくなってしまっていた。こんなにも心地いい感覚なのに、胸の内はひどく焦燥している……そんな感じがする。なんで? なんで? どうして?言葉にならない疑問が、脳の内側をぐるぐると回る。僕はただ、自問自答を繰り返していた。そんな時──ポケットから、何かが落ちた。……これは……美琴から、温泉郷で貰った──紅色の勾玉。僕にとって、大切なものだ。早く……しま……わな……い……と……。電流のように、何かが僕の脳裏を横切った。美琴。……温泉郷。っ……!!どうしたと言うんだ、僕は……?急に……この世界と自分の輪郭が、はっきりとしてくる。霧が晴れるように
どんなに触れても……君は起きてくれない。「美琴……美琴……ほら……起きて……。」僕は震える指で、彼女の冷たい頬をさすった。何度も。何度も何度も何度も。何度も何度も何度も何度も、何度も。 でも、君は起きてくれない。もう僕の心は……限界だった。「悠斗さん……もう……休ませてあげましょう……っ……。」霊砂さんの声が、僕の耳に届いた。その声は、今にも泣き出しそうに震えている。……っ。僕は、覚悟をして、ここまで来たはずだ。美琴の寿命が近いことを知り、どんな結末が待っていようとも、最後まで彼女の傍にいると決めていた。でも……こんな別れ方は……あまりじゃないか……。僕の胸は、激しい痛みに締め付けられた。「美琴……。」僕は、もう一度、美琴の頬をさすった。その命の温もりが失われた冷たさが、僕の心に深く突き刺さる。「悠斗さん……まだきっと……美琴様の魂は、この世に縛られています……。悠斗さんが美琴様を見たという事は……つまり、そういう事なのです……」霊砂さんの言葉が、僕の頭の中に響いた。「次に、ご自分が何をすべきか……わかりますよね……?」霊砂さんの、懇願にも似た声が、僕の心臓をさらに強く締め付けた。ずっと……美琴の傍にいたんだ……。彼女の魂が縛られているのなら、それを解放してあげなければならない。頭では、それが正しいと理解している。でも……そんな簡単に割り切れるわけ……ないじゃないか。僕の心が、その現実を拒否する。「悠斗さん……っ! お願いです……お願いですから……美琴様を解放してあげて下さい……」霊砂さんの悲痛な叫びが、僕の胸に突き刺さる。「美琴様が……地縛霊になってしまっても……良いんですか!?」その問いは……やめてくれ。頭ではわかっていても、そんなに簡単に割り切れるわけがないんだ……!美琴と過ごした時間は、あまりにも濃く、かけがえのないものだった。それを……分かっているのか……?いや……わかってる。霊砂さんの心も、もうボロボロなのは……その様子を見
「美琴……!」僕の叫びが、虚しく宙に吸い込まれる。長老に促されるまでもなく、僕の身体はすでに駆け出していた。「美琴!!!!」村の中を、がむしゃらに走り抜ける。心臓が張り裂けそうなほど激しく脈打ち、肺が酸素を求めてひくついた。だけど、美琴の姿も、気配も……どちらも感じられない。もう……この場を離れてしまったのか?そんな最悪の予感が、僕の心を支配する。「悠斗さん……」ばっ、と僕は振り返った。霊砂さんだ。彼女の顔色は、依然として青白いままだった。「霊砂さん……! 美琴を……! 美琴を見ませんでしたか!?」僕は縋るように尋ねた。喉が枯れ、声はかすれていた。「……。」彼女はゆっくりと首を横に振る。その仕草に、僕の胸は絶望に締め付けられた。「美琴様は見えませんでしたが……悠斗さん……こちらに来てください」「ダメです…! 今は彼女を探さないと!」霊砂さんの言葉に、僕は思わず声を荒げた。だめだ。今はそんなことをしている場合じゃない。一秒でも早く美琴を見つけ出さなければ。彼女を一人にしちゃダメだ。僕は振り返って、再び駆け出そうとする──がしっ、と霊砂さんがそのか細い手で、僕の腕を掴んだ。その手には、見た目からは想像できないほどの力が込められていた。「は、離してください! 美琴を……! 美琴を探さないと!!」僕は必死に抵抗する。しかし、霊砂さんの目は真剣だった。彼女の瞳の奥には、僕の知らない深い悲しみと、何かを伝えるべきだという強い意志が宿っている。「美琴様を想うのであればこそ……一度、来てください……!」霊砂さんに強くそう言われてしまった。その言葉が、僕の足を縫い止める。彼女のその言葉に、美琴のことが深く関わっているのだと、僕の本能が告げていた。 ***僕は霊砂さんに連れられ、比較的大きな家に入った。そこは、美琴の家だと言う。清浄な白檀の香りが、静かに鼻腔をくすぐった。綺麗に整えられた家具。つい先日まで彼女がいたという痕跡が、生活感を伴ってしっかりと残されていた。なのに……その光景を
どうにか美琴を起こした僕は、彼女の手を繋いで外に出た。村は朝からざわついており、その異様な雰囲気に胸騒ぎを覚える。「っ……! 悠斗さん……!」庭先で顔を合わせた霊砂さんは、僕を見るなり、信じられないほど顔色が悪かった。その表情は、不安と恐怖に染まっている。「どうしたんですか……?」僕が尋ねると、霊砂さんは何も言わず、ただ僕と美琴を交互に見る──いや、違う。彼女は僕の顔と、僕が手を繋いでいる“何もない空間”を、痛ましそうに見つめるだけだった。何か……何か様子がおかしい。言葉にならない焦りが、僕の胸に広がる。そのまま、外へ出ようとすると──「お待ち……」背後から声が聞こえてきた。長老だった。その顔もまた、霊砂さんと同じように青ざめている。「お、おばあちゃんまでどうしたの?」美琴の声にも、長老は反応を示さない。その場に、重い沈黙が降りてくる。「ど、どうしたんですか? 何かあったんですか……?」僕は重ねて尋ねた。喉がひりつき、心臓の鼓動が早くなる。すると、長老は苦しげに顔を歪めた。「やっぱりかい……」え? なんだ? どういう事だ?長老の言葉の意味が理解できなかった。しかし、ただ事ではない様子が、痛いほどわかる。同時に、とても嫌な予感がしてきた。昨夜の戦いで得た安堵が、一瞬にして凍りついていくような感覚だった。 ***長老に連れられるまま、僕たちは長老の家へと向かった。部屋に入り、向かい合って座ると、長老は重い口を開いた。「さて……なにから……話そうかね……」その声は、どこか苦しげだった。「おばあちゃん……?」美琴が心配そうに長老に呼びかける。しかし、長老は美琴の声に反応しない。その視線は、まるでそこに美琴がいないかのように、僕の顔だけを、ただ悲しそうに見つめていた。どうして……美琴の声に反応しないんだろう。その違和感が、僕の胸に張り付く。「あ、あの……なんで先ほどから美琴の声に反応してくれないんですか?」僕は意を決して尋ねた。喉がカラカラに乾き、心臓が大きく脈打つ