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一一五話:雪に溶ける魂

Penulis: 渡瀬藍兵
last update Tanggal publikasi: 2025-07-07 19:14:09

  『……柳田やなぎだ

 ぽつりと落とされた名前は、まだどこか生きている人間の返事に近かった。

「柳田さん、ありがとうございます。あなたの未練は、ご自分で理解していますか?」

 美琴の声に押しつけがましさはない。ただ事実を確認するように、静かに尋ねる。

『わ、わからねぇよ!  いつの間にかこんな……』

 柳田は頭を掻く仕草をした。指が髪を素通りしていることに、本人は気づいていない。

「どうやら、本当に自分の身に何が起きたかわかっていない様子なんだ」

 悠斗が美琴に目を向ける。

「つまり、本当に唐突に……」

 美琴の声がわずかに細くなった。言葉の先を飲み込むように、一拍の沈黙が落ちる。唐突な死は、未練を整理する猶予すら与えない。昨日まで生活があり、明日の予定があり——それが全部、寝ている間に断ち切られた。

『な、なぁ。俺はどうしたらいいんだ?  あの世ってところには行くべきなのか……。でもこえーんだ。あの世に行って帰って来れるやつなんていない。一方通行なんだろ?』

 柳田の声が、初めて怒り以外の色を帯びた。怖いのだ。当たり前だ。死すら自覚できないまま放り出された魂に、その先へ進めというのは酷な話だった。

「そうですね……。その不安はごもっともだと思います」

 美琴が半歩も距離を詰めないまま、声だけを柔らかく届ける。

「ですが、あなたには何か——惹かれるような感覚があるのでは?」

『……ああ。行かなくちゃ、みたいな感覚はある』

「でしょう?  それは魂が在るべき場所を求めている証なのです」

 柳田の輪郭がかすかに揺れた。惹かれている。身体ではなく、魂そのものが。けれど——

『在るべき場所……でも、行きたくない……。なぁ、俺は行かなくてもいい方法はないのか?』

 縋るような声だった。悠斗が口を開きかけたとき、美琴のほうが先に答えた。

「残念ですが、その考え方はおすすめしません」

 声の温度は変わらない。けれど、言葉に一切の迷いがなかった。

『そ、それはなんでだよ?』

「この世に留まっていると、そのうち魂を縛られてしまうんです」

 悠斗が引き取るように続けた。柳田の目が二人の間を行き来する。

「やがて、世間で言う地縛霊、浮遊霊のようになってしまいます。あなたがまだ死後間もないからこそ、今ならすぐに成仏できるはずです」

『地縛霊って……アレだよな?  よくホラー映画とかに出てきて、苦しそうにしてるやつ』

「そうですね……。今はなくとも、未練はどんどん強くなっていくでしょう」

 美琴の言葉は静かだったが、路地裏の冷えた空気に深く沁みた。

『それは……嫌だな……』

 柳田の声から力が抜けていく。作業着の胸ポケットに手を入れる癖が、もう一度繰り返された。そこに何が入っていたのか、本人ももう思い出せないのかもしれない。​​​​​​​​​​​​​​​​

「でもだからこそ、彼女や僕がいます」

 悠斗の声は路地裏の冷気に溶けず、まっすぐ柳田に届いた。

「ええ。その通りです」

 美琴が静かに頷く。柳田は二人を見つめたまま、何も言わなかった。

「怖いときは、こんなふうに考えてみてはいかがでしょう?」

 美琴が一呼吸置いて、言葉を選ぶように続けた。

「これは幼い頃に聞いた話なのですが——魂は巡り巡って、またこの世に生まれ落ちてくるそうなのです」

 悠斗の中で、何かが引っかかった。この話を、どこかで——。

「意識は薄れてしまうかもしれません。でも、あなたの魂は今後もこの世とあの世を行き来し、滅びることはありません」

 思い出した。母だ。以前、成仏を見届けた老人の霊に、母が同じことを語っていた。同じ言葉、同じ温度。美琴の師がそう教えたのか、あるいは霊と向き合う者たちの間で脈々と受け継がれてきた祈りのようなものなのか。

『巡り巡る……ふ、不思議だな……そう考えると、怖さが和らいだような……』

 柳田の声から、震えが消えていた。

 美琴が微笑む。路地の薄闇の中でも、その表情ははっきりと見えた。

「でしょう?」

 一拍の間を置いて、美琴は言葉を継いだ。

「私たち霊能者は、霊であるあなたたちに近い存在です。故に、死とも近い。だからこそ幼い頃——死んだらどうなるのか怖くて怖くて仕方がなかった私に、師匠のような方がそう教えてくれました」

 声が穏やかに凪いでいる。怖かった、という過去を語りながら、今の美琴にはその怯えの欠片もない。通り抜けた人間だけが持つ静けさだった。

「だから、大丈夫です。あなたの魂は滅びません。生まれ変わり、また別の人生を歩み始めます」

 その言葉が路地に満ちた瞬間、柳田の輪郭がふわりと揺らいだ。

『あれ……眠気が……なんでこんな急に……』

 瞼が重そうに垂れる。作業着の肩が丸くなり、さっきまでの険しさがすっかり溶け落ちていた。

「未練が解けた前兆みたいですよ」

 悠斗が穏やかに告げると、柳田はしばらく黙って考え込んだ。

『はぁ……ずっとこうしてても、何も変わらないよな』

 ひとつ、大きく息を吐く仕草。吐く息などもうないはずなのに、生きていた頃の癖がそうさせる。

『しょうがない……行ってみるか』

 声に、覚悟が灯った。

「あなたの次の人生に、幸が多いことを祈っておりますね」

 美琴が胸元に手を添えたまま、深く頭を下げる。

「僕も祈ります。柳田さん、お達者で」

『ありがとう……』

 最後の声は、もう遠かった。柳田の足元から淡い光が立ち上り、輪郭を包み込んでいく。作業着の皺も、胸ポケットに伸ばしかけた手も、全部まとめて光に溶ける。

 路地裏に、冬の静寂が戻った。​​​​​​​​​​​​​​​​

「悠斗くんも随分慣れてきましたね。私一人では、もうこんなに早く成仏させてあげることは不可能だと思います」

 美琴が路地の出口に目を向けたまま言った。大通りのイルミネーションが、彼女の横顔にまた暖色を返している。

「伊達にもう一年も一緒にいないからね」

 口にしてから、一年という時間の重さが胸の中に降りてきた。

 桜が舞い散る春に、彼女と出会った。霊に怯え、見えることを呪いのように感じていた自分を変えたのは、隣に立つこの人だった。あれからもうすぐ一年になる。振り返れば一瞬のようで——それなのに、ひとつひとつの場面はやけに鮮明に残っていた。

「ほら、悠斗くん。もう少しイルミネーションを見て帰りましょう?」

 美琴が先に歩き出す。ポニーテールが背中で小さく揺れ、雪の粒がその上に降りてはすぐに溶けた。

 悠斗はその背中を追うように、路地を出た。大通りの光と喧騒が一気に戻ってくる。さっきまでの路地裏が嘘みたいに、街はまだ浮かれた顔をしている。

 雪は止む気配がない。イルミネーションの光が、二人の足跡をそっと照らしていた。​​​​​​​​​​​​​​​​

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