昨日までとは違う組み合わせで、今歩いていることが違和感でしかない。初めは一緒にいて楽しかっただけの関係で、真っ直ぐな佐和子の気持ちで動いてきた私たち。しかし、その佐和子の気持ちが崩れた時、私たちはどうなるのだろう。とりあえずは、仕事に支障が出ないようにしなければ。そう思いながら事業部のフロアに足を踏み入れたのに、尋人の姿を見た私は、思わず回れ右をしてしまった。その様子に、隣にいた宗次郎くんが驚いたように私に声をかける。「三条、どうした?」その声に反応するように、デスクに座っていた尋人がこちらを見る。「宗次郎」静かに尋人が宗次郎くんを呼べば、彼は笑顔を浮かべた。「おはよう、尋人」そんな会話をしている二人をよそに、私はそっとフロアを離れ、廊下へと出た。目の前で尋人を見てしまうと、あの日のことが記憶に蘇ってしまう。結婚までしていたのに、こんなふうに動揺するなんてお笑いだ。自嘲気味な気持ちで、休憩室の自販機にお金を入れてコーヒーを買おうとしたとき、後ろから手が伸びてきて、オレンジジュースのボタンが押された。「なっ!」飲むつもりもなかったオレンジジュース。誰がこんないたずらを――と振り返る。「お前、今日朝食べてないだろ。コーヒーはやめとけ」会社用の少し威圧的な声。それが尋人だと分かって、私はグッと唇を噛んだ。「食べたよ」「嘘つけ」俯いたまま答えた私に、尋人はオレンジジュースを取り出し、私の手の上にそっと乗せた。そしてもう一つ、私の好きなチョコレートバーまで。その行動に私は思わず尋人を見上げた。心配そうな瞳がそこにあった。「これも、きちんと食べておけ。顔色が悪いぞ」――その原因は誰のせい。そう思っても、もちろん言えるわけがない。キスひとつで意識しているなんて思われたくもなかった。「ありがとう」極力、意識しないように笑顔を向ければ、尋人は何も言わなかった。この空気に耐えられなくなり、心臓の音がバクバクと煩い。「今日は、宗次郎くんと食事に行くから。……あっ、もう一緒に住んでないし関係ないか」なぜこんなことを言ってしまったのか、自分でもわからない。たぶん朝、佐和子との楽しそうな様子を見て、私も気にかけられたいという気持ちがあったのかもしれない。「そう、よかったな」それだけを言い残して、尋人は戻っていった。もちろ
「なんだよ……」尋人はそう呟いたあと黙り込む。狭い部屋、無言の時間がいたたまれなくなり、私は残っていたビールを飲み干した。「どうせ私なんて、佐和子みたいにかわいくないし、女にすら見られてないし……」いやだ。こんな嫌なことを言いたいわけじゃない。佐和子に対しても、こんな心の奥に汚い部分があるなんて――。自己嫌悪で、今なら軽く死ねる気がした。「ごめん、酔った。こんなこと言いたいわけじゃ……」そのとき、いきなり後頭部に尋人の手が回ったと思うと、引き寄せられた。初めて、こんなに近くで彼の瞳を見た。そう思った瞬間、激しく唇がふさがれる。なぜか苛立ちをぶつけるような、そんなキスだった。私の頭はパニックだ。どうして? どうして今?その感情が渦巻き、とっさに尋人の胸を押す。「尋人! いきなりなに?」あまりの激しさに、息絶え絶えにそう聞くと、その表情から尋人が何を考えているのか分からなかった。「女だと思ってない奴に、こんなことするかよ」クシャッと髪をかき乱すと、尋人は大きく息を吐いた。そしてその後、「悪かった……」と呟いた。「帰る……。ちゃんと鍵、かけろよ」それだけを言って、尋人は何も言わず家を出て行ってしまった。私は、今起きたことの意味が分からず、ただ呆然とその場で固まっていた。意味が――全く分からない。どうして今さら……。少しはこの一年で、佐和子から私に気持ちが傾いた?……そんな期待と、「尋人も酔っていたからだ」という現実的な思いが交差する。一人取り残され、眠れない週末を過ごしたのは言うまでもない。週が明け、会社に行くのがこれほど嫌だと思ったのは初めてかもしれない。長年慣れた仕事だし、職場環境だって何の問題もない。その原因はただ一つ――どういう顔で尋人に会えばいいのか分からない。引っ越したことで会社まで少し遠くなったこともあり、いつもより早く家を出て、足取り重く会社へと向かう。最寄駅を降りれば、すぐ前に会社が入っている複合ビルが現れ、たくさんの出社する人にため息が漏れた。しかし、行かないわけにもいかない。そう思いながら歩き出せば、前に見たくない人をすぐに見つけてしまった。後ろ姿だけで、尋人だと分かってしまう自分が嫌になる。そこまで思って、私は足を止めた。隣には、寄り添うように言い合っている佐和子の姿。友人なんだから
そこまで思い出した時、聞き慣れない音がして、私はハッと現実に戻った。それはこの家のインターフォンで、初めて聞くその音が、なんとなく不思議な感じがした。引っ越したことなど、ほとんどの人に言っていない。近所の人か、大家さんだろうか?そんなことを思いながら、とりあえず扉を開けると、ドン、と何かにぶつかった。「おい」え?上から聞こえた、かなり低い声。その主を仰ぎ見る。「お前、誰かも確認せずに出るなよ。それにその格好」「尋人……」まさか想像もしていなかった人物に、私の口からは名前が零れ落ちる。そして、その言葉の意味を考える。今までは一緒に住んでいた時、部屋着にもかなり気を使っていた。でも今は一人だ。荷解きが面倒だったこともあり、適当な短パンに大きめのTシャツ一枚という姿だった。なんとなく、少し伸びたTシャツの胸元に手をやりながら、私は視線を外して問う。「どうしたの?」それに対する答えはなく、彼は無言のまま家へと上がり込んだ。「ねえ? 何かあった? 私、忘れ物でもした……?」狭い廊下を先に歩いていく尋人を、私は追いかける。すぐにたどり着いた部屋を見渡してから、カーテンを開けてベランダを確認している。「……まあ、ギリ合格かな」ため息交じりに発したその言葉の意味がわからず、私は立ちすくんでいた。「何が?」「弥生の新居だよ。まあ、オートロックないけど、一階じゃないし、隣からも見えないな」「はあ……」訳が分からずとりあえず答えれば、尋人はドサッとベッドに座った。ソファがないからそこにしか座るところがないのかもしれないが、尋人がベッドに座っている光景にドキドキしてしまう。「ねえ、どうしたの?」いきなり現れた彼に、訳が分からないまま尋ねれば、尋人は「何言ってんだ?」とでも言いたげな顔をした。「だから、弥生の新居の確認。問題があれば、すぐに引っ越させようと思って」……いったい何を言っているのだろう。離婚した妻に対して言うセリフだろうか。「弥生、お前のことだから、どうせ夕飯抜く気だろ? 買ってきた」大きな茶色の紙袋が床に置いてあり、そこから尋人はテイクアウトの料理を並べ始める。それは結婚していた時も、よく二人で買いに行ったイタリアンの店のテイクアウト。私の好物ばかりだ。ご丁寧に箸やフォーク類もすべて用意済み。ポン、と私に缶ビール
あの時、みんなで旅行に行こうと言い出したのは誰だっけ?遠い記憶を呼び起こしてみると、それは尋人だったと思う。二年半前「なあ、取引先のお偉いさんが誘ってくれたんだ。行かないか?」定時後、会社のエントランスで佐和子と歩いていると、珍しく帰りが一緒になったようで、尋人が声をかけてきた。そのまま、いつもの流れで近くの行きつけの居酒屋になだれ込む。ビールを頼んで一息つくと、尋人がさっきの話をし始めた。「これって今はやりのグランピング施設じゃない?」さすが流行に敏感な佐和子。感心しつつ、尋人の見せたスマホを私も覗き込む。そこには確かに、おしゃれなグランピング施設が映し出されていた。森の緑の中に燃えるオレンジの炎、その横にはウッドデッキにチェア。"非現実的な大人な空間"――そう書かれている文字に、私もとても惹かれた。「それに、自分たちでバーベキューとか楽しそうじゃないか? 寝室も二つあるし、問題ないだろ?」会社帰りに飲みに行ったりすることはあっても、泊まりでの旅行は初めてだった。返事を迷っていた私だったが、すぐ横で佐和子が間髪入れずに声を上げる。「行きたい! 宗次郎も行くんだよね?」佐和子がウキウキとしながら尋人に尋ねれば、「もちろん」と頷いた。「宗次郎と俺で運転していくし、二時間半ぐらいだから問題ない?」尋人は今度は、何も発していなかった私を見て問いかける。「ああ、うん」少し曖昧な返事になってしまった私に、尋人がじっと視線を向ける。「弥生、あんまり乗り気じゃない?」「え、そんなことない」特に表情に出したつもりはなかったが、気づかれたことに内心驚きつつ、私は慌てて首を振った。「それなら決まりな」すでに決定事項になってしまい、私は小さく息を吐いた。確かに私たちは、この数年で仲良くなった。先輩後輩の関係から、友人に近くなったと思う。そして、男女四人が友人になれば、そこから派生するのは――だれもが想像できる“恋”だ。もう、佐和子は宗次郎くんを好きなことをほとんど隠していないし、宗次郎くんもまんざらではないと思う。おだやかな宗次郎くんに、佐和子がグイグイと押しているが、もう少しで彼も落ちるのではないかと思っていた。それならば残った二人が。普通、漫画やドラマならそうなるのかもしれないが、現実はそううまくはいかない。例に漏れず
「あっ、佐和子。会社ではとりあえず内緒にしておいて。宗次郎くんにはもちろん伝えてもらってもいいけど。それに結婚式はちゃんと二人で出るからね、もうすぐ招待状を送る時期だし……」「それなんだけど」私の言葉を遮るように佐和子が言うと、今度は彼女が髪をかき上げながら言葉を選んでいるように見えた。「そのことなんだけど、少し延期しようと思うの」「え?」私たち二人の声が重なる。「結婚、少し考えようと思って」「どうして? うまくいってたんじゃないの?」キッチンから出て佐和子の元へ行き、私は彼女を見た。私たちの話だったのに、まさか二人までそんな話になっているとは思ってもいなかった。「そうなんだけど」ついこの間まで、佐和子は幸せそうに結婚雑誌などを私に見せていたし、宗次郎くんと一緒にいても本当に幸せそうだった。どうしてこのタイミングで? そんな疑問が頭をよぎる。その後、引っ越しを手伝うという尋人をやんわりと断ると、私は新しい家で佐和子と荷解きをしていた。「洋服、クローゼットにかけていってもいい?」普通のワンルームのマンション。尋人と一緒に住んでいたマンションの何分の一だろう。すべてが一か所で完結してしまいそうな部屋のクローゼットの前で、佐和子が問いかける。「うん、お願い」私も下着などをチェストの中にしまいながら答えた。「ねえ、さっきの話だけど」何かをしながらの方が聞きやすい気がして、手を動かしながら佐和子に声をかけた。「どうして急に延期なんて?」私の問いに、比較的いつもサバサバと答える彼女が、考えるように手を止めた。「どうしてかな。マリッジブルー? なんか、このままでいいのかなって」「宗次郎くんはなんて?」そこで佐和子は、また少し口を閉ざす。「宗次郎は……私が決めたことには何も言わないから」少し寂しげに言った佐和子の気持ちが、なんとなく分かった気がした。宗次郎くんは温和でとても優しい。相手のことをよく見ていて、波風を立てることのない人だ。知り合ってからかなりの年数が経つが、怒ったところなど見たことがなかった。「知り合ってから7年、好きになってからも長いでしょ。でもいざ付き合って、結婚決まって……。これでいいのかなって。付き合ってって言ったのも私、結婚を迫ったのも私」物事をはっきり言うところが佐和子のいいところだし、宗次郎く
「引っ越し業者か?」なぜか見つめ合っていた私たちだったが、その音に私はハッとする。その相手が誰だかわかったからだ。「違うと思う」「え?」意味がわからないと言った尋人に、私は笑顔を浮かべた。「佐和子に昨日の夜、連絡したの。そしたら手伝いに来るって」それだけを言って、私は玄関に向かうために尋人の横を通り過ぎようとした。「待て、弥生!」少し慌てたような声と同時に後ろから手を引かれ、その拍子に私は後ろに倒れそうになる。──いや、倒れたのだ。今までも友人として触れたことはあったが、今は完全に、後ろから抱きしめられている姿勢だ。最後のご褒美? そんなバカな考えと同時に、ドキドキするのをなんとか隠し、冷静を装う。「ごめん、何?」視線を向けることなく尋人から距離を取ろうとするも、そのまま腕を握られたままだ。「尋人?」どうしたのかわからず伺い見れば、尋人が珍しく怒ったような表情をしていた。「まわりには、しばらく言わないって言わなかったか?」確かに昨日の昼、そう話した。しかしそれは会社の同僚たちに対してであって、佐和子たちのつもりはなかった。気の迷いで結婚をしてしまったが、尋人だって佐和子に独身だと思ってほしくないのだろうか。そこまで思って、その考えが間違っていることに気づく。佐和子と宗次郎だって、数カ月後に結婚式を控えているのだ。今さら尋人が独身になろうが関係ない。「だって、友達に離婚したこと伝えないとか、ないかなって……」本音を言えば、誰かに話さなければ、このままもう少し続けたい。そんな言葉を発してしまいそうで怖かった。だから尋人には、言えなかった。「参ったな……」珍しくかなり困ったような表情を見て、尋人自身、独身になって枷がなくなったら佐和子への思いが強くなってしまうことを危惧しているのだろうか。キュッと唇を噛んで、尋人の苦しい気持ちを、佐和子を呼んだことで呼び覚ましてしまったことに申し訳なくなる。「ごめん、勝手に」謝罪をしたところで、もう一度インターフォンが鳴った。「行ってくる」それだけを言うと、尋人が私の手を離した。大好きな人の温もりがなくなってしまったことを寂しく思うなんて……情けない自分を叱咤して、玄関の扉を開けた。「弥生」そこには、いつも通り綺麗で凛とした佐和子がいた。私の名前を、少し悲しげな表情で呼