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第799話

Author: 小春日和
「瀬川さん、こちらへどうぞ」

馬場が前を歩いて案内したが、真奈の視線はずっと冬城と楠木静香に向けられていた。

楠木静香のピアノの腕前は見事で、冬城も当然ながら負けてはいない。二人は笑顔を交わしながら音を合わせ、視線さえ絡み合っていた。

周囲の人々も、その二人が奏でる音色に酔いしれている。

冬城は浅井と婚約しているというのに、今さら楠木静香とこんな目配せをして何をしているのか。

「瀬川さん、こちらは立花社長がご用意なさったドレスです」

ホテル二階のプレジデンシャルスイートで、真奈は手にしたドレスを見下ろし、楠木静香が自分にシャンパンを浴びせた理由をすぐに悟った。

入浴、化粧、ヘアセット、着替え――この一連の準備を終えるには、どう少なく見積もっても二時間はかかる。

そして二時間もすれば、晩餐会は終わりに近づく。

楠木静香は明らかに、真奈が立花の隣でパートナーとして過ごせないように仕向けたのだ。

もしそうなら、真奈は立花のそばで、洛城で立花家と提携する企業家たちの顔を覚える時間を失うことになる。

そう考えた真奈はすぐに浴室へ向かい、顔の化粧を落とし、体を簡単に拭いただけでバスローブを羽織った。

十分も経たずにドアが開き、馬場は思わず目を見張った。特に、真奈がバスローブ一枚で立っているのを見て、慌てて視線を落とし、「瀬川さん、何か他にご用件は?」と尋ねた。

「このドレスは着ないわ。中性的なデザインのスーツを用意して」

「スーツですか?」

「急いで。十五分以内に欲しい」

真奈の切迫した口調に、馬場はすぐさま手配の指示を出した。

真奈はメイク係の手から化粧箱を受け取り、係は訝しげな表情を浮かべた。十五分後、メイドが用意したスーツが真奈の部屋に届けられる。

ほどなくして、真奈は部屋から姿を現した。

メイドが用意したのは黒の中性的なスーツで、真奈は帽子を目深にかぶり、まるで涼やかな美少年のようだった。

「瀬川さん、これは……」

階下のピアノの音はすでに止んでいる。

真奈は馬場に詳しく説明する暇もなく、そのまま足早に階下へ向かった。

明らかに、この場にいる多くの人々の中で、男装した真奈に気づく者はいない。

そして楠木静香も、当然のようにパートナーのいない立花のそばへ歩み寄った。

「孝則、今日の私の行いがひどかったのは分かってる。でも冬
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