「佐藤部長!佐藤部長!」昌弘はそれを目にするなり立ち上がり、勢いよく追いかけた。そしてドアのところで振り返り、かおるに鋭い視線を投げつけた。しかし、かおるはその視線を無視するように、知らぬふりを決め込んで食事を続けていた。嫌な相手が去ったことで、彼女の表情はどこか晴れやかで、楽しげに箸を動かしている。二人のウェイトレスは顔を見合わせ、どうしていいかわからず、戸惑ったまま動けずにいた。そんな様子を見て、かおるは静かに微笑むと、優しく言葉をかけた。「食べたいものを食べて、飲みたいものを飲んでいいのよ。私が呼んだんだから、今この時間はあなたたちのもの。遠慮しないで、好きなように過ごして」そのひと言に、二人の瞳がぱっと輝いた。「ありがとうございます、お嬢様」一人が頭を下げ、丁寧に礼を言った。かおるは満足そうに大きく手を振った。「遠慮しないで、たっぷり食べてね!」その言葉に背中を押されるように、二人はそろって箸を取り、ようやく食事を始めた。男たちに無理やり酒を飲まされたり、触られたりするよりは、こうして自由に食べ飲みできるほうが、はるかにマシだった。そのとき、かおるのスマートフォンが振動し、着信音が鳴った。彼女はすぐに電話に出る。「君の会社の社長と佐藤って男、月宮家の夫人に買収されてたよ。どうやら、君に対して何か企んでるみたいだ」聡の低く冷静な声が、受話器越しに響いた。かおるは鼻で笑うように答えた。「わかってたわ。あんなにあからさまだったし、私だってバカじゃないんだから」聡は少し笑みを含んだ声で言った。「で、これからどうする?」かおるの目がきらりと輝いた。「あの佐藤部長の他の情報も、調べてくれた?」「全部調べた。今からメールで送るよ」「了解。愛してる、ちゅー!」「……」聡の無言に苦笑しながら電話を切り、かおるは再び料理に箸を伸ばした。楽しそうなその顔からは、先ほどまでの緊張感はすでに消えていた。しばらくして帰宅すると、社長からのメッセージが大量に届いていた。【今回の協力をなんとしても取り戻せ】【佐藤部長にちゃんと謝れ】【この協力が取れなかったらクビにする】つまらない。かおるはため息ひとつ、スマホを放り出すと車に乗り込み、聡から届いたメールを開いた。その添
昌弘はその言葉を耳にすると、顔に怒りの色を浮かべた。しかし、すぐに笑みを作り、佐藤部長に向かって穏やかに言った。「少々お待ちください」そう言うや否や、かおるを一瞥しながら呼びかけた。「ちょっと話がある」「はーい」その淡々とした返事に、昌弘の苛立ちはかえって募るばかりだった。個室を出るなり、昌弘はかおるの腕をぐいとつかみ、廊下の突き当たりまで引きずるように連れて行った。そして、険しい表情のまま問い詰めた。「お前、いったい何がしたいんだ?」「それはこちらのセリフです。何をご所望ですか、社長?」かおるは腕を振りほどき、落ち着いた声で言い返した。昌弘は片手を腰に当て、もう一方の手で個室の方を指し示しながら、声を抑えつつも怒気を含ませて言った。「今回の案件が、うちにとってどれだけ重要か分かってるのか?それなのに、あの態度はなんだ!佐藤部長にちゃんと企画書の説明はできなかったのか?自分の立場をわきまえろ!お前みたいな取るに足らない存在が、偉そうにしていい場面じゃない!」だが、かおるは眉一つ動かさず、こう言った。「大事な案件、ですか?でもあの人、素人でしょう。彼がしてきた質問なんて、道端の子どもでも答えられるようなものばかりでしたよ。あんなもの、わざと難癖をつけているだけじゃないですか」その挑発的な言葉に、昌弘の怒りは爆発した。「まだ分からないのか!あれがクライアントなんだぞ!こちらが頭を下げて、協力をお願いする立場なんだ!お前、いったい何を考えてるんだ!」「そうですか?」かおるは口元に薄笑いを浮かべた。「本当に、その協力が必要なんですか?私にはそうは思えませんけど」その言葉には、明確な裏の意図があった。昌弘の表情が一瞬こわばり、目が泳いだ。「とにかく、今夜中にこの契約を決めろ。できなかったら、お前の責任だ!」吐き捨てるようにそう言い残すと、昌弘はそれ以上話すのも億劫だというように、足早に個室へ戻っていった。かおるは手に持った企画書を見下ろしながら、完璧なメイクに彩られた顔に冷たい笑みを浮かべた。そしてスマートフォンを取り出し、ひとつの番号に電話をかけた。それから五分後、かおるは再び個室へと姿を現した。昌弘と佐藤部長は何やら会話を交わしていたが、かおるの姿を認めると口をつぐんだ。佐藤部長の
かおるの機嫌は朝から最悪で、午後にはキーボードを激しく叩き続けていた。その音の鋭さは周囲の空気さえも張り詰めさせ、同僚たちは皆、一様に彼女から距離を取り、うっかり八つ当たりの標的にされまいと息をひそめていた。退社間際、社長の田中昌弘(たなかまさひろ)がデザイン案の資料を手に現れ、ぶっきらぼうに言った。「今夜、俺と一緒に接待に行け」かおるはすでにパソコンをシャットダウンし、椅子を回して振り返った。「行きたくないんですけど」その一言で、昌弘の顔つきが瞬時に険しくなった。「かおる、どうしたんだ?仕事に私情を持ち込むつもりか?まだ働く気があるのか?」かおるは衝動的に「もう辞めてやる!」と叫びたい気持ちに駆られた。けれども、今進めているプロジェクトのことが脳裏をよぎった。企画書は彼女が一から書き上げたものだった。もし今ここで辞めれば、その努力はすべて無駄になる。喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込み、唇を噛み締めながら堪えに堪えて、やがて静かに言った。「わかりました。今すぐ出発ですか?」昌弘は頷きながら言った。「ああ、すぐについて来い。若いんだから、もっと落ち着け。すぐに感情を仕事に持ち込むな。そんなことじゃ、まともに仕事なんてできないぞ」くどくどと小言を垂れる社長の横顔を、かおるは無言で見つめたまま、バッグを手にして彼のあとをついて行った。向かった先はホテルだった。その看板を目にしたとき、かおるは眉をひそめる。商談が、ここで?確かにホテルにはレストランもある。しかし、どうにも違和感が拭えなかった。なにか、どこかが引っかかる。案内された個室には、すでに取引先の相手が到着していた。昌弘はかおるに目配せしたが、彼女はそれを無視し、あえて最も遠い席に腰を下ろした。現れたクライアントは、若い男だった。脂ぎった顔にスーツ姿、見た目は紳士風だが、かおるを一目見た瞬間、目にあからさまな驚嘆の色が浮かんだ。「田中社長、こちらの方は?」男は田中に視線を向けた。昌弘はにこやかに応じる。「今回の企画の担当者です。企画書は彼女が作成しました。ぜひご覧ください」男は興味を示しながら言った。「彼女が書いたのなら、直接説明してもらったほうが説得力があるんじゃないですか?」昌弘はその意をくみ取り、かおるの方を向
綾人は背筋をぴんと伸ばし、真っ直ぐな立ち姿を見せていた。すらりとした体躯に黒のスーツがよく映え、かつての放蕩者の面影はすでに薄れ、代わりに漂っているのは品格と厳粛さだった。ただ、その双眸には今、ひとかけらの感情も宿っていなかった。「別に深い意味はないよ。ただ、実の息子である俺が養女に劣るっていうのが、なんだか滑稽に思えてさ。あんなに流歌を庇うなら、どうして俺を産んだんだ?」「あなた……!」直美は青ざめた顔で怒りに震え、思わず手を振り上げて彼を打とうとした。だが、その瞬間、誰かが近づいてくる気配を感じて、その衝動を飲み込んだ。「流歌はあなたの妹よ。小さい頃から一緒に育ってきたじゃない。赤の他人のために、家族と揉めるつもりなの?」声を抑えながらも、直美は感情の揺れを懸命に抑え、貴婦人としての体面を保とうとしていた。綾人は静かに言った。「かおるは今や、俺の妻だ。もはや他人じゃない」直美の表情は険しいままで、かおるに対する軽蔑の念が隠しきれなかった。綾人は言葉を重ねた。「かおるは美しく、自立心が強く、あなたたちに対しても敬意を忘れていない。なぜそんな彼女が気に入らない?家柄がないから?後ろ盾がないから?だったら、俺がそれを与える。そうすれば、あなたたちはかおるを認めるのか?」「綾人……!」直美は言葉を失った。その隣で、貴志が眉をひそめながら口を開いた。「綾人、母親に向かってその口の利き方はなんだ」綾人は皮肉げに唇を歪めて笑った。「父さん、俺が筋を通そうとすれば感情論で返し、感情をぶつければ今度は理屈で切り返す。いったい、何がしたいんだ?俺をからかってるのか?」貴志は険しい表情のまま、厳しく言った。「それでも、母親に対するその物言いは許さん!」「わかったよ。もう何も言わない。だから、これからは俺に関わらないでくれ。月宮グループについては――手放す気はない」そう言い残し、綾人は足音も静かに、しかし毅然と階段を下りていった。「どうしてあんな子になってしまったの……?」直美は去っていく息子の背中を見つめながら、怒りの中に深い悲しみを滲ませていた。たった一人の息子……その心が、いまや完全に離れてしまったのだ。すべて、あの狐のような女のせい!傍らで貴志が直美の肩に手を添え、低く言った。「
邦彦はひと呼吸置き、重い吐息を漏らして言った。「これ以上、話すつもりはない。株式はもう綾人に譲渡した。君も余計な真似はするな。君には関係のないことだ」「……何だって!?」和樹は耳を疑うような表情で目を見開き、驚愕に硬直したまま、次の瞬間には勢いよく邦彦の肩を掴み、激しく揺さぶった。「お父さん、もうボケたのか?実の息子じゃなく、赤の他人に株を渡すなんて……正気かよ!?」「は、放せ……」苦しげな邦彦は咳き込み、揺さぶられるたびに咳はますます激しくなっていった。「やめろ!」低く鋭い声で綾人が叫ぶと、即座にボディーガードが動き、和樹を力ずくで引き離した。綾人はすぐに医者と看護師を呼び、邦彦の手当てをさせた。和樹の額には怒りで浮き出た血管が脈打ち、悔しさと憤りに満ちた表情で歯を食いしばっていた。あと一歩だったのに。かおるは嫌悪の色を顔に濃く刻み、眉をひそめながら冷然と言い放った。「こいつを外に放り出しなさい」「はい」命じられたボディーガードは迷いなく動き、和樹を病室の外へと力任せに放り出した。しばらくして落ち着きを取り戻した邦彦は、目を細めるようにして綾人を見つめ、力なく言った。「綾人くん、見苦しいところを見せてしまったな……株式の書類を持って、早く帰りなさい」綾人の瞳は複雑な色を宿し、深まる憂いがその表情を覆っていた。そんな彼を見て、邦彦は微笑んだ。「大丈夫だよ。俺はずっと、この日を待っていたんだ。ようやく、解放される」綾人はゆっくりと息を吐き出し、静かに言った。「戸田さん、ゆっくり休んでください。あとのことは、すべて俺に任せてください」「ああ……」邦彦はかすかに頷き、そして静かに目を閉じた。病院を出て車に乗り込むと、かおるは綾人の手をそっと握りしめた。「自分を責めないで。あなたのせいじゃないわ。悪いのは、あの不肖の息子よ」綾人は黙って彼女の手を取ると、自らのまぶたにそっと押し当てた。そして、しばらく沈黙のまま目を閉じていた。車内に重たい沈黙が満ちていた。長い静けさののち、綾人はかおるの手をそっと離し、その手の甲にそっと口づけて囁いた。「……帰ろう」「うん、そうしよう」かおるは静かに頷いた。その後、数日間にわたり、二人はどこにも出かけず、時間の許す限り
病室にいた全員の視線が、突然開いたドアの方へと向けられた。かおるは一瞬、戸惑いを浮かべながら綾人の顔を見て、「他にも誰か呼んだの?」と小声で訊ねた。綾人は無言のまま歩を進め、静かに病室のドアを開けた。そこに立っていたのは、邦彦の長男・戸田和樹(とだ かずき)だった。彼の顔には怒気と焦燥が渦巻き、その目は綾人を鋭く射抜いた。「どういうつもりだ?」和樹は病室に足を踏み入れるなり怒鳴った。「誰の許可で父を療養所から連れ出したんだ?」非難の言葉をぶつけながら綾人を強引に押しのけ、震える声で続けた。「警察に通報してもいいんだぞ。これは住居侵入と老人虐待にあたる。証拠もある。お前、本当に最低な奴だ!」そうまくし立てながら邦彦のもとへ駆け寄り、全身をくまなく調べ始めた。その顔は焦りに満ちていた。「父さん、俺が悪かった。今朝になって、やっと綾人が父さんを連れ去ったって知ったんだ。怪我はない?脅されたりしてない?何かあったなら言ってくれ。絶対に許さないから。こいつが月宮家の跡取りだからって、怖じ気づくもんか。父さんのためなら、俺は何でもする!」だがその目が、明らかに回復の兆しを見せる邦彦の身体を見たとき、一瞬だけ陰険な光を宿した。ちくしょう。以前、介護士からの連絡で、父の命はあと数日だと知らされていた。その時からずっと、訃報を今か今かと待ち続けていた。父が死ねば、その保有株はすべて自分のものになるはずだった。そうなれば、正式に月宮グループの取締役として迎え入れられ、贅沢な余生が約束されるはずだったのに。しかし、いつまで経っても介護士からの連絡はなく、不審に思った彼は自ら療養所へと足を運んだ。そしてその場で、綾人が父を連れ去ったという事実を知ったのである。なぜ綾人が、今さらこの老いぼれの世話なんかしようとする?まさか、父の持つ株式を狙っているのか?許せない。株は俺のものだ!一方、和樹の表向きの心配ぶりをじっと見つめていた邦彦の目には、氷のような冷たさが宿っていた。もう、すべてに失望していた。もはや何も言う気になれず、ただ冷たく言葉を吐き出した。「綾人くんは俺によくしてくれた。虐待なんてしていない。療養所から、俺を救い出してくれたんだ。そんな彼を訴える理由なんて、どこにもない」和樹はその言葉を聞いて、目を