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第1007話

Author: 似水
かおるの機嫌は朝から最悪で、午後にはキーボードを激しく叩き続けていた。その音の鋭さは周囲の空気さえも張り詰めさせ、同僚たちは皆、一様に彼女から距離を取り、うっかり八つ当たりの標的にされまいと息をひそめていた。

退社間際、社長の田中昌弘(たなかまさひろ)がデザイン案の資料を手に現れ、ぶっきらぼうに言った。

「今夜、俺と一緒に接待に行け」

かおるはすでにパソコンをシャットダウンし、椅子を回して振り返った。

「行きたくないんですけど」

その一言で、昌弘の顔つきが瞬時に険しくなった。

「かおる、どうしたんだ?仕事に私情を持ち込むつもりか?まだ働く気があるのか?」

かおるは衝動的に「もう辞めてやる!」と叫びたい気持ちに駆られた。けれども、今進めているプロジェクトのことが脳裏をよぎった。

企画書は彼女が一から書き上げたものだった。もし今ここで辞めれば、その努力はすべて無駄になる。喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込み、唇を噛み締めながら堪えに堪えて、やがて静かに言った。

「わかりました。今すぐ出発ですか?」

昌弘は頷きながら言った。

「ああ、すぐについて来い。若いんだから、もっと落ち着け。すぐに感情を仕事に持ち込むな。そんなことじゃ、まともに仕事なんてできないぞ」

くどくどと小言を垂れる社長の横顔を、かおるは無言で見つめたまま、バッグを手にして彼のあとをついて行った。

向かった先はホテルだった。

その看板を目にしたとき、かおるは眉をひそめる。

商談が、ここで?

確かにホテルにはレストランもある。しかし、どうにも違和感が拭えなかった。なにか、どこかが引っかかる。

案内された個室には、すでに取引先の相手が到着していた。昌弘はかおるに目配せしたが、彼女はそれを無視し、あえて最も遠い席に腰を下ろした。

現れたクライアントは、若い男だった。脂ぎった顔にスーツ姿、見た目は紳士風だが、かおるを一目見た瞬間、目にあからさまな驚嘆の色が浮かんだ。

「田中社長、こちらの方は?」

男は田中に視線を向けた。

昌弘はにこやかに応じる。

「今回の企画の担当者です。企画書は彼女が作成しました。ぜひご覧ください」

男は興味を示しながら言った。

「彼女が書いたのなら、直接説明してもらったほうが説得力があるんじゃないですか?」

昌弘はその意をくみ取り、かおるの方を向
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