新聞社「デイリー・ピープル」の編集部では、今日も京都手蒸気機関の熱気とインクの酸っぱい匂いが混じり合っている。
ミリー・ウォーカーは、山と積まれた資料の整理をしながら、うんざりした気分でため息をついた。茶色の髪を無造作に束ねた彼女の瞳には、退屈への苛立ちが浮かんでいる。(また資料整理……。いつになったら、私もまともな記事を書かせてもらえるんだろう)
ミリーは十九歳。新聞記者になるという夢を抱いてこの魔術都市に出てきてから、もう半年が経つ。しかし、現実は先輩記者のコーヒーを淹れるか、過去記事のファイリングばかり。実務的で前向きな性格の彼女だったが、さすがに心がさくれ立つのを感じていた。
「おいミリー! こっちの資料、年代順に並べとけ!」
「はい、ただいま!」
ミリーは元気よく返事をしながら、新しい資料の山を受け取る。
窓の外では、雨が降っている。都市の無数の尖塔が雨に濡れて、小型の飛翔船が忙しなく行き交っていた。 あの空の下では、きっと今日も様々な事件が起きているはずだ。それなのに、自分は埃っぽい編集部の隅で古紙と格闘している。この状況が、どうしようもなくもどかしかった。その時だった。
編集部の扉が、バン! と大きな音を立てて開け放たれた。ずぶ濡れになったコートの男が、息を切らしながら駆け込んでくる。社会部のベテラン記者、マードックだ。衛兵隊との太いパイプを持つことで知られる彼は、血走った目で編集長を探している。 編集部の喧騒が、さざ波が引くように静まり返っていく。誰もがただ事ではない気配を感じ取り、マードックの動向に視線を集中させた。「編集長!」
マードックは他の記者を押し退けるようにして、編集長のデスクまで突き進んだ。
「デカいネタです……! ロイヤル・オペラハウスの屋上から、女が墜落死!」
オペラハウス。その言葉だけで、編集部内の空気が一気に張り詰めた。ミリーは資料を整理する手を止め、聞き耳を立てる。
「落ち着け! 誰なんだ、被害者は!」
編集長の鋭い声が飛ぶ。マードックは一度ごくりと喉を鳴らした。そして編集部にいる全員によく聞こえるように、その名を告げた。
「エレオノーラ・ヴァレンティです! 数年前に失踪した、あの伝説の歌姫が……死体で発見!」
エレオノーラ・ヴァレンティ。その名を聞いた瞬間、ミリーの背筋に電流のようなものが走った。全身に鳥肌が立つ。心臓が大きく一度、ドクンと鳴った。
(これだ……!)
これはただの事故じゃない。ジャーナリストとしての魂が、大きな事件の到来を告げていた。
周りの喧騒が、まるで水の中にいるかのように遠くに聞こえる。同僚たちの驚愕の表情が、スローモーションのように見えた。編集長がデスクを拳で叩き、編集部全体に檄を飛ばす。
「マードック! お前が現場へ行け。何が何でも一番乗りの情報を掴んでこい!」
それから編集長は、熱の籠った目で食い入るように自分を見つめるミリーに気づいた。その瞳に宿る炎に何かを感じたのか、彼は指を差した。
「おい、そこの見習い。ミリー、お前だ! マードックのサポートにつくんだ。雑用でも何でもいい、現場で見て学んでこい!」
心臓が大きく跳ねた。信じられない。この大事件に、自分も関われる。
「はい!」
ミリーは裏返りそうな声で、精一杯の返事をした。
ベテランのマードックは、さすがに落ち着いていた。コートの内ポケットから手帳を取り出し、編集長と二言三言、冷静に打ち合わせを始めている。(待っていられない……!)
先輩の落ち着きが、ミリーの焦りを煽った。一秒でも早く現場の空気を吸いたい。マードックを待っていたら、一番乗りのスクープを逃してしまうかもしれない。
ミリーは二人に深く一礼すると、デスクの上の愛用のカメラと取材手帳をひったくるように掴んだ。「お、おい、ミリー!」
背後でマードックの呆れたような声が聞こえた。しかし、もう彼女を止めることはできない。許可は出たのだ。ならば、誰よりも早く現場に着くのが自分の役目だ。
ミリーは決意を胸に、編集部の扉を蹴るようにして、雨の降りしきる魔術都市へと飛び出していった。
ブラウン教授の権威と巧みな弁舌の前に、リアムを養護するどころか、逆にミリーは取材規定違反を問われる始末だった。オルドリッジ学院長は失望の表情で、二人に調査の中止を言い渡した。 リアムの自作自演は濃厚になり、たとえ事故だとしても研究室の管理不行き届きに問われる。退学はこれで決定的となった。◇ 時計塔に戻った二人の間には、重い沈黙が流れていた。ミリーは自分の無力さに打ちひしがれる。「私のせいだ。私が中途半端にリアムさんを信じたばかりに、彼を追い詰めてしまった……」 アレックスは、解けないパズルを前にしたかのような、苛立ちの表情で部屋を行き来していた。「人間の感情は、常に論理を歪ませる。教授の嘘、学生の絶望……このパズルは、ピースが多すぎる」 時計塔の中には重い沈黙が流れていた。巨大な歯車が軋む音だけが、部屋の空虚さを際立たせる。 ミリーはリアムの悲しげな顔を思い出して、罪悪感に苛まれる。もう事件を解決しようという気力もなかった。リアムが自作自演で卒業制作を燃やすほどに追い詰められていたのであれば、やるべきことは真相の解明ではなかったのだ。(もっとリアムさんを思いやるべきだった。それに……) 彼女は誰に言うでもなく、ぽつりと独り言を呟いた。「特製の万年筆。恩師への感謝の気持ちだって、あんなに嬉しそうに話してくれたのに。そんな人が、本当に……」 小さな呟きを、アレックスは聞き逃さなかった。彼にとって「感謝」「贈り物」という感情的な言葉は、これまでパズルに存在しなかった新しい変数(データ)だった。「その万年筆とやらは、ただの万年筆か? 特徴を全て話せ。感情はいい、構造だけを説明しろ」 アレックスの鋭い声に、ミリーは顔を上げた。「詳しく話せ、見習い記者。それはどういうものだ?」 アレックスに促されて、ミリーはぼんやりとしたままリアムから聞いた万年筆の特徴を説明した。「魔力を込めると、ペン先から微弱
アレックスとミリーの奇妙な共同調査が始まった。アレックスは物理証拠を「分解」し、ミリーは人間関係から「物語を組み立てる」。二人の捜査は、水と油のように決して交わらないはずだった。 アレックスは一日中、破壊された研究室に籠っていた。ミリーが様子を窺うと、彼は巨大な魔術式レンズを覗き込み、床に残った微細な魔力の残滓を分析している。その姿は事件を追う探偵というより、未知の生物を解剖する学者のようだった。「……見つけたぞ」 アレックスの呟きに、ミリーは聞き耳を立てた。「火災は事故じゃない。誰かが意図的に、時間を置いてから発火するように仕組んだものだ。灰の中から、ごく微量な『時間遅延性魔力触媒』の痕跡を発見した」 彼の言葉には、何の感情も籠っていない。ミリーに説明しているわけですらない。事実だけがそこにあった。◇ 一方、ミリーは人間関係の糸をたどっていた。打ちひしがれるリアムに話を聞くと、彼は涙ながらに語った。「僕の研究は、恩師であるブラウン教授の助けがなければ完成しませんでした。教授の期待を裏切ってしまった……」 リアムの目に浮かんでいるのは、純粋な尊敬の念だ。それだけにミリーの胸は痛んだ。 次に傲慢な貴族のライバル、イライアスにも話を聞いた。「自作自演に決まっている。あの程度の才能では、いずれ限界が来るからな」 彼は嘲笑うが、ミリーはその瞳の奥に、リアムの才能に対する焦りの色が浮かんでいるのを見逃さなかった。 思えばイライアスは、昨日の取材の時もやけにリアムに突っかかっていた。本当に見下していだけなら、ああはならない。リアムを認めているがゆえだろう。(この人も、追い詰められているんだわ。……ライバルを追い落とすという意味で、動機はあるかもしれない) だが決定的な手がかりは、学院の広大な図書館で得られた。ミリーは、気弱そうな若い司書に話を聞いた。 図書館の資料を一手に管理する司書は、様々な情報を握っている。備品の管理なども一部、管轄している。
翌朝、学院は昨夜の事件で騒然としていた。 ミリーが現場となった研究室へ向かうと、廊下に衛兵隊が張った規制線の向こうで、憔悴しきったリアムが膝を抱えて座り込んでいた。研究室の中からは、魔力が焼けた後のツンとした空気の匂いと、焦げた木の匂いが漂ってくる。 衛兵隊の隊長らしき男が、部下に指示を出しているのが聞こえた。「現場は見ての通り、内側から魔法錠を施錠してある。争った形跡もなし。追い詰められた学生がやったんだろう。よくある話だ」(よくある話ですって? ろくに調べもしないで。彼がどれだけ情熱を注いでいたか、知りもしないくせに) ミリーが唇を噛み締めていると、廊下の向こうから一人の人影が静かに歩いてきた。オルドリッジ学院長だった。衛兵たちが敬礼し、道を開ける。 ミリーは学院長の登場に一縷の望みを託したが、その隣に立つ人物を見て、息を呑んだ。(嘘。なんであの男がここに!?) 着古した黒いコートに、全てを退屈だと言いたげな灰色の瞳。 悲しき歌姫の事件で出会った、時計塔の主。アレックス・グレイだった。 ミリーが目を丸くしてアレックスを凝視していると、オルドリッジ学院長は不思議そうに首を傾げた。「おや、ミリー君。こちらのアレックス君と知り合いかね?」「はい。その、以前、別の事件で」「ああ、なるほど。新聞記者の君ならば、知り合う機会もあるか。アレックス君は私の教え子でね。とても優秀で頼りになる人だ。今回このようなことが起きてしまって、私も憂慮していた。だから彼に調査を依頼したのだよ」 学院長はアレックスに向き直った。「見ての通りだ、アレックス君。衛兵隊は事故だと結論付けたが、私はどうにも腑に落ちん。あのリアム君が、自ら未来を絶つようなことをするとは……」「そうですか。まずは現場を見せてください」 アレックスは気のない返事をすると、黒焦げになった研究室に足を踏み入れた。 彼は内部の惨状を、まるで他人事のように眺める。床に散らばる繊細な魔道具の残骸にも、壁に残る魔力火災の痕跡にも、一
魔術都市の頭脳と称される「王立学院」。その壮麗な白亜の塔が、朝日に輝いていた。 ミリーは、デイリー・ピープルの記者として、数日後に迫った卒業制作発表会の取材のため、その門をくぐった。活気に満ちた構内では、才能あふれる若き魔術師や錬金術師たちが行き来している。誰もが希望に満ちた表情をしていた。(すごい。ここが国の未来を作っている場所なのね。エレオノーラさんの事件とは全く違う、明るい光に満ちている) ミリーは胸を躍らせながら、取材対象者の一人が待つ研究棟へと向かった。 取材対象の一人リアム・コリンズは、平民出身ながら特待生として入学した天才。雑然とした研究室の中は、卒業制作の資料でいっぱいになっている。どれもが読み込まれ、付箋や栞が挟まれ、よれよれになっている。 リアムの研究に対する情熱がよく見て取れた。 ミリーは学院の教室に移動して、リアムへの取材を開始した。「僕の研究は『魔力共振理論』といいます。その、魔術の基本的な構造を、もっと効率的にできるかもしれないんです」 リアムは物静かで、少し気弱そうな青年である。初対面のミリーに気後れしていたが、徐々に熱を込めて話すようになった。 魔術に関して素人のミリーにも、わかりやすいよう言葉を選んで説明してくれる。「とても画期的な研究ですね!」 ミリーが素直な感想を言えば、リアムは恥ずかしそうに微笑んだ。「はい。そのつもりでいます。僕の研究はたくさんの人に支えられて、ここまで来ました。特に指導してくださったブラウン教授には、いくら感謝しても足りません。せめてものご恩返しに、特製の魔道万年筆を贈ったんですよ。喜んでくださいました」「まあ、素敵。リアムさんの研究が世に広まるのが楽しみです」◇ 対照的だったのが、もう一人の取材対象、イライアス・ブレッケンリッジだ。有力貴族の嫡男である彼は、ミリーとリアムが話しているところに割り込んできた。「平民がいくら足掻こうと、血筋と本物の才能には敵わない。卒業制作会で、それを証明してやろう」 イライアスは傲慢そうな笑みを浮かべる。リアムは困ったように笑った。「僕は全力を尽くすだけだよ。研究は才能の証明のためにあるわけじゃない。よりよい技術を世に広めるためだ」「ハッ! 綺麗事を言うな! 卒業制作で優勝すれば、名誉と賞金が手に入る。狙っていないと言えるのか
「ルカスさん……。あなたが彼女のために作った最後の曲は、どんな想いで作ったんですか?」 そしてミリーの問いが、ルカスの心の堰を切った。「僕は、先生が僕の曲で歌ってくれるだけで幸せだった。たとえ魔力を失っても、歌声の本質は変わらない。他の誰が何を言おうと、僕は先生の歌声を愛していた。それなのに、先生ご自身が自分を否定してしまった」 ルカスの瞳から大粒の涙が溢れ出す。「……先生は言いました。『ただの女として忘れ去られるのは耐えられない。私の死を、後世まで語り継がれる美しい謎にしてほしい』と……!」 彼は全てを告白した。師への敬愛と、その狂気じみた願いを断れなかった苦悩。彼女が身を投げた後、言われた通りに口をつぐんで、歌姫の死を伝説に仕立て上げた罪の意識を。 ルカスの役割は共犯者であり、信奉者であり、たった一人でこの世に残った証人でもあったのだ。「先生のための最後の曲は、ここに。歌う楽しさを思い出してもらえるよう、僕なりに力を尽くしました」 ルカスは数枚の楽譜を取り出した。何度も書いては消した跡のある、迷いの見える曲だった。「でも先生は、歌ってくださいませんでした。魔力を失ったご自身は、もう価値がないとおっしゃって。そんなことはないのに。僕の最後の願いすら、聞いてくれませんでした……」「愚かだな」 アレックスは冷ややかに答えた。「師の偶像を守りたいという自己満足。実に非合理的で、愚かな選択だ」「はは……。その通りです。僕はあの人に、生きてほしかったのに。できなかった……」 ミリーはルカスに駆け寄って、肩にそっと手を置いた。「いいえ、ルカスさん。エレオノーラさんの死は、あなたのせいじゃありません。あなたは、彼女の最後の願いを叶えた」 ミリーは彼の手を取った。楽譜を握って震える手を。「……でもこれからは、自分のための曲を書くべきではないでしょうか」 ルカスは肩を震わせる。何粒もの涙をこぼして、やがて立ち上がった。「……ありがとう、ミリーさん。罪を償った後は、もう一度曲を書いてみます」 彼は最後の楽譜を握りしめると、火の魔法を発動させた。 ――ボッ。楽譜は小さな音を上げて燃え始める。 ルカスは両手を広げた。折から吹いてきた風が楽譜をさらって、星空に舞い上げる。 燃える楽譜はたちまち灰となって風に乗り、魔術都市の夜空に散っていく
雨の中、戸惑いながら見上げるミリーに、アレックスは言った。「立て、見習い記者。パズルはまだ完成していない」 ミリーが置き忘れた魔道カメラを突きつけて、彼は続ける。「君が集めた感情的証拠(データ)と、僕が分析した物理的証拠(データ)。この二つは矛盾している。矛盾は、構造(パズル)が未完成であることの証明だ。君の『目』が必要だと言ったはずだ。静寂の塵を写し取り、ルカスから矛盾のかけらを聞き出したような『目』がな」「矛盾? でも、エレオノーラさんは自殺で、ルカスさんは彼女を神格化したくて手伝ったんでしょう?」「物理的証拠は自殺を示している。動機はエレオノーラの神格化。だが、君が聞いたルカスの言葉……あの涙と悲しみは、僕の論理では『嘘』だと断定できない。あれは、なんだ?」 アレックスの言葉は、命令でも侮辱でもない。純粋な問いだった。彼が初めて、自分の論理の限界を口にした瞬間。 彼が、ミリーの感じ取った「人の心」を、解くべきパズルの一部として真剣に向き合っている。その事実に、ミリーは顔を上げた。 アレックスの言う通り、まだわからない点がある。ルカスの心の裡だ。 彼がどういう思いで事件を起こしたのか。どういう気持ちで、心から敬愛していた師の最期を見届けたのか。その真実を聞くまでは終われない。(立たなきゃ) 田舎から出て新聞記者になったのは、真実を明らかにするためだ。偽りと不明さの中に置き去りにされて、悲しむ人をなくすためだ。 今、ルカスは偽りで組み立てられた謎の中で一人、苦しんでいる。 アレックスが謎を分解するのなら、ミリーは謎の中で泣いている人を助け出さなければならない。 ミリーはゆっくりと顔を上げる。雨と涙で濡れた顔を拭って、立ち上がった。その瞳にもう涙はない。強い決意の光が宿っていた。◇ 雨上がりのロイヤル・オペラハウスの屋上は、雨に現れて空気が冷たく澄み渡っていた。見上げれば満天の星空が、銀の砂を撒いたような輝きを放っている。眼下には魔術都市の無数の灯りが、宝石のようにきらめいていた。