ミリーの燃えるような視線を、アレックスは温度のない灰色の瞳で受け止めた。彼の目に感情らしきものは見えない。
足元で騒ぐ虫けらを一瞥するかのような、完璧な無関心。その様子が、ミリーの怒りにさらに油を注いだ。 彼はミリーに一言も返すことなく、衛兵隊長に向き直った。肩越しにミリーを親指で指す。「邪魔だ。排除しろ」
「なっ……!」
抗議の声を上げる間もなく、衛兵たちが彼女の両腕をがっしりと掴んだ。先ほどとは比べ物にならない力で、ミリーは現場から引きずり出されていく。
(なんなのよ。私のこと、道端の石ころでも見るような目で見て!)
悔しさに唇を噛み締める。最後までアレックスは、ミリーを振り返りすらしなかった。
規制線の外に放り出されて、ミリーは雨に濡れた石畳の上に膝をついた。石畳が冷たくて、怒りが治まらなくて、彼女は身を震わせた。(覚えてなさい、アレックスとやら!)
ジャーナリストとしての矜持が、あの男に踏みにじられた。このまま終わらせるわけにはいかない。
悔しさを胸に、ミリーはデイリー・ピープルの編集部へと帰った。◇
デイリー・ピープルの編集部に戻ってきたミリーは、編集長にこってりと叱られた。
「ミリー、お前なぁ、いきなり衛兵と喧嘩してどうすんだ。マードックがどれだけ苦労してパイプを作ったのか、わかってんのか」
「……すみませんでした」
ミリーがうつむくと、編集長はため息をついた。
とりなしたのは当のマードックである。「まあまあ、編集長。俺は気にしていませんよ。若い頃は勢いがあってこそです。……で? アレックスに会ったのか?」
「知っているんですか?」
「まあな。あの男は『アレックス・グレイ』。衛兵隊の民間協力者だ。今までにいくつもの難事件を解決している」
「…………」
ミリーが不満そうに押し黙ったので、マードックは苦笑した。
「お前さんの言いたいことは、わかる。アレックスは相当な変人だからな。だが彼が自殺だと言ったなら、そうなんだろう。なにせ彼の推理力と解決力は、誰もが認めている」
「でも! 人が亡くなったというのに、ひどい言い草でした。ろくに調べもしないで自殺と決めつけて、もし違ったらどうするんですか!」
「よし。それじゃあミリー、アレックスに会ってこいよ」
「えっ?」
急に話の風向きが変わって、ミリーは目を丸くした。
「この業界でやっていくなら、今後も彼に会う機会は増えるだろう。そのたびに突っかかっていちゃあ、仕事にならん。一度しっかり会って、どういう人間かお前さんの目で見極めるんだ」
マードックはそう言って、アレックスの住所を教えてくれた。
旧市街の中心に聳える巨大な時計塔。そこが彼の住処であるらしい。「わかりました。行ってきます。ありがとうございます、先輩」
「おう。気を付けてな」
力強く頷くミリーに、マードックはひらひらと手を振った。
◇
デイリー・ピープルの編集部を出たミリーは、時計塔の住所をメモした紙を片手に、町を歩いていく。
(あんな男が、本当に衛兵隊の顧問だなんて。でも、あの自信は本物だった。何かを知っている。私が知らない何かを)
時計塔が近づくにつれて、腹の底に響くような巨大な歯車が軋む音が聞こえてくる。そびえ立つ建物は、見上げるほどの高さ。町の時を刻むという役割以上に、何か巨大で異質な存在感を放っていた。
重厚な扉の前で一度立ち止まる。本当にこの中に入っていいのだろうか。だが事件の真相に近づくには、彼と話すしかない。ミリーは意を決して、冷たい真鍮のノッカーを叩いた。
ブラウン教授の権威と巧みな弁舌の前に、リアムを養護するどころか、逆にミリーは取材規定違反を問われる始末だった。オルドリッジ学院長は失望の表情で、二人に調査の中止を言い渡した。 リアムの自作自演は濃厚になり、たとえ事故だとしても研究室の管理不行き届きに問われる。退学はこれで決定的となった。◇ 時計塔に戻った二人の間には、重い沈黙が流れていた。ミリーは自分の無力さに打ちひしがれる。「私のせいだ。私が中途半端にリアムさんを信じたばかりに、彼を追い詰めてしまった……」 アレックスは、解けないパズルを前にしたかのような、苛立ちの表情で部屋を行き来していた。「人間の感情は、常に論理を歪ませる。教授の嘘、学生の絶望……このパズルは、ピースが多すぎる」 時計塔の中には重い沈黙が流れていた。巨大な歯車が軋む音だけが、部屋の空虚さを際立たせる。 ミリーはリアムの悲しげな顔を思い出して、罪悪感に苛まれる。もう事件を解決しようという気力もなかった。リアムが自作自演で卒業制作を燃やすほどに追い詰められていたのであれば、やるべきことは真相の解明ではなかったのだ。(もっとリアムさんを思いやるべきだった。それに……) 彼女は誰に言うでもなく、ぽつりと独り言を呟いた。「特製の万年筆。恩師への感謝の気持ちだって、あんなに嬉しそうに話してくれたのに。そんな人が、本当に……」 小さな呟きを、アレックスは聞き逃さなかった。彼にとって「感謝」「贈り物」という感情的な言葉は、これまでパズルに存在しなかった新しい変数(データ)だった。「その万年筆とやらは、ただの万年筆か? 特徴を全て話せ。感情はいい、構造だけを説明しろ」 アレックスの鋭い声に、ミリーは顔を上げた。「詳しく話せ、見習い記者。それはどういうものだ?」 アレックスに促されて、ミリーはぼんやりとしたままリアムから聞いた万年筆の特徴を説明した。「魔力を込めると、ペン先から微弱
アレックスとミリーの奇妙な共同調査が始まった。アレックスは物理証拠を「分解」し、ミリーは人間関係から「物語を組み立てる」。二人の捜査は、水と油のように決して交わらないはずだった。 アレックスは一日中、破壊された研究室に籠っていた。ミリーが様子を窺うと、彼は巨大な魔術式レンズを覗き込み、床に残った微細な魔力の残滓を分析している。その姿は事件を追う探偵というより、未知の生物を解剖する学者のようだった。「……見つけたぞ」 アレックスの呟きに、ミリーは聞き耳を立てた。「火災は事故じゃない。誰かが意図的に、時間を置いてから発火するように仕組んだものだ。灰の中から、ごく微量な『時間遅延性魔力触媒』の痕跡を発見した」 彼の言葉には、何の感情も籠っていない。ミリーに説明しているわけですらない。事実だけがそこにあった。◇ 一方、ミリーは人間関係の糸をたどっていた。打ちひしがれるリアムに話を聞くと、彼は涙ながらに語った。「僕の研究は、恩師であるブラウン教授の助けがなければ完成しませんでした。教授の期待を裏切ってしまった……」 リアムの目に浮かんでいるのは、純粋な尊敬の念だ。それだけにミリーの胸は痛んだ。 次に傲慢な貴族のライバル、イライアスにも話を聞いた。「自作自演に決まっている。あの程度の才能では、いずれ限界が来るからな」 彼は嘲笑うが、ミリーはその瞳の奥に、リアムの才能に対する焦りの色が浮かんでいるのを見逃さなかった。 思えばイライアスは、昨日の取材の時もやけにリアムに突っかかっていた。本当に見下していだけなら、ああはならない。リアムを認めているがゆえだろう。(この人も、追い詰められているんだわ。……ライバルを追い落とすという意味で、動機はあるかもしれない) だが決定的な手がかりは、学院の広大な図書館で得られた。ミリーは、気弱そうな若い司書に話を聞いた。 図書館の資料を一手に管理する司書は、様々な情報を握っている。備品の管理なども一部、管轄している。
翌朝、学院は昨夜の事件で騒然としていた。 ミリーが現場となった研究室へ向かうと、廊下に衛兵隊が張った規制線の向こうで、憔悴しきったリアムが膝を抱えて座り込んでいた。研究室の中からは、魔力が焼けた後のツンとした空気の匂いと、焦げた木の匂いが漂ってくる。 衛兵隊の隊長らしき男が、部下に指示を出しているのが聞こえた。「現場は見ての通り、内側から魔法錠を施錠してある。争った形跡もなし。追い詰められた学生がやったんだろう。よくある話だ」(よくある話ですって? ろくに調べもしないで。彼がどれだけ情熱を注いでいたか、知りもしないくせに) ミリーが唇を噛み締めていると、廊下の向こうから一人の人影が静かに歩いてきた。オルドリッジ学院長だった。衛兵たちが敬礼し、道を開ける。 ミリーは学院長の登場に一縷の望みを託したが、その隣に立つ人物を見て、息を呑んだ。(嘘。なんであの男がここに!?) 着古した黒いコートに、全てを退屈だと言いたげな灰色の瞳。 悲しき歌姫の事件で出会った、時計塔の主。アレックス・グレイだった。 ミリーが目を丸くしてアレックスを凝視していると、オルドリッジ学院長は不思議そうに首を傾げた。「おや、ミリー君。こちらのアレックス君と知り合いかね?」「はい。その、以前、別の事件で」「ああ、なるほど。新聞記者の君ならば、知り合う機会もあるか。アレックス君は私の教え子でね。とても優秀で頼りになる人だ。今回このようなことが起きてしまって、私も憂慮していた。だから彼に調査を依頼したのだよ」 学院長はアレックスに向き直った。「見ての通りだ、アレックス君。衛兵隊は事故だと結論付けたが、私はどうにも腑に落ちん。あのリアム君が、自ら未来を絶つようなことをするとは……」「そうですか。まずは現場を見せてください」 アレックスは気のない返事をすると、黒焦げになった研究室に足を踏み入れた。 彼は内部の惨状を、まるで他人事のように眺める。床に散らばる繊細な魔道具の残骸にも、壁に残る魔力火災の痕跡にも、一
魔術都市の頭脳と称される「王立学院」。その壮麗な白亜の塔が、朝日に輝いていた。 ミリーは、デイリー・ピープルの記者として、数日後に迫った卒業制作発表会の取材のため、その門をくぐった。活気に満ちた構内では、才能あふれる若き魔術師や錬金術師たちが行き来している。誰もが希望に満ちた表情をしていた。(すごい。ここが国の未来を作っている場所なのね。エレオノーラさんの事件とは全く違う、明るい光に満ちている) ミリーは胸を躍らせながら、取材対象者の一人が待つ研究棟へと向かった。 取材対象の一人リアム・コリンズは、平民出身ながら特待生として入学した天才。雑然とした研究室の中は、卒業制作の資料でいっぱいになっている。どれもが読み込まれ、付箋や栞が挟まれ、よれよれになっている。 リアムの研究に対する情熱がよく見て取れた。 ミリーは学院の教室に移動して、リアムへの取材を開始した。「僕の研究は『魔力共振理論』といいます。その、魔術の基本的な構造を、もっと効率的にできるかもしれないんです」 リアムは物静かで、少し気弱そうな青年である。初対面のミリーに気後れしていたが、徐々に熱を込めて話すようになった。 魔術に関して素人のミリーにも、わかりやすいよう言葉を選んで説明してくれる。「とても画期的な研究ですね!」 ミリーが素直な感想を言えば、リアムは恥ずかしそうに微笑んだ。「はい。そのつもりでいます。僕の研究はたくさんの人に支えられて、ここまで来ました。特に指導してくださったブラウン教授には、いくら感謝しても足りません。せめてものご恩返しに、特製の魔道万年筆を贈ったんですよ。喜んでくださいました」「まあ、素敵。リアムさんの研究が世に広まるのが楽しみです」◇ 対照的だったのが、もう一人の取材対象、イライアス・ブレッケンリッジだ。有力貴族の嫡男である彼は、ミリーとリアムが話しているところに割り込んできた。「平民がいくら足掻こうと、血筋と本物の才能には敵わない。卒業制作会で、それを証明してやろう」 イライアスは傲慢そうな笑みを浮かべる。リアムは困ったように笑った。「僕は全力を尽くすだけだよ。研究は才能の証明のためにあるわけじゃない。よりよい技術を世に広めるためだ」「ハッ! 綺麗事を言うな! 卒業制作で優勝すれば、名誉と賞金が手に入る。狙っていないと言えるのか
「ルカスさん……。あなたが彼女のために作った最後の曲は、どんな想いで作ったんですか?」 そしてミリーの問いが、ルカスの心の堰を切った。「僕は、先生が僕の曲で歌ってくれるだけで幸せだった。たとえ魔力を失っても、歌声の本質は変わらない。他の誰が何を言おうと、僕は先生の歌声を愛していた。それなのに、先生ご自身が自分を否定してしまった」 ルカスの瞳から大粒の涙が溢れ出す。「……先生は言いました。『ただの女として忘れ去られるのは耐えられない。私の死を、後世まで語り継がれる美しい謎にしてほしい』と……!」 彼は全てを告白した。師への敬愛と、その狂気じみた願いを断れなかった苦悩。彼女が身を投げた後、言われた通りに口をつぐんで、歌姫の死を伝説に仕立て上げた罪の意識を。 ルカスの役割は共犯者であり、信奉者であり、たった一人でこの世に残った証人でもあったのだ。「先生のための最後の曲は、ここに。歌う楽しさを思い出してもらえるよう、僕なりに力を尽くしました」 ルカスは数枚の楽譜を取り出した。何度も書いては消した跡のある、迷いの見える曲だった。「でも先生は、歌ってくださいませんでした。魔力を失ったご自身は、もう価値がないとおっしゃって。そんなことはないのに。僕の最後の願いすら、聞いてくれませんでした……」「愚かだな」 アレックスは冷ややかに答えた。「師の偶像を守りたいという自己満足。実に非合理的で、愚かな選択だ」「はは……。その通りです。僕はあの人に、生きてほしかったのに。できなかった……」 ミリーはルカスに駆け寄って、肩にそっと手を置いた。「いいえ、ルカスさん。エレオノーラさんの死は、あなたのせいじゃありません。あなたは、彼女の最後の願いを叶えた」 ミリーは彼の手を取った。楽譜を握って震える手を。「……でもこれからは、自分のための曲を書くべきではないでしょうか」 ルカスは肩を震わせる。何粒もの涙をこぼして、やがて立ち上がった。「……ありがとう、ミリーさん。罪を償った後は、もう一度曲を書いてみます」 彼は最後の楽譜を握りしめると、火の魔法を発動させた。 ――ボッ。楽譜は小さな音を上げて燃え始める。 ルカスは両手を広げた。折から吹いてきた風が楽譜をさらって、星空に舞い上げる。 燃える楽譜はたちまち灰となって風に乗り、魔術都市の夜空に散っていく
雨の中、戸惑いながら見上げるミリーに、アレックスは言った。「立て、見習い記者。パズルはまだ完成していない」 ミリーが置き忘れた魔道カメラを突きつけて、彼は続ける。「君が集めた感情的証拠(データ)と、僕が分析した物理的証拠(データ)。この二つは矛盾している。矛盾は、構造(パズル)が未完成であることの証明だ。君の『目』が必要だと言ったはずだ。静寂の塵を写し取り、ルカスから矛盾のかけらを聞き出したような『目』がな」「矛盾? でも、エレオノーラさんは自殺で、ルカスさんは彼女を神格化したくて手伝ったんでしょう?」「物理的証拠は自殺を示している。動機はエレオノーラの神格化。だが、君が聞いたルカスの言葉……あの涙と悲しみは、僕の論理では『嘘』だと断定できない。あれは、なんだ?」 アレックスの言葉は、命令でも侮辱でもない。純粋な問いだった。彼が初めて、自分の論理の限界を口にした瞬間。 彼が、ミリーの感じ取った「人の心」を、解くべきパズルの一部として真剣に向き合っている。その事実に、ミリーは顔を上げた。 アレックスの言う通り、まだわからない点がある。ルカスの心の裡だ。 彼がどういう思いで事件を起こしたのか。どういう気持ちで、心から敬愛していた師の最期を見届けたのか。その真実を聞くまでは終われない。(立たなきゃ) 田舎から出て新聞記者になったのは、真実を明らかにするためだ。偽りと不明さの中に置き去りにされて、悲しむ人をなくすためだ。 今、ルカスは偽りで組み立てられた謎の中で一人、苦しんでいる。 アレックスが謎を分解するのなら、ミリーは謎の中で泣いている人を助け出さなければならない。 ミリーはゆっくりと顔を上げる。雨と涙で濡れた顔を拭って、立ち上がった。その瞳にもう涙はない。強い決意の光が宿っていた。◇ 雨上がりのロイヤル・オペラハウスの屋上は、雨に現れて空気が冷たく澄み渡っていた。見上げれば満天の星空が、銀の砂を撒いたような輝きを放っている。眼下には魔術都市の無数の灯りが、宝石のようにきらめいていた。