ノックの返事はないままに、重い扉がひとりでに軋みながら開く。中に足を踏み入れたミリーは、その光景に言葉を失った。
古い紙と油、冷たい金属が混じり合った独特の匂い。絶え間なく聞こえる歯車の駆動音。床から天井まで、本、設計図、用途不明の機械部品が山と積まれ、足の踏み場もない。 壁という壁には、チョークで数式がびっしりと書き殴られていた。高い天窓から差し込む一筋の光が、空気中を舞う無数の埃を照らし出している。「何の用だ」
ガラクタの山の中から、アレックスが顔を出した。手には油で汚れた工具と、飲みかけで冷え切ったコーヒーカップ。迷惑そうな灰色の瞳がミリーを捉える。
ミリーは我に返ると、オペラハウスの現場で撮った写真を彼の作業台に叩きつけた。エレオノーラの遺体の写真だ。
デイリー・ピープル所有の魔道カメラは最新型で、とても鮮明に細部まで映すことができる。「あなた、どうしてあれが自殺だって断言できるんですか? 納得いくように説明してください!」
アレックスは億劫そうに立ち上がると、数式が書かれた壁の一角を指さす。そして推理を語り始めた。人の感情を完全に排除した、純粋な論理だけの推理だった。
「屋上へ続く扉には、内側から強力な魔法錠。外部からの侵入は不可能。手すりに残された魔力痕は、抵抗したものではなく、自ら体重をかけた時に発生する微弱なものだ。他殺の可能性を示す物理的証拠はゼロ。実に単純な構造じゃないか」
(なんて……なんて冷たい分析。でも、反論できない。私の常識なんて、この人の前では何の役にも立たないんだ……)
完璧で氷のように冷たい理論。ミリーは絶句した。
ミリーに元より証拠などない。ただ亡くなった人が不憫で、不明な状況を明らかにしたいと思っただけだ。その不明さの中に真実が隠れているのなら、調べたかった。アレックスは話は終わりとばかりに、ガラクタの山に戻ろうとする。ミリーは諦めきれずに言い募った。
「それでも、私は納得できないんです。本当に見落としはありませんか!?」
アレックスはため息をつくと、面倒そうに写真の束を手に取り、パラパラとめくる。
ところがそのうちの一枚で、指がぴたりと止まった。 彼はポケットから魔術師用の単眼鏡(モノクル)を取り出して、写真の一点を凝視する。そこには、エレオノーラのドレスの裾に付着した、肉眼では見えない微細な塵が写っていた。「……『静寂の塵』。オペラハウスの最上階、防音室にしか存在しない特殊な魔術素材だ」
彼の灰色の瞳に初めて、退屈以外の色――冷たい好奇心と探究心が浮かぶ。
「僕としたことが見落としていたな。この魔道カメラのレンズを通したおかげで、静寂の塵の陰影がよく見えた」
「その塵があると、何が問題なんですか」
「逆だ。自殺であることの証拠になる。歌姫は死の直前、防音室に立ち寄っていた。自分の足で最上階に赴いたわけだ。そしてその後に死んだ」
「でもエレオノーラさんは、伝説とまで言われた歌姫です! どうして自ら死を選ぶ必要があるんですか。実績も名誉もお金も、これ以上ないほど持っているのに。動機がありません!」
アレックスは写真を置くと、無言でミリーに近づいた。
ミリーは後ずさろうとしたが、間に合わない。彼の節立った指が伸びて、ミリーの顎を掴み顔を持ち上げさせた。間近に見えるのは、アレックスのムーンストーンを思わせる灰色の瞳。値踏みするような視線がミリーの心を貫いた。
至近距離で瞳を覗き込まれ、ミリーは身動きが取れない。アレックスが、初めて彼女という存在を認識したかのように、有無を言わせぬ力強さで告げた。「面白い。君のその根拠のない自信に満ちた瞳は、僕の知らない変数(データ)を拾ってくるかもしれないな。僕の『目』になれ、記見習い記者。そして動機の矛盾を解いてみせろ」
屈辱的な提案は、しかし、真相に近づく唯一の道でもある。
ミリーは表情を歪ませながら、目の前の天才を睨み返した。学院長の手がマスターレバーへと伸びる。 その様子が、ミリーにはスローモーションのように見えた。 あのレバーが完全に引かれてしまえば、救済という名の虐殺が始まる。100万人に及ぶ魔術都市の生命が、根こそぎ『収穫』されるだろう。「待って! そのレバーを引けば、この町の人々が死んでしまう!」 ミリーは半ば無意識に声を上げていた。論理など無関係な、心からの叫びだった。「その人たちは、収穫されるべき魔力なんかじゃない。誰かのお父さんで、お母さんで、友達で、恋人で……あなたの大切な娘さんのように、大事に育てられた子どもたちだってたくさんいるの!」 ミリーの肩からリンギが飛び立つ。小さなくちばしから飛び出たのは、細い少女の声だった。「……お父さん。信じてるね」 それはかつて、オルドリッジの娘が発した言葉。病の床にありながら、励ましてくれる父親に返した言葉だった。 リンギは以前、九つの尾に声帯模写の能力を利用されていた際に、娘の声を聞いて覚えていたのだ。 その声に、学院長の動きがぴたりと止まった。表情から怒りが消え、ただの父親としての苦悩と動揺が浮かぶ。彼は、最愛の娘の幻影を探すかのように、ほんの数瞬、虚空を見つめた。(ミリーの言葉、リンギの声。非合理的なノイズが、彼の論理を停止させた……今しかない!) アレックスはミリーとリンギが生み出した、奇跡のようなわずかな時間を逃さない。目の前の『魂の収穫機』の構造を、極限の集中力で分析する。(これは、ただの魔道具、ただの機械ではない。全ての機能が一つの中心点に依存して連動している、巨大なパズルボックスだ。そして、パズルボックスには必ず『解』がある……! 心臓部は……あそこだ!) アレックスは装置の中心にある、連鎖的に機能を停止させる唯一のポイント――プランクトン培養炉へと魔力を供給する、中央の制御歯車――を特定した。 錬金術爆弾は既に尽きて、回路に接続・解除する時間はな
「エヴァ!」 ミリーの絶叫が、螺旋階段にこだました。 致命的な損傷を受けた炉心は、制御不能なエネルギー暴走を開始。エヴァの全身から青白い光と火花が溢れ出し、警告音が鳴り響いた。 しかし彼女は倒れなかった。最後の力を振り絞って分隊長に突進し、両腕で彼を固く抱きしめるように拘束する。「なっ……! 離せ、この鉄クズが!」 分隊長は必死にもがくが、機械の腕力からは逃れられない。エヴァの瞳がアレックスとミリーに向けて、壁に最後のメッセージを投影した。『炉心暴走。脅威対象を無力化します。お二人とも、お逃げください』 次の瞬間、エヴァの体から前方に向かって強烈な光と衝撃波が放出された。分隊長ただ一人を目標とした、指向性のエネルギー放出だった。轟音と共に後方の壁に叩きつけられ、分隊長は完全に気絶した。戦闘不能に陥る。 衝撃波が去った後、エヴァが立っていた場所には、焼け焦げて砕け散った彼女の残骸だけが横たわっていた。「……行くぞ、ミリー」 アレックスは、歯を食いしばりながら言った。「彼女の意志を、無駄にするな」 ミリーは動かなくなったエヴァのそばに膝をついて、離れようとしない。リンギは心配そうに周囲を飛び回っている。 アレックスは彼女の腕を強く引き、最上階へと続く最後の扉へと走った。◇ 中央と系統の最上階は、都市の時を刻む巨大な歯車と機械がむき出しになった空間だった。 その中央では、魔道具『魂の収穫機』が時計機構と融合して不気味な魔力の光を放っている。 そして、その隣。 巨大なガラス容器の中で、黒緑色のプランクトン群体が蠢いている。それらが収められているのは、集められた魔力を吸収して不気味に脈動する『培養炉』だ。 それらの魔道具を背にして、一人の人影が立っていた。 全ての元凶――オルドリッジ学院長。彼は穏やかな笑みを浮かべて二人を迎えた。「よく来たね、アレックス。君がここまでたどり着くことは、分かっていたよ」
地下管理室の壁には、黒幕の名を示す『王立学院長 オルドリッジ・アークライト』の文字が、魔術石の光に照らされて静かに浮かび上がっている。三人の間には、重い沈黙が流れていた。(学院長。どんな理由であれ、あの穏やかな人がこんな恐ろしい計画を……。だとしたら、アレックスさんは、これから自分の恩師と戦わなければならないんだわ……) ミリーはアレックスの横顔を、心配そうに見つめた。彼の表情はいつものように冷静だったが、その瞳の奥には恩師との過去の記憶と、これから下すべき非情な決断の重みが、深く沈んでいるように見えた。 やがて彼は顔を上げる。その瞳にはもはや迷いはなかった。「感傷に浸っている時間はない。計画の起動まで、あと三時間。我々がやるべきことは一つだ。中央時計塔に潜入し、『魂の収穫機』を破壊する」「でも、どうやって? 町は衛兵隊に封鎖されて、中央時計塔の周りは厳重な警備が敷かれているはずです!」「だからこそ、三人で行く」 アレックスは言った。「ミリー。君の出番だ。記者として、最もらしい『嘘』を作り上げろ。広場の反対側で、テロの動きがあると、匿名でデイリー・ピープルと衛兵隊司令部に同時に通報するんだ」「陽動ですね!」「ああ。エヴァ、君はその間に警備システムの魔術回路に侵入し、裏口の監視網に三秒間の死角(ブラインドスポット)を作り出せ。可能か?」「……可能です。誤差、プラスマイナス0.1秒」「僕が、その死角を抜けて二人を内部へ誘導する」◇ 三人は中央時計塔が見える、別の地下水道の出口へと移動した。ミリーはアレックスに渡された小型の魔術通信機を手に、息を殺す。「アレックスさん、やります」 彼女はスイッチを入れると、まずデイリー・ピープルに通信を送った。アレックス特製のボイスチェンジャーで声は変えてある。『特ダネのリークだ。広場の西側で、過激派魔術師がテロを計画している』『なんだって!』 答え
爆発の轟音が地下水道に響き渡り、壁が砕け散る。地下の濁流が追手たちの悲鳴を飲み込んでいく中、アレックスはミリーとエヴァを瓦礫の向こう側へと引きずり込んだ。 三人は一時的に安全な古い管理室に避難する。外からは遠く追手の声が聞こえるが、ここまでは届かない。滴り落ちる水の音だけが、不気味な静寂を強調していた。 アレックスが灯した魔術石の光が、錆びついた計器類や、壁の配管をぼんやりと照らし出す。(私たちは、もう戻れない。この暗い地下で、三人で生き延びるしかないんだわ) アドレナリンが切れ、ミリーの体にどっと疲れが押し寄せる。彼女は自分の置かれた状況の過酷さに、改めて身を震わせた。 ふと、隣に立つエヴァが、先ほどの戦闘で損傷した腕を気にしているのに気づいた。「ごめんね、エヴァ。こんなことに巻き込んでしまって。痛かったでしょう……」「いいえ、平気です。私はお父様のために、自分の意志でここに来ました。ミリー様こそ、お怪我は?」 エヴァの人間らしい気遣いに、ミリーは涙ぐみそうになる。アレックスは、その光景を黙って見ていたが、やがて口を開いた。「感傷に浸っている時間は、もうない」◇ アレックスは、最後の推理を組み立てることを決意した。「ミリー、僕の思考を書き留めてくれ。エヴァ、関連する記憶データを全て、壁に投影しろ」 エヴァの青い瞳から放たれた光が、管理室の湿った石壁をスクリーン代わりにして、これまでの事件の情報を次々と映し出していく。 エレオノーラの死体、ダリウスの研究室、ゲルハルトの工房、そして『魂の収穫機』と『培養炉』の設計図。 アレックスは、壁の前をゆっくりと歩きながら、独白のように語り始めた。「第一の謎、魔力枯渇症を引き起こす『魔力吸収薬』。これを作れるのは、ダリウスのような超一流の錬金術師だけだ。だが、彼は実験台だった。つまり、黒幕はダリウス以上の知識を持つ錬金術師か、あるいは彼を支配できる何者かだ」 彼は、次に培養炉の設計図を指さす。「第二の謎、この『培養炉』。この理
ゴゴゴゴ……という重い石が擦れる音を最後に、時計盤の裏の扉が完全に閉じた。地上から聞こえていた暗殺者たちの怒号が途絶え、三人を完全な暗闇と沈黙が包む。カビと湿った土の匂いが、ミリーの鼻腔を満たした。(逃げ切れた。でも私たちは、一体どこへ行くんだろう? 衛兵隊から追われるなんて、もう、この街のどこにも私たちの居場所はないんだわ) 彼女はこれから始まる逃亡劇の過酷さを思い、唇を噛んだ。 隣でエヴァがミリーの不安を察して、そっと彼女の手を握る。その手は人間のように温かくはなかったが、ミリーの心を少しだけ落ち着かせた。 アレックスは、懐から取り出した魔術石を起動させる。石が放つ冷たい青白い光が、何百年も使われていない埃っぽい石の階段を照らし出した。「感傷に浸っている暇はない。行くぞ。中央時計塔まで、最短ルートを割り出す」 秘密の通路を抜けた先は、巨大なアーチ状の天井が続く広大な地下水道だった。ゴオオ、という水の流れる音が絶えず反響し、壁に生えた燐光を放つ苔が、不気味な緑色の光で三人を照らしている。 彼らが慎重に進んでいると、頭上の鉄格子の隙間から地上を捜索する衛兵たちの声と魔術灯の光が漏れてきた。「地下水道も徹底的に調べろ! ネズミ一匹逃がすな!」「そっちは調べたか!?」 三人は巨大な柱の影に身を隠す。追手の足音が近づいてくる。「どうしましょう、アレックスさん、見つかってしまう……!」 ミリーが囁く。すると彼女の肩にとまっていたリンギが、意図を察したかのように、別の通路に向かって、石が水に落ちる「ポチャン」という音を完璧に模倣した。 リンギの発した水音は、アレックスらと離れた場所で反響する。 追手たちはその音に気を取られ、「そっちだ!」と別の方向へと走り去っていった。「休んでいる時間はない。行くぞ」 追手が遠ざかり、一行は再び歩き始めた。 足場の悪い通路を進んでいた時、エヴァが瓦礫で腕を擦ってしまい、その白い人工皮膚に黒い傷が走った。「エヴァ、
けたたましい轟音と共に、時計塔の重厚な扉が砕け散った。木片と金属片が飛び散る中、衛兵の制服を纏った暗殺者たちが、影のような速さでなだれ込んでくる。彼らの顔に表情はなく、ただ冷たい殺意だけが瞳に宿っていた。「エヴァ、こっちへ!」 ミリーは覚醒したばかりの自動人形の腕を引いて、書斎の奥へと後退した。 絶体絶命の状況。しかしミリーの隣に立つアレックスの表情は、冷静そのものだった。「ようこそ、僕のパズルボックスへ。分解するのは君たちの方だ」 彼の言葉を合図に、時計塔全体が地響きを立ててその姿を変え始めた。窓という窓が巨大な歯車で塞がれ、壁からは分厚い金属板がスライドしてくる。時計塔は、外部から完全に遮断された鋼鉄の要塞へと姿を変え、侵入者たちを閉じ込めた。 アレックスは戦闘員ではない。彼はこの時計塔の全てを知り尽くした、ただ一人の支配者だ。 侵入者たちが扇状に広がり、三人を包囲しようとした瞬間、アレックスは壁のレバーを引き下ろした。「ガシャン!」という轟音と共に、彼らの足元の床の一部がスライドし、二人の暗殺者が下の階のガラクタの山へと滑り落ちた。金属の山に叩きつけられて沈黙する。 残った暗殺者の一人が、ミリーに襲い掛かる。「ミリー、光を!」「はい!」 ミリーは恐怖に叫びながらも、記者用の閃光魔術(フラッシュ)を起動した。これは簡単な魔術だが、使い勝手がいい。光量を絞れば明かりになるし、合図の光弾として打ち上げることもできる。 そして今、ミリーは魔術を持続時間を一瞬、最大光量で発動した。 強烈な光が敵の目を眩ませる。その隙にリンギが飛びかかり、敵の顔を爪で引っ掻いて撹乱した。「――ッ!」 暗殺者たちの声なき悲鳴が時計塔に響く。 その混乱の中、エヴァが冷静な声が聞こえる。「ミリー様、後方です。敵影一名、距離三メートル。アレックス様、天井の第三蒸気管、内部圧力、臨界点です。バルブの魔術封印、敵の魔力干渉により破損。5秒後に破裂します」「……3、2、1、ゼロ」