Masuk遠距離恋愛が3年目に入った頃、桐谷悠真(きりたに ゆうま)のそばに、ひとりの女性が現れた。 問い詰めると、悠真は画面の向こうで背筋をぴんと伸ばし、緊張した声で弁解した。 「紗月、誤解しないで。あの子は莉央。友達の直人の元カノなんだ。僕が2人を引き合わせたんだけど、直人に裏切られて、自分を傷つけるようになって……飛び降りようとしたことまである。僕が面倒を見てるのは、償いなんだよ」 私は、その言葉を信じた。 けれどそれから、悠真はまるで宮原莉央(みやはら りお)の恋人みたいになっていった。私が生理痛で気を失った時は、眠れないという莉央の話し相手になり、私の誕生日には、自分がお金を出して彼女を気晴らしの旅行に連れていった。 そしてあの日。私と一緒に実家へ挨拶に行くと約束していたのに、また莉央のうつ病の症状が悪くなったと言って、約束を破った。 もう我慢できなかった。なんとか自由席の切符を取り、彼に会うためすぐに向かった。それなのに、電話に出た悠真はこう言った。 「三崎紗月(みさき さつき)、束縛するにしても時と場合を考えてよ。僕のせいで死にかけた子にまで、張り合うつもり?」 スーツケースの持ち手を握りしめた。土砂降りの中、頬を伝うのが雨なのか涙なのか、もうわからなかった。 駅を出たところで、莉央の元恋人だという岡野直人(おかの なおと)に出くわした。声をかけて自己紹介をすると、直人はきょとんとした。 「莉央って誰?僕、大学の4年間、一度も付き合ったことないけど」
Lihat lebih banyak大きな声ではなかった。それでも、騒がしかったロビーは一瞬で静まり返った。悠真が私の前に膝をついた。硬い大理石の床に膝が当たり、鈍い音がした。「紗月、本当に僕が悪かった。お願い、もう一度だけチャンスをくれないかな。愛してるのは、ずっと紗月だけなんだ!」スカートの裾をつかみ、すがるように泣く。もう、なりふり構っていなかった。その時、温かい大きな手に肩を抱かれた。いつの間にか、怜司がそばに来ていた。悠真に冷たい一瞥を向けたあと、私には優しく言った。「紗月、車は外だよ。行こう。夜の会議に遅れたらいけないから」私は素直にその胸に身を寄せ、頷いた。「うん」私の肩を抱く怜司の手を見た悠真が、目を見開いた。立ち上がろうともがく。「紗月!どうしてほかの人を好きになれるんだ!僕だけを愛してるって、言ったじゃないか!」怜司のアシスタントと警備員がすぐに駆け寄り、悠真と莉央を床に押さえ込んだ。足を止め、見下ろした。膝をついたまま惨めにうなだれる悠真。その横には、恨みに満ちた顔の莉央がいた。「悠真、恨んでないよ。責める気もない。私の中では、あなたはとっくに死んだ人だから。2人はね……」ほんの少しだけ口元をゆるめ、冷ややかに2人を見た。「本当にお似合いだと思う。絶対に別れないでね」怜司の腕を取り、振り返らずにビルを出た。外はまだ、激しい雨だった。それなのに、私の心はどこまでも晴れていた。その後、悠真の噂がぽつぽつと耳に入った。莉央と言い争ってつかみ合いになり、警察沙汰にまでなったという。結局、2人は別れた。悠真は抜け殻のようになり、私を失った後悔と恋しさで毎晩眠れず、痩せていったそうだ。その話を聞いた時、私は怜司と、ロンドンの花屋でウェディングブーケを選んでいた。「紗月、この白いバラの花束はどう?」怜司が後ろから私を抱き、顎をそっと肩に載せた。どこまでも優しい声だった。鏡に映る自分の、血色のいい幸せそうな顔を見つめた。私は笑って頷いた。「綺麗。すごく好き」母からビデオ通話がかかってきた。画面の向こうでにこにこしながら、地元で開く披露宴を張り切って準備してくれていた。「紗月、怜司くんって本当に気がつく子ね。お母さんの好きな食べ物まで、メモして覚えてくれてるの。今度こそ、安心したわ」母の嬉し
お手洗いの外の静かな廊下で、とうとう悠真に行く手を遮られた。「紗月……本当に紗月?帰ってきたの?」目を赤くした悠真が、震える声で言った。私の袖をつかもうと手を伸ばしてくる。私は一歩下がり、冷たく見返した。「失礼です。やめてください」「紗月、僕だよ、悠真だよ!本当にわからないの?2年間ずっと探してたんだ。もう、おかしくなりそうだった!」押し殺した声が苦しげに漏れ、ついに涙が頬を伝った。その惨めな姿を見ても、驚くほど何も感じなかった。「桐谷さん、私たちは2年前に終わっています」それでも悠真は諦めなかった。会社の住所を調べ上げ、毎日欠かさずビルの下で私を待つようになった。手には、昔、私がいちばん好きだった百合の花があった。私は目もくれず、いつもそのまま怜司の車に乗って帰った。ある日の午後、土砂降りになった。会社のロビーに出ると、回転ドアの向こうに悠真が立っていた。全身ずぶ濡れだった。彼が近づいてくるより先に、甲高い声が響いた。「悠真先輩!やっぱり紗月さんに会いに来てたんだ!」莉央だった。安っぽい服を着て、髪も乱れていた。この2年、悠真の冷たさと身勝手さにすり減らされてきたのだろう。以前とは別人のようで、学生だった頃の、あのはにかんだ様子は影もなかった。莉央は悠真の服をつかんで離さず、私の顔に指を突きつけて怒鳴った。「三崎紗月!恥ずかしくないの?私の男を取らないで!」ロビーの社員や警備員が振り返り、私たちを指さして囁き合った。悠真の顔が真っ青になった。次の瞬間、莉央の頬を強く叩いた。「黙ってくれ!どうかしてるよ!僕と紗月の間に割り込んできたのは莉央だろ!遠距離だと知ってて、僕を誘ったんじゃないか。恋人がいるとわかってて近づいたくせに、よく紗月を責められるね!」悠真は額に青筋を浮かべ、声を限りに怒鳴った。莉央は頬を押さえて床に座り込み、大声で笑い出した。笑いながら、涙まで流していた。「私が誘った?悠真先輩、今さら一途なふりしないでよ。私を抱きながら、電話であの人に嘘をついてたのは誰?『紗月はひとりで何でもできるから僕なんて必要ない。僕がいないと駄目なのは莉央だけだ』って、言ったのは誰よ!自分勝手で、嘘つきで、ただの臆病者じゃない。今さら被害者ぶらないで!」泥の中でもつれ合うように、
同居を始めて3か月目。悠真と莉央は、ますます頻繁に言い争うようになった。悠真に冷たくされ、疎まれるほど、莉央の束縛は強くなった。どうして毎日そんなに仕事があるのか、彼女には理解できない。そばにいないことが、許せなかった。しょっちゅう悠真の席まで様子を見に来て、女性の同僚と話していれば、必ず口を挟む。周りは皮肉交じりに、よくできた奥さんだね、と言っていた。ある夜、とうとう莉央が叫びながら、ローテーブルのカップを悠真の足元へ叩きつけた。「悠真!もう私が嫌になったの?まだ紗月さんのことを考えてるの!?」陶器の破片が足首を切り、血がにじんだ。そのカップは、紗月が大学1年生の時、1か月間アルバイトをして、自分で焼いて贈ってくれた物だった。2人の名前の頭文字が、不揃いな字で刻まれていた。YK&SM。床に散った破片を見つめていると、胸の一部までえぐり取られたようだった。悠真はようやく、自分が何を失ったのか、わかり始めた。震える手でスマホを取り出し、取りつかれたように紗月へ電話をかけた。けれど聞こえるのは、自動案内の冷たい女性の声ばかり。そのたびに打ちのめされた。いくつものSNSから、メッセージを送った。もう返事は来ないかもしれない。そう感じながらも、やめられなかった。【紗月、帰ってきてくれないかな。胃がひどく痛むんだ。紗月が作ってくれたうどんが食べたい。本当に、会いたいよ】【お願い。帰ってきてくれるなら、何でもするから。紗月……】日が過ぎるにつれ、悠真にもわかってきた。紗月は、もう帰ってこない。……その頃、ロンドンの空は晴れ渡っていた。日の差し込む図書館で、私の隣に座っていたのは、同じ研究室の先輩、瀬川怜司(せがわ れいじ)だった。きりっとした横顔に、すっきりとした顎の線。けれど、温かい紅茶を差し出す時の目元はやわらかかった。「紗月、この課題も片づいたし、今夜、食事に誘ってもいい?」顔を上げ、その目を見て微笑んだ。「いいですね。先輩のおごりなら、遠慮しませんよ」彼は無理に話題を探そうとはしなかった。それでも、その夕食ではたくさん話した。仕事のこと、暮らしのこと。そして、私の昔の恋のことも。わかってくれている。受け止めてくれている。私の痛みまで、気にかけてくれている。そう感じた。彼といる
悠真の仕事探しは難航したが、最終的にはある金融グループへの就職が決まった。莉央も彼に合わせ、同じ会社の受付で働き始めた。それでも、金銭的な負担はほとんど悠真の肩にかかっていた。「悠真先輩、紗月さん、まだしばらく拗ねてそうだよね。2部屋分の家賃まで払って、大変でしょ。私、そっちに引っ越してもいい?紗月さんが帰ってきたら、すぐ出ていくって約束するから」莉央に甘えられ、悠真は空っぽのベッドを見た。紗月が出ていって、もう1か月。会いたくて、どうにかなりそうだった。この家に残るわずかな気配まで、別の誰かに塗り替えられたくはない。それでも、寂しさには耐えられなかった。莉央にそばにいてほしかったし、預金残高にも余裕はなかった。迷っていると、莉央が喉元に唇を寄せた。首筋にかかる息がくすぐったくて、悠真は結局、頷いた。莉央は、桃ひとつ食べるにも、悠真が皮をむいてくれなければ口にしない。そんなお姫様気質だった。最初は、それも恋人同士の楽しみだと思っていた。甘えられるのも嬉しかった。けれど一緒に暮らしているうちに、煩わしさのほうが勝っていった。莉央は自分より仕事が楽で、帰りも早い。もう少し家事をしてくれてもいいのに。そう思って帰宅しても、彼女はいつもソファに寝転び、スマホを眺めていた。「悠真先輩、やっと帰ってきた。デリバリー、もう頼んだ?お腹すいた」苛立ちを押し殺し、悠真は袖をまくってキッチンに入った。「毎日、朝から晩までデリバリーばかりなんて嫌なんだよ!」声を荒らげると、莉央の目にすぐ涙が浮かんだ。「だって、作れないんだもん。怒鳴らなくてもいいでしょ?」そのたびに、悠真は諦めたように首を振り、ひとりで料理をした。ひとりきりのキッチンに立っていると、紗月の姿が浮かんだ。遠距離だった頃、彼女の家へ行けば、自分が料理をする時も、紗月は下ごしらえを手伝ってくれた。後ろから抱きついて、『ありがとう』と労ってくれることもあった。あの頃は莉央のことばかり考えていて、紗月と過ごす幸せには気づきもしなかった。当たり前だと、思っていたのだ。「莉央、そろそろ家事も覚えてくれないかな」感情を抑えて静かに言うと、莉央は面倒そうに口を尖らせた。「紗月さんには料理してあげてたんでしょ?なんで私だと、あれこれ要求するの?」紗月の名を聞いて、悠
Ulasan-ulasan