ログイン大きな声ではなかった。それでも、騒がしかったロビーは一瞬で静まり返った。悠真が私の前に膝をついた。硬い大理石の床に膝が当たり、鈍い音がした。「紗月、本当に僕が悪かった。お願い、もう一度だけチャンスをくれないかな。愛してるのは、ずっと紗月だけなんだ!」スカートの裾をつかみ、すがるように泣く。もう、なりふり構っていなかった。その時、温かい大きな手に肩を抱かれた。いつの間にか、怜司がそばに来ていた。悠真に冷たい一瞥を向けたあと、私には優しく言った。「紗月、車は外だよ。行こう。夜の会議に遅れたらいけないから」私は素直にその胸に身を寄せ、頷いた。「うん」私の肩を抱く怜司の手を見た悠真が、目を見開いた。立ち上がろうともがく。「紗月!どうしてほかの人を好きになれるんだ!僕だけを愛してるって、言ったじゃないか!」怜司のアシスタントと警備員がすぐに駆け寄り、悠真と莉央を床に押さえ込んだ。足を止め、見下ろした。膝をついたまま惨めにうなだれる悠真。その横には、恨みに満ちた顔の莉央がいた。「悠真、恨んでないよ。責める気もない。私の中では、あなたはとっくに死んだ人だから。2人はね……」ほんの少しだけ口元をゆるめ、冷ややかに2人を見た。「本当にお似合いだと思う。絶対に別れないでね」怜司の腕を取り、振り返らずにビルを出た。外はまだ、激しい雨だった。それなのに、私の心はどこまでも晴れていた。その後、悠真の噂がぽつぽつと耳に入った。莉央と言い争ってつかみ合いになり、警察沙汰にまでなったという。結局、2人は別れた。悠真は抜け殻のようになり、私を失った後悔と恋しさで毎晩眠れず、痩せていったそうだ。その話を聞いた時、私は怜司と、ロンドンの花屋でウェディングブーケを選んでいた。「紗月、この白いバラの花束はどう?」怜司が後ろから私を抱き、顎をそっと肩に載せた。どこまでも優しい声だった。鏡に映る自分の、血色のいい幸せそうな顔を見つめた。私は笑って頷いた。「綺麗。すごく好き」母からビデオ通話がかかってきた。画面の向こうでにこにこしながら、地元で開く披露宴を張り切って準備してくれていた。「紗月、怜司くんって本当に気がつく子ね。お母さんの好きな食べ物まで、メモして覚えてくれてるの。今度こそ、安心したわ」母の嬉し
お手洗いの外の静かな廊下で、とうとう悠真に行く手を遮られた。「紗月……本当に紗月?帰ってきたの?」目を赤くした悠真が、震える声で言った。私の袖をつかもうと手を伸ばしてくる。私は一歩下がり、冷たく見返した。「失礼です。やめてください」「紗月、僕だよ、悠真だよ!本当にわからないの?2年間ずっと探してたんだ。もう、おかしくなりそうだった!」押し殺した声が苦しげに漏れ、ついに涙が頬を伝った。その惨めな姿を見ても、驚くほど何も感じなかった。「桐谷さん、私たちは2年前に終わっています」それでも悠真は諦めなかった。会社の住所を調べ上げ、毎日欠かさずビルの下で私を待つようになった。手には、昔、私がいちばん好きだった百合の花があった。私は目もくれず、いつもそのまま怜司の車に乗って帰った。ある日の午後、土砂降りになった。会社のロビーに出ると、回転ドアの向こうに悠真が立っていた。全身ずぶ濡れだった。彼が近づいてくるより先に、甲高い声が響いた。「悠真先輩!やっぱり紗月さんに会いに来てたんだ!」莉央だった。安っぽい服を着て、髪も乱れていた。この2年、悠真の冷たさと身勝手さにすり減らされてきたのだろう。以前とは別人のようで、学生だった頃の、あのはにかんだ様子は影もなかった。莉央は悠真の服をつかんで離さず、私の顔に指を突きつけて怒鳴った。「三崎紗月!恥ずかしくないの?私の男を取らないで!」ロビーの社員や警備員が振り返り、私たちを指さして囁き合った。悠真の顔が真っ青になった。次の瞬間、莉央の頬を強く叩いた。「黙ってくれ!どうかしてるよ!僕と紗月の間に割り込んできたのは莉央だろ!遠距離だと知ってて、僕を誘ったんじゃないか。恋人がいるとわかってて近づいたくせに、よく紗月を責められるね!」悠真は額に青筋を浮かべ、声を限りに怒鳴った。莉央は頬を押さえて床に座り込み、大声で笑い出した。笑いながら、涙まで流していた。「私が誘った?悠真先輩、今さら一途なふりしないでよ。私を抱きながら、電話であの人に嘘をついてたのは誰?『紗月はひとりで何でもできるから僕なんて必要ない。僕がいないと駄目なのは莉央だけだ』って、言ったのは誰よ!自分勝手で、嘘つきで、ただの臆病者じゃない。今さら被害者ぶらないで!」泥の中でもつれ合うように、
同居を始めて3か月目。悠真と莉央は、ますます頻繁に言い争うようになった。悠真に冷たくされ、疎まれるほど、莉央の束縛は強くなった。どうして毎日そんなに仕事があるのか、彼女には理解できない。そばにいないことが、許せなかった。しょっちゅう悠真の席まで様子を見に来て、女性の同僚と話していれば、必ず口を挟む。周りは皮肉交じりに、よくできた奥さんだね、と言っていた。ある夜、とうとう莉央が叫びながら、ローテーブルのカップを悠真の足元へ叩きつけた。「悠真!もう私が嫌になったの?まだ紗月さんのことを考えてるの!?」陶器の破片が足首を切り、血がにじんだ。そのカップは、紗月が大学1年生の時、1か月間アルバイトをして、自分で焼いて贈ってくれた物だった。2人の名前の頭文字が、不揃いな字で刻まれていた。YK&SM。床に散った破片を見つめていると、胸の一部までえぐり取られたようだった。悠真はようやく、自分が何を失ったのか、わかり始めた。震える手でスマホを取り出し、取りつかれたように紗月へ電話をかけた。けれど聞こえるのは、自動案内の冷たい女性の声ばかり。そのたびに打ちのめされた。いくつものSNSから、メッセージを送った。もう返事は来ないかもしれない。そう感じながらも、やめられなかった。【紗月、帰ってきてくれないかな。胃がひどく痛むんだ。紗月が作ってくれたうどんが食べたい。本当に、会いたいよ】【お願い。帰ってきてくれるなら、何でもするから。紗月……】日が過ぎるにつれ、悠真にもわかってきた。紗月は、もう帰ってこない。……その頃、ロンドンの空は晴れ渡っていた。日の差し込む図書館で、私の隣に座っていたのは、同じ研究室の先輩、瀬川怜司(せがわ れいじ)だった。きりっとした横顔に、すっきりとした顎の線。けれど、温かい紅茶を差し出す時の目元はやわらかかった。「紗月、この課題も片づいたし、今夜、食事に誘ってもいい?」顔を上げ、その目を見て微笑んだ。「いいですね。先輩のおごりなら、遠慮しませんよ」彼は無理に話題を探そうとはしなかった。それでも、その夕食ではたくさん話した。仕事のこと、暮らしのこと。そして、私の昔の恋のことも。わかってくれている。受け止めてくれている。私の痛みまで、気にかけてくれている。そう感じた。彼といる
悠真の仕事探しは難航したが、最終的にはある金融グループへの就職が決まった。莉央も彼に合わせ、同じ会社の受付で働き始めた。それでも、金銭的な負担はほとんど悠真の肩にかかっていた。「悠真先輩、紗月さん、まだしばらく拗ねてそうだよね。2部屋分の家賃まで払って、大変でしょ。私、そっちに引っ越してもいい?紗月さんが帰ってきたら、すぐ出ていくって約束するから」莉央に甘えられ、悠真は空っぽのベッドを見た。紗月が出ていって、もう1か月。会いたくて、どうにかなりそうだった。この家に残るわずかな気配まで、別の誰かに塗り替えられたくはない。それでも、寂しさには耐えられなかった。莉央にそばにいてほしかったし、預金残高にも余裕はなかった。迷っていると、莉央が喉元に唇を寄せた。首筋にかかる息がくすぐったくて、悠真は結局、頷いた。莉央は、桃ひとつ食べるにも、悠真が皮をむいてくれなければ口にしない。そんなお姫様気質だった。最初は、それも恋人同士の楽しみだと思っていた。甘えられるのも嬉しかった。けれど一緒に暮らしているうちに、煩わしさのほうが勝っていった。莉央は自分より仕事が楽で、帰りも早い。もう少し家事をしてくれてもいいのに。そう思って帰宅しても、彼女はいつもソファに寝転び、スマホを眺めていた。「悠真先輩、やっと帰ってきた。デリバリー、もう頼んだ?お腹すいた」苛立ちを押し殺し、悠真は袖をまくってキッチンに入った。「毎日、朝から晩までデリバリーばかりなんて嫌なんだよ!」声を荒らげると、莉央の目にすぐ涙が浮かんだ。「だって、作れないんだもん。怒鳴らなくてもいいでしょ?」そのたびに、悠真は諦めたように首を振り、ひとりで料理をした。ひとりきりのキッチンに立っていると、紗月の姿が浮かんだ。遠距離だった頃、彼女の家へ行けば、自分が料理をする時も、紗月は下ごしらえを手伝ってくれた。後ろから抱きついて、『ありがとう』と労ってくれることもあった。あの頃は莉央のことばかり考えていて、紗月と過ごす幸せには気づきもしなかった。当たり前だと、思っていたのだ。「莉央、そろそろ家事も覚えてくれないかな」感情を抑えて静かに言うと、莉央は面倒そうに口を尖らせた。「紗月さんには料理してあげてたんでしょ?なんで私だと、あれこれ要求するの?」紗月の名を聞いて、悠
スーツケースを押してヒースロー空港を出ると、夜風が顔に当たった。頭がずいぶんすっきりした。スマホを開くと、悠真から何十件も着信があった。すべて無視して、母にだけ無事に着いたと連絡した。ロンドンに来てからは、キャンパスに慣れるのも、授業に追いつくのも大変で、新しい部屋の掃除もあった。夜遅くまで勉強する毎日で、ベッドに入ればすぐ眠ってしまうほど、くたくただった。悠真との思い出に浸る暇などなく、彼に期待する気持ちも、とっくに消えていた。なのに、そんな頃になって、夜中に彼からメッセージが届くようになった。初めのうちは、責める言葉ばかりだった。【紗月、いったい何がしたいの?】【莉央とは、あの時ちょっと抑えが利かなかっただけだろ。何日も姿を消すほどのこと?】【紗月のために北陵市の仕事を捨てて、汐央市まで来たんだよ。それでもまだ、そんな態度を取るの?】数日経つと、文面が変わった。【わかったよ、紗月。僕が悪かった。それでいいだろ?】【紗月がまだ僕を好きなのは、わかってるから】【早く帰ってきて。会いたい】やがて毎日、作った料理の写真まで送られてくるようになった。待っている、と。画面の中には、かつて夢見ていた暮らしがあった。ただ、皮肉にしか思えなかった。1週間後、私は一度だけ返信した。【悠真、私たちはもう別れたの。これからは、それぞれ幸せになりましょう】そして、彼の連絡先をすべてブロックした。……画面の文字を見つめていた悠真は、怒りに任せて、おそろいのマグカップを床に叩きつけた。そばにいた莉央が悲鳴を上げた。それでもすぐに近づき、彼の頬にキスをして、甘い声でなだめた。「悠真先輩、そんなに怒らないで。私、心配になっちゃうよ。紗月さんは、私たちがキスしてたのがショックで、隠れてるだけ。あんなに悠真先輩が好きなんだもん。何日かしたら戻ってくるよ」悠真が顔を上げると、部屋にはまだ、高校で撮った2人の写真が飾られていた。制服姿の紗月は悠真の肩に寄り添い、幸せそうに笑っていた。そうだ。あの頃の紗月は、まっすぐに自分を好きでいてくれた。迷いのない声で、こう言っていた。「同じ大学に受からなくても、絶対、悠真の街に行くから。一緒にいたいから」思い出すと、悠真は莉央の髪を撫で、深く頷いた。あんなに自分を好きな紗
莉央は目を赤くして近づき、悠真の服の裾をつかんだ。私に向けた声は震えていた。「紗月さん、私が先輩と離れたくなくて、無理についてきたんです。嫌なら、今すぐ帰ります。迷惑はかけませんから」悠真は眉をひそめた。「莉央、そんなこと言わないで。先に部屋に行って、荷物を片づけておいで」莉央がいなくなると、今度は私を責めるような口調になった。「紗月、もう少し大目に見てあげられない?いつまでもその話を持ち出さないでよ。約束する。今日からは、莉央とちゃんと距離を置くから」私は何も言わなかった。折れたとでも思ったのだろう。悠真は当たり前のように部屋へ入り、荷物を広げ始めた。それでもいい。出国まで、もう数日しかない。これが最後のお別れだと思えばいい。部屋はあっという間に、悠真の物で埋まった。食卓に並んだおそろいのマグカップを見て、自分を笑いたくなった。遠距離が終わる日を、何度夢見ただろう。普通の恋人同士みたいに、ソファでくっついて動画を見たり、スーパーの袋を一緒に下げて帰り、ちょっと豪華な夕飯を作ったり。ようやく叶ったのに、もう心は動かなかった。皮肉なものだ。私はそっと、身の回りの物をスーツケースに詰めていった。悠真は何ひとつ気づかない。昼は仕事を探し、夜はエプロンをつけて私に料理を作った。莉央が一緒に夕飯を食べたいと訪ねてきても、きっぱり断った。「これは紗月のために作ったんだ。莉央の分はないよ」一時は、本当に変わったのかと思った。出発前夜までは。スーパーから戻ると、莉央の部屋のドアが少し開いていた。嫌な予感がした。それでも足が止まらず、中へ入ってしまった。一目見て、その場に凍りついた。悠真は莉央の首をつかんで口づけていた。噛まれた唇に、うっすら血がにじんでいる。息が触れるほどの距離で、悠真が莉央の頬を撫でた。「莉央、この2日間、芝居に付き合わせてごめんね。紗月が警戒しなくなったら、僕たちはずっと一緒にいられるから」莉央は不満そうな目をしながらも、甘い声で囁いた。「悠真先輩といられるなら、平気」言いながら、ドアのところで立ち尽くす私を、挑むように見た。そして悠真に尋ねた。「あの日、紗月さんと一緒に、紗月さんのお母さんに会いに行くはずだったでしょ。お母さん、一晩中待ってたって知ってた?」悠真はす