Mag-log in洗面台の前を陣取っているのは、和也だった。
彼はかれこれ20分以上、鏡の前から動いていない。 美容室専売の高級なヘアワックスを指先に伸ばし、前髪の立ち上がりをミリ単位で調整しているのだ。彼は自分の外見には異常なほどのこだわりを持っている。
「商社マンは第一印象が命だからな」と豪語しているが、その実態は指示待ちの中堅社員に過ぎない。いつものことだった。
私なんて自分の顔に化粧下地を塗る時間すら惜しいというのに。 同じ時間に出勤するはずなのに、なぜこの男はこんなにも優雅な朝を迎えているのか。私だけがこの家の裏方を一手に担っているという、労働量の差を突きつけられたようで、気分が暗くなる。
苛立ちで奥歯を強く噛み締めた。 口の中に苦い味が広がるようだ。「和也、朝ごはんできてるよ。早く食べてね」
棘を含みそうになる声をなんとか平坦に保って、声をかける。
「ああ、わかった」
鏡の中から私をチラリとも見ず、和也は生返事をした。
それから数分後。
完璧に髪型をセットし、シワ一つないワイシャツを着こなした和也が、リビングに現れた。 私が並べた朝食の前にどっかりと腰を下ろす。 彼の手には、当然のようにスマートフォンが握られていた。画面から一切目を離すことなく、和也はのんびりと箸を進める。
ニュースアプリかゲームの画面をスクロールする指先。 タッ、タッと画面をタップする音が、私の神経を逆撫でしていった。「ママ、ごはん!」
「はいはい」
食卓の陽菜がお皿を差し出してきた。
私は自分のために焼いた食パンを一枚口にくわえたまま、陽菜の口に小さくちぎったパンを運んだ。ここまで座る暇もない。
陽菜に食べさせた後は、キッチンの隅で立ったまま、冷めたコーヒーを流し込んだ。 苦味が胃の腑に落ちていく。私が立ったまま慌ただしく食事をかき込んでいる横で、スマホを見ながら優雅に食事を楽しむ夫。
この視覚的なバグに、頭がクラクラしてくる。ふと、陽菜の手元に目をやった。
麦茶の入ったプラスチックのコップが、テーブルの端ギリギリの危うい位置に置かれている。 私は陽菜の口を拭くための布巾を洗っていて、手が離せなかった。「和也さん、陽菜のお茶こぼれそうだから見てて」
すぐ目の前に座っている和也に声をかける。
「あー」
案の定、スマホの画面から目を離さないままの生返事だった。
嫌な予感は、得てして的中するものだ。その数秒後のこと。
次のパンのかけらに手を伸ばした陽菜の腕が、コップに当たった。ガチャン!
鈍い音とともに、コップが傾く。
なみなみと注がれていた冷たい麦茶が、テーブルからフローリングの床へと派手にこぼれ落ちた。「あーあ」
和也は、自分の服やスマホに被害が及ばないようサッと身をかわした。
床に広がる茶色い水たまりを見て、顔をしかめている。「汚いな! 朝から勘弁してくれよ」
苛立った声で、和也はそう吐き捨てた。
こぼれたお茶を拭こうとするそぶりは、一切ない。 足元を濡らさないように、椅子ごと少し後ろへ下がっただけだ。「でも今日話さないと。私だって疲れてる。1人で全部やるのは、もう限界なんだよ」 私の精一杯の訴えを、和也は鼻で笑い飛ばした。「しつこいな! せっかくの飯の後なんだから、ゆっくりさせろよ。お前はいいよな、家で子供と遊んでる時間もあってさ。俺の苦労なんて分かりもしないだろ。文句があるなら俺より稼いでから言えよ」 和也の視線は、一瞬たりとも私に向かなかった。 彼にとって私の言葉は、ゲームの邪魔をする不快なノイズでしかないらしい。 私は何も言えなくなり、またシンクに向き直った。(期待した私が馬鹿だった) ちゃんと言葉を尽くせば伝わるなんて、ただの私の思い上がりだったのだ。 トントン、カチャカチャ。 キッチンの音だけが響く中、ソファの方から和也の苛立った声が飛んできた。「おい、いつまで皿洗ってんだよ。早く風呂の準備しろよ。疲れてんだよ、こっちは。明日も早いんだ」 また始まった。 私は洗っていた皿を一度置き、濡れた手をタオルで拭いてから、リビングを振り返った。「……お風呂くらい、自分で入れてよ。お湯を張るボタンを押すだけでしょ? 私は今、片付けと陽菜の世話で手一杯なの」 努めて声を荒らげず、けれどはっきりと言い返した。 すると和也は、あからさまに大きな舌打ちをした。嫌な音だった。「チッ……。気が利かねえな。主婦のくせに、それくらいのこともできないのかよ。何のために俺が外で働いてると思ってるんだ?」 和也は指一本動かそうとしない。 不機嫌さを隠そうともせず、ソファの背もたれをドンドンと叩いて抗議の意を示している。 その光景に、私は眩暈がした。 朝の決意が、少しずつ、けれど確実に削り取られていく。 あの時は「今夜、ちゃんと話し合おう」と思っていた。 ちゃんと言葉を尽くせば、分かってくれるはずだと。 けれど今のリビングに漂う空気は、そんな私の淡い期待を嘲
3月の夜の空気は、昼間の日差しが嘘だったみたいに、ひんやりと冷たい。 窓の外では、街路樹の桜がようやくつぼみを膨らませ始めている。 あと1週間もすれば、世間は浮かれたお花見ムードに包まれるんだろう。けれどこの家の中に流れている空気は、春というにはあまりにも重くて、冷え切っていた。 シンクに溜まった食器を、私は無言で洗い続けていた。 さっきの和也の言葉が、耳の奥で何度もリピートされる。『俺は450万、お前は400万だろうが!』『文句があるなら俺より稼いでから言えよ』 ……マジか。 というか、そのたった50万の差が、彼の中では「家事と育児をすべて免除される許可証」に変換されているらしい。 仕事先のクライアントにそんな理屈を並べたら、秒で契約を切られるレベルの暴論だ。 洗剤の泡が、和也の食べた野菜炒めのギトギトした油を包み込んでいく。私の心にこびりついたこの不快な感情も、この泡みたいに綺麗に流せればいいのに。 でも現実はそうはいかなくて、私の心に溜まった思いは流れていってくれない。 カチャカチャと皿を重ねる音が、静かなキッチンに虚しく響く。 リビングの方からは、和也が夢中になっているスマホゲームの音楽が聞こえていた。今の私にとっては、耳障りな音だった。「パパ、あのね、みて。これね、お城だよ」 陽菜が、プラスチックのブロックを持って和也に近づいていった。 夕食の時、あんなに冷たくあしらわれたのに。 3歳児の純粋さというか、父親に対する無条件の愛情は、見ているこちらが痛々しくなるほどまっすぐだ。「……ああ、すごいな。あっちで遊んでろ」 和也は、画面から少しも視線を動かさない。 彼が今やっているのは、期間限定のレイドイベントとかいうやつらしい。さっきから必死に親指を動かして、派手なエフェクトが出るたびに「よし!」とか「チッ、外した」とか、一喜一憂している。 私や陽菜が何を話しかけても和也は「ふーん」しか言わない。それなのに画面の中のモンスター相手にはこれほど情熱を傾けるな
「パパ、あのね!きょうね、ほいくえんで、さくらのおはな、みたよ!」 陽菜が嬉しそうに、今日あった出来事を話し始める。 散歩の途中で見つけた桜のこと。もうすぐ満開だねって先生が言ったこと。 小さな胸を躍らせて一生懸命に話す娘に対して、和也は一瞥もくれない。「……ふーん」「パパ、きいてる? ピンクで、とってもきれいだったの!」「聞いてるよ。うるさいな、静かに食べろよ。今、大事なイベント中なんだから。お前が喋ると集中できないだろ」 和也の視線は、ずっとスマホの画面に向けられている。 一生懸命にお話しをしていた陽菜の顔が、しゅんとなった。 私は胸が締め付けられる思いで、陽菜の頭をそっと撫でた。「ママ、ちゃんと聞いてるよ。桜、きれいだったね。明日もママといっしょに見ようね?」「うん……。あしたね、また、せんせいとみる」 陽菜はそれ以上、話そうとはしなかった。 ただ黙々と、小さなお口におにぎりを運ぶ。 食卓には、カチャカチャという食器の音と、スマホから流れる単調なBGMだけが虚しく響く。 和也はあっという間に自分の分を平らげると、空になった皿をそのままにしてガタリと席を立った。「ふぅ。あと風呂な」 当然のように言い捨てて、彼はまた吸い寄せられるようにソファへ戻っていった。 目の前には、食べかすのついた皿、飲みかけのコップ、散らかった箸。 それらはすべて、最初からそこに存在しなかったかのように、彼の意識からは消え去っている。 いつもこれだ。和也は一度だって食器を下げることすらしない。「……和也。いつも言っているけど、自分の食器くらい下げてよ」 返事はない。聞こえるのはスマホゲームの音だけだ。 これもまた、いつものことだった。 そこへ、陽菜が自分の小さなプラスチックの皿を持って、よいしょと立ち上がった。「ひな、お手伝いする
カチンと来る。 あまりにも当然のように投げつけられた言葉に、指先がピクリと動いた。「じゃあ、男の仕事って何? あなた、今日家で何をしてたの?」 思わず言い返すと、和也は今度こそスマホを置いた。馬鹿にしたような笑みを浮かべる。「外で働いて稼ぐことに決まってるだろ」「私だってフルタイムで働いているわ。あなたと変わらないくらい」「はあ? 俺の方が年収高いだろ。俺は450万、真由美は400万だろうが!」 和也は胸を張って、勝ち誇ったように言い切った。 たった50万の差である。 税金を引かれたら、月の手取りなんて数万円の違いしかない。(だいたい私の年収が低めなのは、陽菜を産んで産休育休の後、しばらく時短勤務をしていたからなのに!) いくら男女平等の社会をうたっていても、そうしたブランクがあれば不利に決まっている。 時短勤務時に和也の協力があれば、昇進だって諦めずに済んだかもしれないのに。 それなのに、まるで自分だけがこの家を支えている王様のようなふんぞり返っている。 というか、その私の400万に、家事と育児の24時間営業が上乗せされているという計算は、彼の頭の中には存在しないらしい。 マジか。本気で言っているのか。 言い返す言葉は喉まで出かかっていたけれど、足元で陽菜が私の服を引っ張った。「ママ、おなか、ぺこぺこ……。ごはん、まだぁ?」 小さな声と、潤んだ瞳。 ここで言い争いを始めても、虚しさが募るだけだ。 私は奥歯を強く噛み締め、煮えくり返るような怒りを無理やり飲み込んだ。「すぐ作るからね。待ってて」 ため息1つ。私はキッチンへ向かった。 ダイニングテーブルの上には、朝放置されたままのマグカップが、コーヒーの輪染みを作って残っている。 廊下には、和也がさっきまで履いていたであろう靴下が、丸まったまま転がっていた。 洗濯カゴ、そこから歩いて3歩なんだけど! この数メートルに、
(残業になってしまった。急がないと) 都心のオフィスビルを飛び出した私は、駅までの道を小走りに進んでいた。 冬の入り口の冷たい風が、汗ばんだ首筋を容赦なく冷やしていく。 頭の中にあるのは、1分1秒を争う分刻みのスケジュールだけだ。 この電車に乗れなければ、保育園の延長料金が発生する。 それ以上に、お迎えが最後の1人になって寂しい思いをしているであろう陽菜の顔が浮かび、胸がちりちりと痛む。 飛び乗った電車は満員だった。 ぎゅうぎゅう詰めの電車に揺られ、他人の肩に押しつぶされそうになりながら、私は必死にスマホで献立を検索していた。 遅れてしまった以上、スーパーで買い物する時間の余裕はない。 冷蔵庫にあるのは、豚肉の細切れとキャベツ、それに卵が数個。 和也が「メインのおかずがない」と文句を言わない程度のボリュームで、かつ15分で作れるもの。 夕暮れの中、お迎えの人もまばらになった保育園に駆け込む。 先生に頭を下げ、脱いだ服やオムツのゴミが入った重いカバンを受け取った。 「ママぁ!」 私を見つけた瞬間、陽菜の顔がパッと花が咲いたように明るくなる。 その笑顔を見るだけで、仕事の疲れなんて全部吹き飛ぶ……なんてことはないけれど、少なくとも「また明日も頑張ろう」というエネルギー源にはなる。「ごめんね、陽菜ちゃん。ちょっと残業になっちゃって」「んー、いいよ。はやくかえろ」 私は陽菜を抱き上げて、重いカバンを肩に食い込ませながら、暗くなった道を急いだ。 我が家の玄関にたどり着く頃には、時刻は午後6時30分を回っていた。「ママ、おなかすいたよー」「もうちょっとだけ待ってね。すぐにご飯、作るから」 廊下は暗いままだ。 空腹でぐずる陽菜を抱きかかえて、暗闇の中を手探りで進む。 突き当たりのリビングからはテレビの光と、スマホゲームの能天気な音が漏れ聞こえていた。「ただいま…&hell
(残業になってしまった。急がないと) 都心のオフィスビルを飛び出した私は、駅までの道を小走りに進んでいた。 冬の入り口の冷たい風が、汗ばんだ首筋を容赦なく冷やしていく。 頭の中にあるのは、1分1秒を争う分刻みのスケジュールだけだ。 この電車に乗れなければ、保育園の延長料金が発生する。 それ以上に、お迎えが最後の1人になって寂しい思いをしているであろう陽菜の顔が浮かび、胸がちりちりと痛む。 飛び乗った電車は満員だった。 ぎゅうぎゅう詰めの電車に揺られ、他人の肩に押しつぶされそうになりながら、私は必死にスマホで献立を検索していた。 遅れてしまった以上、スーパーで買い物する時間の余裕はない。 冷蔵庫にあるのは、豚肉の細切れとキャベツ、それに卵が数個。 和也が「メインのおかずがない」と文句を言わない程度のボリュームで、かつ15分で作れるもの。 夕暮れの中、お迎えの人もまばらになった保育園に駆け込む。 先生に頭を下げ、脱いだ服やオムツのゴミが入った重いカバンを受け取った。 「ママぁ!」 私を見つけた瞬間、陽菜の顔がパッと花が咲いたように明るくなる。 その笑顔を見るだけで、仕事の疲れなんて全部吹き飛ぶ……なんてことはないけれど、少なくとも「また明日も頑張ろう」というエネルギー源にはなる。「ごめんね、陽菜ちゃん。ちょっと残業になっちゃって」「んー、いいよ。はやくかえろ」 私は陽菜を抱き上げて、重いカバンを肩に食い込ませながら、暗くなった道を急いだ。 我が家の玄関にたどり着く頃には、時刻は午後6時30分を回っていた。「ママ、おなかすいたよー」「もうちょっとだけ待ってね。すぐにご飯、作るから」 廊下は暗いままだ。 空腹でぐずる陽菜を抱きかかえて、暗闇の中を手探りで進む。 突き当たりのリビングからはテレビの光と、スマホゲームの能天気な音が漏れ聞こえていた。「ただいま……」 ドアを閉めて言ってみたけれど、返事はない。 ソファに寝そべったままの和也が、ちらりとこちらに視線を向けただけだ。 光る画面に照らされた彼の横顔は、まるでお客様のように無責任で、気楽そうだった。「遅い。俺の飯まだ? 腹減ったんだけど」 開口一番、それだった。 ねぎらいも、おかえりも、何もない。 和也は私の顔を一度見ただけで