LOGIN「……っ」
怒りで、持っていた布巾を握りしめる手にギリギリと不自然なほど力がこもる。
なぜ、あなたが被害者ぶっているのか。
私が「見てて」と頼んだのに、あなたはスマホから目を離さなかったではないか。 コップをちょっとよけておくとか、そんなことくらいでよかったのに。 そもそも子供の横で食事をしているのだから、少しは気を配ってくれてもいいはずだ。言い返す言葉は山ほどあったけれど、今は時間がない。
言い争いをしている暇など、1秒たりともないのだ。私は無言で雑巾を引っ掴み、四つん這いになって床の麦茶を拭き上げる。
冷たい麦茶がフローリングに広がり、無残な水たまりを作っている。 雑巾が水を吸い込み、ずっしりと重くなる。 それをバケツに絞るたび、私の気力も一緒に絞り出されていくような気がした。「早く片付けろよ。床が濡れたら、俺の靴下まで汚れるだろ」
頭上から、和也の理不尽な舌打ちの音が降ってくる。
チッ、というその音は、私の心を確実に削っていった。妻が床に這いつくばって掃除をしている真横で、夫は足をどけようともしない。
スマホの画面をスクロールし続けている。ふと彼の靴下が目に入った。ピカピカに洗濯された、ブランド物の靴下だった。
もちろん夫の靴下もワイシャツも、私が洗濯したものだ。 それを当然のように身につけて、何とも思っていない。 洗濯した妻が床掃除をしていても、手伝う素振りさえ見せない。この人は私の労働を私の苦労を、一切見ていないのだ。
家事も育児も、すべて「妻が自動的にやってくれるもの」と思い込んでいる。「大変。もうこんな時間!」
床を拭き終えて立ち上がった時には、出発の時間が刻一刻と迫っていた。
今日は火曜日。燃えるゴミの日だ。 これを逃せば、週末まで生ゴミを抱えて過ごさなければならない。私は家中のゴミ箱を抱えて、廊下を小走りで往復した。
キッチンの生ゴミは、水切りネットごとぎゅっと水分を絞る。 洗面所のゴミ箱からは、和也が使ったであろう綿棒やティッシュ、何かのパッケージのゴミを回収する。 リビングのゴミ箱からは、陽菜のお菓子の包み紙や、和也が読み散らかしたダイレクトメールの紙くずを集めた。指定の45リットルゴミ袋に、かさばるゴミをこれでもかと体重をかけて押し込んでいく。
よし、まだ入る。まだいける。 限界まで詰め込んだところで、持ち運びしやすいように口を十字に固く縛り上げた。カサカサ、ギシギシ。
ビニールがこすれ合う音が響いた。 持ち上げた瞬間、指の関節にズッシリとした重みが食い込んだ。 朝から無駄に体力を使っていることへの徒労感が、肩に重くのしかかる。 それでもパンパンに膨れ上がったゴミ袋を見て、「よし、ミッション完了」と達成感を無理やりひねり出した。私はその重いゴミ袋を両手で持って、玄関へ向かった。
玄関のど真ん中、絶対に目に入る位置にドンと置く。
ここなら、靴を履く時に絶対に邪魔になるはずだ。 嫌でも目に入るだろう。今日の朝、玄関でゴミ袋を避けられた時。 私はまだ「今夜、ちゃんと向き合って話せば分かってくれるはず」なんて、おめでたいことを考えていた。 ちゃんと言葉を尽くせば、この冷え切った空気も春の陽気みたいに解けるかもしれない。 そんな、お花畑のような希望を抱いていた。 けれど、それは私の独りよがりな幻想でしかなかった。 家事が見えていないだけなら、教えればいい。 育児の大変さが分からないなら、伝えればいい。 そう思っていた。 でも、あの男は違う。 自分のゲームの楽しみのために、無邪気に甘えてきた実の娘を、汚れたゴミ袋と同じように「邪魔なもの」として払いのけたのだ。 娘の涙も私の痛みも、この人にとってはゲームの邪魔をするノイズに過ぎない。 私に負担がかかるのは、まだ耐えられる。 私は大人だからだ。 でも陽菜は、まだたったの3歳。 こんな小さな子を、実の娘を守ってやらなくてどうするのか。 陽菜を傷つける人間は、誰であろうと許せない! 喉の奥がヒリヒリと熱い。 けれど不思議と涙は出なかった。 ただ心の芯の部分が、急速に冷えていく感覚だけがあった。 さっきまであった怒りが、もっと静かでもっと深い虚無へと変わっていく。「……いいよ、陽菜ちゃん。もう、泣かなくていいからね」 私は陽菜を抱きしめたまま、優しく一定のリズムで背中をさすった。 陽菜の震えが少しずつ収まっていく。「パパ……いっちゃった?」「ええ、あっちに行ったわ。もう大丈夫。ママがずっと、そばにいるからね」 私は陽菜の涙を指でそっと拭った。 泣きはらした赤い目が、私を見上げている。 この子を二度と、あんな男に脅かさせたりはしない。 今まで、私は和也に対して「どうすれば分かってくれるんだろう」という方向にばかりエネルギーを使っていた。 けれど、そんなのは時間と気力の無駄遣いだったのだ。
「あー、もう! 負けたじゃねえか! クソッ!」 画面の中でキャラクターが倒れたのか、和也が怒鳴り声を上げた。 そして。 自分の裾を掴んでいた陽菜の小さな手を、和也の右手が無造作に、払いのけるように動いた。 ペチッ。 リビングに、嫌な音が響いた。 陽菜の手が弾かれ、不意を突かれた小さな体がぐらりと揺れる。 陽菜はそのままフローリングの床に、ドスンと尻もちをついた。「……っ!」 私は一気に血の気が引いていくのが分かった。「え……ええーん! パパ、いたい、いたいよう……!」 一拍おいて、陽菜が火がついたように泣き出した。 3歳の子供にとってお尻を打った痛み以上に、大好きなパパに拒絶されたショックは計り知れない。 大きな瞳から涙がボロボロとあふれて、真っ赤になった頬を濡らしていく。 けれど。 その泣き声を聞いてもなお、和也はスマホを握りしめたまま、忌々しそうに舌打ちをした。「……チッ、いきなり泣くなよ。うぜえな」「和也! 今、何したの!」 私は叫ぶように言いながら、キッチンを飛び出した。 床に座ったまま泣きじゃくる陽菜を、慌てて抱きしめる。「はあ? 見りゃ分かんだろ。俺はただ、邪魔だから手を退かそうとしただけだ。勝手にバランス崩して転んだあいつが悪いんだよ」 和也は、悪びれる様子もなく言い放った。 床で泣いている娘の方を見ようともせず、手元のスマホをリセットするように操作している。「子供相手に、何てことするのよ……。陽菜、大丈夫? 痛かったね、ごめんね」「いたい……。パパ、こわい……っ」 陽菜の声が震えている。抱きしめた体は頼りない。 3月の夜の寒さのせいじゃない。これは、恐怖による震えだ。 しかし和也はまたしても舌打ちをした。「怖いだって? 怖くさせたのは誰だよ。俺は疲れて帰ってきて、1人でゆっくりゲームもさせてもらえないのか? 何のためにこの家を買ったと思って
「でも今日話さないと。私だって疲れてる。1人で全部やるのは、もう限界なんだよ」 私の精一杯の訴えを、和也は鼻で笑い飛ばした。「しつこいな! せっかくの飯の後なんだから、ゆっくりさせろよ。お前はいいよな、家で子供と遊んでる時間もあってさ。俺の苦労なんて分かりもしないだろ。文句があるなら俺より稼いでから言えよ」 和也の視線は、一瞬たりとも私に向かなかった。 彼にとって私の言葉は、ゲームの邪魔をする不快なノイズでしかないらしい。 私は何も言えなくなり、またシンクに向き直った。(期待した私が馬鹿だった) ちゃんと言葉を尽くせば伝わるなんて、ただの私の思い上がりだったのだ。 トントン、カチャカチャ。 キッチンの音だけが響く中、ソファの方から和也の苛立った声が飛んできた。「おい、いつまで皿洗ってんだよ。早く風呂の準備しろよ。疲れてんだよ、こっちは。明日も早いんだ」 また始まった。 私は洗っていた皿を一度置き、濡れた手をタオルで拭いてから、リビングを振り返った。「……お風呂くらい、自分で入れてよ。お湯を張るボタンを押すだけでしょ? 私は今、片付けと陽菜の世話で手一杯なの」 努めて声を荒らげず、けれどはっきりと言い返した。 すると和也は、あからさまに大きな舌打ちをした。嫌な音だった。「チッ……。気が利かねえな。主婦のくせに、それくらいのこともできないのかよ。何のために俺が外で働いてると思ってるんだ?」 和也は指一本動かそうとしない。 不機嫌さを隠そうともせず、ソファの背もたれをドンドンと叩いて抗議の意を示している。 その光景に、私は眩暈がした。 朝の決意が、少しずつ、けれど確実に削り取られていく。 あの時は「今夜、ちゃんと話し合おう」と思っていた。 ちゃんと言葉を尽くせば、分かってくれるはずだと。 けれど今のリビングに漂う空気は、そんな私の淡い期待を嘲
3月の夜の空気は、昼間の日差しが嘘だったみたいに、ひんやりと冷たい。 窓の外では、街路樹の桜がようやくつぼみを膨らませ始めている。 あと1週間もすれば、世間は浮かれたお花見ムードに包まれるんだろう。けれどこの家の中に流れている空気は、春というにはあまりにも重くて、冷え切っていた。 シンクに溜まった食器を、私は無言で洗い続けていた。 さっきの和也の言葉が、耳の奥で何度もリピートされる。『俺は450万、お前は400万だろうが!』『文句があるなら俺より稼いでから言えよ』 ……マジか。 というか、そのたった50万の差が、彼の中では「家事と育児をすべて免除される許可証」に変換されているらしい。 仕事先のクライアントにそんな理屈を並べたら、秒で契約を切られるレベルの暴論だ。 洗剤の泡が、和也の食べた野菜炒めのギトギトした油を包み込んでいく。私の心にこびりついたこの不快な感情も、この泡みたいに綺麗に流せればいいのに。 でも現実はそうはいかなくて、私の心に溜まった思いは流れていってくれない。 カチャカチャと皿を重ねる音が、静かなキッチンに虚しく響く。 リビングの方からは、和也が夢中になっているスマホゲームの音楽が聞こえていた。今の私にとっては、耳障りな音だった。「パパ、あのね、みて。これね、お城だよ」 陽菜が、プラスチックのブロックを持って和也に近づいていった。 夕食の時、あんなに冷たくあしらわれたのに。 3歳児の純粋さというか、父親に対する無条件の愛情は、見ているこちらが痛々しくなるほどまっすぐだ。「……ああ、すごいな。あっちで遊んでろ」 和也は、画面から少しも視線を動かさない。 彼が今やっているのは、期間限定のレイドイベントとかいうやつらしい。さっきから必死に親指を動かして、派手なエフェクトが出るたびに「よし!」とか「チッ、外した」とか、一喜一憂している。 私や陽菜が何を話しかけても和也は「ふーん」しか言わない。それなのに画面の中のモンスター相手にはこれほど情熱を傾けるな
「でも今日話さないと。私だって疲れてる。1人で全部やるのは、もう限界なんだよ」 私の精一杯の訴えを、和也は鼻で笑い飛ばした。「しつこいな! せっかくの飯の後なんだから、ゆっくりさせろよ。お前はいいよな、家で子供と遊んでる時間もあってさ。俺の苦労なんて分かりもしないだろ。文句があるなら俺より稼いでから言えよ」 和也の視線は、一瞬たりとも私に向かなかった。 彼にとって私の言葉は、ゲームの邪魔をする不快なノイズでしかないらしい。 私は何も言えなくなり、またシンクに向き直った。(期待した私が馬鹿だった) ちゃんと言葉を尽くせば伝わるなんて、ただの私の思い上がりだったのだ。 トントン、カチャカチャ。 キッチンの音だけが響く中、ソファの方から和也の苛立った声が飛んできた。「おい、いつまで皿洗ってんだよ。早く風呂の準備しろよ。疲れてんだよ、こっちは。明日も早いんだ」 また始まった。 私は洗っていた皿を一度置き、濡れた手をタオルで拭いてから、リビングを振り返った。「……お風呂くらい、自分で入れてよ。お湯を張るボタンを押すだけでしょ? 私は今、片付けと陽菜の世話で手一杯なの」 努めて声を荒らげず、けれどはっきりと言い返した。 すると和也は、あからさまに大きな舌打ちをした。嫌な音だった。「チッ……。気が利かねえな。主婦のくせに、それくらいのこともできないのかよ。何のために俺が外で働いてると思ってるんだ?」 和也は指一本動かそうとしない。 不機嫌さを隠そうともせず、ソファの背もたれをドンドンと叩いて抗議の意を示している。 その光景に、私は眩暈がした。 朝の決意が、少しずつ、けれど確実に削り取られていく。 あの時は「今夜、ちゃんと話し合おう」と思っていた。 ちゃんと言葉を尽くせば、分かってくれるはずだと。 けれど今のリビングに漂う空気は、そんな私の淡い期待を嘲笑っているかのようだった。 話し合えば、何かが変わる? この人に言葉を尽くせば、私の痛みが一ミリでも伝わる? 洗剤で滑りやすくなったお皿を握りしめ、私は奥歯を噛んだ。 もう、この人に多くを期待するのはやめよう。 期待するから、腹が立つ。 分かってくれると思うから、裏切られた時に心が折れる。 この人は、ただの「同居人」だ。 それもとても手のかかる、教育の
「パパ、あのね!きょうね、ほいくえんで、さくらのおはな、みたよ!」 陽菜が嬉しそうに、今日あった出来事を話し始める。 散歩の途中で見つけた桜のこと。もうすぐ満開だねって先生が言ったこと。 小さな胸を躍らせて一生懸命に話す娘に対して、和也は一瞥もくれない。「……ふーん」「パパ、きいてる? ピンクで、とってもきれいだったの!」「聞いてるよ。うるさいな、静かに食べろよ。今、大事なイベント中なんだから。お前が喋ると集中できないだろ」 和也の視線は、ずっとスマホの画面に向けられている。 一生懸命にお話しをしていた陽菜の顔が、しゅんとなった。 私は胸が締め付けられる思いで、陽菜の頭をそっと撫でた。「ママ、ちゃんと聞いてるよ。桜、きれいだったね。明日もママといっしょに見ようね?」「うん……。あしたね、また、せんせいとみる」 陽菜はそれ以上、話そうとはしなかった。 ただ黙々と、小さなお口におにぎりを運ぶ。 食卓には、カチャカチャという食器の音と、スマホから流れる単調なBGMだけが虚しく響く。 和也はあっという間に自分の分を平らげると、空になった皿をそのままにしてガタリと席を立った。「ふぅ。あと風呂な」 当然のように言い捨てて、彼はまた吸い寄せられるようにソファへ戻っていった。 目の前には、食べかすのついた皿、飲みかけのコップ、散らかった箸。 それらはすべて、最初からそこに存在しなかったかのように、彼の意識からは消え去っている。 いつもこれだ。和也は一度だって食器を下げることすらしない。「……和也。いつも言っているけど、自分の食器くらい下げてよ」 返事はない。聞こえるのはスマホゲームの音だけだ。 これもまた、いつものことだった。 そこへ、陽菜が自分の小さなプラスチックの皿を持って、よいしょと立ち上がった。「ひな、お手伝いする