LOGIN「おじいさんたちは、久恵さんを警戒していたんだ」
「お義母様を……?」
香子は驚いて勇樹を見た。
「昔から、あまり信用していなかったみたいだね。財産にも触れさせないようにしていた」
「そんなこと、知りませんでした……」
「香子のお父さんが亡くなってからは、もっと慎重になったみたいだ」
「それで……私に?」
「ああ。今も十億円は、ちゃんと香子のために残ってる」
香子は俯いた。
久恵は、そのことをずっと香子に隠していた。
それなのに、美紗は知っていた。
『あんたさえいなくなれば、全部、私のものになるのよ』
昨夜の言葉が蘇る。
祖父母が久恵を警戒していた。
昨日までなら、その理由を香子は理解できなかったかもしれない。
けれど今は違う。
自分に残された十億円の存在を知らされないまま、美
その日の夕方。撮影を終えた勇樹が控室へ戻ると、マネージャーが待っていた。「お疲れさまです」「お疲れ。何かあった?」差し出されたタブレットには、見覚えのない写真が表示されていた。制服姿の香子。その手を、男子生徒が握っている。勇樹の表情が変わった。「……またか」「今日公開された記事です」記事には、学生時代の香子が交際していない男子生徒と手をつないでいた、と書かれている。さらに、美紗の言葉まで添えられていた。《お付き合いしていなくても、男の方とこういうことってするものなんでしょうか》「交際していなかったことまで、記事に書いてあるじゃないか」「ええ」それなのに、見出しは《“手つなぎ写真”》。コメント欄では、まるで香子が次々と男性を渡り歩いていたかのように語られている。勇樹は眉を寄せた。「美紗は、この写真をどこから手に入れてるんだ?」「それについては確認しています」マネージャーは淡々と答えた。「勇樹さんは、今まで通り何も発信しないでください」「分かった」勇樹はタブレットを返した。けれど、その表情から険しさは消えなかった。帰宅すると、香子はリビングにいた。「おかえりなさい」いつものように迎えてくれる。けれど、テーブルの上には開いたままのタブレットがあった。勇樹はすぐに気づいた。「見たの?」「……はい」香子は小さく頷いた。画面には、あの記事が表示されている。「この写真、覚えてる?」「覚えています」意外にも、返事はすぐだった。香子は写真を見つめた。「文化祭で、ゲームをすることになったんです」
香子の手を、男子生徒が握っている。美紗は写真を拡大した。今までの写真とは違う。ただ隣に立っているだけではない。二人の手は、はっきりと重なっていた。《この人は誰ですか?》すぐに返信が来る。《あー懐かしい!》《同じクラスの子ですよ》《これ何してたときでしたっけ?》少し間が空いた。《なんだったかな笑》《たぶん文化祭の準備中?》《みんなで廊下でなんかやってたときだと思います》美紗は眉を寄せた。《二人、付き合ってたんですか?》《いや、それはないと思いますよ》また。どうして誰も、香子の悪い話をしてくれないのだろう。けれど、美紗はもう一度写真を見た。理由が何であれ、手を握っていることに変わりはない。美紗は写真を保存すると、すぐに記者へ送った。数時間後。記者から電話がかかってきた。『これは、また学生時代のお写真ですか?』「はい。以前の方が送ってくださって」『手をつないでいますね』「そう見えますよね」『この男性とは、どういう関係だったんでしょう』「同じクラスだった方みたいです」『交際は?』「していなかったそうです」記者は一瞬、黙った。「ただ……」美紗は写真を見ながら続けた。「お付き合いしていなくても、男の方とこういうことってするものなんでしょうか」『どうでしょうね』「すみません。私、あまりそういうことに詳しくなくて」『いえいえ』記者は笑いを含んだ声で答えた。『学生時代なら、いろいろありますからね』「そうですよね。変なことを聞いてしまって」『ちなみに、何をしているところかは分かりますか?』
美紗は、写真に写っていた女子生徒の名前を検索した。すぐに、それらしいアカウントが見つかる。名前も同じ。顔写真には、学生時代の面影が残っていた。投稿されているのは、仕事や旅行、友人との食事。香子の姿は見当たらない。美紗は少し考えてから、メッセージを送った。《突然申し訳ありません。鷹宮美紗と申します》《もしかして、学生時代に姉の香子と仲良くしてくださっていた方でしょうか?》返事が来たのは、一時間ほど経ってからだった。《はい、そうです》《香子ちゃんの妹さんですよね?》美紗の口元が緩んだ。《はい。昔の写真を見ていたら、お姉さまと一緒に写っていらしたので》《最近、姉とは連絡を取っていますか?》しばらくして、返信が届いた。《取ってないです》《そうなんですね》美紗はすぐに続ける。《姉が突然家を出てしまって、私たちも心配しているんです》《もし何かご存じでしたらと思って》《ごめんなさい。最近のことは何も知らないです》美紗は唇を尖らせた。それでは何の役にも立たない。《学生時代のお姉さまは、どんな感じでしたか?》《最近いろいろ書かれているので、私も心配で……》今度は少し間が空いた。《普通に優しい子でしたよ》美紗の表情が消えた。《おとなしかったけど、仲良くなると結構笑うし》《私、よくノート見せてもらってました笑》期待していた答えとは、まるで違う。美紗は画面を睨みながら、さらに文字を打った。《男の人とも仲が良かったんでしょうか?》《男子とも普通に話してましたよ》《誰かと付き合っていたとかは?》《私が知ってる限りはいなかったと思います》美紗の指が止まった。週刊誌の
「お父さまって、そんなに人付き合いが上手だったんですね」夕食を終えたあとも、香子はアルバムを眺めていた。父が亡くなってから、何度も見たはずの写真。それなのに、勇樹から話を聞いたあとでは、少し違って見える。「うん。俺がまだ全然売れてなかった頃も、会うたびに声をかけてくれたよ」「何をお話ししていたんですか?」「仕事のこととか。あとは、香子のこと」「私?」香子が顔を上げる。「香子がピアノを習い始めたとか、学校で賞をもらったとか」「そんなことまで……」「結構、自慢してたよ」知らなかった。家にいる父は、優しかったけれど、口数の多い人ではなかった。だから、自分のことを外でそんなふうに話していたなんて考えたこともない。香子は写真の中の父を指先でそっとなぞった。「なんだか、不思議です」「何が?」「私の知らないところにも、お父さまの人生があったんだなって」勇樹は静かに頷いた。「そりゃ、あるだろうね」「そうですよね」当たり前のことなのに、今まで考えたこともなかった。香子はページをめくる。若い父が、祖父母の家の庭で大勢の人と笑っている写真があった。母もいる。祖父母もいる。香子自身も、少し離れたところに写っていた。「この日は覚えています」「俺もいたよ」「え?」香子は写真へ顔を近づけた。「どこですか?」「たぶん次のページ」勇樹がめくると、端のほうに若い勇樹が写っていた。今よりずっと幼く、まだ世界的スターになる前の顔。香子は思わず笑った。「本当です。勇樹お兄ちゃん、若いですね」「それはお互いさまだろ」「私は子供ですもの」「俺だって十
「……お父さま?」美紗は、送られてきた写真を拡大した。間違いない。今よりずっと若いけれど、父だった。制服姿の香子の隣で、穏やかに笑っている。《この写真、いつのものですか?》《たぶん高校の入学式です!》《校門のところでみんな写真撮ってて》続けて、別の写真が届いた。今度は数人の生徒と、その家族らしい大人たちが一緒に写っている。その端にも、香子と父がいた。《お父さん若いですね笑》何気ない言葉だった。けれど、美紗は返事をする気になれなかった。写真の中の父は、香子の肩に手を添えている。ただ、それだけ。父親なら当たり前のことなのかもしれない。それでも、胸の奥がざわついた。美紗には、こんな写真はなかった。父と並んだ入学式の写真も。学校へ来てもらった記憶も。――どうして。また、香子ばかり。祖父母にも大切にされて。父にも大切にされて。十億円もの財産を残されて。今は、来栖勇樹にまで守られている。美紗は唇を噛んだ。《ほかにも、お父さまと写っている写真はありますか?》《あるかな? 探してみますね!》相手は相変わらず楽しそうだった。しばらくして、何枚か写真が届く。学校行事。校門。保護者が集まる体育館。その中に、父の姿が何度かあった。《香子さんのお父さん、結構学校来てましたよ》美紗の指が止まる。「……何よ、それ」自分は知らなかった。香子がどんな学校生活を送っていたのか。父が、香子のためにどれだけ学校へ足を運んでいたのか。何も。「ずるい……」低い声が漏れた。そのとき、部屋の外から久恵の声がした。「美紗? いるの?」美紗はスマートフォンを握ったまま、部屋を飛び出した。「お母さま」「何よ。朝から」「これ」リビングにいた久恵へ、スマートフォンを突きつける。久恵は面倒そうに画面を見た。「お父さま、お姉さまの学校にはこんなに行ってたの?」「昔のことでしょう」「私のときは来てくれなかったじゃない!」久恵の表情がわずかに強張った。「仕方ないでしょう。あの頃とは事情が違ったのよ」「何が違うの?」「あなたのお父さまは忙しかったの」「お姉さまのときだって忙しかったでしょ!」久恵は苛立ったように息を吐いた。「朝から大声を出さないでちょうだい」「だって!」「そんな昔の写真なんて、どうでもいい
美紗は、送られてきた写真を何度も拡大した。香子と男子生徒。その手には、小さな紙袋。《香子さん、チョコ配ってたから》元同級生から届いた言葉を見つめる。《何人くらいに配ってたんですか?》《どうだったかなー》《クラスの子に何人か配ってたと思います!》《女子にも配ってたかも笑》美紗は少し考えてから、さらに尋ねた。《この男の人からだけ、お返しをもらったんですか?》《いやいや、ほかの男子も返してたと思いますよ》欲しかった答えではない。けれど、美紗は写真を保存した。事実など、すべて伝える必要はない。嘘をつかなければいいのだから。以前の記者へ写真を送ると、すぐに電話がかかってきた。『また昔のお写真ですか?』「はい。先日写真をくださった方が、ほかにも送ってくださって」『これは?』「バレンタインのお返しをいただいているところみたいです」『なるほど』記者は写真を拡大した。『香子さんは、この男性にチョコレートを?』「そうみたいですね」『本命だったんでしょうか?』「それは分かりません」美紗は柔らかな声で答えた。「お姉さまが誰にどんな気持ちで渡したのかまでは、私には……」『ほかの男性にも?』「何人かには渡していたみたいです」『そうですか』記者の声は変わらない。「でも、学生なら普通ですよね。バレンタインくらい」『ええ、もちろん』「こんな写真、記事にはならないでしょうか?」『それはこちらで判断します』「そうですよね。すみません」『いえ。貴重なお写真をありがとうございます』通話を終え、美紗は満足そうにスマートフォンを置いた。余計なことは言っていない。







