تسجيل الدخولこの3年、啓介はときおり私に会いに来ていた。いつも遠くから見守るだけで、たまに近づいてきても、穏やかに数言交わすだけだった。もう一度付き合ってほしいと口にすることもなかった。私は小さくうなずいた。「ありがとう」啓介はまっすぐに私を見て言った。「会社の主導権を取り戻し、今は株主の一人でもある。篠原は機密情報を漏らし、会社に損害を与えたことで訴えられた。業界でも信用を失って、もう以前のようには働けない」啓介は、自分の近況を静かに話した。私は「そう」と答えただけで、それ以上の感情は湧かなかった。どちらも、もう私には関係のないことだった。私の平静な様子に、啓介の目を一瞬、寂しさがよぎった。それでも、すぐに真剣な表情に戻った。「栞、あれからずいぶん時間がたった。もう過去を手放したことは分かってる。でも、俺はまだ諦められない。もう一度だけ、俺とやり直してくれないか?」久しぶりに聞く、復縁を望む言葉だった。その直後、横から明るく澄んだ声が聞こえた。「申し訳ありませんが、神谷さん。栞さんに先に想いを伝えたのは俺です。順番なら、俺が先でしょう」颯太が笑みを浮かべて歩み寄り、ごく自然に私の隣に立った。啓介を見る目には、余裕のある挑戦的な光が宿っていた。啓介も颯太を見返し、目を細めた。一歩も引く気はないらしい。「俺と栞は、10年を一緒に過ごした。俺たちが積み重ねてきたものは、君との関係とは比べものにならない」「思いの深さは、知り合ってからの年数で決まるものではありません。誰がいちばん栞さんを理解し、幸せにできるかでしょう」颯太も退かなかった。視線がぶつかり、二人のあいだに火花が散るような緊張が走った。周囲のクラスメイトも異変に気づき、興味深そうにこちらを見ながら、声をひそめて話し始めた。今にも言い争いを始めそうな二人を見て、私は困ったように首を振った。口元には、かすかな笑みが浮かんだ。二人を相手にせず、隣の友人からカメラを受け取った。「もうやめて。集合写真を撮る時間よ」そう言って人の輪の中央に入り、クラスメイトと肩を並べ、晴れやかな笑顔でレンズを見つめた。降り注ぐ陽光が、暖かく私を包んでいた。まなざしは明るく揺るぎなく、これから始まる日々への期待に満ちていた。啓介と颯太は、
啓介は本部長職を解かれ、一部署の課長に降格された。権限も地位も失うと、かえって頭は冷えた。もう後悔に溺れることはなかった。自分一人の力で築いたつもりでいた今の地位も、栞が10年を費やして支えてくれたからこそ、手にできたものだった。彼女が差し出してくれたものを、これ以上むだにするわけにはいかない。復縁のためではなくても、もう一度努力し、自分の力で立場を取り戻す。それが、何も惜しまず支えてくれた栞の献身に報いるために、自分にできる唯一のことだと思った。それから啓介は、別人のように変わった。見栄も体裁も捨て、人からどう見られるかにこだわらなくなった。毎日ひたすら仕事に打ち込み、一つひとつの案件に誠実に向き合った。部下にも分け隔てなく接し、誰か一人を特別扱いすることは二度となかった。地道な努力を重ね、少しずつ会社の損失を取り戻し、同僚や取引先からの信頼も再び得ていった。日々が過ぎる中、啓介はときどき栞のSNSを開いた。更新は少なく、たまに投稿されるのは、勉強や日々の暮らしについての何気ない写真ばかりだった。写真の栞は穏やかに笑い、意志の強い目をしていた。充実した毎日を送っていることが伝わった。啓介は衝動を抑えきれず、ときおり飛行機に乗って栞の暮らす街まで行くこともあった。遠くから一目見るだけで、決して声はかけない。その姿を確かめると、黙って帰国した。この先どれだけ生きても、栞への償いを終えることはできない。だからせめて、遠くから見守り、幸せを願おうとしていた。……異国での暮らしは、穏やかで充実していた。私は勉強に打ち込み、これまで培った基礎と努力によって、常に上位の成績を収めた。指導教員からも高く評価された。やがて、同じ研究室の先輩にあたる結城颯太(ゆうき そうた)と知り合った。颯太は私より少し年下だが、大学ではよく知られた存在だった。恵まれた家庭に育ち、能力も高い。明るく人懐こい性格で、周囲にはいつも彼に好意を寄せる女性がいた。私たちは共同研究を通して知り合った。颯太は、私の落ち着きや考え方、誰かに頼らず進もうとする姿に惹かれたらしい。やがて、まっすぐに思いを伝えてくるようになった。私が夜遅くまで研究に取り組んでいれば、温かいコーヒーを差し入れてくれた。体調を崩した
「でも、あなたから離れて初めて分かったの。あなたがいなくても、私の世界にはちゃんと陽が差す。もう雨に濡れなくていいんだって。自分の夢を追って、自分が望む暮らしを選んで、穏やかに生きていける。こんなふうに生きられることが、今はとても心地いいの」啓介を見つめる私の目にあったのは、未練ではなく、肩の荷を下ろした安堵だけだった。「もう手放したの。だから、戻るつもりもない。この10年は、長い夢だったと思うことにする。夢から覚めた今、私たちはそれぞれの人生を歩くべきよ」穏やかな私の顔を見つめながら、啓介は深い絶望にのみ込まれていった。自分は本当に私を失ったのだと、今度こそはっきり悟った。まだ何か言いたかった。事情を説明し、引き止めたかった。けれど、静かな目を前にすると、どの言葉も喉につかえたまま、声にはならなかった。それから一か月、啓介は帰国しなかった。大学の近くに部屋を借り、毎日のように私のあとを追った。私が授業を受けているあいだは、教室の外で待っていた。図書館で勉強していれば、少し離れた席に座っていた。クラスメイトと食事に行けば、遠くから見守るようについてきた。必要以上に声をかけることはなく、ただ静かにそばにいた。私が少しずつ新しい暮らしになじみ、自信と落ち着きを身につけていく姿を、啓介は見続けた。やがて、私にはもう自分が必要ないのだと、心から理解した。帰るときが来たのだ。啓介は別れを告げに来ることもなく、ひそかに帰国便を取り、この街を去った。帰国した啓介は疲れ切っていたが、その足で会社へ向かった。だが、会社に着いた瞬間から、何かがおかしいと感じた。オフィスには異様な空気が漂い、社員たちの視線にも不自然なものがあった。啓介が担当していた中核案件は、すべてほかの責任者に移されていた。取引先からも、次々と契約解除の通知が届いていた。自分の執務室へ入り、席に着いたところへ、別のアシスタントが青ざめた顔で駆け込んできた。「神谷本部長、大変です。篠原部長が、本部長の担当していた中核案件の情報を持ち出し、競合会社へ移ったことが分かりました。プロジェクトの機密データまで外部へ漏らしたようです。その影響で、複数の主要取引先との案件が頓挫し、会社に多額の損失が出ています」啓介の表情が一瞬で険しくなり、
顔を上げると、そこに啓介がいた。啓介は向かいの椅子に座り、複雑な感情を浮かべた目で、私をじっと見つめた。啓介の目には、わずか数日会わなかっただけなのに、私がどこか変わったように映った。整った顔立ちも、穏やかな目元も以前のままなのに、まるで別人のようだった。ただ、その目にはもう、かつての悲しみも、啓介を頼る気持ちもなかった。あるのは、距離を置いた静けさだけだった。責められるよりも、その静けさのほうが啓介を不安にさせた。「どうしてここに?」私は、たまたま現れた知人に尋ねるような口調で聞いた。啓介の胸が締めつけられ、喉がこわばった。伝えたいことは数え切れないほどあるのに、どこから話せばいいのか分からない。数秒黙り込んだあと、ようやく絞り出すように言った。「栞、悪かった。俺が間違ってた。本当に、今は分かってる。この10年、俺は身勝手だった。自分の評判や仕事のことばかり考えて、栞の気持ちを見ようともしなかった。あれほどつらい思いをさせたのは、全部俺のせいだ」啓介は必死な目で続けた。「一緒に帰ろう。もう一度、やり直してほしい。これからは、誰の目も気にしない。皆の前で俺たちの関係をきちんと伝えるこれまで傷つけた分も、これからは一生かけて大切にする。あのときの約束を守るから」そう言って、ポケットからベルベットのケースを取り出し、テーブルに置いて、私の前にそっと押し出した。箱の中に収められた指輪は、私たちが18歳の夜、地元の星空を見上げながら思い描いたものと、よく似たデザインだった。「栞、結婚してほしい」啓介は、どこまでも真剣な目で私を見た。「俺が愛しているのは、ずっと栞だけだ」私はテーブルの指輪に一度目を落としただけだった。心は少しも揺れなかった。高価なダイヤモンドも、今の私には道端の小石と変わらない。指輪から視線を外し、啓介を見た。「啓介。18歳のときにした約束を覚えてる?」一瞬戸惑ったあと、啓介は何度もうなずいた。「覚えてる。一緒に大学院へ行って、この街で暮らして、ずっと一緒にいる。俺が栞と結婚するって約束した」「そうね」私は、どこか懐かしむように微笑んだ。「18歳の私たちは何も持っていなかった。それでも、一緒にいられるだけで幸せだった。愛し合ってさえいれば、どんな困難も乗り
それなのに、最後に栞を裏切ったのは自分だった。最も深く傷つけたのも、自分だ。啓介は慌ててスマホを取り出し、栞の番号に電話をかけた。発信画面を見つめながら、心臓が喉元までせり上がるようだった。どれほど冷たく、よそよそしい声でもかまわない。もう一度、栞の声を聞きたかった。だが、呼び出し音さえ鳴らないまま、電話は切れた。電波の問題だと思い、もう一度かけた。結果は同じだった。何度かけ直しても、つながらない。そこでようやく、自分の番号が着信拒否されていることに気づいた。飛行機に乗る前に、栞は啓介との連絡手段をすべて断っていた。啓介は力なくソファにもたれた。冷たい海に沈んでいくような絶望が、全身を覆った。長いあいだ動けずにいたが、やがてポケットから小さなベルベットのケースを取り出した。蓋を開けると、繊細なデザインのダイヤモンドリングが静かに収まっていた。ダイヤは大きくない。だが十分に美しく輝き、その光が啓介の目に浮かぶ後悔と苦しみを、容赦なく照らし出した。ずっと前から用意していた婚約指輪だった。栞が部長に昇進した日にプロポーズし、10年前の約束を果たすつもりでいた。栞を愛していることに、嘘はなかった。この先の人生を共に歩き、妻になってほしいと、本心から願っていた。それでも、二人の関係がここまで壊れるとは思っていなかった。最愛の人を自ら遠ざけ、10年かけて育んだ関係を、その手で壊したのだ。啓介は指輪を強く握りしめた。かすれた声は低く、悔恨と苦痛に震えていた。「栞、俺が間違ってた……頼むから、戻ってきてくれ。栞がいないと駄目なんだ……」誰もいない部屋には、涙をこらえきれない啓介の声だけが響き、返事はどこからも聞こえなかった。翌日、啓介は栞が進学した大学院を突き止めた。迷うことなく、いちばん早い便を予約し、わずかな荷物と婚約指輪を手に空港へ向かった。どんな代償を払ってでも栞を見つけ出す。そう決めていた。10時間を超えるフライトを終えて現地に着くと、異国の街には暖かな日差しが降り注いでいた。見知らぬ景色を眺める余裕もなく、啓介は車で大学へ直行した。……その頃、私は入学手続きを済ませ、大学院生用の学生寮へ移っていた。二人部屋は、明るく清潔だった。ルームメイトは現地出
これまでの啓介なら、さりげなく身をかわすことはあっても、大勢の前で朱里に恥をかかせることはなかっただろう。だが今は、苛立ちと嫌悪が激しく込み上げてきた。すばやく体を引き、朱里の手を避ける。そして彼女を見据え、よそよそしい口調で言った。「篠原部長、少し節度をわきまえろ。俺たちはあくまで仕事上の関係だ。それ以上でも、それ以下でもない。これまで気にかけてきたのも、上司として必要な配慮だと思っていたからだ。変な勘違いをしたり、周りに誤解されるような振る舞いをしたりするのは、もうやめろ」その場がざわめいた。朱里の笑顔は凍りつき、信じられないという目で啓介を見た。これほど多くの社員の前で、啓介がここまで容赦なく一線を引くとは、想像もしていなかったのだろう。だが啓介は、彼女を一度も見ようとしなかった。今は、一刻も早く栞を捜し出すことしか頭になかった。それ以上その場にとどまらず、すぐにオフィスを出ていった。車を走らせながら、啓介はハンドルを強く握りしめた。心臓が胸を突き破りそうなほど激しく打っていた。何かの間違いだと、何度も自分に言い聞かせた。栞はきっと家にいる。ただ一時の怒りに任せて、姿を消しただけだ。しかし、慌ただしく玄関を開けた彼を迎えたのは、冷え切った空っぽの部屋だった。家の中から、栞が暮らしていた痕跡だけが、きれいに消えていた。玄関の靴箱に、彼女の靴は一足もない。寝室のクローゼットも空だった。服もアクセサリーも、いつも使っていた化粧品も、何一つ残っていない。部屋にあるのは啓介のものだけで、初めから誰かと暮らしたことなどなかったかのように静まり返っていた。リビングの真ん中に立ち尽くし、啓介はゆっくりと部屋中を見回した。最後に目が止まったのは、ローテーブルの上だった。退職届の控えが、いちばん目につく場所に置かれている。日付を見れば、2日前からそこにあったことが分かった。2日前、栞はその書類を置き、啓介の帰りを待っていた。きちんと話をするために。それなのに、自分はどうしていたのか。朱里から一本電話が来ただけで、栞の話を遮って出ていった。朱里を家へ連れてきて食事をさせ、栞が失望していることにも目を向けなかった。朱里を送ることと仕事ばかりを優先し、自分の節度や評判を守るこ