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10年の恋を捨てて、私は晴れ空へ歩き出す

10年の恋を捨てて、私は晴れ空へ歩き出す

By:  青の波Completed
Language: Japanese
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退職を前に、上司から尋ねられた。 「神谷本部長は、部長に昇進したら結婚すると約束してくれたんでしょう?あと一歩なのに、どうして急に辞めるの?」 私は、雨水に濡れたスラックスの裾に目を落とした。 「傘が一本しかなかったからです」 脳裏によみがえったのは、土砂降りだった昨日のことだ。 傘を忘れた私・宮下栞(みやした しおり)は、会社のエントランスから出られずにいた。同じように足止めされていたのが、神谷啓介(かみや けいすけ)の新しいアシスタント、篠原朱里(しのはら あかり)だった。 傘を一本だけ持って下りてきた啓介は、迷うことなく朱里を選んだ。彼女とは、交際を疑われる心配がないからだ。 啓介は私を見ると、淡々と言った。 「栞、俺たちは特別な関係なんだ。こんなことで余計な噂を立てられる必要はないだろう」 一つの傘に入って遠ざかっていく二人の背中を、私は長いあいだ呆然と見つめていた。 やがて意を決し、降りしきる雨の中へ飛び出した。 啓介と付き合って10年。彼からいちばん多く聞かされたのは、「特別な関係だからこそ、公私を分けるべきだ」という言葉だった。 だから、通勤はいつも一人。昇進の機会は、いつもほかの誰かに譲らされた。 今では、同じ傘に入ることさえ望んではいけないらしい。 退職届の控えを受け取ったあとも、外では小雨が降り続いていた。 けれど今度は、自分の傘を差し、落ち着いた足取りで歩き出した。 啓介。もう私は、決してこちらへ傾くことのないその傘を必要としていない。

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Chapter 1

第1話

会社を出る頃には、雨脚も次第に弱まっていた。

傘を畳んだ瞬間、向かいのカフェで啓介と朱里が食事をしているのが目に入った。

普段はほとんど笑わない啓介が、今は目元を和らげ、くつろいだ様子で笑っている。

一瞬、目の前の光景が信じられなかった。

私の前で、あんなふうに心から笑う彼を見なくなって久しい。

我に返ったときには、啓介がもう目の前まで来ていた。口調はいつもどおり、事務的だった。

「篠原と外回りに出ていて、雨で動けなくなったから、ここで食事をしていただけだ。さっきはひどい雨だったのに、どうして会社の外にいたんだ?もうすぐ部長への昇進が決まる大事な時期だ。風邪をひいて、仕事に支障を出すなよ」

そこへ朱里が追いついてきた。

彼女に気づいた啓介は、反射的に横に一歩ずれ、私との距離を広げた。

「俺たちは先に行く」

私の返事を待たず、啓介は朱里を連れて立ち去った。

また人目を気にしているのだと、すぐに分かった。

恋人同士だから、社内では必要以上に話してはいけない。一緒に仕事をしても、一緒に通勤してもいけない。

この10年、私が見てきたのは、こうして足早に遠ざかっていく彼の背中ばかりだった。

けれど、もう私はその場に立ち尽くし、遠くから見送ったりはしない。

帰宅すると、バッグから退職届の控えを取り出し、リビングのいちばん目につく場所に置いた。

啓介が帰ってきたら、一度きちんと話すつもりだった。

啓介は仕事帰りに食材を買い、そのまま帰宅した。家に入るなり、慣れた手つきでエプロンを締め、キッチンに立った。

料理を食卓に並べ終えて、ようやく傍らに立つ私に気づいた。

「帰ってたのか。食べよう」

部屋には、食器がかすかに触れ合う音だけが響いた。

いつからだろう。私たちは、話すことさえなくなっていた。

職場で始まった線引きは、いつしか家の中にまで入り込んでいた。

最初は、誰もが認めるほど仲がよく、息の合った恋人同士だったのに。

今では向かい合って座っても、どちらからも話題の一つすら出てこない。

最後にまともな会話をしたのは、朱里と副部長の座を争ったときだった。

選考の結果、朱里は落選し、私が副部長に昇進した。

ところが結果が発表されたその場で、啓介は役職者たちを前に、朱里をかばった。

今回の選考は公平性に欠けると言い、朱里がどれほど優秀で努力家か、副部長にふさわしい人材かを熱弁した。

恋人が競争相手を懸命に褒めるのを聞く痛みは、昇進の喜びをはるかに上回った。

その夜、私は胸にたまった思いを抑えながら、啓介に打ち明けた。

けれど、彼は表情一つ変えずに答えただけだった。

「俺は事実を言っただけだ。篠原は実際に優秀で、昇進に値する。それに、俺たちは特別な関係だ。だからこそ、公私を分けなければ余計な噂を招く」

私だって、朱里の実力を否定したことはない。

けれど、私の努力も能力も、決して偽物ではなかった。

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第1話
会社を出る頃には、雨脚も次第に弱まっていた。傘を畳んだ瞬間、向かいのカフェで啓介と朱里が食事をしているのが目に入った。普段はほとんど笑わない啓介が、今は目元を和らげ、くつろいだ様子で笑っている。一瞬、目の前の光景が信じられなかった。私の前で、あんなふうに心から笑う彼を見なくなって久しい。我に返ったときには、啓介がもう目の前まで来ていた。口調はいつもどおり、事務的だった。「篠原と外回りに出ていて、雨で動けなくなったから、ここで食事をしていただけだ。さっきはひどい雨だったのに、どうして会社の外にいたんだ?もうすぐ部長への昇進が決まる大事な時期だ。風邪をひいて、仕事に支障を出すなよ」そこへ朱里が追いついてきた。彼女に気づいた啓介は、反射的に横に一歩ずれ、私との距離を広げた。「俺たちは先に行く」私の返事を待たず、啓介は朱里を連れて立ち去った。また人目を気にしているのだと、すぐに分かった。恋人同士だから、社内では必要以上に話してはいけない。一緒に仕事をしても、一緒に通勤してもいけない。この10年、私が見てきたのは、こうして足早に遠ざかっていく彼の背中ばかりだった。けれど、もう私はその場に立ち尽くし、遠くから見送ったりはしない。帰宅すると、バッグから退職届の控えを取り出し、リビングのいちばん目につく場所に置いた。啓介が帰ってきたら、一度きちんと話すつもりだった。啓介は仕事帰りに食材を買い、そのまま帰宅した。家に入るなり、慣れた手つきでエプロンを締め、キッチンに立った。料理を食卓に並べ終えて、ようやく傍らに立つ私に気づいた。「帰ってたのか。食べよう」部屋には、食器がかすかに触れ合う音だけが響いた。いつからだろう。私たちは、話すことさえなくなっていた。職場で始まった線引きは、いつしか家の中にまで入り込んでいた。最初は、誰もが認めるほど仲がよく、息の合った恋人同士だったのに。今では向かい合って座っても、どちらからも話題の一つすら出てこない。最後にまともな会話をしたのは、朱里と副部長の座を争ったときだった。選考の結果、朱里は落選し、私が副部長に昇進した。ところが結果が発表されたその場で、啓介は役職者たちを前に、朱里をかばった。今回の選考は公平性に欠けると言い、朱里がどれほど優
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第2話
どこまでも事務的で、自分は一切えこひいきなどしていないという顔を見つめながら、私は初めて、反論する気力さえ失った。思えば、あの日を境に会話が減り、二人の溝は深まっていった。その後、朱里は異動し、啓介の専属アシスタントになった。肩書だけを見れば横滑りだが、実際には彼のそばで重要な仕事に関われる、事実上の抜擢だった。徹底して公私を分けた結果、啓介は公平無私な上司という評判を得て、朱里には周囲の同情と好意が集まった。実力で副部長になった私だけが、理不尽な思いを抱えたまま、誰にも顧みられなかった。思い返すと、今でも胸がかすかに痛む。あの頃、何も言えずに耐えていた自分のために。そして、むだにしてしまったこの10年のために。食事を終えると、啓介は席を立とうとした。一人が料理をしたら、もう一人が後片づけをする。それが同居を始めたときに決めたルールだった。込み上げる感情を押し込み、私は彼を呼び止めた。「啓介、話があるの」啓介は座り直し、私を見た。私は深く息を吸い、気持ちを落ち着かせた。「啓介、私たち、別れ――」そのとき、突然鳴り出した着信音が言葉を遮った。画面に表示されていたのは、朱里の名前だった。電話に出ると、受話口から慌てた声が聞こえてきた。仕事でミスが見つかり、至急戻って対応してほしいという。啓介は眉をひそめ、すぐに私を見た。「栞、話は今度にしてくれ。今は仕事が先だ」そう言い残すと、立ち上がって出ていった。またしても、残されたのは彼の背中だけだった。胸の奥に細かな痛みが一斉に走り、息が詰まった。けれど、彼が向かったのは仕事だ。会社のことが私事より優先されるのは当然だと言われれば、つらいと口にする資格さえ私にはないように思えた。部屋が再び静まり返ったとき、スマホに通知が届いた。海外の大学院から出願結果が届いたのだ。合格だった。3日後には、長年憧れていた留学へ旅立てる。啓介と結婚することが、若い頃から抱いてきた一番の願いだったとすれば、大学院へ進むことは、ずっと胸の奥にしまい込んできたもう一つの夢だった。私と啓介は、同じ地方の小さな町で育った。その年、町から難関大学へ進んだのは私たち二人だけだった。余裕のない学生時代を支え合いながら乗り越え、いつか一緒に大学院へ進み、こ
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第3話
指先が止まり、胸の奥が急速に冷えていった。いつまでたっても返事が来ないことで、啓介もようやく異変に気づいたらしい。【もういい。夜中に店を捜しに行くのも大変だし、先に帰る】私は目元の涙を拭い、波立つ気持ちを落ち着かせてから、ゆっくりと返信した。【分かった。帰ってくるのを待ってる。さっきの話の続きをしよう】30分後、玄関の鍵が回り、啓介が帰ってきた。だが、その後ろには朱里が立っていた。靴を脱ぎながら、啓介は何でもないことのように説明した。「こんな時間では開いている店も少ないし、篠原は仕事で夕食も取れていない。うちでラーメンを作って、少し食べてもらうことにした」そんな説明で、納得できるはずがない。けれど啓介は、それ以上説明する必要などないとでもいうように、そのままキッチンへ入っていった。リビングには、朱里と私だけが残された。先に沈黙を破ったのは朱里だった。「神谷本部長って、仕事ではあんなに厳しいのに、プライベートでは本当に気が利くんですね。料理までなさるなんて意外でした」相手をする気になれず、私は軽くうなずいただけだった。それでも朱里は話し続けた。「本部長には、いつも助けていただいているんです。この前、私がプロジェクトの数字を間違えたときも、皆が責任を問おうとする中で、本部長だけはご自分が責任を引き受けてくださって。修正作業も、最後までそばで見てくださいました。出張のときに飛行機に間に合わなくなりそうだったときも、わざわざ仕事を調整して、別の便を手配してくださったんですよ」どちらも耳にしたことはあった。だが、本人の口から聞かされると、一言一言が胸に刺さった。それでも顔には出さず、黙って聞いていた。私があまりに平静なので、朱里の目に戸惑いがよぎった。このまま終わらせるつもりはないらしい。次に口を開いたときには、あからさまな挑発がにじんでいた。「この前、急ぎの案件で残業したときは、フロアに本部長と私しかいなかったんです。夜になって急に冷え込んだら、本部長が風邪をひかないようにって、ご自分のブランケットを掛けてくださって。本部長はそのまま一晩中、何も掛けずに仕事をなさったんです」胸が重く沈んだ。「あのとき思いました。もし神谷本部長が私の恋人だったら、迷わずその場で結婚してほしいって言うの
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第4話
その夜、啓介を待つことはしなかった。彼が何時に帰ってきたのかも知らない。翌朝、目を覚ましたときには、部屋にもう彼の姿はなかった。食卓には啓介が用意した朝食が並び、そのそばにメモが置かれていた。【付き合って10周年、おめでとう】今日が、交際を始めてちょうど10年の記念日だったことを、そこでようやく思い出した。けれど、スマホに表示された予約済みの航空券を見つめ、私はメモをそっと脇へ置いた。今日で、私たちの関係も終わる。席について朝食を食べようとしながら、何気なくSNSを開いた。最初に目に飛び込んできたのは、朱里が投稿したばかりの写真だった。そこに写っていた朝食は、私の目の前にあるものとまったく同じだった。【神谷本部長から、手作りの朝食までいただきました!これからもっと仕事を頑張ります!】口に入れたばかりのサンドイッチが、喉につかえた。のみ込むことも吐き出すこともできず、息苦しい。食欲はすっかり失せた。そのとき、前の上司の佐伯真理子(さえき まりこ)からメッセージが届いた。【宮下、退職したのはかえってよかったかもしれない。部長職は公募をやめて、篠原が就くことになったわ】意味が分からなかった。朱里は啓介の専属アシスタントになったはずなのに、なぜ突然、元の部署に戻って部長になるのだろう。上司から話を聞き、初めて事情が分かった。啓介が自分の中核案件をすべて朱里に任せ、昇進できるよう自ら道筋を整えたのだという。本来なら候補者全員で選考を受けるはずだった部長職が、誰にも知らされないまま朱里に決まっていた。指先が震えた。もう会社を辞めたとはいえ、在職中、私はその役職を目指し、それらの案件に心血を注いできた。あと一歩で昇進というたびに、啓介から「特別な関係だから」と退けられた。それなのに今、彼は同じ役職をいとも簡単に別の女に与えたのだ。込み上げる悲しみと怒りを抑えようとしたが、どうしてもできなかった。私は啓介にメッセージを送った。【どうして篠原さんを部長にしたの?】返事は短かった。【彼女のほうが学歴も高く、能力もあるからだ】画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。かつて彼の将来のために諦めたものが、今になって私の価値を否定する理由となった。その瞬間、痛み続けていた心
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第5話
「国外へ行った?」啓介の声が跳ね上がり、静かなオフィスに響いた。その場に立ち尽くし、信じられないという顔をした。「そんなはずはない。昨日まで家にいたんだ。どうして急に……」真理子は、取り乱す啓介を複雑な思いで見つめた。啓介は自分より上の立場にいる。だが栞のことは、まだ何も知らない新人だった頃から、副部長になるまでずっと見てきた。この10年、彼女がどれほど努力してきたかも知っている。数秒ためらったものの、結局はこらえきれず、責める気持ちを隠さずに言った。「宮下は昨日、退職届を出して、その日のうちにすべての手続きを終えました。恋人なのに、何もご存じなかったんですか?それなら、お二人の関係に何が起きていたのか、一度きちんと考えるべきではありませんか」啓介は真理子に顔を向けた。目には戸惑いが浮かんでいた。「俺たちの関係に……問題なんてあるはずがない。会社で公私を分けていただけで、ほかは何も変わっていなかった……」真理子は、栞に代わって怒りをぶつけた。「本部長のおっしゃる『公私を分ける』というのは、宮下が徹夜で仕上げた案件の実績を、ほかの人に渡すことですか。部長昇進まであと一歩というたびに、『特別な関係だから』という理由で退けることですか。大雨の日、会社から出られずにいた宮下を残して、アシスタントを傘に入れ、彼女を雨の中、一人で帰らせることですか。10年も一緒に暮らしながら、まるで人に知られてはいけない相手のように扱うことですか」一言一言が、重い槌のように啓介の胸を打った。啓介は、自分が距離を置くことこそ栞を守ることになると、ずっと信じていた。彼女が会社で足場を築き、噂に煩わされずに済むようにするためだと思っていた。だが、自分が守っているつもりだったものが、彼女を最も深く傷つける刃になっていたとは、考えたこともなかった。朱里の優秀さには目を向けながら、栞が10年間、黙って耐え、支え続けてきたことは見ようともしなかった。啓介の顔から血の気が引いた。唇を動かし、反論しようとした。悪意などなかった。二人の将来を考えてしたことだ。そう言いたかった。けれど言葉になる前に、事情をまだよく分かっていないような声が割って入った。「神谷本部長の恋人って、宮下副部長だったんですか?」口にしたのは、入社して
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第6話
これまでの啓介なら、さりげなく身をかわすことはあっても、大勢の前で朱里に恥をかかせることはなかっただろう。だが今は、苛立ちと嫌悪が激しく込み上げてきた。すばやく体を引き、朱里の手を避ける。そして彼女を見据え、よそよそしい口調で言った。「篠原部長、少し節度をわきまえろ。俺たちはあくまで仕事上の関係だ。それ以上でも、それ以下でもない。これまで気にかけてきたのも、上司として必要な配慮だと思っていたからだ。変な勘違いをしたり、周りに誤解されるような振る舞いをしたりするのは、もうやめろ」その場がざわめいた。朱里の笑顔は凍りつき、信じられないという目で啓介を見た。これほど多くの社員の前で、啓介がここまで容赦なく一線を引くとは、想像もしていなかったのだろう。だが啓介は、彼女を一度も見ようとしなかった。今は、一刻も早く栞を捜し出すことしか頭になかった。それ以上その場にとどまらず、すぐにオフィスを出ていった。車を走らせながら、啓介はハンドルを強く握りしめた。心臓が胸を突き破りそうなほど激しく打っていた。何かの間違いだと、何度も自分に言い聞かせた。栞はきっと家にいる。ただ一時の怒りに任せて、姿を消しただけだ。しかし、慌ただしく玄関を開けた彼を迎えたのは、冷え切った空っぽの部屋だった。家の中から、栞が暮らしていた痕跡だけが、きれいに消えていた。玄関の靴箱に、彼女の靴は一足もない。寝室のクローゼットも空だった。服もアクセサリーも、いつも使っていた化粧品も、何一つ残っていない。部屋にあるのは啓介のものだけで、初めから誰かと暮らしたことなどなかったかのように静まり返っていた。リビングの真ん中に立ち尽くし、啓介はゆっくりと部屋中を見回した。最後に目が止まったのは、ローテーブルの上だった。退職届の控えが、いちばん目につく場所に置かれている。日付を見れば、2日前からそこにあったことが分かった。2日前、栞はその書類を置き、啓介の帰りを待っていた。きちんと話をするために。それなのに、自分はどうしていたのか。朱里から一本電話が来ただけで、栞の話を遮って出ていった。朱里を家へ連れてきて食事をさせ、栞が失望していることにも目を向けなかった。朱里を送ることと仕事ばかりを優先し、自分の節度や評判を守るこ
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第7話
それなのに、最後に栞を裏切ったのは自分だった。最も深く傷つけたのも、自分だ。啓介は慌ててスマホを取り出し、栞の番号に電話をかけた。発信画面を見つめながら、心臓が喉元までせり上がるようだった。どれほど冷たく、よそよそしい声でもかまわない。もう一度、栞の声を聞きたかった。だが、呼び出し音さえ鳴らないまま、電話は切れた。電波の問題だと思い、もう一度かけた。結果は同じだった。何度かけ直しても、つながらない。そこでようやく、自分の番号が着信拒否されていることに気づいた。飛行機に乗る前に、栞は啓介との連絡手段をすべて断っていた。啓介は力なくソファにもたれた。冷たい海に沈んでいくような絶望が、全身を覆った。長いあいだ動けずにいたが、やがてポケットから小さなベルベットのケースを取り出した。蓋を開けると、繊細なデザインのダイヤモンドリングが静かに収まっていた。ダイヤは大きくない。だが十分に美しく輝き、その光が啓介の目に浮かぶ後悔と苦しみを、容赦なく照らし出した。ずっと前から用意していた婚約指輪だった。栞が部長に昇進した日にプロポーズし、10年前の約束を果たすつもりでいた。栞を愛していることに、嘘はなかった。この先の人生を共に歩き、妻になってほしいと、本心から願っていた。それでも、二人の関係がここまで壊れるとは思っていなかった。最愛の人を自ら遠ざけ、10年かけて育んだ関係を、その手で壊したのだ。啓介は指輪を強く握りしめた。かすれた声は低く、悔恨と苦痛に震えていた。「栞、俺が間違ってた……頼むから、戻ってきてくれ。栞がいないと駄目なんだ……」誰もいない部屋には、涙をこらえきれない啓介の声だけが響き、返事はどこからも聞こえなかった。翌日、啓介は栞が進学した大学院を突き止めた。迷うことなく、いちばん早い便を予約し、わずかな荷物と婚約指輪を手に空港へ向かった。どんな代償を払ってでも栞を見つけ出す。そう決めていた。10時間を超えるフライトを終えて現地に着くと、異国の街には暖かな日差しが降り注いでいた。見知らぬ景色を眺める余裕もなく、啓介は車で大学へ直行した。……その頃、私は入学手続きを済ませ、大学院生用の学生寮へ移っていた。二人部屋は、明るく清潔だった。ルームメイトは現地出
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第8話
顔を上げると、そこに啓介がいた。啓介は向かいの椅子に座り、複雑な感情を浮かべた目で、私をじっと見つめた。啓介の目には、わずか数日会わなかっただけなのに、私がどこか変わったように映った。整った顔立ちも、穏やかな目元も以前のままなのに、まるで別人のようだった。ただ、その目にはもう、かつての悲しみも、啓介を頼る気持ちもなかった。あるのは、距離を置いた静けさだけだった。責められるよりも、その静けさのほうが啓介を不安にさせた。「どうしてここに?」私は、たまたま現れた知人に尋ねるような口調で聞いた。啓介の胸が締めつけられ、喉がこわばった。伝えたいことは数え切れないほどあるのに、どこから話せばいいのか分からない。数秒黙り込んだあと、ようやく絞り出すように言った。「栞、悪かった。俺が間違ってた。本当に、今は分かってる。この10年、俺は身勝手だった。自分の評判や仕事のことばかり考えて、栞の気持ちを見ようともしなかった。あれほどつらい思いをさせたのは、全部俺のせいだ」啓介は必死な目で続けた。「一緒に帰ろう。もう一度、やり直してほしい。これからは、誰の目も気にしない。皆の前で俺たちの関係をきちんと伝えるこれまで傷つけた分も、これからは一生かけて大切にする。あのときの約束を守るから」そう言って、ポケットからベルベットのケースを取り出し、テーブルに置いて、私の前にそっと押し出した。箱の中に収められた指輪は、私たちが18歳の夜、地元の星空を見上げながら思い描いたものと、よく似たデザインだった。「栞、結婚してほしい」啓介は、どこまでも真剣な目で私を見た。「俺が愛しているのは、ずっと栞だけだ」私はテーブルの指輪に一度目を落としただけだった。心は少しも揺れなかった。高価なダイヤモンドも、今の私には道端の小石と変わらない。指輪から視線を外し、啓介を見た。「啓介。18歳のときにした約束を覚えてる?」一瞬戸惑ったあと、啓介は何度もうなずいた。「覚えてる。一緒に大学院へ行って、この街で暮らして、ずっと一緒にいる。俺が栞と結婚するって約束した」「そうね」私は、どこか懐かしむように微笑んだ。「18歳の私たちは何も持っていなかった。それでも、一緒にいられるだけで幸せだった。愛し合ってさえいれば、どんな困難も乗り
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第9話
「でも、あなたから離れて初めて分かったの。あなたがいなくても、私の世界にはちゃんと陽が差す。もう雨に濡れなくていいんだって。自分の夢を追って、自分が望む暮らしを選んで、穏やかに生きていける。こんなふうに生きられることが、今はとても心地いいの」啓介を見つめる私の目にあったのは、未練ではなく、肩の荷を下ろした安堵だけだった。「もう手放したの。だから、戻るつもりもない。この10年は、長い夢だったと思うことにする。夢から覚めた今、私たちはそれぞれの人生を歩くべきよ」穏やかな私の顔を見つめながら、啓介は深い絶望にのみ込まれていった。自分は本当に私を失ったのだと、今度こそはっきり悟った。まだ何か言いたかった。事情を説明し、引き止めたかった。けれど、静かな目を前にすると、どの言葉も喉につかえたまま、声にはならなかった。それから一か月、啓介は帰国しなかった。大学の近くに部屋を借り、毎日のように私のあとを追った。私が授業を受けているあいだは、教室の外で待っていた。図書館で勉強していれば、少し離れた席に座っていた。クラスメイトと食事に行けば、遠くから見守るようについてきた。必要以上に声をかけることはなく、ただ静かにそばにいた。私が少しずつ新しい暮らしになじみ、自信と落ち着きを身につけていく姿を、啓介は見続けた。やがて、私にはもう自分が必要ないのだと、心から理解した。帰るときが来たのだ。啓介は別れを告げに来ることもなく、ひそかに帰国便を取り、この街を去った。帰国した啓介は疲れ切っていたが、その足で会社へ向かった。だが、会社に着いた瞬間から、何かがおかしいと感じた。オフィスには異様な空気が漂い、社員たちの視線にも不自然なものがあった。啓介が担当していた中核案件は、すべてほかの責任者に移されていた。取引先からも、次々と契約解除の通知が届いていた。自分の執務室へ入り、席に着いたところへ、別のアシスタントが青ざめた顔で駆け込んできた。「神谷本部長、大変です。篠原部長が、本部長の担当していた中核案件の情報を持ち出し、競合会社へ移ったことが分かりました。プロジェクトの機密データまで外部へ漏らしたようです。その影響で、複数の主要取引先との案件が頓挫し、会社に多額の損失が出ています」啓介の表情が一瞬で険しくなり、
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第10話
啓介は本部長職を解かれ、一部署の課長に降格された。権限も地位も失うと、かえって頭は冷えた。もう後悔に溺れることはなかった。自分一人の力で築いたつもりでいた今の地位も、栞が10年を費やして支えてくれたからこそ、手にできたものだった。彼女が差し出してくれたものを、これ以上むだにするわけにはいかない。復縁のためではなくても、もう一度努力し、自分の力で立場を取り戻す。それが、何も惜しまず支えてくれた栞の献身に報いるために、自分にできる唯一のことだと思った。それから啓介は、別人のように変わった。見栄も体裁も捨て、人からどう見られるかにこだわらなくなった。毎日ひたすら仕事に打ち込み、一つひとつの案件に誠実に向き合った。部下にも分け隔てなく接し、誰か一人を特別扱いすることは二度となかった。地道な努力を重ね、少しずつ会社の損失を取り戻し、同僚や取引先からの信頼も再び得ていった。日々が過ぎる中、啓介はときどき栞のSNSを開いた。更新は少なく、たまに投稿されるのは、勉強や日々の暮らしについての何気ない写真ばかりだった。写真の栞は穏やかに笑い、意志の強い目をしていた。充実した毎日を送っていることが伝わった。啓介は衝動を抑えきれず、ときおり飛行機に乗って栞の暮らす街まで行くこともあった。遠くから一目見るだけで、決して声はかけない。その姿を確かめると、黙って帰国した。この先どれだけ生きても、栞への償いを終えることはできない。だからせめて、遠くから見守り、幸せを願おうとしていた。……異国での暮らしは、穏やかで充実していた。私は勉強に打ち込み、これまで培った基礎と努力によって、常に上位の成績を収めた。指導教員からも高く評価された。やがて、同じ研究室の先輩にあたる結城颯太(ゆうき そうた)と知り合った。颯太は私より少し年下だが、大学ではよく知られた存在だった。恵まれた家庭に育ち、能力も高い。明るく人懐こい性格で、周囲にはいつも彼に好意を寄せる女性がいた。私たちは共同研究を通して知り合った。颯太は、私の落ち着きや考え方、誰かに頼らず進もうとする姿に惹かれたらしい。やがて、まっすぐに思いを伝えてくるようになった。私が夜遅くまで研究に取り組んでいれば、温かいコーヒーを差し入れてくれた。体調を崩した
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