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第5話

Author: 輝条めぐみ
病院で陸人が葉月の世話をするようになって、十日が過ぎようとしていた。

医師には「特に問題はない」と言われているのに、葉月は腹痛を訴え続け、陸人をそばに引き止めた。

その間、陸人も何度か「そろそろ家に帰りたい」と思ったのだが、葉月はいつもお腹を押さえ、涙ぐみながらこう言うのだった。

「赤ちゃん、ごめんね。ママ、パパを引き止められない。パパの心は、もう私たち母子にはないんだから」

そんなふうに言われるたび、陸人はどうにもできず、苛立ちながらも留まるしかなかった。

これも、いい教訓だ。陸人はそう思った。雪代を甘やかしすぎたせいで、あいつはあんなにわがままになってしまったんだ、と。

けれど、今日はなぜか胸の奥に不安がこみ上げていた。大切な何かを失いそうな気がして、じわじわと心が蝕まれていく。

落ち着かないままスマホを取り出し、雪代とのメッセージ画面を開いた。あの日から、一言も交わしていない。こんなことは今まで一度もなかった。

誰もが知っている。陸人は妻を命のように愛し、半日も会わずにはいられない男だった。雪代も陸人にべったりで、メッセージのやり取りが絶えることなどなかった。

最後のやり取りの日付を見つめながら、陸人はふっと立ち上がった。

「......一旦、家に戻る。ゆっくり休んでて」

葉月がまた甘えた声を出しても、今日は通用しなかった。募る不安が、すでに理性を超えていた。冷たい視線を一瞥くれただけで、陸人は足早に病室をあとにした。

黒いカイエンが家の前で止まった。陸人はわざわざ花束と雪代の好物を買い、詫びの印にしようとしていた。

ドアを開ける瞬間、自然と笑みがこぼれた。

ほんの一瞬だけど、やっぱり、雪代のそばが一番落ち着くな。そんなふうに思った。

しかし次の瞬間、その笑みは凍りついた。

かつて幸せで満ちていたはずの家が、がらんとしていたのだ。

この家は二人で少しずつ作り上げてきたものだった。結婚写真にテーブルの花、カーテンの色もソファのデザインも、全部二人で選んだ。だからこそ、陸人はすぐに気づいた。何もかも、変わってしまっている。

二十八歳の陸人と雪代が築いた家は、十八歳の陸人によって、少しずつ壊されていたのだ。

少年陸人は暗い表情で部屋の隅に立ち、冷ややかな目で陸人を見ていた。陸人が「雪ちゃん!」と叫び、花束を落として家中を走り回る
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