LOGIN「確かに悲惨な話ですね。でも先輩とはなんの関係があるんですか?あなたはもう先輩と離婚しましたよ」静かな声が響いた。振り返ると、廊下の奥から千博が姿を現す。彼のその表情には穏やかさがなく、瞳が冷たく冴えていた。どうやら、今のやりとりの内容をすべて聞いていたらしい。それに気が付いた私は思わず頬を赤らめる。慶介は千博と私を交互に見比べると、抱えていた花束を乱暴に床へ投げつけた。「柚月……そんなに俺と離婚したかったのは、もう相手がいたからなんだな?だったら俺と何が違う?お互い新しい相手ができたなら、それでおあいこだろ。だから帰ってきてくれ。もう二度と渡辺日奈子とは関わらない」結局、彼は私をまた無料の家政婦にしたいのだ。乾いた音が静かな廊下に響いた。私は慶介の頬に平手打ちを食らわした。「古賀さん、もう一度だけ言います。私たちは、もう離婚しています」頬を押さえたまま、慶介は信じられないという顔で私を見つめる。私はその視線から逃げなかった。「今さら愛しているふりはやめてください。あなたのことは、誰よりも私が分かっていますから。結婚していた頃、生活の苦労も、仕事の負担も、全部私が背負っていたからこそ、あなたは初恋だけを美しい思い出として抱いていられたんです。だから渡辺日奈子は何をしようと輝いて見えたんですね。でも現実を支える人がいなくなった途端、今度は私を思い出しました。あなたは私を愛していたんじゃない。愛しているのは、終始、あなた自分自身だけです」慶介の顔から血の気が引いていく。私はもう一度、彼の頬を打った。「これは、何回も離婚を切り出し、そのたびに離婚届へ署名させ、私を笑いものにした分です。もう二度と、私の前に現れないでください」言い返す言葉を失った慶介は、悔しそうに唇を噛み締める。私を見つめ、それから千博へ視線を移した。そして静かに目を伏せると、力なくその場を去っていった。今の彼では、もう誰が見ても勝負にならない。私は去っていく背中を見送りながら、悪趣味に日奈子へメッセージを送った。慶介がここへ来たこと。復縁を求め、謝罪したこと。その一部始終をまとめて送信した。千博は苦笑しながら私の頭を軽く撫でると、手にしていた袋を持ち上げた。「食べませんか?先輩の好きな豚汁買
私がコメントを投稿した途端、SNSの通知は一気に鳴り始めた。真っ先に反応したのは、かつて法律事務所で一緒に働いていた同僚たちだ。彼らは容赦無く皮肉った。【柚月、聞いてよ。あの渡辺日奈子、本当に仕事ができないの。資料をまとめるだけの仕事なのに、まともに仕上げられなくて、結局いつも誰かが後始末する羽目になるのよ】【しかも本人は悪びれる様子もなく、それが当たり前みたいな態度。少しでも思いどおりにならないと泣くし騒ぐし、本当に大変だった】【柚月が辞めた直後なんて、事務所はまるで彼女の家みたいだったよ。あれが気に入らない、これも気に入らないって、毎日のように大騒ぎ】【最初は古賀先生も初恋の相手だからって我慢してたけど、さすがに限界だったみたい】【一番笑えたのはね、仕事も家事も何一つできないの。柚月がいた頃の古賀先生って、いつも身なりが整っていて格好良かったじゃない?でも今はシャツはシワだらけ、ヒゲも伸び放題、靴下なんて左右バラバラ。髪はボサボサだし、目の下にはクマまでできて、仕事の効率も前とは比べものにならないくらい落ちたの】【他の共同代表も我慢できなくなって、このままじゃ事務所を辞めてもらうしかないって話になった時、ようやく古賀先生が白状したのよ。ずっと渡辺の仕事まで全部自分でやって、そのうえ身の回りの世話までしてたって】【本当に自業自得よ。この十年、十分笑わせてもらったわ】【でも気をつけてね。またあの男に付きまとわれないように】私は【ありがとう】と返信しようとした、その時だった。――ドンドンッ。突然、玄関のドアが激しく叩かれる。扉を開けると、そこに立っていたのは、ついさっきまで話題にしていた本人だった。古賀慶介。あまりの変わりように、一瞬誰だか分からなかった。たった十年で、二十歳は老け込んだように見える。かつての爽やかな好青年の面影はなく、体つきはだらしなく太り、疲れ切った顔には生活の荒れが滲んでいた。加齢臭まで漂っている。ようやくこの男が古賀慶介本人だと気づいた頃には、数分が経っていた。「……やっと会えた」そう言うなり、彼は私を抱きしめようと手を伸ばしてくる。私は咄嗟に身を引き、大きく距離を取った。「古賀さん、行動を慎んでください。私たちはもう他人です」離婚は正式に受理さ
その頃、私は遠く東北の地で、そんな出来事が起きていることなど何も知らなかった。木村先生が率いる新しい研究プロジェクトは、深い山々に囲まれた研究施設で進められている。人里離れた場所ではあったが、そこには私がこれまで見たことのない雄大な景色が広がっていた。先生は笑いながら言う。「この地方には、人の心を癒やしてくれる特別な力があるんだ」私は自然を身に感じ、何度もぼんやりと山並みを眺め続けた。それに気づいた先生は、研究チームのメンバーを紹介してくれた。「彼女が永井柚月だ」誇らしげに私の名前を紹介し、これまでの経歴を嬉しそうに語ってくれる。停滞したこの六年間のことさえ、「研究者として必要な落ち着きの時間」だと笑って言ってくれた。私は思わず目頭が熱くなり、そっと涙を拭う。すると研究室の仲間たちは次々と声を掛けてくれた。中には私の過去の研究成果を称賛する者もいた。慶介のそばにいた頃とは、まるで違っている。彼はいつも私を「要領が悪い」、「頭が固い」と否定し続けた。任される仕事も、誰でもできる雑務だと言われ続けた。あの法律事務所で過ごした六年間。私は少しずつ自分自身を失い、いつしか光まで消えてしまっていた。それでも返ってきたのは、見下されることと傷つけられることだけ。――愛されているかどうかは、こんなにも分かりやすいものだったのだ。先生は私の肩を軽く叩き、一人の男性の前まで連れて行った。その場で唯一、まだ言葉を交わしていなかった人物だった。どこか人見知りらしく、少し居心地が悪そうに立っている。けれど私は彼を知っていた。彼は先生が最も期待を寄せる教え子。若くして数々の研究成果を残し、この分野では将来を嘱望される若手研究者。「ほら、先輩にちゃんと挨拶しなさい」先生が笑いながら彼の頭を軽く叩く。白井千博(しらい ちひろ)はようやく我に返ったように顔を赤らめた。「先輩、はじめまして。以前からお名前は伺っていました。すみません、さっきまで実験データのことを考えていて、ぼんやりしていました」噂とは違い、彼はとても話し好きで穏やかな人だった。私が会話を途切れさせてしまっても、自然に別の話題を見つけてくれる。まるで近所に住む年下の弟のようで、思わず笑ってしまうほど親しみやすい。しか
慶介は勢いよく立ち上がった。その拍子に腕がグラスへ当たり、ガラスのコップが床へ落ちて派手な音を立てて砕け散る。人事部の部長は恐る恐る顔を上げ、ファイルから一枚の書類を取り出した。「古賀先生……永井さんの退職届には、先生ご本人の署名があります」「……俺が、いつこんなものにサインした?」慶介は書類をひったくるように奪い取る。穴が開くほど見つめた末に、ようやく思い出した。――あの日だ。日奈子が体調を崩したあの日、確かに一枚の書類へ署名した。だが、てっきり事務所の通常書類だと思っていた。まさか、退職届だったとは。「誰の許可で手続きを進めた?」怒鳴り声が事務所中に響き渡る。「今すぐ永井柚月に連絡しろ。すぐに戻って来いと伝えろ!」ひとしきり怒りをぶつけたあと、自室へ戻っても気持ちは収まらなかった。日奈子は胸の奥の不満を押し隠し、自らコーヒーを淹れて机へ置く。「慶介さん……もしかして、離婚したことを後悔してるの?それとも……私を事務所へ入れたことを後悔してる?もしそうなら、私が出ていくわ。全部、私が悪いの。私が来たせいで柚月さんは辞めてしまった。でも、この頃は毎日、昔の思い出ばかり頭に浮かんで……慶介さんも同じ気持ちだと思ってたのに。でも違ったんだね。私の思い上がりだったね。だから、私が出ていく」そう言って彼女は、健気で儚い女性を演じ続ける。しかし慶介は立ち上がろうともしなかった。疲れ切った表情のまま、小さく息をつく。「日奈子……今は頭の中がぐちゃぐちゃなんだ。本当に疲れてる。少しだけ、一人にしてくれないか」日奈子が傷ついたように後ずさる姿を見て、彼は慌てて言葉を続けた。「違う、そういう意味じゃない。ただ少し休みたいだけなんだ。離婚を後悔なんてしてない。君をそばに置いたことも後悔していない。俺にとって、一番大切なのは君なんだから」そう自分に言い聞かせる。これはただの禁断症状だ、と。柚月がいなくなったことに慣れていないだけなのだ、と。けれど時間が経つほど、その思い込みは崩れていった。二人を比べるたび、苦しさは増していく。夢の中でさえ、柚月が帰ってきたような錯覚を見るようになった。夜中、無意識に彼女の名前を呼んでしまうこともある。そんなたびに、日奈子は冷
「慶介さん……柚月さんは今回、本気で離婚するつもりなんじゃない?」その言葉を聞いた瞬間、慶介は痛いところを疲れたかのように、反射的に日奈子の腕を振り払った。「柚月が?あり得ない。俺が死んだって、あいつは離婚しない」そう言い切ったものの、その声にはわずかな迷いが混じっている。日奈子は内心で呆れながらも、目にはたちまち涙を浮かべる。「どうしよ……事務所のみなさんが待っているよ。全部私のせいなの……本当は私の仕事なのに、何もできないから慶介さんに迷惑ばかりかけて……」そう言って自分の頬を軽く叩き、今にも泣き崩れそうな素振りを見せる。慶介は完全に折れ、慌てて彼女を抱き寄せた。「大丈夫だ。今夜、俺が全部教える。柚月がいなくなったくらいで困ると思ってるなら、大間違いだ」その夜、慶介は徹夜で資料をまとめ上げた。一方の日奈子は、彼の膝を枕代わりにして、早々と眠りについた。「夫は働き、妻は使う」そんな冗談を口にしながら。翌朝になると、彼女は何事もなかったように、その資料を自分の成果として事務所へ持ち込んだ。彼女は少し頬を赤らめながら、申し訳なさそうに頭を下げる。「皆さん、ご迷惑をおかけして申し訳ありません。私がまだ仕事に慣れていなくて、進行を遅らせてしまいました。柚月さんのせいではありません。きっと怒りのあまり、仕事の引き継ぎをする余裕がなっかただけなんだと思います。でも昨夜、なんとか資料をまとめることができました。もし不備があれば、遠慮なく教えてください」慶介の仕事上の実力は本物だった。一晩で仕上げた資料は決して完璧ではなかったものの、新人がまとめたものとしては十分な出来栄えだった。事務所では感心する声も少なくない。だが当の慶介だけは、終始浮かない顔で席に座っている。徹夜で働いたのは自分だ。日奈子は起きるなり、彼の頬に軽くキスをして笑った。「慶介さん、本当にすごい。この資料があれば、私も事務所で認めてもらえるね」本来なら、それだけの話だった。彼女を支えると決めたのも自分だ。それでも胸の中には、言いようのない違和感が残る。一晩中働き続けた自分を労うどころか、朝食一つ用意してくれることもなかった。日奈子は自分の身支度に夢中で、朝食を買う時間すらないまま家を出た。慶
一方その頃――日奈子はスマホを握り締めたまま、ぽろぽろと涙をこぼした。「慶介さん……柚月さんは私のことを嫌っているの?全部、私が悪いわ。病気になんてならなければ、二人が離婚することもなかったのに……やっぱり私のことは放っておいて、柚月さんのところへ戻ってね」彼女はそう言って立ち上がろうとしたものの、力が入らず、そのまま慶介の胸へ倒れ込む。「何を言ってるんだ」慶介は苛立ったようにスマホを放り出し、慌てて彼女を抱き寄せた。「柚月が本気で離婚するはずがない。どうせ俺を家に帰らせるための芝居だ。SNSを更新したかと思えば、そのうちまた尻尾を振って戻ってくるさ」彼には絶対の自信があった。この世の誰が自分のもとを去ろうと、永井柚月(ながい ゆづき)だけは絶対に離れない。離婚騒ぎなど、これまで何度も繰り返してきた。離婚届にだって、何度署名したか分からない。それでも最後には、一度として本当に離婚には至らなかったのだから。日奈子は頬を膨らませ、軽く彼の胸を叩く。「もう、慶介さんったら」二人が再び甘い雰囲気に包まれようとした、その時だった。スマホの着信音が鳴り響く。法律事務所からだった。まもなく開廷を迎える二件の案件について、準備の進捗を確認したいという連絡だった。その一言で、慶介の額には冷や汗が滲む。この頃彼は日奈子と過ごすことばかり考えていて、どう言い訳をするかに気を取られ、案件のことなどすっかり頭から抜け落ちていた。だが、すぐに思い返した。柚月がいる。あの案件なら、彼女が完璧に資料を整理しているはずだ。「妻、いや……柚月に聞いてくれ」電話の向こうは一瞬言葉を失った。やがて、どこか困惑した声が返ってくる。「人事から聞いていませんか?永井さんの業務はすでに後任へ引き継がれています。今日は出勤もされていません」相手が柚月の退職を伝え終わる前に、慶介は遮った。「そんなの彼女が俺を呼び戻すための駆け引きだ。ちょっと待って、今すぐ彼女に連絡する」そう言って慣れた手つきでスマホを開き、柚月とのトーク画面を表示した。そこには六年間、彼女から送られてきたメッセージがびっしりと並んでいる。今日の食事。日々の出来事。仕事の進捗や必要な資料。彼女はどんな些細なことで