ログイン夕奈の葬儀は、とても質素なものだった。澪の希望によるものだ。「夕奈は生前、騒がしいのが大嫌いだったの。偽善者たちに、夕奈の最期を汚させないで」澪は夕奈の遺骨を抱きしめ、墓前に立つ涼介を冷ややかな目で見下ろしていた。スーツ姿の涼介は、まるで別人のように痩せこけていた。目元はやつれ、あごには青い無精ひげがびっしりと生えている。空からは、冷たい雨がしとしとと降り続いていた。傘も差さず、涼介は冷たい雨を頭からかぶり、そのまま襟元へと流れるままにしていた。涼介は、墓石に飾られた1枚の墓誌をじっと見つめていた。写真の中の夕奈は変わらず優しく微笑んでいるけれど、もう二度と応えてくれることはない。「もう、帰ってくれる?」澪は白い菊の花束を供えると、涼介に背を向け冷たく告げた。涼介は何も言わなかった。彼はゆっくりとしゃがみこみ、震える指先で墓石に刻まれた冷たい文字をなぞる。「夕奈、夏希を警察に突き出したよ」涼介は低い声で呟いた。「あいつが横領した証拠は全部集めた。最低でも懲役10年はくだらない」それは、夕奈へのせめてもの償いだった。そして自分自身に残された、最後の救いだったのかもしれない。もう、夕奈にはどうでもいいことだというのに。涼介はまる一日、墓前にひざまずき続け、足の感覚がなくなるまで動こうとせず、最後は裕司たちに抱きかかえられて無理やり連れ出された。3年後。江川市のビジネス界に激震が走った。かつて華々しかった諏訪グループは、涼介の無謀な事業拡大と極端な経営判断の末、倒産に至った。誰もが、涼介は気が狂ったと言っていた。会社が正念場を迎えていた時期、涼介は何十億もの契約を投げ打って、深津市の孤島で日が沈むのをただ眺めて過ごしていたという。持っていた財産はすべてある療養センターに寄付してしまい、自分自身は莫大な借金を抱えていた。大晦日の夜。江川市の街は正月らしい賑わいに包まれていた。店先には門松やしめ飾りが並び、行き交う人々の新年の挨拶があちこちから聞こえてくる。涼介はボロボロのコートに身を包み、湿気くさいアパートでうずくまっていた。明かりもなく、小さなテーブルに置かれた一本のろうそくが、心細く光を放っているだけだ。その傍らには、乾ききった焼き芋が一つ。今
涼介が金にものを言わせて繋ぎ留めようとしていた最後の希望も、ついに断たれた。高額の報酬で呼び寄せた内外の著名な専門医たちも、カルテの数値を見て一様に首を振った。「諏訪さん、患者さんの胃はもう限界を超えています」主治医は重い口調で、病室の外にいた涼介に告げた。「これ以上の無理な延命処置は、ただ苦しみを長引かせるだけです。覚悟を決めてください。あと、数日しか……もたないでしょう」涼介は冷たい壁に背中を預け、その場に崩れ落ちた。両手で顔を覆い、喉の奥から殺しきれない嗚咽が漏れた。十億単位の資産を築き、人の運命すら自在に操れる地位を得たのに。夕奈の命は、たった一日だって買うことができない。……病室では、起きていられる時間が少しずつ減っていった。気づけば、一日の大半を昏睡状態のまま過ごしていた。涼介はベッドの脇から一歩も動こうとしなかった。彼は何度も丁寧に、私の乾ききった唇に湿らせたガーゼをあててくれる。苦痛で眉をひそめる私を見つめ、自分がナイフで胃を抉られたほうがマシだと、そんな悲痛な眼差しで私を見守る。「夕奈、目を開けてくれよ。頼むから」ある深夜、涼介は冷たくなった私の手を握りしめ、自分の頬に押し当てた。「生きててくれるなら、俺はもう何もいらないんだ。会社も金も、すべて手放していい。あの薄暗いアパートで、二人で暮らそう?」知覚を失った私に向かって、涼介は届かぬ約束を何度も何度も呟き続けた。3日目の明け方、水平線の向こうがわずかに白んできた時、私はふと目を開けた。自分でも不思議なくらい頭はすっきりしていて、頬には淡い赤みが戻っていた。ハッとした顔で涼介が目覚め、喜びに顔を輝かせた。「夕奈!目を覚ましたんだね!どこか痛むか?腹は空いてないか?すぐ医者を呼ぶ!」慌ててナースコールに手を伸ばそうとする涼介を、私は弱い声で呼び止めた。その声は小さくとも、不思議なほどはっきり響いた。涼介は空中で手を止めたまま、ゆっくりと下ろした。彼はベッドの傍らに膝をつき、祈るように私を見つめている。「いるよ。俺はずっと、ここにいる」私は涼介を見ない。肩越しに、窓の外で輝きを増していく海を見ていた。「本当に、綺麗な朝ね」私は穏やかに言った。涼介は私の視線の先を見た。
「夕奈、一緒に帰ろう?」涼介がベッドの傍らに膝をつき、私の冷え切った指先を強く握りしめた。彼は聞き苦しいほどしゃがれた声で泣きじゃくり、真っ白なシーツの上に涙をポタポタとこぼしていた。「夏希はもうクビにした。会社の株も全部、お前に譲る。世界で一番の癌の専門医も探したんだ。海外で治療すれば、絶対よくなる!」涼介は支離滅裂な言葉で、これですべてを取り戻せると信じている切り札を次々と口にした。私は彼にされるがままに手を握られ、拒もうとはしなかった。それどころか、呼吸一つ乱れなかった。窓の外から潮風が吹き込み、私の細く枯れ果てた髪がゆらゆらと揺れた。「涼介」私はようやく口を開いた。声は小さかった。「夕日が見えないから、どいてくれない?」涼介の体がびくりと硬直した。彼は顔を上げ、信じられないという目で私を凝視した。かつて涼介を映していたはずの私の瞳は、今はただ虚ろな荒野のように静まり返っていた。彼が予想していたような激しい罵倒を浴びせることも、わめき散らす気力さえ、私にはなかった。あるのは、ただ静かな諦めだけだった。その静寂は、どんなに酷い言葉よりも涼介を絶望の淵に突き落としたようだった。「夕奈、殴っていいし、怒ってくれてもいい。お願いだからそんな目で見ないでくれ……」涼介は慌てて私の頬に触れ、かつてのぬくもりを探そうとあがいた。「俺たち7年も付き合ってきたんだ。それなのに、こんな簡単に捨てるのか!」涼介は7年という費やした時間を使って、私の情に訴えかけようとした。けれど忘れている。この7年間、私が命を削りながら捧げてきたことを。私はゆっくりと手を引き抜いた。動きはひどく鈍かったが、抗いがたい拒絶の意思がそこにこもっていた。「7年」私はその言葉を噛みしめ、口元をわずかに歪ませた。「ええ、7年ね。腐ったパンを一緒に食べたことも、借金取りにペンキをかけられたこともあったっけ。あの時はただ辛い日々を乗り越えているつもりだった。本当は、私自身の命を削っていただけだったんだわ」涼介は激しく首を振った。涙と鼻水が混ざり、見るに堪えないほどみっともない顔をさらしていた。「違うんだ!愛しているのはお前だけなんだ!夏希との関係なんて、遊びに過ぎない!」涼介は必死になって弁
澪はパソコンのタイピングを止め、ゆっくりと顔を上げた。充血した目にぼさぼさの髪。そんな涼介を見て、澪は鼻で笑った。「諏訪社長、そんな芝居がかった悲劇の主人公気取りをして、一体誰に見せたいの?」澪は立ち上がると、涼介の瞳を真正面から射抜いた。「夕奈がどこにいようと、あんたには関係ないでしょ?」「俺は、夕奈の彼氏だ!」涼介は奥歯を噛みしめ、絞り出すようにそう言った。「彼氏?」澪は机の上の紙束を掴むと、涼介の顔めがけて叩きつけた。散らばった紙の端が涼介の頬をかすめ、細い切り傷が浮かんだ。「あんたに彼氏を名乗る資格なんてあるの?」澪の声は、抑えきれない怒りに震えていた。「夕奈はあんたと1年間も貧しい暮らしをして、胃を壊したのよ。その時、あんたなんて言った?『いつか必ず幸せにしてやる』、そう言ったわよね!それなのに結果はこれよ!その約束を、あの新人の女に渡したのね!」涼介の瞳孔が小さく震えた。言い返そうとしたが、喉から言葉が出てこなかった。「夕奈が癌だと診断された時、あまりの痛みにベッドで転げ回ってたの」澪の瞳は赤く充血し、涙が大粒のしずくとなって机に滴った。「夕奈はあんたに13回も電話をかけたわ!13回もよ!その頃あんたは一体何してたの?インスタで浮気相手の投稿に『いいね』でも押してたんでしょ!」雷に打たれたように、涼介は硬直した。13回の電話……思い出した。あの日、自分は夏希と絵画展に行っていて、通知が鳴るのがうざくてサイレントモードにしていたんだ。後で確認して返した言葉は、【今忙しいから、何かあったらメッセージで送って】という冷たい一言だった。夕奈から返信はなかった。その日以来、夕奈はすっかり大人しくなってしまった。「夕奈はもう、とっくにあんたを見限ってるのよ」澪は大きく深呼吸をし、涙を拭うと、再び氷のような冷静さを取り戻した。「夕奈の遺言よ。あんたには二度と会いたくないって。あんたは汚らわしいんだってさ」その一言は、ナイフのように涼介の心臓に突き刺さった。彼はふらつきながら後ずさりし、横にあった観葉植物をなぎ倒した。床に溢れた土で、高級な革靴が汚れるのも気にしなかった。涼介は一言も返せず、その場を去った。その背中は、見る影もな
看護師のその言葉は、涼介の耳に突き刺さった。頭がガンガンと鳴り、目の前の光景がぐらりと揺れた。「何の末期ですって?」掠れた声で、涼介はそう尋ねるのが精一杯だった。看護師は眉をひそめ、パソコンの画面を少し涼介の方に向けた。「末期の胃腺がんで、腹膜播種も見られます。あなたはご家族の方ですよね?一ノ瀬さんの異変に少しも気づいていなかったのですか?」涼介は画面に映った夕奈の名前を凝視した。これまで信じてきた確固たる理性と余裕が、みるみるうちに音を立てて崩れ去った。「彼女は当時……一人で来たんですか?」自分の声が震えて、廊下に虚しく響くのがわかった。「ええ」通りがかりの若い医師が、足を止めて口を挟んだ。「当時の診察室での光景を覚えています。一ノ瀬さんは痛みで立っていられなくて、額には冷や汗がびっしょり浮かんでいました」医師はやりきれない表情で首を振った。「ご家族の方は、と尋ねても『身内はいません。何があっても、全ての責任は私自身で取ります』とだけ答えてました。そのまま一人で廊下のベンチに座り込んで、書類にサインを済ませたんです」涼介は急激に呼吸が苦しくなるのを感じた。ふらふらと後ずさり、背中を冷たい壁に打ちつけた。水曜日の午後2時半。自分は高級歯科クリニックの診察室で、夏希の手を握り「親知らずを抜くだけだ、すぐ終わるから大丈夫」と優しくなだめていた。その頃、夕奈はこの薬品の匂いが漂う無機質な病院で、たった一人、死刑宣告にも等しい診断結果を受け止めていたのだ。涼介は憑かれたように病院を飛び出し、車を飛ばして自宅へと戻った。玄関のドアを押し開ける勢いで入り、靴を揃える余裕もなくゴミ箱へ直行した。ゴミ箱の中身は、家政婦によって綺麗に回収された後だった。涼介がゴミだと思って捨てた例の診断結果は、跡形もなく消えていた。夕奈の存在は、まるで最初からなかったかのように掃除されていた。涼介は寝室に飛び込み、あらゆる引き出しやクローゼットを乱暴に開け放つ。そこに夕奈のいた形跡を探し求めた。ない。何一つ残っていない。夕奈の痕跡は、跡形もなく消し去られていた。洗面所を見ても、お揃いで使っていた夕奈の分の歯ブラシさえもなくなっていた。涼介は力なくベッドの縁にへたり込んだ。
涼介は、その一行の文字に目を釘付けにした。リビングは、押し黙ったような静寂に包まれていた。診断結果を握りしめる指先に力が入り、紙がかさりと音を立てて歪んだ。「胃腺がん末期……」その言葉を低く呟いてから、涼介はふっと短く鼻で笑った。「夕奈、俺と結婚するために、またずいぶんと手の込んだ芝居をするんだな」診断結果をコーヒーテーブルへ投げだし、涼介は嘲笑をにじませた声で言い放った。涼介にとって夕奈は、いつも自分を縛りつけようとする女でしかなかった。彼はスマホを取り出し、慣れた手つきで夕奈の番号を押す。しかし、受話器からは冷たいアナウンスが流れた。「電波の届かない場所にいるか、電源が入っておりません」涼介の表情から、さっきまでの嘲りがわずかに消える。彼は寝室へ向かうと、ドアを勢いよく開け放った。クローゼットを覗くと、夕奈の服がいくつか消えていた。しかし、涼介が買い与えたブランドバッグや高価な装飾品は、そのまま元の場所に整然と並んでいる。ドレッサーの上に置かれたスキンケア用品も、指一本触れられた気配はない。「なかなか堂に入った芝居だな」涼介は吐き捨て、リビングに戻ってブランデーのグラスを満たした。どうせ、単に拗ねているだけだと思い込んでいるのだ。なにせこの7年間、夕奈は一度も強い口調で反論したこともなければ、家出さえしたことがなかったのだから。「せいぜい3日もすれば、尻尾を巻いて戻ってくるさ」酒を飲み干すと、涼介は診断結果を無造作にゴミ箱へと放り投げた。翌日の出社時も、涼介の様子は普段と少しも変わらなかった。彼は朝礼で、夏希をプロジェクトリーダーに抜擢することを平然と発表した。すると、会議室にどよめきが広がる。夏希は嬉しげに感謝の言葉を述べたが、視線は夕奈の誰もいないはずのデスクへ泳いでいた。「社長、一ノ瀬さんが今日まだ出社しておらず、電話もつながりません」人事の健二が、おずおずと状況を報告する。書類を見ていた涼介の手が、ほんの一瞬止まった。「あいつのことなら放っておいていいです」涼介は顔も上げず、事務的に冷たく突き放した。「皆勤手当はカットし、規定通りに欠勤として処理してください」会議室は水を打ったような静けさとなり、全員がただならぬ雰囲気に気付いた。