ログイン雪山の頂を目指すこの旅は、私、愛川真央(あいかわ まお)と日下部啓斗(くさかべ けいと)が前から約束していた、プロポーズのための旅だった。 出発前夜のキャンプ地で、ガイドが装備を確認していたとき、予備の防寒具が一式余っていることがわかった。 「日下部さん、予備が一式あります。どうしますか?」 その場にいた全員の視線が、私に向いた。 この登山が、私たちにとって特別なものになるはずだと、みんな知っていたからだ。 けれど啓斗は、隅でしゃがみ込み、寒さに震えている後輩――南条未亜(なんじょう みあ)に目を向けた。 啓斗の声は、あくまで穏やかだった。 「未亜に渡してください。本格的な雪山は初めてでしょうし、まずは体を慣らしたほうがいい」 未亜は頬を赤らめ、両手で装備を受け取ると、声を詰まらせた。 「ありがとうございます、啓斗さん」 ガイドは一瞬黙り込んだが、それ以上は何も言わなかった。 親友の城島美咲(じょうじま みさき)から、衛星電話が入った。 電話口の美咲は、ものすごい剣幕だった。 「あんたたち、山頂でプロポーズする約束だったんでしょ?それなのに、なんで南条まで一緒なのよ!?」 私は小さく笑って、込み上げかけた感情を押し込めた。 「いいの。私は予定どおり登るから」 山頂までは行く。 そこで、啓斗が口にするはずだった言葉を待つ。 最後まで彼が何も言わないのなら、そのときはもう、それでいい。
もっと見るそれきり、啓斗が私の前に現れることはなかった。美咲によると、啓斗は研究所を辞めて、この街を出ていったらしい。どこへ行ったのかは、誰も知らない。山奥の村へ行ったとも、外国へ行ったとも聞いた。どちらにしても、人の少ない遠い場所なのだろう。未亜もこの街を離れた。地元に戻り、その後結婚したと聞いた。あの山で何が起きたのか、未亜はいまも本当の意味では分かっていないのかもしれない。あるいは、分かっていても考えないようにしているのかもしれない。もう、どちらでもよかった。あの人たちも、あの出来事も、あの雪崩と同じだった。一度はすべてをのみ込んだのに、やがて見えないところへ沈んでいった。私は今も、この街で暮らしている。写真を撮り、レタッチをし、ときどき広告の仕事を受け、ときどき個展を開く。スタジオは一度、市街地から郊外の工業団地へ移した。前よりずっと広くなったのに、家賃は半分ほどで済んだ。窓の外には小さな林が見える。秋になると、葉が黄色く色づいてきれいだった。美咲は週に一度、何かしら作って持って来るようになった。煮込み料理だったり、具だくさんのスープだったり、その日によって違った。「真央、また痩せたでしょ」「痩せてないよ」「痩せた。頬が細くなってる。ほら、食べて」私は笑って受け取り、おとなしく食べた。蓮は、もう私を訪ねてこなかった。電話もかけてこなかった。彼の言った「待つ」は、ただ静かにそこにあるだけのものになった。踏み込んでこない。けれど、いなくなったわけでもない。SNSを開くと、たまに蓮の投稿が流れてくる。アルプスでパーティーを率いていたり、パタゴニアでアイスクライミングをしていたり。カラコルムの無名峰で撮った朝日の写真を上げていたこともあった。私はそのたびに、いいねを押した。たまに短くコメントを残すこともあった。【きれい】蓮から返事が来ることは、ほとんどない。それでも、ごくたまに一言だけ返ってくることがあった。【ああ】それだけで、少しだけ胸の奥が温かくなった。冬の気配がし始めたころ、私は決めた。あの雪山へ戻ろう、と。啓斗のためではない。果たされなかったプロポーズのためでもない。私自身のためだった。あそこは、私
3か月後、私のアウトドア写真が、市の写真展に並ぶことになった。会場は街の中心にある美術館で、朝から多くの人が出入りしていた。美咲は朝早くから来て、展示の準備を手伝ってくれた。ヒールのまま会場を行ったり来たりして、私よりずっとそわそわしていた。「真央!あの雪山の写真、ちょっと曲がってない?」「大丈夫だよ。ちゃんと掛かってる」「だめ。スタッフさんにお願いして直してもらおう」私は笑って、美咲の肩を軽く押さえた。「もういいって。本当に大丈夫だから」蓮も来ていた。彼は展示室の隅で、壁の写真を静かに眺めていた。見ていたのは、私がノルウェーで撮ったオーロラの一枚だった。淡い緑の光が夜空に広がり、その下には白い雪原が続いている。蓮はその前で、しばらく動かなかった。午後3時を過ぎたころ、展示室は少しずつ混み始めた。私はキュレーターと話していた。ふと入口のほうに、人影が見えた。啓斗だった。啓斗は以前よりずっと痩せ、頬はこけて、目の下には濃い影ができていた。何日もまともに眠っていないように見えた。啓斗は、あの青いシャツを着ていた。私が昔、いちばん好きだったシャツだ。袖口には、私が贈ったカフスボタンが留められていた。小さなエーデルワイスが刻まれた、銀色のものだった。啓斗は入口で足を止めたまま、展示室を見渡していた。私を見つけた瞬間、啓斗はその場に立ちすくんだ。目元がすぐに赤くなっていくのが分かった。それでも啓斗は、まっすぐこちらへ歩いてきた。美咲がすぐに私の前へ出た。「何しに来たの?」「少しだけ話をさせてくれ」声はかすれていて、ほとんどすがるようだった。「真央は会いたくないって言ってる」「頼む。少しだけでいい」私は美咲の腕にそっと触れた。「大丈夫」美咲は啓斗を睨んだまま、しばらく動かなかった。それでも最後には、何も言わずに横へ退いた。啓斗は私の前で立ち止まった。こうして顔を合わせるのは、半年ぶりだった。その目を見れば、後悔していることも、まだ私を手放せずにいることも分かった。「真央」啓斗の声は震えていた。「お前が俺を恨んでるのは分かってる。俺は、取り返しのつかないことをした。謝って済むことじゃないのも分かってる。許してく
1か月後、私はノルウェーから戻った。指の凍傷はかなりよくなり、左足のしもやけも薄い皮膚でふさがり始めていた。けれど、変わったのは体だけではなかった。胸の奥に残っていた冷たい感覚も、少しずつ遠のいていた。戻ってから、私はまず電話番号を変えた。それから引っ越した。啓斗のいる場所からできるだけ離れたくて、街の反対側へ移った。最後に、会社へ戻って仕事に打ち込んだ。久しぶりに会った美咲は、私の顔をじっと見て、それからようやく息を吐いた。「よかった。少し、前の真央に戻った感じがする」私は大手アウトドアブランドの広告撮影を任された。その後の2か月、チームはほとんど休みなく動いた。私も毎日のようにスタジオに残り、明け方まで写真の選別やレタッチに追われた。眠くなると机に突っ伏し、少しだけ目を閉じる。余計なことを考える暇もないほど忙しかった。それでも、たまに夜中に目が覚めることがあった。窓の外には街の明かりが見えた。オレンジ色の、暖かい光だった。クレバスの底にあった冷たい光とは違う。それだけで十分だった。啓斗は、私を探していたらしい。美咲が、あちこちで私のことを聞き回っていると言っていた。前に住んでいた部屋を訪ね、昔よく行っていたカフェにも顔を出したらしい。しまいには、私の母校の前で丸1日待っていたという。啓斗は美咲に、手紙まで渡した。けれど美咲は、私には見せなかった。「読んだら、また余計なこと考えるでしょ」「考えないよ」「いいから、読まなくていい」美咲はその手紙を、私の目の前で破った。ある土曜日の午後、私はスタジオで撮影データを整理していた。ドアを小さくノックする音がした。開けると、蓮が立っていた。黒いコートを着て、いつもと同じ落ち着いた顔をしていた。手には紙袋を提げている。「たまたま近くまで来た」私は少し笑った。蓮の家は街の北側で、スタジオは南側にある。たまたま通りかかる距離ではない。「入ってください」蓮はスタジオのソファに座り、私の作業を見ていた。2時間近く、ほとんど何も言わずにそこにいた。途中で私がコーヒーを渡すと、蓮は一口飲んで、ほんの少し眉を寄せた。「苦い」「もう慣れました」蓮はカップを見て、少し眉を寄せた。
啓斗は、もう20日も真央と連絡が取れていなかった。電話は何度かけてもつながらない。LINEを送っても既読はつかず、画面は沈黙したままだった。啓斗はリビングのソファに座り、スマホを握ったまま動けずにいた。何度も画面を開き、真央の名前を見つめる。それでも返事は来ない。耐えきれなくなり、啓斗はスマホをソファの横へ投げた。立ち上がってリビングを歩き回るうちに、腹の奥から苛立ちがこみ上げてきた。電話に出ず、説明する機会さえくれない真央に。何も言わず、自分の前から消えた真央に。自分が間違っていたことは分かっている。あの山で、エマージェンシーシートもロープも未亜に渡すべきではなかった。けれど、あのときは本当に余裕がなかった。どちらかを先に連れて下りるしかないと思った。真央は啓斗が知る中で、いちばん体力のある女性だった。高い山にも何度か登っているし、体力測定でも啓斗よりずっと上だった。だから、救助が来るまでなら持ちこたえられると思ってしまった。置き去りにするつもりなんてなかった。あのとき啓斗は、目の前で未亜が死ぬかもしれないことが怖かった。未亜はまだ若く、雪山の経験もほとんどない。細い体は震え、唇は紫色になるほど冷え切っていた。このままでは助からない。啓斗はそう思った。その一方で、真央なら何とかなると決めつけていた。強い彼女なら、救助が来るまで持ちこたえられるはずだと。彼女だって傷つくし、怖がるし、死ぬこともある。そんな当たり前のことを、あのときの啓斗は忘れていた。コン、コン、コン。ノックの音がした。啓斗がドアを開けると、淡い色のニットを着た未亜が立っていた。両手で保温容器を抱えている。「啓斗さん……」声は小さかった。「お母さまから聞きました。ずっと家にこもっていて、食事もあまり取れていないって……。料理、作ってきたんです。少しだけでも飲んでください」啓斗は未亜を見たまま、しばらく何も言わなかった。「未亜。今日は帰ってくれ」未亜は目を見開いた。「啓斗さん?」「もう来ないでくれ」声は低く、これまで未亜に向けたことのない冷たさがあった。「君に会いたくない」未亜を憎んでいるわけではない。ただ、未亜を見ると、どうしてもあの光景がよみがえる。