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005:緋色の祝言とあやかしの檻

Auteur: 佐薙真琴
last update Date de publication: 2025-12-14 05:21:08

第一章 雪の夜の嫁入り

 大正××年、帝都。

 鉛色の空から、牡丹雪が音もなく降り注いでいた。まるで天が泣いているかのような、静かな、しかし容赦のない雪だった。

 ガス灯の頼りない明かりが、石畳の路地を薄ぼんやりと照らしている。その静寂を破るように、一台の人力車が軋んだ音を立てて進んでいた。車輪が雪を踏みしめるたびに、ミシリ、ミシリと悲鳴のような音が響く。

 乗っているのは、一人の青年だ。

 千白ちしろ。二十一歳になる彼は、男でありながら白無垢を纏わされていた。

 没落した分家の生まれであり、稀代の「凶運」と忌み嫌われた霊媒体質。物心ついた頃から座敷牢に閉じ込められ、家族からすら疎まれて育った。千白の体質は、周囲のあやかしや悪霊を引き寄せる磁石のようなもので、彼が外を歩けば、必ず怪異が群がってきたのだ。

 そんな彼に与えられた最後の運命は、帝都の闇を鎮める退魔の名門・久堂くどう家への「生きた供物」としての嫁入りだった。分家は千白を売り払い、その代金で没落を多少なりとも遅らせようとしているのだ。

 (寒い……)

 綿帽子を目深に被った千白は、膝の上で震える手を重ねた。指先の感覚はとうに失われ、白い息だけが虚しく宙に消えていく。

 久堂家の当主・久堂蓮二郎は、冷酷無比な鬼神のごとき男だと聞いている。軍属の退魔師として数多の怪異を屠り、その刃は血に飢えているという。霊力を消耗しやすいその男の「器」として、千白は使い潰されるために買われたのだ。

 自分の命など、この雪のように儚く消えるのだろう。

 いや、もしかしたら雪よりも軽いかもしれない。雪はせめて地面に触れるまで存在を許されるが、自分は触れることすら許されずに消えるかもしれないのだから。

 千白は目を閉じた。幼い頃、座敷牢の格子から見上げた空の記憶が蘇る。あの狭い牢の中で、千白はただ一人、誰とも触れ合うことなく育った。家族は千白を恐れ、使用人は千白を忌避し、誰一人として優しい言葉をかけてはくれなかった。

 だから、もう何も期待していない。

 痛みがあるなら、せめて早く終わってほしい。それだけが、千白の願いだった。

 やがて車夫が足を止めた。目の前には、威圧的な武家屋敷の門がそびえ立っている。

 黒々とした門には、金色の家紋が鈍く光っていた。二匹の龍が絡み合う意匠は、見る者を威圧するかのように複雑で、禍々しい。

 門をくぐる。雪に覆われた庭には、奇妙な石灯籠が整然と並んでいた。よく見れば、その一つ一つに梵字が刻まれている。結界の要石だと、千白にはすぐに分かった。

 玄関で老齢の執事に出迎えられ、千白は冷え切った廊下を通された。板張りの廊下は磨き上げられていたが、どこか人の温もりを感じさせない。まるで神社の回廊のような、神聖だが近寄りがたい冷たさがあった。

 広間に座らされる。

 畳の井草の匂いに混じって、どこか鉄錆のような、血の匂いが漂っていた。いや、血だけではない。もっと濃密な、死の匂いだ。この部屋で、どれだけの怪異が祓われたのだろうか。

 千白は思わず息を詰めた。自分の体質のせいで、残留した霊気の痕跡が、まるで映像のように脳裏に流れ込んでくる。

 断末魔の悲鳴。飛び散る黒い血。そして、冷徹な瞳で刃を振り下ろす男の影――。

 「待たせたな」

 ふすまが開き、低い声が鼓膜を震わせた。

 千白はビクリと肩を揺らし、畳に額を擦り付けるように平伏した。心臓が激しく脈打ち、全身から血の気が引いていくのが分かる。

 入ってきた男――久堂蓮二郎は、陸軍の軍服の上に黒紋付の羽織を流し掛け、腰には長大な退魔刀を佩いている。

 整いすぎた顔立ちは氷の彫像のように冷たく、その眼光は人を射殺すかのように鋭い。身長は優に六尺を超え、その巨躯から放たれる圧は、千白の華奢な身体を押し潰さんばかりだった。

 これが、自分の「夫」になる男。

 千白は恐怖で身体が固まるのを感じた。

 「面を上げろ」

 命じられ、千白は恐る恐る顔を上げた。綿帽子の下から覗く瞳が、おずおずと蓮二郎を捉える。

 蓮二郎の瞳が、千白を値踏みするように細められる。その視線は、まるで刃物で肌を撫でられているような鋭さだった。

 「……噂通りの『器』だな。立っているだけで、そこら中の瘴気を吸い寄せている」

 蓮二郎の声には、嫌悪も軽蔑もなかった。ただ、事実を述べる冷静さだけがあった。それがかえって、千白を不安にさせる。

 蓮二郎は無遠慮に千白の顎を掴み、強引に上向かせた。革手袋の冷たい感触に、千白は息を呑む。まるで獲物を検分する猟師のような、容赦ない手つきだった。

 「私の霊力は枯渇寸前だ。手加減はできんぞ」

 「は、はい……覚悟は、しております……」

 千白が震える声で答えると、蓮二郎は鼻で笑い、乱暴に白無垢の襟を寛げた。

 白い肌が露わになる。千白は思わず目を伏せた。恥じらいというよりも、これから起こることへの恐怖からだった。

 蓮二郎が覆いかぶさる。その重みに、千白の身体が畳に沈む。それは夫婦の契りなどという生易しいものではなかった。

 首筋に、鋭い牙を突き立てられるような感覚。

 「あっ……!」

 痛みと共に、千白の身体から「何か」が吸い出されていく。それは魂を引き剥がされるような、恐ろしい感覚だった。同時に、蓮二郎の強大な霊気が逆流し、千白の空っぽの器を満たしていく。

 熱い。熱すぎる。

 体内を駆け巡る霊力は、千白が今まで感じたことのないほど純粋で、強烈だった。

 「あ、あっ……! 熱い、です……旦那様……!」

 「声が大きい。……耐えろ。これは浄化だ」

 蓮二郎の言葉通り、それは快楽に近い浄化の儀式だった。

 吸われるたびに、千白の身体に巣食っていた悪い気が祓われ、甘い痺れが爪先まで駆け巡る。長年、座敷牢で蓄積されていた淀んだ気が、まるで膿を絞り出すように排出されていく。

 恐怖していたはずなのに、身体は熱を帯び、男の下で喘いでいる。

 白無垢が乱れ、赤い長襦袢が雪崩のように広がる。

 その光景は、雪の上に落ちた椿の花のように、残酷で、あまりにも鮮烈な美しさだった。蓮二郎の黒い軍服と、千白の白と紅が織りなす対比は、まるで一枚の絵画のようだった。

 やがて、全てが終わった時、千白の意識は遠のいていた。

 最後に聞こえたのは、蓮二郎の低い呟きだった。

 「……よく、耐えた」

 その声には、わずかに労りのような響きがあった。しかし、朦朧とした千白には、それを確かめる術はなかった。


第二章 籠の鳥と番犬

 あの日から、千白は久堂家の離れにある座敷牢――いや、見た目は豪華な客間だが、強力な結界が張られた部屋で暮らしていた。

 外出は禁じられている。窓には霊的な封印が施され、扉には梵字が書かれた札が貼られている。千白が一歩でも敷居を跨げば、即座に蓮二郎に感知される仕組みになっているのだと、使用人が教えてくれた。

 千白の役割は、夜ごと帰還する蓮二郎を迎え入れ、その身を差し出して霊力を中和させることだけだ。

 蓮二郎は毎晩、怪異討伐から戻ってくる。返り血を浴び、疲労困憊した姿で部屋に入ってくると、無言で千白を抱き寄せる。そして首筋に口づけ、千白の霊力を吸い上げ、自らの力を注ぎ込む。

 それは痛くもなく、苦しくもなかった。むしろ、千白の身体は徐々に浄化され、座敷牢にいた頃よりも健康になっていった。肌には血色が戻り、髪には艶が出た。

 だが、千白には一つだけ解せないことがあった。

 道具として扱われているはずなのに、生活は驚くほど厚遇されていたのだ。

 食事は最高級の仕出し弁当。季節の食材をふんだんに使った料理は、千白が座敷牢で食べていた粗末な食事とは比べ物にならなかった。着るものは京友禅の艶やかな着物で、帯締めや帯揚げに至るまで、一流の職人が仕立てたものばかりだった。

 そして時折、不器用な手つきで「土産だ」と渡される菓子や装飾品。

 蓮二郎は決して多くを語らなかったが、その行動には明らかな矛盾があった。道具を、こんなに大切に扱うものだろうか。

 ある日の午後。

 千白は縁側に座り、庭を眺めていた。結界の外には、紅葉が美しく色づいている。触れることは叶わないが、目で楽しむことはできた。

 その時、早めに帰宅した蓮二郎が現れた。

 いつもは夜遅くまで任務に従事しているはずなのに、今日は珍しく陽が高いうちに戻ってきたのだ。

 手には、小さな桐箱を持っている。

 「……やる」

 蓮二郎が突き出した箱を開けると、そこには鼈甲に珊瑚をあしらった、美しいかんざしが入っていた。

 繊細な細工が施された簪は、行灯の光を受けて妖しく輝いている。男の千白には不釣り合いなほど高価な品だ。

 「旦那様、これは……。私のような道具には、勿体ない品です」

 「道具、道具と卑下するな」

 蓮二郎は不機嫌そうに眉を寄せ、千白の手から簪を取り上げると、自らの手で千白の髪に挿した。

 その指先が、不意に千白の耳朶を撫でる。

 初夜の時とは違う、慈しむような温かい手つきだった。千白は思わず息を呑んだ。この男の手が、こんなに優しい温もりを持っているなんて。

 「お前は私の『器』だ。器が美しくなくては、私の格に関わる。……それに」

 「それに?」

 「……いや。何でもない」

 蓮二郎は言葉を飲み込み、そっぽを向いた。

 その横顔には、疲労の色が濃く滲んでいる。眉間には深い皺が刻まれ、目の下には隈ができていた。

 帝都には今、原因不明の「あやかし」が大量発生しており、軍属の退魔師である蓮二郎は連日最前線で戦っているのだ。今月だけでも、土蜘蛛が三体、河童の群れが一度、そして正体不明の瘴気の塊が二度、帝都を襲っていた。

 千白は、衝動的に蓮二郎の袖を掴んだ。

 「旦那様。……お疲れなら、膝枕でもいたしましょうか。気休めにもなりませんが」

 蓮二郎は驚いたように目を見開いた。その瞳には、一瞬だけ戸惑いのような色が浮かんだ。まるで、優しさを向けられることに慣れていない子供のような表情だった。

 やがて蓮二郎はフッと力を抜き、無言で千白の膝に頭を預けて横になった。

 軍服の重みと、男の体温が、千白の太腿に伝わってくる。

 千白は恐る恐る、蓮二郎の硬い髪を梳いた。丁寧に撫でると、意外にも滑らかで、指通りが良い。

 蓮二郎は目を閉じ、深く息を吐いた。その表情から、いつもの鋭さが消えていく。

 ああ、この人は、鬼神などではない。

 ただ、一人で全てを背負い込み、誰よりも傷ついている孤独な人なのだ。

 千白の胸に、同情とは違う、温かい感情が芽生え始めていた。それが何なのか、千白自身もまだ理解できていなかったが。

 「……千白」

 「はい」

 「お前は、怖くないのか」

 蓮二郎が目を閉じたまま、ぽつりと呟いた。

 「私は、多くの命を奪ってきた。人ならざるものとはいえ、この手は血で汚れている。……そんな男に触れて、お前は恐ろしくないのか」

 千白は少し考えてから、静かに答えた。

 「恐ろしくありません。旦那様の手が汚れているのなら、私の手で清めれば良いのです」

 蓮二郎の瞳がゆっくりと開いた。その目には、千白が見たことのない柔らかな光が宿っていた。

 「……馬鹿だな、お前は」

 そう言いながら、蓮二郎の口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。

 千白は、初めて蓮二郎の笑顔を見た気がした。


第三章 逢魔が時

 その夜、蓮二郎は遠征で帝都を離れていた。

 北の山中に強力な妖怪が出現したとの報告を受け、軍の退魔部隊を率いて討伐に向かったのだ。三日は戻らないだろうと、執事が千白に告げていた。

 屋敷を守るのは数人の使用人と、敷地に張り巡らされた結界のみ。

 千白は一人、寝所で夜を過ごしていた。

 蓮二郎のいない夜は、不思議と寂しかった。あの重い存在感、鋭い視線、そして時折見せる優しさ――それらが全て、今はここにない。

 布団の中で、千白は蓮二郎が髪に挿してくれた簪を撫でた。温もりが残っているような気がして、少しだけ心が落ち着く。

 丑三つ時。

 千白が浅い眠りについていた時、異変が起きた。

 不気味な風鳴りと共に、庭の灯籠が一斉に消えた。

 ズズズ……と地響きがして、結界がガラスのように砕け散る音が響く。

 「ひっ……!」

 千白が寝所から飛び起きると、障子の向こうに巨大な影が蠢いていた。

 その影は異様に大きく、八本の足を持っていた。

 土蜘蛛だ。

 蓮二郎の霊力を狙い、その供給源である千白を喰らいに来たのだ。蓮二郎が不在の今が、絶好の機会だと踏んだのだろう。

 天井から粘着質な糸が垂れ、障子が引き裂かれる。

 現れたのは、牛ほどの大きさもある醜悪な蜘蛛の化け物。八つの目が、ギラギラと千白を捉えた。全身は黒い甲殻に覆われ、巨大な顎からは毒液が滴り落ちている。

 『美味そうな……匂いだ……久堂の匂いがする……』

 土蜘蛛が人の言葉を操り、千白を嘲笑う。

 廊下の向こうから、使用人たちの悲鳴が聞こえる。このままでは、皆殺しにされる。

 千白は震える足で立ち上がり、懐刀を構えた。

 戦う力などない。けれど、自分が囮になって時間を稼げば、あるいは誰かが逃げ延びられるかもしれない。

 「私はここだ! ……あの方の大事な器は、ここだぞ!」

 千白が叫び、庭へと飛び出した。雪の上を裸足で駆ける。冷たい雪が足裏を刺すが、構っている場合ではなかった。

 土蜘蛛が歓喜の声を上げ、猛スピードで追いかけてくる。その巨体が地面を踏みしめるたびに、地響きが起こる。

 『逃げるな、小僧! 大人しく喰われろ!』

 鋭い爪が振り上げられ、千白の身体を引き裂こうとした――その瞬間。

 閃光が走った。

 銀色の軌跡が闇を切り裂き、土蜘蛛の巨大な足が宙を舞う。黒い血が雪の上に飛び散った。

 「ギャアアアアッ!」

 「……よくも。私の庭に土足で踏み込んだな」

 地獄の底から響くような、ドスの利いた声。

 千白の前に立っていたのは、返り血を浴びた蓮二郎だった。

 その瞳は、あやかしよりも禍々しいほどの怒りに赤く輝いている。全身から放たれる殺気は、まさに修羅そのものだった。

 「旦那様……! 遠征は……」

 「囮だ。こいつらを誘き出すための。……だが、まさか本当に来るとはな」

 蓮二郎の声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。

 「千白、目を瞑っていろ。……見るに堪えん肉塊にしてやる」

 蓮二郎が退魔刀を一閃させる。

 それは剣技というより、嵐だった。圧倒的な霊圧が土蜘蛛を押し潰し、次の一撃で霧散させる。

 断末魔すら残さず、怪異は消滅した。

 静寂が戻った庭に、蓮二郎の荒い息遣いだけが響いていた。

 「……怪我は」

 蓮二郎が振り返り、駆け寄ってくる。

 その顔を見て、千白は安堵のあまり腰を抜かした。立っていた足から力が抜け、雪の上に崩れ落ちる。

 蓮二郎は泥と雪に塗れるのも構わず膝をつき、千白を強く抱きしめた。

 ギリギリと骨が軋むほどの強さ。

 震えているのは、千白ではなく、蓮二郎の方だった。

 「無事か……。すまん。私が離れたばかりに……」

 「旦那様、私は無事です。あなたが来てくださったから」

 蓮二郎は何も言わず、千白の首筋に顔を埋めた。

 その首筋には、かつて蓮二郎が付けた浄化の痕が残っている。

 彼はそれを確かめるように、何度も何度も唇を押し付けた。まるで、千白が本当にここに存在することを、自分の唇で確認しているかのように。

 千白は、蓮二郎の背中に腕を回した。この人は、本当に自分のことを心配してくれているのだと、初めて実感した。


第四章 朱の契り

 屋敷の奥座敷。

 急ごしらえの布団に横たえられた千白を、蓮二郎が手当てしていた。

 裸足で雪の上を走ったため、千白の足裏は赤く切れ、滲んだ血が白い包帯に朱色の花を咲かせている。

 蓮二郎の大きな手が、千白の小さな足を包み込む。その手つきは驚くほど丁寧で、まるで壊れ物を扱うかのようだった。

 「痛むか」

 「いいえ。……旦那様こそ、霊力を使いすぎてはいませんか」

 千白が心配そうに尋ねると、蓮二郎は自嘲気味に笑った。

 「ああ。空っぽだ。お前が無事だと分かった瞬間、気が抜けた」

 蓮二郎は千白の手を取り、自分の頬に当てた。

 その目は、もう千白を「道具」としては見ていなかった。そこにあったのは、何かを失うことへの恐怖と、そして深い愛情だった。

 「千白。私は嘘をついていた」

 「嘘、ですか?」

 「お前を買ったのは、霊力のためだけではない。……お前の生家の座敷牢で、誰にも知られず泣いていたお前を、ずっと前から見ていた」

 それは、意外な告白だった。

 千白は目を見開いた。座敷牢にいた自分を、蓮二郎が知っていた?

 「五年前だ。お前の一族が起こした怪異騒ぎの調査に赴いた時、偶然、座敷牢に閉じ込められたお前を見た。……まだ十六だったお前は、あまりに痩せ細り、誰にも触れられることなく、ただ泣いていた」

 蓮二郎の声には、当時の痛みが滲んでいた。

 「お前をあの地獄から救い出したかった。だが、久堂家に入れるには『生贄』という名目が必要だったのだ。……道具だと言えば、お前を縛り付けておけると思った。お前が逃げ出さないように、恐怖で支配できると思った」

 不器用すぎる男の、歪んだ愛の形。

 千白は涙が溢れるのを止められなかった。

 この人は、最初から自分を守ろうとしてくれていたのだ。冷酷な仮面の下に、こんなに優しい心を隠していたのだ。

 「旦那様……。私を、もう一度『食べて』ください」

 千白は起き上がり、蓮二郎の軍服のボタンに手をかけた。

 「今度は、道具としてではありません。あなたの妻として、私の全てを差し上げたいのです」

 「……後悔しないか。私はあやかしを斬り続ける修羅だぞ」

 「望むところです。私は、その修羅の鞘になりましょう」

 蓮二郎の瞳が揺れ、やがて強い光を宿した。

 彼は千白をゆっくりと押し倒し、帯を解いた。

 露わになった肌に、蓮二郎の指が這う。その感触は、雪解け水のように優しく、そして火傷しそうなほど熱い。

 「愛している、千白」

 「はい……私も、お慕いしております。蓮二郎様」

 重なり合う唇は、渇いた獣が泉を貪るかのように、深く、どこまでも濃密だった。

 一度目の契りが、生存のための冷ややかな儀式だったとするなら、二度目のこれは、互いの存在証明を刻みつけるための、焦げるような烙印だった。

 「ん、ぁ……っ、蓮二郎、さま……息が……っ」

 千白の喉から、甘く頼りない喘ぎが漏れる。

 だが、蓮二郎はそれを許さないとばかりに、再びその薄い唇を塞ぎ、舌を深く侵入させた。

 蓮二郎の舌先が、千白の口内を執拗に蹂躙する。上顎をなぞり、逃げる舌を絡め取り、唾液と共に互いの熱を交換し合う。それは接吻というよりも、互いの生命力を啜り合う捕食行為にも似ていた。

 蓮二郎の骨ばった指が、千白の帯に掛かる。

 しゅるり、と衣擦れの音が静寂に響いた。

 上質な絹の帯が解かれ、長襦袢が花弁のように開かれる。

 行灯の揺らめく光の中に、雪よりも白い千白の肌と、それを縁取る襦袢の緋色が、残酷なほど鮮やかな対比を描き出した。

 「美しい……。お前は、本当に……」

 蓮二郎が掠れた声で呟き、千白の鎖骨に熱い吐息を吹きかける。

 戦いで昂ったままの蓮二郎の霊圧は、凄まじい熱量を持っていた。彼が指先で千白の乳首を掠めただけで、そこから火花が散るような痺れが走る。

 「あっ、ひぅ……! だめ、です、そんなに強い力が流れてきたら、私……っ」

 「受け入れろ。私の全てを、その身体で飲み干すと言ったろう」

 蓮二郎は容赦しなかった。

 千白の華奢な腰を大きな掌で掴み上げ、自身の熱く滾る楔を、千白の秘所に宛がう。

 準備など必要なかった。千白の体質うつわは、既に主人の強大な霊気を求め、濡れそぼり、熱を持って開いている。

 ずぷり、と沈み込むような音と共に、二つの身体が一つに繋がった。

 「あ、あああぁッ……!」

 千白の背中が大きく弓なりに反る。

 物理的な質量と共に、奔流のような霊力が体内へ雪崩れ込んでくる。

 それは、ただの快楽ではなかった。

 あやかしを斬り伏せてきた修羅の気、血の匂い、そして蓮二郎という男が抱える孤独と愛執――それら全てが、濁流となって千白の魂を犯し、染め上げていく。

 痛いほどに満たされる感覚。

 空っぽだった器に、熱い黄金の蜜が注ぎ込まれるような陶酔。

 千白の視界が白く明滅する。

 「千白、私の名を呼べ。……誰のものか、その魂に刻んでやる」

 蓮二郎が千白の耳元で低く囁き、腰を打ち付ける。

 激しい愛撫のたびに、部屋に立ち込める白檀の香りが揺れ動く。高貴な香木の香りと、二人の肌から立ち昇る汗と雄の匂いが混ざり合い、むせ返るような芳香となって部屋を満たしていた。

 「あ、あっ、蓮二郎さま……! あなたの、ものです……身体も、魂も、この命の最期の一滴まで……ッ!」

 千白は泣きながら、蓮二郎の逞しい背中に爪を立てた。

 足裏の怪我に巻かれた白い包帯が、乱れた襦袢の赤に映える。その痛々しささえも、今の蓮二郎には嗜虐心を煽る極上のスパイスだった。

 蓮二郎の瞳が、怪異のように怪しく輝く。

 彼は千白の首筋――あやかしを引き寄せるというその急所に、所有印を刻むように深く牙を立てた。

 「そうだ。お前は私の鞘だ。……二度と放さん」

 最奥を突かれるたびに、千白の身体から悪い気が抜け、代わりに蓮二郎の清冽で強烈な気が充填されていく。

 循環する霊力。

 溶け合う境界線。

 どこからが自分で、どこからが彼なのか、もう分からなかった。

 ただ、二つの魂が螺旋を描いて絡み合い、一つに編み上げられていく感覚だけが鮮明にある。

 「いくぞ、千白……共に堕ちろ……ッ!」

 「はい、どこまでも……連れて行って、ください……ッ!」

 絶頂の瞬間、蓮二郎は千白をきつく抱きしめ、その最奥に熱い種と、ありったけの愛を注ぎ込んだ。

 千白の意識が弾け飛び、目の前が真っ白に染まる。

 それは死にゆく瞬間の静寂にも似た、完璧な幸福だった。


終章 永遠の微熱

 荒い呼吸だけが残る部屋。

 汗に濡れた肌と肌が張り付く音。

 蓮二郎は、ぐったりと腕の中で微睡む千白の、汗ばんだ額の髪を優しく払い、その瞼に口づけを落とした。

 鬼神の面影は消え、そこにはただ、愛しい妻を慈しむ一人の男の顔があった。

 外の世界では夜が明けようとしていたが、この部屋の時間は止まったままだ。

 朱と白が混ざり合うあやかしの檻の中で、二人は永遠の微熱に囚われていた。

 窓の外では、雪が止み、雲の切れ間から月が顔を出していた。

 その青白い光は、寄り添って眠る二人を、静かに祝福しているようだった。

 あやかしの檻はもうない。

 ここにあるのは、血よりも濃い絆で結ばれた、愛の巣だけだった。

 千白は蓮二郎の胸に顔を埋めながら、幸福の余韻に身を委ねていた。もう、座敷牢に閉じ込められていた頃の孤独はない。この人の腕の中にいる限り、自分は一人ではないのだ。

 蓮二郎の大きな手が、千白の背中を優しく撫でる。

 「寝るか」

 「はい……でも、旦那様」

 「ん?」

 「明日の夜も、また……」

 千白の言葉に、蓮二郎は低く笑った。

 「当たり前だ。お前は私の妻だ。……一生、離さん」

 その言葉は、呪いのようでもあり、祝福のようでもあった。

 千白は微笑み、静かに目を閉じた。

 この人と共に生きていける。それだけで、千白は満ち足りていた。

 雪が静かに降り積もる帝都の夜。

 久堂家の奥座敷では、二つの魂が永遠の契りを交わし、新しい物語を紡ぎ始めていた。

 それは、血と雪と愛に彩られた、美しくも残酷な物語。

 そして、誰にも邪魔されることのない、二人だけの秘密の物語だった。

(了)

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    第一章 鬼哭の生贄 平安の都から遠く離れた、丹波国・大江山。 鬼が住まうとされるその魔の山へ、霧深い夜、一人の男が登っていた。 男の名は十蔵(じゅうぞう)。山寺の僧兵であるが、その風体は僧侶というよりは岩の巨木であった。 身長は六尺三寸(約一九〇センチ)を超え、僧衣の上からでも分かる丸太のような腕と、樽のような胸板。生まれつき常人離れした巨体と怪力を持つ彼は、幼い頃から「鬼子」と恐れられ、寺でも持て余される厄介者だった。(……これでいい。俺のような化け物は、鬼の腹に収まるのがお似合いだ) 十蔵は自嘲気味に笑った。 最近、里で鬼の被害が相次ぎ、その怒りを鎮めるための「生贄」として、彼が選ばれたのだ。 誰もが彼を恐れ、厄介払いしたがっていた。十蔵自身も、自分の巨体を持て余す孤独な人生に疲れていた。 山頂付近。巨大な岩屋の奥に、朱塗りの御殿がそびえていた。 十蔵が足を踏み入れると、地響きのような声が轟いた。「ほう。今宵の膳は、随分と骨太な獲物が来たな」 御簾(みす)が上がり、現れたのは、十蔵さえも見上げるほどの巨躯を持つ「鬼」だった。 大江山の王、酒天(しゅてん)。 身長は七尺(約二メートル十センチ)あろうか。燃えるような赤銅色の肌、額から生えた二本の鋭い角。はだけた着物から覗く筋肉は、鋼鉄を練り上げたように隆起している。 酒天は玉座から立ち上がり、十蔵の周りをゆっくりと回った。 その金色の瞳が、十蔵の分厚い胸板や、太い太腿をねっとりと値踏みする。「食うには筋が多すぎる。だが……」 酒天の大きな手が、十蔵の尻を鷲掴みにした。 万力のような力。十蔵は反射的に身構えたが、動けなかった。「悪くない。……これほど頑丈な器(からだ)なら、あるいは壊れずに耐えられるかもしれん」「……何の話だ。食うならひと思いに食らえ」「食らうさ。だが、口で食うとは言っていない」 酒天は獰猛に笑い、十蔵の帯を一息に引きちぎった。第二章 規格外の求愛 十蔵は抵抗する気力を失い、されるがままに奥座敷へと連れ込まれた。 しかし、すぐに殺されるわけではなかった。 酒天は大きな盃に酒を並々と注ぎ、十蔵に勧めてきたのだ。「飲め。……死ぬ前に、俺の愚痴を聞け」 酒天は自らも酒をあおり、忌々しそうに股間を叩いた。「俺は、強すぎた。力も、魔力も、そして……こ

  • BL短編集◆愛しいきみの腕の中で   016:300km/hの求愛と冷徹な無線

    第一章 予選の衝突(Red Zone) モナコ、モンテカルロ市街地コース。 地中海の青い海と豪華なカジノを背景に、世界最高峰のモータースポーツ、F1グランプリの予選が行われていた。 ガードレールに反響するV6ハイブリッドターボの咆哮が、街全体を震わせている。 ピットレーンのガレージ奥、無数のモニターに囲まれた場所で、チーフエンジニアの高城慧(たかしろけい)は、凍り付いたような表情でデータを凝視していた。 黒髪に銀縁の眼鏡。その瞳には、秒単位で変化するテレメトリーデータが滝のように流れている。『レオ、タイヤの温度が限界だ。このラップは捨てろ。ピットインしろ』 慧は無線(ラジオ)のスイッチを押し、冷静に指示を飛ばした。 だが、ノイズ混じりの返答は、彼の論理を嘲笑うものだった。『断る! 今の俺は誰よりも速い! このままポールを獲る!』 モニターの中、深紅のマシンが加速する。 ドライバーは、レオ・バスケス。二十三歳。「サーキットの野獣」と呼ばれる天才だ。 彼は慧の指示を無視し、最終コーナーへ突っ込んだ。壁まで数ミリのギリギリのライン取り。タイヤが悲鳴を上げ、白煙を上げる。 コンマ〇〇一秒の短縮。 トップタイム更新。ポールポジション獲得。 ガレージが歓声に包まれる中、慧だけがヘッドセットを乱暴に叩きつけた。 予選終了後のモーターホーム(控え室)。 扉が開いた瞬間、慧は入ってきたレオの胸倉を掴み、ロッカーに叩きつけた。 ガンッ! と金属音が響く。「……死にたいなら一人で死ね、レオ!」 普段は冷静な慧の、激情の露呈。 レオは驚いたように目を丸くしたが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。汗とアドレナリンの匂いが、慧の鼻腔を刺激する。「怒るなよ、ケイ。ポールを獲ったんだぜ? 結果オーライだろ」「結果論だ! あのタイヤであの突っ込み方をすれば、サスペンションが砕けて死んでいた可能性が四十パーセントもあった! 私の計算した最高傑作(マシン)を、君の賭けの道具にするな!」 慧の瞳の奥にあるのは、怒りだけではない。喪失への恐怖だ。 レオはそれに気づき、慧の手首を掴んで引き寄せた。「……心配してくれたのか? 愛されてるなぁ、俺は」「ふざけるな」「あんたの計算は完璧だ。だが、最後にハンドルを握るのは俺だ。……俺の感覚(センス)を信じろよ」 レ

  • BL短編集◆愛しいきみの腕の中で   015:硝子の温室と甘い毒草

    第一章 緑の檻(Green Cage) 都市の喧騒から遠く離れた、深い森の奥。 そこに、巨大なガラスのドームが鎮座していた。 葛城植物学研究所。 外は冷たい秋雨が降っているが、厚いガラスに隔てられた内部は、むせ返るような亜熱帯の湿気に満ちている。 シダ植物が巨大な葉を広げ、天井からは気根がカーテンのように垂れ下がっている。空気そのものが緑色に染まっているかのような、濃密な生命の気配。「……颯太君。その鉢の湿度はどうだ?」 静かな声が、葉擦れの音に混じって響いた。 白衣を纏い、銀縁の眼鏡をかけた男、葛城翠(みどり)だ。 若くして数々の新種を発見した天才植物学者だが、極度の人間嫌いとして知られ、この温室に籠りきりの生活を送っている。「あ、はい! えっと、土はまだ湿っています。水やりは控えめにした方がいいかと……」 ホースを手に答えたのは、日下颯太(そうた)だ。二十二歳の大学生。 休学中の高額バイトにつられてやってきた彼は、ここに来て一ヶ月、住み込みで働いている。 温室の湿度は常に八十パーセントを超えている。颯太の額には大粒の汗が浮かび、Tシャツが背中に張り付いていた。「……そうか。良い判断だ」 翠が近づいてくる。 彼は革の手袋をした指先で、颯太の汗ばんだ首筋を不意に拭った。「ひゃっ! か、葛城さん?」「……ふむ。君はよく汗をかくな。新陳代謝が活発だ。……実に水はけが良い」 翠の眼鏡の奥の瞳が、爬虫類のように細められる。 それは人間を見る目ではない。希少な植物の生育具合を観察するような、無機質で、それでいて粘着質な視線だった。「君からは、若い樹木のような匂いがする。……ここにいる植物たちも、君の養分(フェロモン)を気に入っているようだ」「は、はあ……。ありがとうございます……?」 褒められているのかどうかも分からない。 颯太はこの雇い主に、本能的な違和感を抱いていた。彼は植物には愛おしげに話しかけるが、人間である颯太には、まるで「道具」や「肥料」を見るような目しか向けないのだ。「今日はもう上がりたまえ。……ただし、東のエリアには絶対に入るなよ。あそこは今、デリケートな時期だからな」 翠はそう言い残し、研究室へと戻っていった。 残された颯太は、首筋に残る革手袋の冷たい感触に、身震いした。 禁止されると気になってしまう

  • BL短編集◆愛しいきみの腕の中で   014:蒼き海原の略奪者と銀の羅針盤

    第一章 敗北の海戦(Defeat at Sea) 「七つの海」と呼ばれる広大な海域。その西端に位置する珊瑚の海で、今まさに歴史的な激戦が繰り広げられていた。 轟音と黒煙が、紺碧の空を汚している。 帝国海軍の誇る無敵艦隊の旗艦『ソブリン号』が、片舷を大きく傾け、悲鳴のような音を立てていた。「提督! 第三マストが折れました! これ以上は持ちません!」「……狼狽えるな。舵を切れ、風上に立て直す!」 指揮官であるエリアス・フォン・ベルク提督は、硝煙の舞う甲板で叫んだ。 二十五歳という若さで提督の地位に上り詰めた、「氷の提督」。銀髪をきっちりと結い上げ、純白の軍服には塵一つついていない。その青白い美貌は、戦場にあって異質なほどの冷徹さを保っていた。 だが、その冷静な瞳も、今は焦燥に揺らいでいる。 敵は、ただ一隻の海賊船だった。 深紅の帆を張った高速フリゲート艦『レッド・オルカ号』。 帝国の包囲網を嘲笑うかのような操舵技術で懐に潜り込み、至近距離からの砲撃で、巨象のような戦列艦の足を止めたのだ。「野郎ども、乗り込めェ! 帝国の坊ちゃんたちに、海の厳しさを教えてやれ!」 野獣のような咆哮と共に、鉤縄(かぎなわ)が投げ込まれる。 乗り込んできたのは、潮と血の匂いを纏った海賊たちだ。その先頭に立つ男を見て、エリアスは息を呑んだ。 燃えるような赤髪。潮風に晒された褐色の肌。シャツのボタンを弾け飛ばすほど鍛え上げられた胸板。 バルバロス。「海魔」と恐れられる伝説の海賊船長だ。「貴様……ッ!」 エリアスはサーベルを抜き、自ら前線へ躍り出た。 バルバロスがニヤリと笑い、巨大なカトラス(曲刀)を一閃させる。 ガキンッ! 火花が散り、強烈な衝撃がエリアスの腕を痺れさせる。「へぇ、綺麗な顔して、いい剣筋だ。……だが、海はお前の遊び場じゃねえぞ、提督!」「黙れ、無法者!」 剣戟が交錯する。技量はエリアスが上だが、バルバロスには圧倒的な腕力と、波の揺れを味方につける野性的な勘があった。 不意に船が大きく揺れた瞬間、エリアスの体勢が崩れた。 その隙をバルバロスは見逃さなかった。 強烈な蹴りがエリアスの腹部に叩き込まれ、彼は甲板に吹き飛ばされた。「ぐ、ぅ……ッ!」 起き上がろうとしたエリアスの喉元に、冷たい刃が突きつけられる。 見上げれば、バル

  • BL短編集◆愛しいきみの腕の中で   013:逆転する本能と恋のパラドックス

    第一章 共鳴する魂 王立魔導研究所の第十三研究室。 深夜二時を回っても、そこには怒号と魔力の火花が散っていた。「だから! 君の計算式は美しくないと言っているんだ、ノア!」 冷徹な声が響く。声の主は、ルシウス・ヴァン・アスター。名門貴族出身のエリートα(アルファ)であり、若くして魔導工学の権威となった天才だ。 銀色の長髪に、氷のように冷たい灰色の瞳。その全身からは、「ビターチョコレートと冷たい雪」を混ぜたような、理知的で威圧的なフェロモンが漂っている。 対するノアは、白衣の裾を握りしめ、食い下がった。「美しさなんて関係ありません! この術式なら、Ω(オメガ)の魔力供給量でも安定します。ルシウス室長は、αのスペックを基準にしすぎです!」 ノアは平民出身の劣性Ω。蜂蜜色の髪と榛(はしばみ)色の瞳を持つ、どこにでもいる平凡な研究員だ。 だが、その優秀さと頑固さだけは、ルシウスが唯一認める点でもあった。「Ωの基準になど合わせる必要はない。……そもそも、君たちがすぐに体調を崩し、発情期(ヒート)などという非効率な生理現象に振り回されるのが悪い」「っ……! それは、どうしようもない体質です! あなたがたαには、一生分からないでしょうけど!」 ノアが叫ぶと、ルシウスは鼻で笑った。「分かる必要もない。精神力が足りないから、本能ごときに支配されるんだ。……いいから、その『共鳴石』を貸せ。私が調整する」 ルシウスが強引に、実験台の上にあった巨大な魔石に手を伸ばした。 ノアも負けじと石を掴む。「待ってください! 今触れると、魔力波形が……!」「離せ!」 二人の魔力が同時に石へと流れ込んだ。 αの強大な覇気と、Ωの繊細な魔力。 相反する二つの波長が、共鳴石の中で予期せぬ化学反応(バグ)を引き起こした。 カッ――!! 視界が真っ白に染まるほどの閃光。 鼓膜を破るような轟音と共に、二人の意識は吹き飛ばされた。 ***「……う、ぐ……」 どれくらいの時間が経ったのか。 ノアは、ひどい頭痛と共に目を覚ました。 視界が高い。 いつも見上げている実験棚の上が見える。それに、身体が鉛のように重く、そして妙に熱い力が漲っている。 ノアはふらりと立ち上がった。手を見ると、そこには自分のものではない、大きく骨ばった手があった。「え……?」 ノアが

  • BL短編集◆愛しいきみの腕の中で   012:獣の咆哮と静寂のサンクチュアリ

    第一章 隔離病棟の狂犬(The Mad Dog) 地下要塞都市「アーク」。 厚さ五十メートルの鉛とコンクリートの天井に閉ざされた、人類最後の砦。 その最下層、特別隔離区画のさらに奥深くで、ヴォルフは轟音の中にいた。(うるさい……。黙れ、消えろ……ッ!) 彼は頭を抱え、冷たい床に額を打ち付けていた。 実際には、部屋の中は死に絶えたように静かだ。だが、S級覚醒者(センチネル)であるヴォルフの聴覚は、数キロ上の換気扇が回る音、配管を流れる汚水の音、そして通り過ぎるネズミの心音さえも、鼓膜を突き破る爆音として拾ってしまう。 視覚も同様だ。わずかな非常灯の明かりが、網膜を焼く閃光のように

    last updateDernière mise à jour : 2026-03-17
  • BL短編集◆愛しいきみの腕の中で   008:きらめく破片と、金継ぎの愛

    第1章: 完璧な献身と潜む亀裂 六畳一間のアトリエ兼居間で、律はろくろを回していた。土の柔らかな香りが、奥のキッチンから漂う淹れたてのコーヒーの香りと混ざり合う。晶の淹れるコーヒーはいつも完璧で、マグカップの取っ手の向きさえ律が使いやすいように揃えられている。その几帳面さが、金融アナリストとして働く彼の本質であり、律が愛してやまない横顔だった。  晶は完璧だった。  朝食は栄養バランスを計算されたスムージーと全粒粉のトースト。家賃や公共料金の支払いは一度も遅れたことがない。友人や家族への対応は常に誠実で、律の陶芸家としての活動に対しても、最も論理的で現実的な助言を与えてくれる。律の

    last updateDernière mise à jour : 2026-03-17
  • BL短編集◆愛しいきみの腕の中で   009:不協和音の夜と、象牙の誓い

    第1章: 完璧な技術と、才能の不協和音 音楽大学の練習室。蓮の指が、スタインウェイの鍵盤の上を滑る。奏でられているのは、ショパンの難曲『バラード第1番』。音の一つ一つが驚くほど正確で、テンポの揺らぎさえも論理的に計算されているかのようだった。その完璧な技術は、聴く者に知的な快感を与える。  しかし、誰もいないはずの部屋の隅から、低い溜息が聞こえた。  「相変わらず、綺麗事しか弾けないな、レン」  声の主は、馨だった。蓮の二年上の先輩であり、この大学で最も奔放な才能を持つピアニスト。技術的には粗い部分も多いが、彼の弾く音には、聴く者の心を抉るような、生の感情が宿っていた。  

    last updateDernière mise à jour : 2026-03-17
  • BL短編集◆愛しいきみの腕の中で   011:タイトル:桃花の誓いと仙君の堕落

    第一章 魔尊の帰還 仙界の名門、蒼穹山(そうきゅうざん)。 雲海に浮かぶその霊峰は、一年を通して桃の花が咲き乱れる仙境である。だが今日、その白い雲は漆黒の魔気によって塗り潰され、血の雨が降り注いでいた。 魔界の軍勢による侵攻。 結界を破り、本殿の広場に降り立ったのは、一人の男だった。 黒地に金糸で刺繍された長衣を靡かせ、額には堕天の証である赤い紋様。その男、魏嵐(ウェイ・ラン)は、かつてこの山で修行した弟子であり――今は全魔界を統べる「魔尊」となっていた。「……出てこい。隠れていても無駄だ、沈清雲(シェン・チンユン)」 魏嵐の声は、雷鳴のように山々を震わせた。 その殺気に呼応

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