INICIAR SESIÓN大正××年、帝都。
鉛色の空から、牡丹雪が音もなく降り注いでいた。まるで天が泣いているかのような、静かな、しかし容赦のない雪だった。
ガス灯の頼りない明かりが、石畳の路地を薄ぼんやりと照らしている。その静寂を破るように、一台の人力車が軋んだ音を立てて進んでいた。車輪が雪を踏みしめるたびに、ミシリ、ミシリと悲鳴のような音が響く。
乗っているのは、一人の青年だ。
没落した分家の生まれであり、稀代の「凶運」と忌み嫌われた霊媒体質。物心ついた頃から座敷牢に閉じ込められ、家族からすら疎まれて育った。千白の体質は、周囲のあやかしや悪霊を引き寄せる磁石のようなもので、彼が外を歩けば、必ず怪異が群がってきたのだ。
そんな彼に与えられた最後の運命は、帝都の闇を鎮める退魔の名門・
(寒い……)
綿帽子を目深に被った千白は、膝の上で震える手を重ねた。指先の感覚はとうに失われ、白い息だけが虚しく宙に消えていく。
久堂家の当主・久堂蓮二郎は、冷酷無比な鬼神のごとき男だと聞いている。軍属の退魔師として数多の怪異を屠り、その刃は血に飢えているという。霊力を消耗しやすいその男の「器」として、千白は使い潰されるために買われたのだ。
自分の命など、この雪のように儚く消えるのだろう。
いや、もしかしたら雪よりも軽いかもしれない。雪はせめて地面に触れるまで存在を許されるが、自分は触れることすら許されずに消えるかもしれないのだから。
千白は目を閉じた。幼い頃、座敷牢の格子から見上げた空の記憶が蘇る。あの狭い牢の中で、千白はただ一人、誰とも触れ合うことなく育った。家族は千白を恐れ、使用人は千白を忌避し、誰一人として優しい言葉をかけてはくれなかった。
だから、もう何も期待していない。
痛みがあるなら、せめて早く終わってほしい。それだけが、千白の願いだった。
やがて車夫が足を止めた。目の前には、威圧的な武家屋敷の門がそびえ立っている。
黒々とした門には、金色の家紋が鈍く光っていた。二匹の龍が絡み合う意匠は、見る者を威圧するかのように複雑で、禍々しい。
門をくぐる。雪に覆われた庭には、奇妙な石灯籠が整然と並んでいた。よく見れば、その一つ一つに梵字が刻まれている。結界の要石だと、千白にはすぐに分かった。
玄関で老齢の執事に出迎えられ、千白は冷え切った廊下を通された。板張りの廊下は磨き上げられていたが、どこか人の温もりを感じさせない。まるで神社の回廊のような、神聖だが近寄りがたい冷たさがあった。
広間に座らされる。
畳の井草の匂いに混じって、どこか鉄錆のような、血の匂いが漂っていた。いや、血だけではない。もっと濃密な、死の匂いだ。この部屋で、どれだけの怪異が祓われたのだろうか。
千白は思わず息を詰めた。自分の体質のせいで、残留した霊気の痕跡が、まるで映像のように脳裏に流れ込んでくる。
断末魔の悲鳴。飛び散る黒い血。そして、冷徹な瞳で刃を振り下ろす男の影――。
「待たせたな」
ふすまが開き、低い声が鼓膜を震わせた。
千白はビクリと肩を揺らし、畳に額を擦り付けるように平伏した。心臓が激しく脈打ち、全身から血の気が引いていくのが分かる。
入ってきた男――久堂蓮二郎は、陸軍の軍服の上に黒紋付の羽織を流し掛け、腰には長大な退魔刀を佩いている。
整いすぎた顔立ちは氷の彫像のように冷たく、その眼光は人を射殺すかのように鋭い。身長は優に六尺を超え、その巨躯から放たれる圧は、千白の華奢な身体を押し潰さんばかりだった。
これが、自分の「夫」になる男。
千白は恐怖で身体が固まるのを感じた。
「面を上げろ」
命じられ、千白は恐る恐る顔を上げた。綿帽子の下から覗く瞳が、おずおずと蓮二郎を捉える。
蓮二郎の瞳が、千白を値踏みするように細められる。その視線は、まるで刃物で肌を撫でられているような鋭さだった。
「……噂通りの『器』だな。立っているだけで、そこら中の瘴気を吸い寄せている」
蓮二郎の声には、嫌悪も軽蔑もなかった。ただ、事実を述べる冷静さだけがあった。それがかえって、千白を不安にさせる。
蓮二郎は無遠慮に千白の顎を掴み、強引に上向かせた。革手袋の冷たい感触に、千白は息を呑む。まるで獲物を検分する猟師のような、容赦ない手つきだった。
「私の霊力は枯渇寸前だ。手加減はできんぞ」
「は、はい……覚悟は、しております……」
千白が震える声で答えると、蓮二郎は鼻で笑い、乱暴に白無垢の襟を寛げた。
白い肌が露わになる。千白は思わず目を伏せた。恥じらいというよりも、これから起こることへの恐怖からだった。
蓮二郎が覆いかぶさる。その重みに、千白の身体が畳に沈む。それは夫婦の契りなどという生易しいものではなかった。
首筋に、鋭い牙を突き立てられるような感覚。
「あっ……!」
痛みと共に、千白の身体から「何か」が吸い出されていく。それは魂を引き剥がされるような、恐ろしい感覚だった。同時に、蓮二郎の強大な霊気が逆流し、千白の空っぽの器を満たしていく。
熱い。熱すぎる。
体内を駆け巡る霊力は、千白が今まで感じたことのないほど純粋で、強烈だった。
「あ、あっ……! 熱い、です……旦那様……!」
「声が大きい。……耐えろ。これは浄化だ」
蓮二郎の言葉通り、それは快楽に近い浄化の儀式だった。
吸われるたびに、千白の身体に巣食っていた悪い気が祓われ、甘い痺れが爪先まで駆け巡る。長年、座敷牢で蓄積されていた淀んだ気が、まるで膿を絞り出すように排出されていく。
恐怖していたはずなのに、身体は熱を帯び、男の下で喘いでいる。
白無垢が乱れ、赤い長襦袢が雪崩のように広がる。
その光景は、雪の上に落ちた椿の花のように、残酷で、あまりにも鮮烈な美しさだった。蓮二郎の黒い軍服と、千白の白と紅が織りなす対比は、まるで一枚の絵画のようだった。
やがて、全てが終わった時、千白の意識は遠のいていた。
最後に聞こえたのは、蓮二郎の低い呟きだった。
「……よく、耐えた」
その声には、わずかに労りのような響きがあった。しかし、朦朧とした千白には、それを確かめる術はなかった。
あの日から、千白は久堂家の離れにある座敷牢――いや、見た目は豪華な客間だが、強力な結界が張られた部屋で暮らしていた。
外出は禁じられている。窓には霊的な封印が施され、扉には梵字が書かれた札が貼られている。千白が一歩でも敷居を跨げば、即座に蓮二郎に感知される仕組みになっているのだと、使用人が教えてくれた。
千白の役割は、夜ごと帰還する蓮二郎を迎え入れ、その身を差し出して霊力を中和させることだけだ。
蓮二郎は毎晩、怪異討伐から戻ってくる。返り血を浴び、疲労困憊した姿で部屋に入ってくると、無言で千白を抱き寄せる。そして首筋に口づけ、千白の霊力を吸い上げ、自らの力を注ぎ込む。
それは痛くもなく、苦しくもなかった。むしろ、千白の身体は徐々に浄化され、座敷牢にいた頃よりも健康になっていった。肌には血色が戻り、髪には艶が出た。
だが、千白には一つだけ解せないことがあった。
道具として扱われているはずなのに、生活は驚くほど厚遇されていたのだ。
食事は最高級の仕出し弁当。季節の食材をふんだんに使った料理は、千白が座敷牢で食べていた粗末な食事とは比べ物にならなかった。着るものは京友禅の艶やかな着物で、帯締めや帯揚げに至るまで、一流の職人が仕立てたものばかりだった。
そして時折、不器用な手つきで「土産だ」と渡される菓子や装飾品。
蓮二郎は決して多くを語らなかったが、その行動には明らかな矛盾があった。道具を、こんなに大切に扱うものだろうか。
ある日の午後。
千白は縁側に座り、庭を眺めていた。結界の外には、紅葉が美しく色づいている。触れることは叶わないが、目で楽しむことはできた。
その時、早めに帰宅した蓮二郎が現れた。
いつもは夜遅くまで任務に従事しているはずなのに、今日は珍しく陽が高いうちに戻ってきたのだ。
手には、小さな桐箱を持っている。
「……やる」
蓮二郎が突き出した箱を開けると、そこには鼈甲に珊瑚をあしらった、美しい
繊細な細工が施された簪は、行灯の光を受けて妖しく輝いている。男の千白には不釣り合いなほど高価な品だ。
「旦那様、これは……。私のような道具には、勿体ない品です」
「道具、道具と卑下するな」
蓮二郎は不機嫌そうに眉を寄せ、千白の手から簪を取り上げると、自らの手で千白の髪に挿した。
その指先が、不意に千白の耳朶を撫でる。
初夜の時とは違う、慈しむような温かい手つきだった。千白は思わず息を呑んだ。この男の手が、こんなに優しい温もりを持っているなんて。
「お前は私の『器』だ。器が美しくなくては、私の格に関わる。……それに」
「それに?」
「……いや。何でもない」
蓮二郎は言葉を飲み込み、そっぽを向いた。
その横顔には、疲労の色が濃く滲んでいる。眉間には深い皺が刻まれ、目の下には隈ができていた。
帝都には今、原因不明の「あやかし」が大量発生しており、軍属の退魔師である蓮二郎は連日最前線で戦っているのだ。今月だけでも、土蜘蛛が三体、河童の群れが一度、そして正体不明の瘴気の塊が二度、帝都を襲っていた。
千白は、衝動的に蓮二郎の袖を掴んだ。
「旦那様。……お疲れなら、膝枕でもいたしましょうか。気休めにもなりませんが」
蓮二郎は驚いたように目を見開いた。その瞳には、一瞬だけ戸惑いのような色が浮かんだ。まるで、優しさを向けられることに慣れていない子供のような表情だった。
やがて蓮二郎はフッと力を抜き、無言で千白の膝に頭を預けて横になった。
軍服の重みと、男の体温が、千白の太腿に伝わってくる。
千白は恐る恐る、蓮二郎の硬い髪を梳いた。丁寧に撫でると、意外にも滑らかで、指通りが良い。
蓮二郎は目を閉じ、深く息を吐いた。その表情から、いつもの鋭さが消えていく。
ああ、この人は、鬼神などではない。
ただ、一人で全てを背負い込み、誰よりも傷ついている孤独な人なのだ。
千白の胸に、同情とは違う、温かい感情が芽生え始めていた。それが何なのか、千白自身もまだ理解できていなかったが。
「……千白」
「はい」
「お前は、怖くないのか」
蓮二郎が目を閉じたまま、ぽつりと呟いた。
「私は、多くの命を奪ってきた。人ならざるものとはいえ、この手は血で汚れている。……そんな男に触れて、お前は恐ろしくないのか」
千白は少し考えてから、静かに答えた。
「恐ろしくありません。旦那様の手が汚れているのなら、私の手で清めれば良いのです」
蓮二郎の瞳がゆっくりと開いた。その目には、千白が見たことのない柔らかな光が宿っていた。
「……馬鹿だな、お前は」
そう言いながら、蓮二郎の口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
千白は、初めて蓮二郎の笑顔を見た気がした。
その夜、蓮二郎は遠征で帝都を離れていた。
北の山中に強力な妖怪が出現したとの報告を受け、軍の退魔部隊を率いて討伐に向かったのだ。三日は戻らないだろうと、執事が千白に告げていた。
屋敷を守るのは数人の使用人と、敷地に張り巡らされた結界のみ。
千白は一人、寝所で夜を過ごしていた。
蓮二郎のいない夜は、不思議と寂しかった。あの重い存在感、鋭い視線、そして時折見せる優しさ――それらが全て、今はここにない。
布団の中で、千白は蓮二郎が髪に挿してくれた簪を撫でた。温もりが残っているような気がして、少しだけ心が落ち着く。
丑三つ時。
千白が浅い眠りについていた時、異変が起きた。
不気味な風鳴りと共に、庭の灯籠が一斉に消えた。
ズズズ……と地響きがして、結界がガラスのように砕け散る音が響く。
「ひっ……!」
千白が寝所から飛び起きると、障子の向こうに巨大な影が蠢いていた。
その影は異様に大きく、八本の足を持っていた。
土蜘蛛だ。
蓮二郎の霊力を狙い、その供給源である千白を喰らいに来たのだ。蓮二郎が不在の今が、絶好の機会だと踏んだのだろう。
天井から粘着質な糸が垂れ、障子が引き裂かれる。
現れたのは、牛ほどの大きさもある醜悪な蜘蛛の化け物。八つの目が、ギラギラと千白を捉えた。全身は黒い甲殻に覆われ、巨大な顎からは毒液が滴り落ちている。
『美味そうな……匂いだ……久堂の匂いがする……』
土蜘蛛が人の言葉を操り、千白を嘲笑う。
廊下の向こうから、使用人たちの悲鳴が聞こえる。このままでは、皆殺しにされる。
千白は震える足で立ち上がり、懐刀を構えた。
戦う力などない。けれど、自分が囮になって時間を稼げば、あるいは誰かが逃げ延びられるかもしれない。
「私はここだ! ……あの方の大事な器は、ここだぞ!」
千白が叫び、庭へと飛び出した。雪の上を裸足で駆ける。冷たい雪が足裏を刺すが、構っている場合ではなかった。
土蜘蛛が歓喜の声を上げ、猛スピードで追いかけてくる。その巨体が地面を踏みしめるたびに、地響きが起こる。
『逃げるな、小僧! 大人しく喰われろ!』
鋭い爪が振り上げられ、千白の身体を引き裂こうとした――その瞬間。
閃光が走った。
銀色の軌跡が闇を切り裂き、土蜘蛛の巨大な足が宙を舞う。黒い血が雪の上に飛び散った。
「ギャアアアアッ!」
「……よくも。私の庭に土足で踏み込んだな」
地獄の底から響くような、ドスの利いた声。
千白の前に立っていたのは、返り血を浴びた蓮二郎だった。
その瞳は、あやかしよりも禍々しいほどの怒りに赤く輝いている。全身から放たれる殺気は、まさに修羅そのものだった。
「旦那様……! 遠征は……」
「囮だ。こいつらを誘き出すための。……だが、まさか本当に来るとはな」
蓮二郎の声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。
「千白、目を瞑っていろ。……見るに堪えん肉塊にしてやる」
蓮二郎が退魔刀を一閃させる。
それは剣技というより、嵐だった。圧倒的な霊圧が土蜘蛛を押し潰し、次の一撃で霧散させる。
断末魔すら残さず、怪異は消滅した。
静寂が戻った庭に、蓮二郎の荒い息遣いだけが響いていた。
「……怪我は」
蓮二郎が振り返り、駆け寄ってくる。
その顔を見て、千白は安堵のあまり腰を抜かした。立っていた足から力が抜け、雪の上に崩れ落ちる。
蓮二郎は泥と雪に塗れるのも構わず膝をつき、千白を強く抱きしめた。
ギリギリと骨が軋むほどの強さ。
震えているのは、千白ではなく、蓮二郎の方だった。
「無事か……。すまん。私が離れたばかりに……」
「旦那様、私は無事です。あなたが来てくださったから」
蓮二郎は何も言わず、千白の首筋に顔を埋めた。
その首筋には、かつて蓮二郎が付けた浄化の痕が残っている。
彼はそれを確かめるように、何度も何度も唇を押し付けた。まるで、千白が本当にここに存在することを、自分の唇で確認しているかのように。
千白は、蓮二郎の背中に腕を回した。この人は、本当に自分のことを心配してくれているのだと、初めて実感した。
屋敷の奥座敷。
急ごしらえの布団に横たえられた千白を、蓮二郎が手当てしていた。
裸足で雪の上を走ったため、千白の足裏は赤く切れ、滲んだ血が白い包帯に朱色の花を咲かせている。
蓮二郎の大きな手が、千白の小さな足を包み込む。その手つきは驚くほど丁寧で、まるで壊れ物を扱うかのようだった。
「痛むか」
「いいえ。……旦那様こそ、霊力を使いすぎてはいませんか」
千白が心配そうに尋ねると、蓮二郎は自嘲気味に笑った。
「ああ。空っぽだ。お前が無事だと分かった瞬間、気が抜けた」
蓮二郎は千白の手を取り、自分の頬に当てた。
その目は、もう千白を「道具」としては見ていなかった。そこにあったのは、何かを失うことへの恐怖と、そして深い愛情だった。
「千白。私は嘘をついていた」
「嘘、ですか?」
「お前を買ったのは、霊力のためだけではない。……お前の生家の座敷牢で、誰にも知られず泣いていたお前を、ずっと前から見ていた」
それは、意外な告白だった。
千白は目を見開いた。座敷牢にいた自分を、蓮二郎が知っていた?
「五年前だ。お前の一族が起こした怪異騒ぎの調査に赴いた時、偶然、座敷牢に閉じ込められたお前を見た。……まだ十六だったお前は、あまりに痩せ細り、誰にも触れられることなく、ただ泣いていた」
蓮二郎の声には、当時の痛みが滲んでいた。
「お前をあの地獄から救い出したかった。だが、久堂家に入れるには『生贄』という名目が必要だったのだ。……道具だと言えば、お前を縛り付けておけると思った。お前が逃げ出さないように、恐怖で支配できると思った」
不器用すぎる男の、歪んだ愛の形。
千白は涙が溢れるのを止められなかった。
この人は、最初から自分を守ろうとしてくれていたのだ。冷酷な仮面の下に、こんなに優しい心を隠していたのだ。
「旦那様……。私を、もう一度『食べて』ください」
千白は起き上がり、蓮二郎の軍服のボタンに手をかけた。
「今度は、道具としてではありません。あなたの妻として、私の全てを差し上げたいのです」
「……後悔しないか。私はあやかしを斬り続ける修羅だぞ」
「望むところです。私は、その修羅の鞘になりましょう」
蓮二郎の瞳が揺れ、やがて強い光を宿した。
彼は千白をゆっくりと押し倒し、帯を解いた。
露わになった肌に、蓮二郎の指が這う。その感触は、雪解け水のように優しく、そして火傷しそうなほど熱い。
「愛している、千白」
「はい……私も、お慕いしております。蓮二郎様」
重なり合う唇は、渇いた獣が泉を貪るかのように、深く、どこまでも濃密だった。
一度目の契りが、生存のための冷ややかな儀式だったとするなら、二度目のこれは、互いの存在証明を刻みつけるための、焦げるような烙印だった。
「ん、ぁ……っ、蓮二郎、さま……息が……っ」
千白の喉から、甘く頼りない喘ぎが漏れる。
だが、蓮二郎はそれを許さないとばかりに、再びその薄い唇を塞ぎ、舌を深く侵入させた。
蓮二郎の舌先が、千白の口内を執拗に蹂躙する。上顎をなぞり、逃げる舌を絡め取り、唾液と共に互いの熱を交換し合う。それは接吻というよりも、互いの生命力を啜り合う捕食行為にも似ていた。
蓮二郎の骨ばった指が、千白の帯に掛かる。
しゅるり、と衣擦れの音が静寂に響いた。
上質な絹の帯が解かれ、長襦袢が花弁のように開かれる。
行灯の揺らめく光の中に、雪よりも白い千白の肌と、それを縁取る襦袢の緋色が、残酷なほど鮮やかな対比を描き出した。
「美しい……。お前は、本当に……」
蓮二郎が掠れた声で呟き、千白の鎖骨に熱い吐息を吹きかける。
戦いで昂ったままの蓮二郎の霊圧は、凄まじい熱量を持っていた。彼が指先で千白の乳首を掠めただけで、そこから火花が散るような痺れが走る。
「あっ、ひぅ……! だめ、です、そんなに強い力が流れてきたら、私……っ」
「受け入れろ。私の全てを、その身体で飲み干すと言ったろう」
蓮二郎は容赦しなかった。
千白の華奢な腰を大きな掌で掴み上げ、自身の熱く滾る楔を、千白の秘所に宛がう。
準備など必要なかった。千白の
ずぷり、と沈み込むような音と共に、二つの身体が一つに繋がった。
「あ、あああぁッ……!」
千白の背中が大きく弓なりに反る。
物理的な質量と共に、奔流のような霊力が体内へ雪崩れ込んでくる。
それは、ただの快楽ではなかった。
あやかしを斬り伏せてきた修羅の気、血の匂い、そして蓮二郎という男が抱える孤独と愛執――それら全てが、濁流となって千白の魂を犯し、染め上げていく。
痛いほどに満たされる感覚。
空っぽだった器に、熱い黄金の蜜が注ぎ込まれるような陶酔。
千白の視界が白く明滅する。
「千白、私の名を呼べ。……誰のものか、その魂に刻んでやる」
蓮二郎が千白の耳元で低く囁き、腰を打ち付ける。
激しい愛撫のたびに、部屋に立ち込める白檀の香りが揺れ動く。高貴な香木の香りと、二人の肌から立ち昇る汗と雄の匂いが混ざり合い、むせ返るような芳香となって部屋を満たしていた。
「あ、あっ、蓮二郎さま……! あなたの、ものです……身体も、魂も、この命の最期の一滴まで……ッ!」
千白は泣きながら、蓮二郎の逞しい背中に爪を立てた。
足裏の怪我に巻かれた白い包帯が、乱れた襦袢の赤に映える。その痛々しささえも、今の蓮二郎には嗜虐心を煽る極上のスパイスだった。
蓮二郎の瞳が、怪異のように怪しく輝く。
彼は千白の首筋――あやかしを引き寄せるというその急所に、所有印を刻むように深く牙を立てた。
「そうだ。お前は私の鞘だ。……二度と放さん」
最奥を突かれるたびに、千白の身体から悪い気が抜け、代わりに蓮二郎の清冽で強烈な気が充填されていく。
循環する霊力。
溶け合う境界線。
どこからが自分で、どこからが彼なのか、もう分からなかった。
ただ、二つの魂が螺旋を描いて絡み合い、一つに編み上げられていく感覚だけが鮮明にある。
「いくぞ、千白……共に堕ちろ……ッ!」
「はい、どこまでも……連れて行って、ください……ッ!」
絶頂の瞬間、蓮二郎は千白をきつく抱きしめ、その最奥に熱い種と、ありったけの愛を注ぎ込んだ。
千白の意識が弾け飛び、目の前が真っ白に染まる。
それは死にゆく瞬間の静寂にも似た、完璧な幸福だった。
荒い呼吸だけが残る部屋。
汗に濡れた肌と肌が張り付く音。
蓮二郎は、ぐったりと腕の中で微睡む千白の、汗ばんだ額の髪を優しく払い、その瞼に口づけを落とした。
鬼神の面影は消え、そこにはただ、愛しい妻を慈しむ一人の男の顔があった。
外の世界では夜が明けようとしていたが、この部屋の時間は止まったままだ。
朱と白が混ざり合うあやかしの檻の中で、二人は永遠の微熱に囚われていた。
窓の外では、雪が止み、雲の切れ間から月が顔を出していた。
その青白い光は、寄り添って眠る二人を、静かに祝福しているようだった。
あやかしの檻はもうない。
ここにあるのは、血よりも濃い絆で結ばれた、愛の巣だけだった。
千白は蓮二郎の胸に顔を埋めながら、幸福の余韻に身を委ねていた。もう、座敷牢に閉じ込められていた頃の孤独はない。この人の腕の中にいる限り、自分は一人ではないのだ。
蓮二郎の大きな手が、千白の背中を優しく撫でる。
「寝るか」
「はい……でも、旦那様」
「ん?」
「明日の夜も、また……」
千白の言葉に、蓮二郎は低く笑った。
「当たり前だ。お前は私の妻だ。……一生、離さん」
その言葉は、呪いのようでもあり、祝福のようでもあった。
千白は微笑み、静かに目を閉じた。
この人と共に生きていける。それだけで、千白は満ち足りていた。
雪が静かに降り積もる帝都の夜。
久堂家の奥座敷では、二つの魂が永遠の契りを交わし、新しい物語を紡ぎ始めていた。
それは、血と雪と愛に彩られた、美しくも残酷な物語。
そして、誰にも邪魔されることのない、二人だけの秘密の物語だった。
(了)
第一章 新入りへの洗礼 絶海の孤島にそびえ立つ、第九重犯罪者収容所「タルタロス」。 灰色の空と、荒れ狂う波に閉ざされたこの要塞は、生きて出ることは不可能と言われる地獄の釜の底だ。 重厚な鉄扉が開き、一人の男が看守たちに引きずられてきた。 イグニール。かつて国家転覆を企てた革命軍のリーダーであり、「紅蓮の獅子」と恐れられた男だ。 手足には重い鎖、首には爆破機能付きの黒い首輪(チョーカー)。鍛え抜かれた肉体は傷だらけだが、その瞳だけは決して消えない炎のように燃えている。「……ここが、俺の墓場か」 イグニールが独りごちると、コツ、コツ、と硬質な靴音が響いた。 コンクリートの冷気の中、一人の男が現れる。 軍服を思わせる黒い制服に、革のロングブーツ。腰には警棒と拳銃。そして片目には銀縁のモノクル(片眼鏡)をかけた、氷のように美しい男。 この監獄の絶対支配者、典獄クラウスだ。「ようこそ、タルタロスへ。……随分と威勢の良い目だ、305番」 クラウスは番号で呼び、イグニールの前に立った。 身長はイグニールの方が高いが、クラウスが放つ圧倒的な威圧感(オーラ)は、巨人のそれをも凌駕していた。「俺の名はイグニールだ。番号で呼ぶな」「ここでは名前など無意味だ。お前はただの家畜、管理されるだけの肉塊に過ぎない」 クラウスは冷たく言い放つと、看守たちに顎で指示した。 イグニールは台の上に押し付けられ、囚人服を無理やり剥ぎ取られた。 全裸にされ、屈辱的な姿勢で拘束される。「入所手続きだ。……身体検査を行う」 クラウスが黒い革手袋の上から、さらに医療用のゴム手袋を装着する。 パチン、とゴムが弾ける音が、広く無機質な部屋に反響した。「革命軍のリーダーともあろう者が、体内に危険物を隠し持っている可能性は否定できんからな」「ッ……ふざけるな、俺は何も……!」 イグニールの抗議は、クラウスの指によって遮られた。 無造作に口腔内へ指がねじ込まれる。歯茎、舌の裏、喉の奥まで、執拗に探られる。 ゴムの無機質な味と、クラウスの冷たい体温。 イグニールが睨みつけると、クラウスは薄く笑った。「いい表情だ。……だが、検査は上だけではないぞ」 クラウスの手が下へと滑る。 鍛え上げられた腹筋、古傷の走る太腿を愛撫するように撫で、そして最も無防備な場所へ。 医療
第一章 鬼哭の生贄 平安の都から遠く離れた、丹波国・大江山。 鬼が住まうとされるその魔の山へ、霧深い夜、一人の男が登っていた。 男の名は十蔵(じゅうぞう)。山寺の僧兵であるが、その風体は僧侶というよりは岩の巨木であった。 身長は六尺三寸(約一九〇センチ)を超え、僧衣の上からでも分かる丸太のような腕と、樽のような胸板。生まれつき常人離れした巨体と怪力を持つ彼は、幼い頃から「鬼子」と恐れられ、寺でも持て余される厄介者だった。(……これでいい。俺のような化け物は、鬼の腹に収まるのがお似合いだ) 十蔵は自嘲気味に笑った。 最近、里で鬼の被害が相次ぎ、その怒りを鎮めるための「生贄」として、彼が選ばれたのだ。 誰もが彼を恐れ、厄介払いしたがっていた。十蔵自身も、自分の巨体を持て余す孤独な人生に疲れていた。 山頂付近。巨大な岩屋の奥に、朱塗りの御殿がそびえていた。 十蔵が足を踏み入れると、地響きのような声が轟いた。「ほう。今宵の膳は、随分と骨太な獲物が来たな」 御簾(みす)が上がり、現れたのは、十蔵さえも見上げるほどの巨躯を持つ「鬼」だった。 大江山の王、酒天(しゅてん)。 身長は七尺(約二メートル十センチ)あろうか。燃えるような赤銅色の肌、額から生えた二本の鋭い角。はだけた着物から覗く筋肉は、鋼鉄を練り上げたように隆起している。 酒天は玉座から立ち上がり、十蔵の周りをゆっくりと回った。 その金色の瞳が、十蔵の分厚い胸板や、太い太腿をねっとりと値踏みする。「食うには筋が多すぎる。だが……」 酒天の大きな手が、十蔵の尻を鷲掴みにした。 万力のような力。十蔵は反射的に身構えたが、動けなかった。「悪くない。……これほど頑丈な器(からだ)なら、あるいは壊れずに耐えられるかもしれん」「……何の話だ。食うならひと思いに食らえ」「食らうさ。だが、口で食うとは言っていない」 酒天は獰猛に笑い、十蔵の帯を一息に引きちぎった。第二章 規格外の求愛 十蔵は抵抗する気力を失い、されるがままに奥座敷へと連れ込まれた。 しかし、すぐに殺されるわけではなかった。 酒天は大きな盃に酒を並々と注ぎ、十蔵に勧めてきたのだ。「飲め。……死ぬ前に、俺の愚痴を聞け」 酒天は自らも酒をあおり、忌々しそうに股間を叩いた。「俺は、強すぎた。力も、魔力も、そして……こ
第一章 予選の衝突(Red Zone) モナコ、モンテカルロ市街地コース。 地中海の青い海と豪華なカジノを背景に、世界最高峰のモータースポーツ、F1グランプリの予選が行われていた。 ガードレールに反響するV6ハイブリッドターボの咆哮が、街全体を震わせている。 ピットレーンのガレージ奥、無数のモニターに囲まれた場所で、チーフエンジニアの高城慧(たかしろけい)は、凍り付いたような表情でデータを凝視していた。 黒髪に銀縁の眼鏡。その瞳には、秒単位で変化するテレメトリーデータが滝のように流れている。『レオ、タイヤの温度が限界だ。このラップは捨てろ。ピットインしろ』 慧は無線(ラジオ)のスイッチを押し、冷静に指示を飛ばした。 だが、ノイズ混じりの返答は、彼の論理を嘲笑うものだった。『断る! 今の俺は誰よりも速い! このままポールを獲る!』 モニターの中、深紅のマシンが加速する。 ドライバーは、レオ・バスケス。二十三歳。「サーキットの野獣」と呼ばれる天才だ。 彼は慧の指示を無視し、最終コーナーへ突っ込んだ。壁まで数ミリのギリギリのライン取り。タイヤが悲鳴を上げ、白煙を上げる。 コンマ〇〇一秒の短縮。 トップタイム更新。ポールポジション獲得。 ガレージが歓声に包まれる中、慧だけがヘッドセットを乱暴に叩きつけた。 予選終了後のモーターホーム(控え室)。 扉が開いた瞬間、慧は入ってきたレオの胸倉を掴み、ロッカーに叩きつけた。 ガンッ! と金属音が響く。「……死にたいなら一人で死ね、レオ!」 普段は冷静な慧の、激情の露呈。 レオは驚いたように目を丸くしたが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。汗とアドレナリンの匂いが、慧の鼻腔を刺激する。「怒るなよ、ケイ。ポールを獲ったんだぜ? 結果オーライだろ」「結果論だ! あのタイヤであの突っ込み方をすれば、サスペンションが砕けて死んでいた可能性が四十パーセントもあった! 私の計算した最高傑作(マシン)を、君の賭けの道具にするな!」 慧の瞳の奥にあるのは、怒りだけではない。喪失への恐怖だ。 レオはそれに気づき、慧の手首を掴んで引き寄せた。「……心配してくれたのか? 愛されてるなぁ、俺は」「ふざけるな」「あんたの計算は完璧だ。だが、最後にハンドルを握るのは俺だ。……俺の感覚(センス)を信じろよ」 レ
第一章 緑の檻(Green Cage) 都市の喧騒から遠く離れた、深い森の奥。 そこに、巨大なガラスのドームが鎮座していた。 葛城植物学研究所。 外は冷たい秋雨が降っているが、厚いガラスに隔てられた内部は、むせ返るような亜熱帯の湿気に満ちている。 シダ植物が巨大な葉を広げ、天井からは気根がカーテンのように垂れ下がっている。空気そのものが緑色に染まっているかのような、濃密な生命の気配。「……颯太君。その鉢の湿度はどうだ?」 静かな声が、葉擦れの音に混じって響いた。 白衣を纏い、銀縁の眼鏡をかけた男、葛城翠(みどり)だ。 若くして数々の新種を発見した天才植物学者だが、極度の人間嫌いとして知られ、この温室に籠りきりの生活を送っている。「あ、はい! えっと、土はまだ湿っています。水やりは控えめにした方がいいかと……」 ホースを手に答えたのは、日下颯太(そうた)だ。二十二歳の大学生。 休学中の高額バイトにつられてやってきた彼は、ここに来て一ヶ月、住み込みで働いている。 温室の湿度は常に八十パーセントを超えている。颯太の額には大粒の汗が浮かび、Tシャツが背中に張り付いていた。「……そうか。良い判断だ」 翠が近づいてくる。 彼は革の手袋をした指先で、颯太の汗ばんだ首筋を不意に拭った。「ひゃっ! か、葛城さん?」「……ふむ。君はよく汗をかくな。新陳代謝が活発だ。……実に水はけが良い」 翠の眼鏡の奥の瞳が、爬虫類のように細められる。 それは人間を見る目ではない。希少な植物の生育具合を観察するような、無機質で、それでいて粘着質な視線だった。「君からは、若い樹木のような匂いがする。……ここにいる植物たちも、君の養分(フェロモン)を気に入っているようだ」「は、はあ……。ありがとうございます……?」 褒められているのかどうかも分からない。 颯太はこの雇い主に、本能的な違和感を抱いていた。彼は植物には愛おしげに話しかけるが、人間である颯太には、まるで「道具」や「肥料」を見るような目しか向けないのだ。「今日はもう上がりたまえ。……ただし、東のエリアには絶対に入るなよ。あそこは今、デリケートな時期だからな」 翠はそう言い残し、研究室へと戻っていった。 残された颯太は、首筋に残る革手袋の冷たい感触に、身震いした。 禁止されると気になってしまう
第一章 敗北の海戦(Defeat at Sea) 「七つの海」と呼ばれる広大な海域。その西端に位置する珊瑚の海で、今まさに歴史的な激戦が繰り広げられていた。 轟音と黒煙が、紺碧の空を汚している。 帝国海軍の誇る無敵艦隊の旗艦『ソブリン号』が、片舷を大きく傾け、悲鳴のような音を立てていた。「提督! 第三マストが折れました! これ以上は持ちません!」「……狼狽えるな。舵を切れ、風上に立て直す!」 指揮官であるエリアス・フォン・ベルク提督は、硝煙の舞う甲板で叫んだ。 二十五歳という若さで提督の地位に上り詰めた、「氷の提督」。銀髪をきっちりと結い上げ、純白の軍服には塵一つついていない。その青白い美貌は、戦場にあって異質なほどの冷徹さを保っていた。 だが、その冷静な瞳も、今は焦燥に揺らいでいる。 敵は、ただ一隻の海賊船だった。 深紅の帆を張った高速フリゲート艦『レッド・オルカ号』。 帝国の包囲網を嘲笑うかのような操舵技術で懐に潜り込み、至近距離からの砲撃で、巨象のような戦列艦の足を止めたのだ。「野郎ども、乗り込めェ! 帝国の坊ちゃんたちに、海の厳しさを教えてやれ!」 野獣のような咆哮と共に、鉤縄(かぎなわ)が投げ込まれる。 乗り込んできたのは、潮と血の匂いを纏った海賊たちだ。その先頭に立つ男を見て、エリアスは息を呑んだ。 燃えるような赤髪。潮風に晒された褐色の肌。シャツのボタンを弾け飛ばすほど鍛え上げられた胸板。 バルバロス。「海魔」と恐れられる伝説の海賊船長だ。「貴様……ッ!」 エリアスはサーベルを抜き、自ら前線へ躍り出た。 バルバロスがニヤリと笑い、巨大なカトラス(曲刀)を一閃させる。 ガキンッ! 火花が散り、強烈な衝撃がエリアスの腕を痺れさせる。「へぇ、綺麗な顔して、いい剣筋だ。……だが、海はお前の遊び場じゃねえぞ、提督!」「黙れ、無法者!」 剣戟が交錯する。技量はエリアスが上だが、バルバロスには圧倒的な腕力と、波の揺れを味方につける野性的な勘があった。 不意に船が大きく揺れた瞬間、エリアスの体勢が崩れた。 その隙をバルバロスは見逃さなかった。 強烈な蹴りがエリアスの腹部に叩き込まれ、彼は甲板に吹き飛ばされた。「ぐ、ぅ……ッ!」 起き上がろうとしたエリアスの喉元に、冷たい刃が突きつけられる。 見上げれば、バル
第一章 共鳴する魂 王立魔導研究所の第十三研究室。 深夜二時を回っても、そこには怒号と魔力の火花が散っていた。「だから! 君の計算式は美しくないと言っているんだ、ノア!」 冷徹な声が響く。声の主は、ルシウス・ヴァン・アスター。名門貴族出身のエリートα(アルファ)であり、若くして魔導工学の権威となった天才だ。 銀色の長髪に、氷のように冷たい灰色の瞳。その全身からは、「ビターチョコレートと冷たい雪」を混ぜたような、理知的で威圧的なフェロモンが漂っている。 対するノアは、白衣の裾を握りしめ、食い下がった。「美しさなんて関係ありません! この術式なら、Ω(オメガ)の魔力供給量でも安定します。ルシウス室長は、αのスペックを基準にしすぎです!」 ノアは平民出身の劣性Ω。蜂蜜色の髪と榛(はしばみ)色の瞳を持つ、どこにでもいる平凡な研究員だ。 だが、その優秀さと頑固さだけは、ルシウスが唯一認める点でもあった。「Ωの基準になど合わせる必要はない。……そもそも、君たちがすぐに体調を崩し、発情期(ヒート)などという非効率な生理現象に振り回されるのが悪い」「っ……! それは、どうしようもない体質です! あなたがたαには、一生分からないでしょうけど!」 ノアが叫ぶと、ルシウスは鼻で笑った。「分かる必要もない。精神力が足りないから、本能ごときに支配されるんだ。……いいから、その『共鳴石』を貸せ。私が調整する」 ルシウスが強引に、実験台の上にあった巨大な魔石に手を伸ばした。 ノアも負けじと石を掴む。「待ってください! 今触れると、魔力波形が……!」「離せ!」 二人の魔力が同時に石へと流れ込んだ。 αの強大な覇気と、Ωの繊細な魔力。 相反する二つの波長が、共鳴石の中で予期せぬ化学反応(バグ)を引き起こした。 カッ――!! 視界が真っ白に染まるほどの閃光。 鼓膜を破るような轟音と共に、二人の意識は吹き飛ばされた。 ***「……う、ぐ……」 どれくらいの時間が経ったのか。 ノアは、ひどい頭痛と共に目を覚ました。 視界が高い。 いつも見上げている実験棚の上が見える。それに、身体が鉛のように重く、そして妙に熱い力が漲っている。 ノアはふらりと立ち上がった。手を見ると、そこには自分のものではない、大きく骨ばった手があった。「え……?」 ノアが