INICIAR SESIÓN第一章 凍てついた心臓
北の大国ノルドガルドの冬は、魂さえも凍てつかせると言われている。
王城の尖塔は鋭利な氷柱に覆われ、吹き荒れる風が慟哭のように石壁を叩いていた。
その最上階、王族の私室にあるバルコニーに、一人の青年が立っていた。
第二王子、エリス。
二十一歳を迎えたばかりの彼は、この極寒の風景の一部であるかのように美しく、そして冷ややかだった。月光を吸い込んだような銀髪。長い睫毛に縁取られた瞳は、深淵の
「……殿下。そのような薄着で外に出られては、お身体に障ります」
背後から、低く重厚な声がかけられた。
エリスの肩が、微かに――本当に微かに強張った。
振り返らずとも分かる。そこに立っているのは、近衛騎士団長ジークフリート。漆黒の鎧を纏い、「黒狼」の異名で畏怖される、エリスの専属護衛騎士だ。
幼い頃から、常にエリスの影として傍らにいた男。
そして、エリスがこの世で唯一、
エリスは手すりを握る手に力を込めた。革の手袋越しに、冷気が染み込んでくる。
心臓が早鐘を打ち始めている。駄目だ、感情を高ぶらせてはいけない。
愛、怒り、悲しみ。激しい感情の波動は、宿主の体温を奪い、最終的にはその身を氷の像へと変えて砕け散らせる。
ジークフリートが傍にいるだけで、エリスの胸には恋慕という名の熱い炎が灯り――皮肉なことに、それが呪いの氷を呼び寄せてしまうのだ。
最近、その発作は頻度を増していた。指先の感覚が消えかけている今も。
「……ジークフリート」
エリスは感情を凍結させ、能面のような冷徹さを装って振り返った。
「今日限りで、私
「……は?」
常に沈着冷静なジークフリートが、素っ頓狂な声を上げた。端正で無骨な顔に、動揺が走る。
「意味が分かりかねます。私が、何か不手際を?」
「不手際などない。ただ、飽きたのだ」
嘘だ。
喉が張り裂けそうになるのを堪え、エリスは言葉のナイフを放ち続ける。
「お前のような無骨な男が常に背後にいるのは、息が詰まる。これからは誰もつけない。一人の方が気楽だ」
「殿下! 今の国内情勢をご存知ですか。第一王子派の動きが不穏な今、あなたを一人にすることなど……!」
「これは王命だ、ジークフリート!」
エリスが声を張り上げた瞬間、ピシリ、と空気が鳴った。
エリスの頬に、氷の結晶が花のように浮かび上がる。
ジークフリートがハッとして口をつぐみ、痛ましげに目を細めた。彼は知っているのだ。エリスの呪いのことを。そして、それが感情の昂りと連動していることを。
「……分かりました。仰せのままに」
ジークフリートが、床に膝をついた。
鎧が硬質な音を立てる。
彼は深く頭を垂れたが、その拳は床石にめり込むほど強く握りしめられていた。
「ですが、これだけは覚えておいてください。王命で役職を解かれようと、
その呼び名は反則だった。二人きりの時だけ許された、幼い日の名残。
エリスは奥歯を噛み締め、逃げるように部屋へと戻った。
扉を閉めた瞬間、堪えていた涙が溢れ出し――それが頬を伝う前に凍りつき、小さな宝石となって床に落ちた。
これでいい。彼を遠ざければ、もうこれ以上、彼を想って死に近づくこともない。
そう信じていた。
第二章 叛逆の炎
運命が暗転したのは、その三日後の夜だった。
轟音と共に、王城の東塔が爆炎に包まれた。第一王子派による、武力クーデターの勃発である。
「氷の呪いを持つ不吉な第二王子を排除せよ」という大義名分を掲げ、反乱軍が雪崩のように城内へ侵入してくる。
エリスは混乱する回廊を走っていた。
護衛はいない。自分で遠ざけたからだ。
腰に佩いた細身のレイピアだけが頼りだが、多勢に無勢。たちまち反乱兵に囲まれ、行き止まりのテラスへと追い詰められた。
「ここで行き止まりだ、呪われし王子よ!」
「大人しく首を差し出せ!」
兵士たちの剣がぎらりと光る。
エリスは切っ先を向けたが、恐怖で指先から急速に感覚が失われていくのを感じた。
死ぬのか。こんな、氷のように冷たい場所で、誰にも愛を告げられぬまま。
ジーク。
最期に脳裏をよぎったのは、あの不器用な男の顔だった。
その時だ。
夜気を切り裂くような、獣の咆哮が響いた。
「――その御方に、指一本触れるなァッ!」
黒い疾風が、兵士たちの包囲陣を粉砕した。
漆黒の鎧。巨大なバスタードソード。
ジークフリートだった。
彼は一太刀で三人もの兵を吹き飛ばすと、エリスの前に立ちはだかった。その背中は、どんな城壁よりも頼もしく、巨大に見えた。
「ジーク……! なぜ、ここへ! 私はお前を解任したはずだ!」
「解任されたのは近衛団長としての職務です。今の私は、
ジークフリートが吼えた。
その言葉の熱量に、エリスの胸が激しく跳ねた。
惚れた主。彼は今、そう言ったのか?
だが、感傷に浸る暇はなかった。次々と増援が現れる。
「殿下、飛びますッ!」
「なっ、何処へ!?」
「地獄の底までお供しますぞ!」
ジークフリートはエリスの腰を力強く抱き寄せると、そのままテラスの手すりを蹴って、闇夜へと身を躍らせた。
城壁の下には、分厚い雪の積もった中庭。
着地の衝撃を、ジークフリートは自らの身体をクッションにして殺した。
そのまま待機させていた軍馬にエリスを乗せ、自らも後ろに飛び乗る。
「掴まってください!」
馬蹄が雪を蹴り上げる。
背後で燃え盛る王城の炎が、雪原を赤く染め上げていた。
エリスは、背後から回されたジークフリートの腕の強さと、背中に密着した彼の胸板の熱さを感じていた。
皮肉なものだ。命が脅かされるこの極限状況で、エリスはかつてないほどの安らぎを感じていたのだから。
第三章 吹雪の夜
追っ手を撒くために彼らが逃げ込んだのは、国境付近にそびえる「竜の背骨」と呼ばれる険しい山脈だった。
だが、そこで彼らを待ち受けていたのは、人間の軍隊よりも恐ろしい、自然の猛威だった。
視界を奪う
気温は氷点下二〇度を下回っているだろう。
二人は岩場に隠された、小さな洞窟に転がり込んだ。
枯れ木を集め、ジークフリートが火打ち石で小さな焚き火を起こす。揺らめく炎が、冷え切った石壁を頼りなく照らした。
「……殿下。お怪我はありませんか」
ジークフリートが、濡れたマントを脱ぎながら尋ねた。
エリスは答えようとして、唇が動かないことに気付いた。
寒さのせいではない。
呪いだ。
極度の緊張と恐怖、そして何より、ジークフリートと密着して逃げてきたことによる「愛しさ」の爆発が、呪いの進行を加速させていたのだ。
「あ……ぅ……」
エリスが崩れ落ちる。
その左手は、既に肘まで透明な氷に変質していた。衣服の上からでも分かるほど、その侵食は胸元へと這い上がっている。
「殿下ッ!」
ジークフリートが駆け寄り、エリスを抱き起す。
鎧越しではない、直接触れたエリスの身体は、死体よりも冷たかった。
「なんて冷たさだ……! くそっ、いまいましい呪いめが!」
「……離、れろ……ジーク……」
エリスは薄れゆく意識の中で、必死に拒絶した。
紫の瞳から光が失われていく。
睫毛も、髪も、霜に覆われ白く染まっていく。
「私が……凍れば……お前まで……巻き添えに……なる……」
「馬鹿なことを言ってはいけません!」
「行け……生きて……私のことは、忘れて……」
それは、エリスなりの最期の愛の告白だった。自分が氷像となって砕ける無残な姿を、愛する彼に見せたくない。
だが、ジークフリートは聞き入れなかった。
彼は荒々しく自分の鎧を脱ぎ捨て始めた。ガシャン、ガシャンと、黒い鉄塊が床に転がる。
鎖帷子も、チュニックも引き裂くように脱ぎ捨て、鍛え抜かれた上半身を露わにする。
歴戦の傷跡が刻まれた、岩のように逞しい筋肉。そこからは、生命の証である湯気が立ち上っていた。
「忘れる? 置いて行け? ……ふざけるな!」
ジークフリートは、怒りを含んだ声で低く唸った。
そして、凍りつつあるエリスの上着を剥ぎ取り、その氷の肌を、自身の熱い肉体で強引に抱きしめた。
「ひッ……!」
エリスの喉から、悲鳴とも喘ぎともつかない声が漏れた。
冷気と熱気。正反対のものが接触し、ジューッという幻聴が聞こえそうなほどの衝撃が走る。
第四章 融解
熱い。焼けるようだ。
エリスの凍てついた感覚受容器に、ジークフリートの圧倒的な体温が雪崩れ込んでくる。
ジークフリートは、エリスを洞窟の奥の毛皮の上に押し倒し、覆いかぶさるようにして全身を密着させた。
「ジーク、だめだ……お前の心臓が……お前の心臓が、止まってしまう……!」
「止まるものですか。俺の命は、あなたのために燃やすと決めているのです」
ジークフリートの手が、氷になりかけたエリスの左腕を強く擦る。摩擦熱を起こし、血流を呼び戻そうとする必死の処置だ。
それは医療行為のようでありながら、あまりにも濃密で、情熱的な愛撫だった。
無骨で大きな掌が、エリスの冷え切った脇腹を、背中を、何度も何度も撫で上げる。
ジークフリートの肌から伝わる鼓動が、エリスの止まりかけた心臓を叩き起こしていく。
「エリス……。あなたは俺を突き放しましたが、俺はずっと分かっていました」
耳元で囁かれる熱い吐息。
ジークフリートが、エリスの首筋に顔を埋めた。
「あなたが俺を見る目。その奥にある熱を、俺が気付かないとでも思ったか? 俺はずっと……
「あ……あっ……」
エリスの瞳から、涙が溢れた。
感情が高ぶれば呪いが進むはずだった。なのに、どうしてだろう。
ジークフリートの熱に包まれている今、あんなに恐ろしかった冷気が、甘やかに溶けていくのを感じる。
物理的な熱だけではない。彼の魂の熱量が、呪いの
「愛している。……エリス、俺の命を吸い尽くしてくれ」
ジークフリートが顔を上げ、エリスの唇を奪った。
荒々しく、けれど慈しみに満ちた口づけ。
舌が絡み合うたびに、体内の奥底から熱い奔流が湧き上がる。
エリスの指先から氷が消え、本来の白磁の肌に戻っていく。代わりに薔薇色の赤みが差し、冷たかった身体が、内側から発熱し始めた。
「ん……ぁ、ジーク……熱い、もっと……」
エリスは無意識にジークフリートの広い背中に爪を立て、しがみついた。
氷の呪いは、「愛を否定する」ことで成立する孤独な魔法だった。
だが今、互いの命を削り合うほどの強い肯定(愛)の前で、その呪縛は霧散しようとしていた。
洞窟の外では、世界を白く塗り潰すような猛吹雪が荒れ狂っていた。
風の咆哮が岩壁を震わせ、自然の猛威が二人の隠れ家を飲み込もうとしていた。だが、その小さな石室の中だけは、皮肉なほどに灼熱の夏が訪れていた。
枯れ木が爆ぜる微かな音も、二人の荒い呼吸音にかき消されていく。
「はぁ、ぁ……っ、ジーク、あつい……」
毛皮の上に押し倒されたエリスが、苦悶と歓喜の混ざった声を漏らす。
先刻まで死人のように蒼白だったその肌は、今や内側から発光するような薔薇色に染まっていた。
ジークフリートの巨躯が、覆いかぶさるようにエリスを閉じ込めている。
長年の戦いで鍛え抜かれた騎士の筋肉は、鋼鉄のように硬く、そして溶岩のように熱い。その圧倒的な質量と熱量が、エリスの身体の深部にある「呪いの核」を強引に溶かしていくのだ。
ジークフリートの掌が、エリスの脇腹を這い上がった。
剣ダコで固くなった、やすりのような指先。それが、王宮の絹しか知らなかったエリスの滑らかな肌を擦るたび、ちりちりとした摩擦熱が神経を逆撫でする。
それは本来、乱暴とさえ言える手つきだった。だが、そこには「死なせない」という、祈りにも似た切迫した愛が込められている。
「まだだ……まだ冷たい場所がある」
ジークフリートが低く唸り、エリスの鎖骨のくぼみに唇を寄せた。
そこには、まだ僅かに氷の結晶がこびりついていた。
ジークフリートは躊躇なく、その氷を熱い舌で舐め取った。冷気ごと飲み込むような、貪欲な口づけ。
ジャリ、と微かな氷の音がして、すぐに熱で水へと変わる。
「んぅッ! そこ、は……!」
鋭敏な場所に熱い舌を這わされ、エリスの背中が大きく弓なりに反る。
氷が溶けた場所から、汗が滲み出し、ジークフリートの唾液と混ざり合って首筋を伝い落ちる。
冷たさが痛みだったなら、この熱さは劇薬だ。
思考が白濁する。王族としての矜持も、呪いへの恐怖も、すべてがこの男の体温によって蒸発していく。
エリスは無意識に腕を伸ばし、ジークフリートの背中にしがみついた。
指先に触れる、古傷の隆起。
それは、ジークフリートが長年、エリスを守るために負ってきた名誉の代償だ。その傷の一つ一つが、どれほど彼がエリスを想っていたかの証拠だった。
「ジーク……ジーク……ああ、私の、騎士……」
「エリス……」
名前を呼ばれた瞬間、ジークフリートの理性のタガが完全に外れた。
医療行為としての摩擦は、明確な愛撫へと変質する。
彼はエリスの両手首を片手で容易く制圧し、頭上へ縫い止めると、その無防備になった胸板に己の胸を強く押し付けた。
ドクン、ドクン、と二つの心臓が、肋骨越しに殴り合うように共鳴する。
騎士の頑強な腕と、王子の華奢な肢体。
その対比はあまりにも鮮烈だった。
岩のようなジークフリートの腕の中で、エリスの身体は折れそうなほど細く、白く、儚い。けれど、その儚い身体が、すべてを受け入れるように開かれている。
視線が絡み合う。
ジークフリートの瞳の奥には、長年封じ込めてきた獣が棲んでいた。
エリスの瞳の奥には、氷解した湖のような潤んだ光があった。
言葉など、もう邪魔なだけだった。
「愛している」と囁くよりも深く、「守る」と誓うよりも確かに。
彼らは身体という器を使って、互いの魂の形を確かめ合っていた。
熱い楔が打ち込まれるたび、エリスの中から最後の冷気が吐き出され、代わりにジークフリートの命の炎が満たされていく。
外の吹雪が強まり、ごうごうと風が鳴く。
だが、今のエリスには、耳元で荒く喘ぐジークフリートの呼吸音こそが、世界の全てだった。
永遠に続くかと思われた冬の夜。
その暗闇の底で、二人は溶け合い、混ざり合い、ひとつの完全な生命体となって、朝を待っていた。
その夜、彼らは言葉以上の雄弁さで、互いの魂の形を刻み付けたのだった。
***
翌朝。
吹雪は嘘のように止み、白銀の世界に朝日が差し込んでいた。
焚き火の跡が燻る洞窟の中で、エリスは目を覚ました。
身体が軽い。そして、温かい。
背中には、ジークフリートの体温があった。彼はエリスを寒さから守るように抱きしめたまま、安らかな寝息を立てている。
エリスはそっと、自分の左手を見た。
氷の結晶は消え失せ、健康的な血色が戻っている。
呪いが完全に消えたわけではないかもしれない。だが、もう恐れることはなかった。凍りつきそうになれば、またこうして彼が溶かしてくれるのだから。
「……ん。……殿下。お目覚めですか? お加減は?」
ジークフリートが目を覚まし、眠たげな目でエリスを覗き込んだ。
エリスは彼に向き直り、悪戯っぽく微笑んだ。かつての氷の王子には見せられなかった、年相応の青年の笑顔で。
「おはよう、ジーク。……それと、『殿下』はやめろと言ったはずだ」
エリスは伸び上がり、ジークフリートの唇に軽いキスを落とした。
「これからはエリスと呼べ。……私の、愛しい
ジークフリートは一瞬呆気にとられたが、やがて破顔した。
無骨な黒狼が見せた、飼い主だけに見せる忠実で幸福な表情。
彼はエリスの手を取り、その指先に恭しく口づけた。
「御意。……我が主、そして我が愛しきエリス」
二人は手を取り合い、洞窟の外へ歩き出した。
雪原の彼方には、新しい太陽が昇り始めている。
失った王冠の代わりに、彼らは何者にも侵されない、永遠の絆を手に入れたのだ。
(了)
第一章 新入りへの洗礼 絶海の孤島にそびえ立つ、第九重犯罪者収容所「タルタロス」。 灰色の空と、荒れ狂う波に閉ざされたこの要塞は、生きて出ることは不可能と言われる地獄の釜の底だ。 重厚な鉄扉が開き、一人の男が看守たちに引きずられてきた。 イグニール。かつて国家転覆を企てた革命軍のリーダーであり、「紅蓮の獅子」と恐れられた男だ。 手足には重い鎖、首には爆破機能付きの黒い首輪(チョーカー)。鍛え抜かれた肉体は傷だらけだが、その瞳だけは決して消えない炎のように燃えている。「……ここが、俺の墓場か」 イグニールが独りごちると、コツ、コツ、と硬質な靴音が響いた。 コンクリートの冷気の中、一人の男が現れる。 軍服を思わせる黒い制服に、革のロングブーツ。腰には警棒と拳銃。そして片目には銀縁のモノクル(片眼鏡)をかけた、氷のように美しい男。 この監獄の絶対支配者、典獄クラウスだ。「ようこそ、タルタロスへ。……随分と威勢の良い目だ、305番」 クラウスは番号で呼び、イグニールの前に立った。 身長はイグニールの方が高いが、クラウスが放つ圧倒的な威圧感(オーラ)は、巨人のそれをも凌駕していた。「俺の名はイグニールだ。番号で呼ぶな」「ここでは名前など無意味だ。お前はただの家畜、管理されるだけの肉塊に過ぎない」 クラウスは冷たく言い放つと、看守たちに顎で指示した。 イグニールは台の上に押し付けられ、囚人服を無理やり剥ぎ取られた。 全裸にされ、屈辱的な姿勢で拘束される。「入所手続きだ。……身体検査を行う」 クラウスが黒い革手袋の上から、さらに医療用のゴム手袋を装着する。 パチン、とゴムが弾ける音が、広く無機質な部屋に反響した。「革命軍のリーダーともあろう者が、体内に危険物を隠し持っている可能性は否定できんからな」「ッ……ふざけるな、俺は何も……!」 イグニールの抗議は、クラウスの指によって遮られた。 無造作に口腔内へ指がねじ込まれる。歯茎、舌の裏、喉の奥まで、執拗に探られる。 ゴムの無機質な味と、クラウスの冷たい体温。 イグニールが睨みつけると、クラウスは薄く笑った。「いい表情だ。……だが、検査は上だけではないぞ」 クラウスの手が下へと滑る。 鍛え上げられた腹筋、古傷の走る太腿を愛撫するように撫で、そして最も無防備な場所へ。 医療
第一章 鬼哭の生贄 平安の都から遠く離れた、丹波国・大江山。 鬼が住まうとされるその魔の山へ、霧深い夜、一人の男が登っていた。 男の名は十蔵(じゅうぞう)。山寺の僧兵であるが、その風体は僧侶というよりは岩の巨木であった。 身長は六尺三寸(約一九〇センチ)を超え、僧衣の上からでも分かる丸太のような腕と、樽のような胸板。生まれつき常人離れした巨体と怪力を持つ彼は、幼い頃から「鬼子」と恐れられ、寺でも持て余される厄介者だった。(……これでいい。俺のような化け物は、鬼の腹に収まるのがお似合いだ) 十蔵は自嘲気味に笑った。 最近、里で鬼の被害が相次ぎ、その怒りを鎮めるための「生贄」として、彼が選ばれたのだ。 誰もが彼を恐れ、厄介払いしたがっていた。十蔵自身も、自分の巨体を持て余す孤独な人生に疲れていた。 山頂付近。巨大な岩屋の奥に、朱塗りの御殿がそびえていた。 十蔵が足を踏み入れると、地響きのような声が轟いた。「ほう。今宵の膳は、随分と骨太な獲物が来たな」 御簾(みす)が上がり、現れたのは、十蔵さえも見上げるほどの巨躯を持つ「鬼」だった。 大江山の王、酒天(しゅてん)。 身長は七尺(約二メートル十センチ)あろうか。燃えるような赤銅色の肌、額から生えた二本の鋭い角。はだけた着物から覗く筋肉は、鋼鉄を練り上げたように隆起している。 酒天は玉座から立ち上がり、十蔵の周りをゆっくりと回った。 その金色の瞳が、十蔵の分厚い胸板や、太い太腿をねっとりと値踏みする。「食うには筋が多すぎる。だが……」 酒天の大きな手が、十蔵の尻を鷲掴みにした。 万力のような力。十蔵は反射的に身構えたが、動けなかった。「悪くない。……これほど頑丈な器(からだ)なら、あるいは壊れずに耐えられるかもしれん」「……何の話だ。食うならひと思いに食らえ」「食らうさ。だが、口で食うとは言っていない」 酒天は獰猛に笑い、十蔵の帯を一息に引きちぎった。第二章 規格外の求愛 十蔵は抵抗する気力を失い、されるがままに奥座敷へと連れ込まれた。 しかし、すぐに殺されるわけではなかった。 酒天は大きな盃に酒を並々と注ぎ、十蔵に勧めてきたのだ。「飲め。……死ぬ前に、俺の愚痴を聞け」 酒天は自らも酒をあおり、忌々しそうに股間を叩いた。「俺は、強すぎた。力も、魔力も、そして……こ
第一章 予選の衝突(Red Zone) モナコ、モンテカルロ市街地コース。 地中海の青い海と豪華なカジノを背景に、世界最高峰のモータースポーツ、F1グランプリの予選が行われていた。 ガードレールに反響するV6ハイブリッドターボの咆哮が、街全体を震わせている。 ピットレーンのガレージ奥、無数のモニターに囲まれた場所で、チーフエンジニアの高城慧(たかしろけい)は、凍り付いたような表情でデータを凝視していた。 黒髪に銀縁の眼鏡。その瞳には、秒単位で変化するテレメトリーデータが滝のように流れている。『レオ、タイヤの温度が限界だ。このラップは捨てろ。ピットインしろ』 慧は無線(ラジオ)のスイッチを押し、冷静に指示を飛ばした。 だが、ノイズ混じりの返答は、彼の論理を嘲笑うものだった。『断る! 今の俺は誰よりも速い! このままポールを獲る!』 モニターの中、深紅のマシンが加速する。 ドライバーは、レオ・バスケス。二十三歳。「サーキットの野獣」と呼ばれる天才だ。 彼は慧の指示を無視し、最終コーナーへ突っ込んだ。壁まで数ミリのギリギリのライン取り。タイヤが悲鳴を上げ、白煙を上げる。 コンマ〇〇一秒の短縮。 トップタイム更新。ポールポジション獲得。 ガレージが歓声に包まれる中、慧だけがヘッドセットを乱暴に叩きつけた。 予選終了後のモーターホーム(控え室)。 扉が開いた瞬間、慧は入ってきたレオの胸倉を掴み、ロッカーに叩きつけた。 ガンッ! と金属音が響く。「……死にたいなら一人で死ね、レオ!」 普段は冷静な慧の、激情の露呈。 レオは驚いたように目を丸くしたが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。汗とアドレナリンの匂いが、慧の鼻腔を刺激する。「怒るなよ、ケイ。ポールを獲ったんだぜ? 結果オーライだろ」「結果論だ! あのタイヤであの突っ込み方をすれば、サスペンションが砕けて死んでいた可能性が四十パーセントもあった! 私の計算した最高傑作(マシン)を、君の賭けの道具にするな!」 慧の瞳の奥にあるのは、怒りだけではない。喪失への恐怖だ。 レオはそれに気づき、慧の手首を掴んで引き寄せた。「……心配してくれたのか? 愛されてるなぁ、俺は」「ふざけるな」「あんたの計算は完璧だ。だが、最後にハンドルを握るのは俺だ。……俺の感覚(センス)を信じろよ」 レ
第一章 緑の檻(Green Cage) 都市の喧騒から遠く離れた、深い森の奥。 そこに、巨大なガラスのドームが鎮座していた。 葛城植物学研究所。 外は冷たい秋雨が降っているが、厚いガラスに隔てられた内部は、むせ返るような亜熱帯の湿気に満ちている。 シダ植物が巨大な葉を広げ、天井からは気根がカーテンのように垂れ下がっている。空気そのものが緑色に染まっているかのような、濃密な生命の気配。「……颯太君。その鉢の湿度はどうだ?」 静かな声が、葉擦れの音に混じって響いた。 白衣を纏い、銀縁の眼鏡をかけた男、葛城翠(みどり)だ。 若くして数々の新種を発見した天才植物学者だが、極度の人間嫌いとして知られ、この温室に籠りきりの生活を送っている。「あ、はい! えっと、土はまだ湿っています。水やりは控えめにした方がいいかと……」 ホースを手に答えたのは、日下颯太(そうた)だ。二十二歳の大学生。 休学中の高額バイトにつられてやってきた彼は、ここに来て一ヶ月、住み込みで働いている。 温室の湿度は常に八十パーセントを超えている。颯太の額には大粒の汗が浮かび、Tシャツが背中に張り付いていた。「……そうか。良い判断だ」 翠が近づいてくる。 彼は革の手袋をした指先で、颯太の汗ばんだ首筋を不意に拭った。「ひゃっ! か、葛城さん?」「……ふむ。君はよく汗をかくな。新陳代謝が活発だ。……実に水はけが良い」 翠の眼鏡の奥の瞳が、爬虫類のように細められる。 それは人間を見る目ではない。希少な植物の生育具合を観察するような、無機質で、それでいて粘着質な視線だった。「君からは、若い樹木のような匂いがする。……ここにいる植物たちも、君の養分(フェロモン)を気に入っているようだ」「は、はあ……。ありがとうございます……?」 褒められているのかどうかも分からない。 颯太はこの雇い主に、本能的な違和感を抱いていた。彼は植物には愛おしげに話しかけるが、人間である颯太には、まるで「道具」や「肥料」を見るような目しか向けないのだ。「今日はもう上がりたまえ。……ただし、東のエリアには絶対に入るなよ。あそこは今、デリケートな時期だからな」 翠はそう言い残し、研究室へと戻っていった。 残された颯太は、首筋に残る革手袋の冷たい感触に、身震いした。 禁止されると気になってしまう
第一章 敗北の海戦(Defeat at Sea) 「七つの海」と呼ばれる広大な海域。その西端に位置する珊瑚の海で、今まさに歴史的な激戦が繰り広げられていた。 轟音と黒煙が、紺碧の空を汚している。 帝国海軍の誇る無敵艦隊の旗艦『ソブリン号』が、片舷を大きく傾け、悲鳴のような音を立てていた。「提督! 第三マストが折れました! これ以上は持ちません!」「……狼狽えるな。舵を切れ、風上に立て直す!」 指揮官であるエリアス・フォン・ベルク提督は、硝煙の舞う甲板で叫んだ。 二十五歳という若さで提督の地位に上り詰めた、「氷の提督」。銀髪をきっちりと結い上げ、純白の軍服には塵一つついていない。その青白い美貌は、戦場にあって異質なほどの冷徹さを保っていた。 だが、その冷静な瞳も、今は焦燥に揺らいでいる。 敵は、ただ一隻の海賊船だった。 深紅の帆を張った高速フリゲート艦『レッド・オルカ号』。 帝国の包囲網を嘲笑うかのような操舵技術で懐に潜り込み、至近距離からの砲撃で、巨象のような戦列艦の足を止めたのだ。「野郎ども、乗り込めェ! 帝国の坊ちゃんたちに、海の厳しさを教えてやれ!」 野獣のような咆哮と共に、鉤縄(かぎなわ)が投げ込まれる。 乗り込んできたのは、潮と血の匂いを纏った海賊たちだ。その先頭に立つ男を見て、エリアスは息を呑んだ。 燃えるような赤髪。潮風に晒された褐色の肌。シャツのボタンを弾け飛ばすほど鍛え上げられた胸板。 バルバロス。「海魔」と恐れられる伝説の海賊船長だ。「貴様……ッ!」 エリアスはサーベルを抜き、自ら前線へ躍り出た。 バルバロスがニヤリと笑い、巨大なカトラス(曲刀)を一閃させる。 ガキンッ! 火花が散り、強烈な衝撃がエリアスの腕を痺れさせる。「へぇ、綺麗な顔して、いい剣筋だ。……だが、海はお前の遊び場じゃねえぞ、提督!」「黙れ、無法者!」 剣戟が交錯する。技量はエリアスが上だが、バルバロスには圧倒的な腕力と、波の揺れを味方につける野性的な勘があった。 不意に船が大きく揺れた瞬間、エリアスの体勢が崩れた。 その隙をバルバロスは見逃さなかった。 強烈な蹴りがエリアスの腹部に叩き込まれ、彼は甲板に吹き飛ばされた。「ぐ、ぅ……ッ!」 起き上がろうとしたエリアスの喉元に、冷たい刃が突きつけられる。 見上げれば、バル
第一章 共鳴する魂 王立魔導研究所の第十三研究室。 深夜二時を回っても、そこには怒号と魔力の火花が散っていた。「だから! 君の計算式は美しくないと言っているんだ、ノア!」 冷徹な声が響く。声の主は、ルシウス・ヴァン・アスター。名門貴族出身のエリートα(アルファ)であり、若くして魔導工学の権威となった天才だ。 銀色の長髪に、氷のように冷たい灰色の瞳。その全身からは、「ビターチョコレートと冷たい雪」を混ぜたような、理知的で威圧的なフェロモンが漂っている。 対するノアは、白衣の裾を握りしめ、食い下がった。「美しさなんて関係ありません! この術式なら、Ω(オメガ)の魔力供給量でも安定します。ルシウス室長は、αのスペックを基準にしすぎです!」 ノアは平民出身の劣性Ω。蜂蜜色の髪と榛(はしばみ)色の瞳を持つ、どこにでもいる平凡な研究員だ。 だが、その優秀さと頑固さだけは、ルシウスが唯一認める点でもあった。「Ωの基準になど合わせる必要はない。……そもそも、君たちがすぐに体調を崩し、発情期(ヒート)などという非効率な生理現象に振り回されるのが悪い」「っ……! それは、どうしようもない体質です! あなたがたαには、一生分からないでしょうけど!」 ノアが叫ぶと、ルシウスは鼻で笑った。「分かる必要もない。精神力が足りないから、本能ごときに支配されるんだ。……いいから、その『共鳴石』を貸せ。私が調整する」 ルシウスが強引に、実験台の上にあった巨大な魔石に手を伸ばした。 ノアも負けじと石を掴む。「待ってください! 今触れると、魔力波形が……!」「離せ!」 二人の魔力が同時に石へと流れ込んだ。 αの強大な覇気と、Ωの繊細な魔力。 相反する二つの波長が、共鳴石の中で予期せぬ化学反応(バグ)を引き起こした。 カッ――!! 視界が真っ白に染まるほどの閃光。 鼓膜を破るような轟音と共に、二人の意識は吹き飛ばされた。 ***「……う、ぐ……」 どれくらいの時間が経ったのか。 ノアは、ひどい頭痛と共に目を覚ました。 視界が高い。 いつも見上げている実験棚の上が見える。それに、身体が鉛のように重く、そして妙に熱い力が漲っている。 ノアはふらりと立ち上がった。手を見ると、そこには自分のものではない、大きく骨ばった手があった。「え……?」 ノアが