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第五話

last update Last Updated: 2024-12-05 21:56:13

都心の一等地に自社ビルを構えるKOWA総合システムは、世界的にも有名なITの会社で、時代の波に乗り、どんどんと事業を拡大している会社だ。

私は駅を降りて、人混みを抜けながらKOWAのビルへと向かう。

ガラス張りのビルの入り口が見えると、自然と気が引き締まるような気持ちになった。

エントランスに足を踏み入れると、吹き抜けになっていて柱には大型のモニターがあり、KOWAの製品のCMが流れている。

久しぶりの会社に少しキョロキョロとしてしまったが、私は自分のフロアへ行くためにエレベーターに乗り込んだ。そして、広々としたフロアへと向かう。

「おはようございます」

一年半ぶりに足を踏み入れた私は、気合を入れるためにも笑顔を作り声を出した。

鮮やかなカラフルなチェアに機能的なデスク。海外事業部は時差もあるため、フレックスタイム制で、自分のパソコンを持ってどこでもリラックスして仕事ができる作りになっている。

「あー、久しぶりね」

「お久しぶりです。加奈先輩」

見知った顔の先輩が変わらない笑みを浮かべてくれて、私はホッと胸をなでおろす。

「東雲」

私を見つけると、新入社員の時の教育係だった神代さんが声をかけてきた。

神代颯真さんは私より三歳年上で、人懐っこい笑顔の人だ。天性の人を引き付ける魅力というものがあり、営業成績も常にトップを走っている人だ。

「はい、神代さん」

笑顔で頭を下げれば、神代さんはにこりと笑った。

「俺のアシスタントになったから、きちんと働けよ」

出産前までは営業をしていた私だったが、やはり子供がいる以上、同じ仕事は厳しい。人事部長からの提案もあり、アシスタント業務をさせてもらうことになっていた。

「はい、頑張ります」

仕事を一から教えてくれた神代さんのアシスタントなら、復帰後もやりやすいだろうと、いろいろ考えてくれた人たちに感謝しつつ、朝礼で挨拶をすると、みんな温かく迎えてくれほっとした。

二週間が経過し、瑠香も保育園に少しずつ慣れ、私も仕事の勘を取り戻し始めていた。

「東雲、S社の見積もり出しといて」

神代さんの依頼に、私はパソコンからファイルを開いてから、後ろの席の彼を見ようとくるりと椅子を回した。

「どうした?」

しかし、私の目に入ったのは、部長と歩いてくる一人の男性だった。

「おい、東雲?」

私がまったく返事をしないことを不思議に思ったのか、神代さんも
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洋子
再開は まだですか? 楽しみにしてるのに まだですか?2回目です。読み返しています。待っている ファンがここに居ますよ。
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    高木が部屋を出て行ったあとも、父はしばらく無言のままだった。机に肘をつき、指先で軽くこめかみを押さえている。その仕草からは苛立ちとも疲労ともつかない感情が滲んでいた。重苦しい沈黙が社長室に漂う。重厚な木製のデスクと革張りのソファ、壁に飾られた額縁――どこを見ても、この部屋の空気は冷たく、威圧感があった。俺は椅子に深く腰を下ろし、静かに父の言葉を待った。「……お前、何か勘違いをしているようだな」やがて、父が低く呟く。その声音は先ほどよりも抑えられていたが、言葉の奥には確かな圧力が潜んでいた。「勘違い?」「お前が一人で勝手に動いたところで、この話が終わるとでも思っているのか?」父の冷ややかな視線が俺を射抜く。まるで、手に乗った駒を見下ろすような目だ。その眼差しにわずかな苛立ちが混じったのを、俺は見逃さなかった。「この結婚は、すでに高木家と正式に進めると決まっている。お前の意思ごときで覆る話ではない」「俺は高木家にはっきりと断りを入れました。それでもあなたは、まだこの話を続けるつもりですか?」「当然だ」父はあっさりと言い切った。その表情に迷いは微塵もない。俺の反発など初めから織り込み済みだとでも言うように、淡々とした口調だった。「お前の勝手な判断が、どれほどの影響を及ぼすのか理解しているのか? 高木家の後ろ盾を失えば、我が社は経営基盤を大きく揺るがすことになる。その責任を取る覚悟があるのか?」「その責任を取るのが副社長の仕事なら、俺は正々堂々とやるまでです」言い放つと、父の表情がわずかに変わった。「ほう……?」鼻で笑いながら椅子にもたれかかる。その仕草には余裕が漂っていたが、僅かに目を細めたのを俺は見逃さなかった。俺の言葉が、多少なりとも彼の意識に引っかかったことは確かだ。父は鼻で笑い、椅子にもたれかかる。「ならば、お前の力だけでやってみろ」その言葉に、嫌な予感がした「どういう意味ですか?」「お前を、今日付けですべての経営会議から外す」「……は?」父は淡々と続ける。「副社長という立場は残してやるが、意思決定には一切関与させない。今後、経営に関わる重要案件は、すべて私と取締役会で決める」「そんな……」息を呑む。これは単なる権限の剥奪ではない。「これは私の命令だ」父の言葉は絶対だった。副社長という肩書きを持っていても、

  • Once more with you もう一度あなたと   第三十四話

    Side 日向彩華の「隣にいる」と言ってくれた言葉が、頭の中で何度も反響していた。すべてを片付けるまで――そう言ってくれた。俺にとって、それはどんな言葉よりも救いだった。彼女の温もりを腕の中に感じながら、俺はようやく一歩踏み出す覚悟を決めた。もう、迷うつもりはない。このまま、曖昧な状態を続けるわけにはいかない。父親の言いなりになり、会社の未来のために「必要な選択」をしろと言われ続ける人生は、もう終わらせる。高木家との政略結婚も、親の都合で決められた跡継ぎのレールも、すべて――。俺はあの日、すぐに行動に移した。高木家にはっきりと断りの連絡を入れたのだ。だが、その決意がどれほど大きな障害を生むのかは、すぐに思い知らされることになった。翌朝、いつも通りオフィスに出社すると、すぐに秘書が俺の元へ駆け寄ってきた。「副社長、社長がお呼びです」何も言わなくても、すでに動きを察知されていることぐらい想像はつく。「わかった」俺は無言で立ち上がり、社長室へ向かった。扉を開けると、すでに父がソファに座って待っていた。その隣には、高木絵梨奈の姿もある。想像通りすぎていらだちが募るが顔には出せない。「日向、お前、何を考えている?」父の声は低く冷たい。まさか俺が父や彼女を通り越して、正式に断るとは思っていなかったのだろう。それが、この会社に与える影響も父はもちろん、俺だってわかっている。この結婚によって父はこの業界の確固たる地位を築きたいのだ。だが、それは彩華や瑠香を犠牲にしてやることではない。兄もきっとそれはわかってくれるはずだ。それに俺だってただずっとぼんやりと会社にいたわけではない。絶対にいつか、この父を今の地位から引きずり降ろしてみせる。「日向さん、こんにちは」高木が父の隣で微かに笑みを浮かべながら、俺に頭を下げた。「絵梨奈さん、お久しぶりですね」俺もにっこりと笑いつつ、そう答える。とんだ茶番でしかない。そんな俺たちを見て、父が苛立ったように声を荒げる。「とぼけるな。お前が最近、妙な動きをしていることは知っている。会社の将来のためにお前を副社長に据えたというのに、余計なことを考えるな!!」「余計なこと、とは?」「彼女との婚約の件だ」だろうな。それ以外この状況でありえない。しかし、俺も今回は引くつもりはない。「……その話なら

  • Once more with you もう一度あなたと   第三十三話

    「彩華といるときだけが、俺にとって自分でいられる場所だった。でも、俺が彩華の隣を望むことは許されないよな……」そう言って、日向はふっと悲しげに笑った。その笑顔はあまりにも寂しそうで、どこか諦めが滲んでいて。――どうして、そんな顔をするの?まるで、最初から叶わないことが決まっているみたいに。まるで、最初から私の気持ちなんて、どうせ受け入れられないって決めつけているみたいに。胸の奥がちくりと痛む。なのに、それと同時に、どうしようもなく苛立ちが募っていった。「ねえ、本当に日向はずるい。謝るなら最初からそんなこと言わないでしょ!」気づけば、感情のままに声を上げていた。「『お前なんて嫌いだ、二度と顔も見たくない』そう言えばいいじゃない!」自分でも驚くくらい、強い口調になっていた。「昔から思わせぶりなことばかり言うじゃない! そんなふうに言うから、私は……!」言葉が詰まる。頭の中は混乱しているのに、どうしても止められなかった。「本当は私にそばにいてほしいんでしょ!!」その瞬間、息が詰まった。なんてことを言ってしまったの。まるで、ただのうぬぼれみたいじゃないか。「私のこと好きなんでしょう?」そう聞いているのと同じ。そんなこと、口に出すなんて――。背中に冷たい汗が流れる。こんなことを言うつもりじゃなかったのに。けれど、日向は――。「そうだよ」迷いなく、即答した。「俺はずっとずっと彩華にそばにいてほしい。狂おしいほどに」静かな言葉だった。だけど、その一言は、私の心に鋭く突き刺さった。言葉が出ない。息をするのさえ、苦しくなる。どうしよう。どうしたらいいの?「それができないのは、お父様のことがあるから?」やっと絞り出した声は、震えていた。日向はすぐには答えなかった。けれど、その表情を見れば、答えが「YES」であることは明白だった。「日向は、お父様のこと、どうにかするつもりはあるの? ないなら、もう私と瑠香とは関わら……」そこまで話した私の言葉を遮るように、日向は「ある!」と強く言った。「すべてを片付けて、俺は……」言いかけた言葉をのみ込むように、日向は私をまっすぐに見つめた。その目に映るのは迷いがある様には見えなかった。「でも高木さんの方が、日向の隣にいるのにふさわしいんじゃないの?」それは、私がずっと思っていたこと

  • Once more with you もう一度あなたと   第三十二話

    日向の問いに、何か言葉を返そうとしても、喉がつかえて声にならなかった。 彼の手が触れたままの手首がじんと熱を持ち、鼓動の音だけがやけに響いている。 言葉を発することも、逃げることもできず、ただじっと彼を見つめるしかなかった。それでも日向は諦めず、もう一度問いかける。「昔のことを気にすることないって……どういう意味だ?」さっきよりも少しだけ強い声。「それは……」何かを言わなきゃいけないと思うのに、どんな言葉を紡いでも、うまく伝えられる自信がなかった。あの日、酔って私と一夜をともにしたことを、きっとやさしい日向はずっと気にしている。 再会してからの彼の態度は、後悔からくるものだと、ずっと思っていた。 だから、もう気にしなくていい。 私たちのことは忘れて、自分のために生きてくれたらいい――そう伝えたかった。でも、それが嘘だということも、私は自分でわかっていた。罪悪感だったとしても、日向がそばにいてくれることが嬉しい。 そんなずるい気持ちが、私の心の奥底に確かにあった。だけど、日向は会社を背負う人間。 高木さんが言った通り、私は足手まといだ。そんな迷いを抱えたまま、私は何も言えずにただ黙り込んだ。すると、不意に日向が視線を逸らす。「悪い、体調が悪いときに……」まるで、自分を落ち着かせるようにそう言いながら、彼はそっと私の手を放した。自由になったはずなのに、つかまれていた部分がじんじんと熱を持ち、胸がドキドキと早鐘を打つ。 どうしていいかわからなくて、私は自分の腕をそっと抱えながら、ただ俯くしかなかった。「でも、これだけは知っておいて」沈黙の中、日向の低く落ち着いた声が響く。「……え?」顔を上げると、日向は少しだけ言葉を選ぶように考え込み、そして、ゆっくりとした口調で言った。「今の言葉が、あの日――彩華を抱いたことを言っているなら」その一言に、心臓が跳ねる。あの日――。意識しないようにしていた記憶が、鮮明によみがえってくる。「後悔したこともないし、忘れるつもりもない」静かに、でも確かに日向の声が響く。 私は、息をのんだ。「……っ」驚いて顔を上げると、日向の目がまっすぐに私を見ていた。 迷いのない、揺るがない瞳。「ただ、俺が悔いているのは、彩華のそばを離れたことだ」その言葉を聞いた瞬間、胸が締めつけら

  • Once more with you もう一度あなたと   第三十一話

    Side 彩華朝の光がカーテンの隙間から差し込み、ぼんやりとしたまぶたを照らしていた。まるで柔らかな手で揺さぶられるような感覚がして、意識が浅い眠りから徐々に浮かび上がる。――あれ……?ゆっくりとまぶたを持ち上げると、視界の端に伏せられた頭が見えた。日向――?まだ夢を見ているのかと錯覚しそうになった。けれど、覚醒していく意識の中で、目の前の光景が夢ではないことを理解する。ベッドのそばに置かれた椅子に座り、日向が腕を枕代わりにしてつっぷして眠っていた。最初は、何が起こっているのかわからなかった。でも、彼の肩がゆっくりと上下しているのを見て、現実なのだと気づく。――ずっと、そばにいてくれたの?驚きとともに、心がじんと温かくなるのを感じる。何時間ここにいたのかわからないけれど、少なくとも私は、日向がそばにいることに気づかずに眠ってしまっていた。申し訳なさと同時に、胸の奥に静かに嬉しさが広がっていく。どうして、こんなことをしてくれるの?昔の罪滅ぼし?あの夜のことを、まだ気にしているの?でも、それなら、もういいんだよ。勝手にいなくなる理由があったことは、もうわかった。彼が苦しんでいたことも、どうしようもなかったことも、すべて理解している。だから、そんなふうに気にしないでほしい。それとも――違う?私としては、もう一度、瑠香のパパとママとして、新しい生活を夢見ることもある。現実的ではないとわかっていても、そんな未来を想像してしまう日がある。再会してからの彼は、昔と違っていた。あの頃は、ただ憧れていた。子どもが夢見るように、無邪気に「好き」だと思っていた。でも今は違う。大人になった日向を知り、彼の生き方を知り、私はもう、ただの幼い恋心ではない感情を抱いてしまっている。だけど――。私は、彼の隣に並べるような人間じゃない。それを、一番理解しているのは私自身だった。日向は、会社の後継者であり、大企業の副社長。一方の私は、ただの社員で、子どもを育てるのに精一杯なシングルマザー。彼にとって、私との関係は、きっと重荷になる。それを望んでしまうのは、ただの私のわがままでしかない。――こんな想いを抱いてしまうのは、迷惑なだけ。心にそう言い聞かせるように、眠る日向を見つめた。こうして目を閉じていると、昔の彼に戻ったように見

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