LOGIN「そうだな。じゃあ、少し付き合えよ」
「え?」
私の返事を聞くことなく、日向はそのままテラスから家へと入っていく。
「ちょっと待って日向!」
その姿を追いかけて、サロンに入ればきちんと手入れされたその場所に驚いてしまう。
「あれ、綺麗」
「毎月きちんと清掃管理がされてるから」
「そうなんだ」
想像と違うその場所に、何も考えず言葉が零れる。
「ねえ、日向は今日はどうして?」
「んー? なんとなく。彩華、もう飲める年なんだろ?」
備え付けられたバーカウンターから、ワインを取り出しグラスを出す。
「まだ、ばーさんが住んでた頃のワインだけど、大丈夫そうだな」
慣れた手つきでワインを開け、グラスに注いでいく。ボルドーの液体が小気味いい音を立てて注がれる。
それで、この場がなぜか特別な気がしてしまった。今どうしてここに日向がいて、また明日からどこへいってしまうのかもわからない。
それでも、今日向に会えたことが嬉しかった。月明かりがサロンの窓ガラスから入ってきて、胸元から見える日向の鎖骨にドキッとしてしまう。
妖艶なその瞳に、私は吸い寄せられるように、距離を詰めていた。
「彩華?」
そんな私に彼は驚いたように、目を見開いた。
「ねえ、日向。また明日にはここにいないんでしょう?」
答えは聞かなくてもわかる気がしたが、あえてその問いを口にする。
「ああ」
「どうしているの? とかそんなことは聞かない」
「彩華どうした?」
私が何を言いたいか理解できないようで、日向がかなり怪訝な表情を浮かべる。
「あのね、この十年、私誰ともできないの」
「できない?」
今度は完全に意味がわからないといった様子の日向。
アルコールというのは本当に怖い。こんな恥ずかしいことを臆面もなく話している自分が信じられない。
でも、また会えなくなるのなら、一度だけ日向と試してみたかった。
誰に触れられても固くなってしまう、この呪われた身体。
それは日向も同じだったら、私は寺でもどこでも入って一生独身でもいい。
「そう、何人もの人と付き合ったんだよ。でも、誰ともできなかった。触れられると身体がカチカチになっちゃって」
「そうか……」
日向はこの赤裸々な告白に、少し困ったような表情を浮かべた。
「うん」
しばらく無言の時間が流れた。
「きっと、いつか心から彩華が好きだと思った相手ならそんなことないよ」
そう言うと、日向は持っていたグラスの中の赤ワインを飲み干した。
「久しぶりに彩華に会えてよかった。おばさんたちが心配するな。そろそろ……」
ソファから立ち上がった日向の後ろから、私はギュッと抱き着いた。
私より数十センチは高い身長。鼻孔を擽るムスクの香り。私が知っている日向とは違うのに、やっぱり日向だと心が叫ぶ。
「ねえ、お願い。面倒なこと言わないから。私を助けると思って一度だけキスしてみて」
「彩華、いい加減に……」
クルリと振り返った日向に、私は自らキスを仕掛ける。
カチッと歯が当たってしまい、色気も何もないキスに泣きたくなってしまう。
「ダメ? 私はやっぱり日向の中では子供のまま?」
半泣きでそう尋ねれば、彼は何かに耐える様な表情を浮かべた。
「後悔するなよ」
そう耳元で聞こえたと思うと、日向は激しくキスを仕掛ける。するりと日向の舌が私の口内へと滑り込み、ビクっと身体が跳ねた。
今までならば、ここでどうしていいかわからなくて、カチカチになってしまうのだが、淫らな水音に頭の中はドロドロに溶けていく。
そのまま優しくソファに押し倒され、何度もキスをされていると、いつの間にか下着だけになっていた。
今まで服を脱がされていたことすら気づかなかった自分に驚いてしまう。
「彩華、大丈夫か?」
誰とも抱き合うことはできないと思っていた。病院まで行こうと思っていた。
でも、自分でそれはすべて違っていたことに気づく。私は日向がよかったのだ。
「日向、日向」
何度も名前を呼べば、日向は優しく頬を撫でて安心させるように微笑んでくれた。
昔から、ずっとこの笑顔が大好きだった。
この日、私は大好きだった初恋の人に抱かれた。
次の日、まだ朝早く目を覚ますと、日向のジャケットがかけられていた。
しかし、予想通り日向の姿はなかった。
「またいっちゃった……」
そう呟いて、少しずつ明るくなってきた空を見上げた。
テーブルの上にはメモが一枚。
【そのまま戻って大丈夫だから。彩華、いい子でいろよ】
「またそれ?」
いつしか預かったメモと同じ言葉で締めくくられたその紙に、私は泣き笑いを浮かべた。
いい子でいろよ、そういうのならいつまででも待とうじゃない。
そんな気すらして、私は涙を拭うと、こっそり自分の家へと戻った。
それから程なくして、私は瑠香を妊娠していることに気づいた。
あの時の日向との子。それはわかっていたが、私はそのことを両親にも誰にも絶対に話さなかった。
日向の居場所を知ろうと思えばできたと思う。でも、私はそれをしなかった。
彼にとって、私と一緒にいられないことがすべてだと思った。自分から誘って妊娠をして出産をした。
ただそれだけだ。
「それで? これからはどうするの?」母の問いに、私はちらりと隣の日向を見つめた。気持ちは、もうお互いに伝え合った。けれど、これからのことまでは、まだ話していなかった。しかし、このタイミングでこの問いは、親として当然だろう。私は少しだけ視線を落としながら、「それは、おいおい……」と曖昧に口にした。けれど、その隣で日向が私を見る。そして、はっきりとした声で言った。「一緒に住みたいと思っています」言い切った日向の表情は、迷いのないものだった。父と母は顔を見合わせて、それぞれ小さく笑った。微笑んではいたけれど、その奥に、ほんの少しだけ寂しさがにじんでいる気がした。それも、当然だ。生まれてからこれまで、瑠香の面倒を見てくれたのはこの二人だった。娘と孫が、急に出ていくとなれば――気持ちが揺れるのは、私だって同じだった。そんな空気を察したのか、日向はふっとやわらかい笑みを浮かべ、穏やかな声で言った。「隣の家に越そうと思ってます。……彩華の仕事もあるし、瑠香のことも、今までどおり頼らせてもらえると助かります」その言葉に、私は思わず目を見開いた。父と母もまた、驚いたように日向を見て、そしてすぐにうれしそうに頷いた。「そうなの、それはいいわね。もちろん瑠香のことは任せて。ねえ、お父さん」「うん、ああ。そりゃあもう、大歓迎だよ。……さ、昼にしようか」どこか気恥ずかしそうに言いながら、父は立ち上がって、母を連れだって台所へと歩いていく。そんな二人を見ながら、私は隣に座る日向の袖をそっと引いて、声を潜めて聞く。「……いいの? 隣で」日向は「なにが?」とでも言うように首をかしげた。「いや、だって。職場にも近いとか、いろいろあるかなって……」そう言うと、日向はちょっとだけ笑った。「俺にとっては、これがいちばん現実的だし、いちばん幸せだと思っただけ。……ダメ?」「ダメなんて、言ってない」素直にそう返すと、日向は私の髪にそっと手を伸ばし軽く撫でた。瑠香の笑い声が、廊下の奥から聞こえてくる。母と父の笑い声も混ざってあたたかい音になっていた。「母たちのこと、考えてくれてありがとう」素直な気持ちを伝えると、「俺とっても大切な家族だからな」そう口にした。複雑な過程で育った日向だからこそ、これからは穏やかに過ごしてくれたらいい……そう思った。
「マーマー」「瑠香? もう起きたの……早いね……」柔らかな光に目を細めながら、いつも隣にいるはずの瑠香に手を伸ばそうとする。……が、触れたのは、思いがけない“硬い感触”。「え? あれ?」急に覚醒した頭で、私は勢いよく身体を起こした。昨日はたしか、日向と身体を重ねて、そのまま眠って――。一気に顔が青ざめそうになったが、下に視線を移すと、ちゃんとホテルのパジャマを着ていた。……ほっと胸をなでおろす。「彩華、おはよう」そして手が触れたのは、ベッドの上で胡坐をかいて座っていた日向の足だった。彼の膝の上には、ちょこんと笑顔で座っている瑠香の姿。その光景に、なぜか泣きそうになってしまう。こんな朝を迎えられる日が来るなんて――ほんの少し前まで、思いもしなかった。そんな私の表情に気づいたのか、日向がそっと私の頭をなでてくれた。その日向を見つめていると、瑠香が不意に口を開く。「おなかちゅいた」「瑠香ちゃんは、何が好き? ここはね、クマさんの絵のパンケーキがあるぞ」そう言って、日向はベッドから降りると、瑠香を軽々と抱き上げた。「彩華、ルームサービス頼んでおくよ。ゆっくり起きておいで」昔から面倒見がよくて、優しい日向。どんなにいなくなっても、彼の根底にあるその優しさだけは、私には疑うことができなかった。だから――私はきっと、ずっと日向を待っていたのだと思う。そして、日向もずっと、私を待っていてくれた。「日向。ありがとう」今までのすべての思いを込めて、私はそう答えた。それからの日向の行動は、こちらが思っていた以上に早かった。ホテルを出たあと、日向が「少し寄らせてほしい」と言った。その言い方があまりに自然で、私は反射的に頷いていたけれど、玄関の前まで来てみれば、胸の奥がざわついているのを隠せなかった。昨日、日向が母に連絡を入れてくれていたはず。私が彼と一緒にいることも、少しは伝わっているだろう。それでも、こうして三人で並んで立つ玄関の前は、思っていた以上に緊張する場所だった。「たらいまー!」私の躊躇などまるでおかまいなしに、瑠香が元気よくドアを開ける。その声に反応するように、中から軽い足音が響き、扉の向こうに、両親の姿が現れた。母と、父。並んで立つその姿に、一瞬、時間が戻ったような錯覚を覚えた。母は私たちの姿を見て、ど
何から話そうか……。話を聞く、そう言ったけれど、何を聞いて、私は何を話すべきなのか。 いろいろまとめていたはずなのに、言葉が出てこない。 それでも、まずはこれだけは伝えないと。 そう思って、日向に視線を向けた。「瑠香は、俺の(=日向の)子――」まったく同時に、そう口にしていた。 もちろん、日向がそう思っていることは、なんとなくわかっていた気がする。 でも、改めてお互いの口から確認する必要があった。私の言葉を聞いて、日向は顔を手で覆ったあと、これでもかというくらい、私に深々と頭を下げた。「本当に、俺の無責任な行動のせいで……彩華にひとりで出産させて、辛い思いをさせて……。どうやって償えばいいかわからない」沈痛すぎるその言葉に、私は「日向だけが悪いわけじゃない」って、そう伝えようとした。 でも、すぐに日向は私の手を強く握りしめてきた。「その謝罪は、一生かけてさせてほしい」「え?」言われた意味がすぐには分からず、私はキョトンとしてしまったのだろう。 日向が責任を感じて、何かと戦ってくれていることは、私も分かっていた。 でも――「彩華が許してくれるまで、俺はどんなことをしてでも、彩華の信頼を取り戻して、ふたりを幸せにするって誓う。だから、ずっとそばにいてほしい」……でも、それはあくまで瑠香のため? そう思うのに、まるで愛の告白のようにすら聞こえる言葉と、日向の真剣な瞳に、頭が混乱する。私はもちろん、ずっとずっと日向が好きで、どんなことをされても、結局嫌いになんてなれなかった。 周りにいた素敵な人たちにも、心が動かされることはなかった。 でも、日向は?そんな思いが溢れて、言葉が口をつく。「でも、日向。瑠香は、私が勝手に産んだの。それに……“抱いて”って、あの日迫ったのも私。もし、罪悪感からなら、それでいいんだよ。瑠香の父親ってことだけは、ちゃんと認めてほしい――」そこまで言ったとき、不意に強い力で引き寄せられた。 気づけば、私は日向の胸の中にいた。「そんなこと言うな。俺は、彩華がいないと……俺でいられない」「日向……?」「小さいころから、彩華だけが俺の光で、彩華の前でだけ本当の自分でいられる――。ずっと好きなんだ」泣きそうにも聞こえるその声には、決して嘘や偽りなど感じられなかった。 その瞬間、私はギュッと心臓をつ
支度を整えたあと、私はキッチンで朝の片付けをしていた母に声をかけた。「お母さん……帰ってきたら、全部話すから。もう少しだけ、待ってくれる?」日向は今日、両親にきちんと会って話したいから、迎えに行くよと言ってくれた。でも私は、それより先に――すべて自分の中で整理をつけてからにしたくて、直接会うのではなく、待ち合わせがいいとわがままを言った。そして、日向はその気持ちを尊重して、うなずいてくれた。今日の話次第で、これからのことが決まるのだと思う。どうなるかわからない以上、今の段階では両親に何をどう話せばいいか、自分でもまだはっきりしなかった。母はふと手を止めて、私の顔を見つめた。ほんの少しだけ、不安そうな表情を浮かべたけれど――やがて、ゆっくりとうなずいた。「……わかった。楽しんできなさい」それだけを言って、母は笑って背を押してくれた。きっと、母なりに今の私を信じて、見守ってくれているのだと感じた。待ち合わせ場所に着くと、日向はすでに到着していて、車のそばに立っていた。いつもはスーツ姿の彼が、今日は珍しくカジュアルな服装をしている。柔らかなグレーのシャツに、淡いベージュのパンツ。気取らない雰囲気が、思いのほか彼によく似合っていて、胸がわずかに高鳴った。週末の朝、空はどこまでも澄み渡り、お出かけ日和だった。「瑠香、靴はいた? 今日はお出かけするって言ったでしょ?」「はいたー!」リュックを背負った瑠香は、玄関でぴょんぴょんと跳ねていた。朝からすっかり上機嫌で、その姿に思わず笑みがこぼれる。「お待たせ」そう声をかけると、日向は穏やかに笑い、まず瑠香に視線を向けた。「瑠香ちゃん、おはよう」「ひなたー! ひなた、おでかけ!」「うん。今日はたっぷり遊ぼうな」差し出された手を、瑠香は迷うことなく握った。たったそれだけのことなのに、胸の奥がじんわりと温かくなった。この光景を、ずっと見ていたい――心から、そう思った。昼食をとり、パレードを見て、キャラクターのぬいぐるみを買った帰り道。瑠香がそのぬいぐるみを大切そうに抱えたまま、「きょう、たのしかったね」とつぶやいたとき、私も日向もつい顔を見合わせて笑ってしまった。「じゃあ、帰る?」話をするとは聞いていたが、瑠香ももう眠そうで私がそう問いかけると、日向は思案するような表情を浮か
夜の街は、思っていた以上に静けさを湛えていた。窓を少しだけ開けると、初夏の涼しい風が部屋に入り込み、レースのカーテンがやわらかく揺れた。瑠香はすでに眠っていて、私はそっと寝室を抜け出し、リビングのソファに腰を下ろす。時計の針は、まもなく二十三時を指そうとしていた。この時間に誰かと連絡を取ることなど、普段はまずない。けれど今日は、スマートフォンを手放すことができず、画面を見ては閉じて、また見て――そんなことを繰り返している。信じているつもりだった。待つと決めたはずだった。それでも胸の奥に残るざわつきは、なかなか消えてくれない。テーブルの上で、スマートフォンが小さく震えた。表示された名前を見た瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられる。《東雲 日向》深呼吸をしようとしたけれど、指はすでに画面をスライドしていた。「……もしもし」「彩華」その一言だけで、胸がいっぱいになる。かすかに掠れた声。でも、間違いなく――日向の声だった。「ごめん、遅くなって」「ううん……それで、どうだったの?」そう尋ねると、少しだけ沈黙が落ちた。やがて、言葉を選ぶように、彼は静かに告げた。「終わったよ。全部」その言葉が胸に届いた瞬間、不意に視界がにじんだ。ほっとしたような、うれしいような、それだけでは言い表せない感情が、波のように押し寄せてくる。気づけば、涙が一筋、頬を伝っていた。「……ありがとう、日向」震える声でそう伝えると、電話の向こうで彼が小さく息を吐いたのがわかった。「俺こそ、ありがとう。彩華がいてくれたから、ここまで来られた」「……私は何もしてないよ」「してくれた。何も言わずに待ってくれた。それが、俺には本当に――力になった」その静かな言葉に、また胸が熱くなる。私はただ、待っていただけ。でも、それでもよかったと思えた。「……彩華、今すぐ会いたい」その声は低く、けれど迷いのない響きをもっていた。「……私も、会いたい」「迎えに行く。少しだけでもいい。顔を見たい」「うん……待ってる。家のそばの公園にいるね」通話を終えたあと、私はティッシュで涙をぬぐい、立ち上がった。すっかり化粧は落ちてしまっているけれど、それでも鏡の前で髪を整え、少しでもまともな顔にしようとする。泣いていたことなど、隠しようもない。でも、それでも――今夜だけ
その日も、朝は変わらず始まった。洗濯機を回しながら、朝食をテーブルに並べる。「瑠香、ゆっくりたべてね」いつも通りの朝の風景の中で、心のどこかがざわついていた。何かが起こっている。言葉にはならないけれど、確かに胸の奥にひっかかっている、直感に近い予感。昨夜、日向は言った。「明日は大事な会議がある」と。それ以上は何も語らなかったし、私も「教えて」とは聞かなかった。聞いたところで、私にできることは何もない。でも――もし知ってしまえば、もっと不安になることも、私は分かっていた。「ママ、えほんー、よむー!」「はいはい、じゃあ片付けたらね」瑠香に笑いかけながらも、意識のどこかでは、ずっと日向の顔が浮かんでいた。彼が、自分の人生を懸けて何かと戦っている。そう思うようになったのは、あの夜、彼が「全部片付ける」と言ったあの言葉が、ずっと心に残っているからだ。日向が本気で誰かに立ち向かっているとき、私は何もできない。ただ家で、待っているしかない。けれど、その“待つ”という時間が、こんなにももどかしく、切ないものだなんて――知らなかった。彼が誰と向き合っていて、どんな壁にぶつかっているのか。何ひとつ知らされていないまま、私はただ、今日という一日を過ごしている。キッチンで洗い物をしながら、スマホに目を落とす。新着通知はない。もちろん、日向からの連絡も。「……バカだな、私」ふと漏れた呟きは、カチリと鳴った食器の音にかき消された。「何もないのが、きっとうまくいってる証拠。そう思わなきゃ」自分に言い聞かせるようにつぶやいても、心はざわざわと騒がしいまま。不安と信頼が交互に押し寄せて、感情が波のように揺れていく。何もしていないのに、胸がぎゅうっと締めつけられて、気がつけば洗い終えた皿を拭く手が止まっていた。「ママ、だいじょぶー?」小さな声に、はっと我に返る。「うん、大丈夫だよ。ちょっと考えごとしてただけ」そう言って笑ってみせたけれど、その笑顔がどこかぎこちないことに、自分でも気づいていた。会議室には、静寂が満ちていた。いつもなら、プロジェクターの光と資料をめくる音が行き交うはずのこの場所には、今日に限ってそのどれもなかった。ただ張り詰めた空気だけが、沈黙のなかでじっと息を潜めていた。――ついに、この時が来た。テーブルの向こう