LOGIN東条は流れてくる獣の臭いと血の臭いで、一瞬硬直した脚を無理やり叩き起こす。即座に反転し、未だビビろうとする筋肉に発破をかけ全力で前に突っ走った。
幸い信号は青のまま、走り出してすぐ車に跳ね飛ばされることはない。
横断歩道の対岸の人達はまだまともに動けていない。
異形が生まれ落ちている光景は現在進行形で見えているはずだが、悲鳴が聞こえずらかった人もいるのか、「なんだあれ?」と非現実的な光景を処理しきれていない人の方が多い。
「おいっ」
対岸についた際人にぶつかり文句を言われるが、彼は構わず突っ込みまっすぐ進む。
ここで些細なことを気にしたら必ず死ぬ。それだけは分かっていた。
現に対岸についた直後から、
「グルㇽㇽぁぁあアアッ」「どちゅぅ」「ゲッゲッゲッ」「オオオォォォォオオ」「きゃあああぁぁぁあ」「ギィイィィィィ」「バシュッ」「ガアァァァァン‼」「ズッ」「ドちゃあッ」「ヒュルルルルル」「たすkッ」「ダァンッッ‼」「あっ」
後ろから咆哮やら悲鳴やら爆発音やら、その他の聞きたくない音が迫ってきている。
(止まったら、死ぬッ‼)
東条は駅の入口に入り、下り階段を十数段飛ばしで二回連続飛び降りる。そして半分転びながらも地下についた。
地下では、地上で何かが起こっているのは分かるが、確認をするのはおっかないから、と留まって様子を見てる人が多かった。
「っつー」
彼は痺れる足首に顔を顰める。少々痛むが、問題はない。 すぐに起き上がり、踏み込んだ。視界の端には、外から追いやられて階段を下ってくる大群が見える。その中に紛れて人を襲っている四足獣らしきモノも。
鬼気迫る勢いで逃げてくる人間の波を見て、地下にいた者達も一斉に動き出した。
数メートル進んだところで不意に、
タタンッ
と軽い音が東条の耳を打った。
構わず進もうとした矢先、階段で見た四足獣が飛び出してくる。
……狼。体長は一メートル前後、体毛は灰色、目は黄土色で血走っている、そして何人殺してきたのか、牙と爪は血に濡れていた。狼は鼻をひくつかせ周りを見回してから、近くの女性に襲いかかる。が、隣にいた男性が殴り飛ばし、そのまま取っ組み合いになった。
狼が出てきた場所は立ち入り禁止の外に繋がる上り階段だ。それを証明するかのように、たった今同じ所から新しい狼が二体飛び出し、それぞれ別の獲物に襲いかかった。
東条が後ろを見ればすぐそこまで追われてきた人達が迫っている。このままでは挟み撃ちに合う。
「クっソがっ」
彼は逃げ場がなくなる前に、左横に見えた大型デパート【ポルカ】の地下入口へ向けて走った。
――東条は直接二階へ繋がるエスカレーターを駆け上る。
さっきまでいたポルカの地下一階は、地上と地下を繋ぐ経路でもある。いつどこで化物が雪崩れ込んでくるか分からないため、一刻も早くその場を離れなければならない。
普段池袋へ来る時、彼はよくこの道を使っていた。それが功を奏し、階段やエスカレーターの場所は大体把握できているのだ。
店内に入ると、浅階ほど、外から聞こえる音やただならぬ気配を察して不安な空気が漂っていた。大型デパートにはそもそも窓が少ないため、外を見る術がない。
何かを感じながらも状況を確認する手段が何もないこの現状が、人々の不安を増長させていた。
――「ハァッハァッ――」七階まで来た彼は、一先ず歩きながら軽い深呼吸をして呼吸を落ち着ける。
心臓が早鐘を打ち、耳まで響いている。緊張が薄まり、減速した瞬間に大量の汗とともに疲労がやってきた。
「――ふぅっ、」
しかし、まだやることがある。
彼は再び脚に力を込め、速足で目的の場所まで向かう。
ポルカは、隣の【W:P池袋本店】と連絡通路で繋がれているのだ。そしてW:P池袋本店には、生活雑貨・日用品を扱わせたら右に出るものは【ドゥンキ】くらいしかいない【OFtN】がある。OFtNには何でもある。
武器になるものだって、きっとある。
「スゥ~~フゥ~~~」
東条は無理やり呼吸を落ち着かせ、滝のように出てくる汗を袖で拭う。
幸か不幸か、十階を超えると地上の音はほとんど聞こえてこない。フロアには普段と何も変わらない、穏やかな空気が流れていた。
それが自分の逸る気持ちとに明確なギャップを感じさせる。
彼は着ているジャンパーを脱ぎ、腕にかけて店員の所へ直行した。
案内された先に並んでいるのは十数種類の包丁。東条は手っ取り早く、一番高い物の中から『よく切れる‼』と宣伝文句の入ってるステンレス製の牛刀を選ぶ。続いて、盾として一番固そうな銀製のフライパンを手に取った。
結構重いが根元を持てば扱える。傍から見たら、フライパンを吟味する料理好きの一般男性。内実は、撲殺武器兼盾の取り回しを確認する一般男性だ。
合計五万ちょい。かなりお高いが、この緊急事態、金に糸目はつけられない。
会計の途中で、館内アナウンスが鳴った。
『館内のお客様に、お知らせ致します。現在外で、不審者が暴れております、不審者は、凶器を所持している、可能性があります、誠に申し訳ございませんが、慌てず、当店員の指示に従い、行動してください。よろしくお願い申し上げます。繰り返します――』
不安を与えないように所々ぼかしてはいるが、下の階で外を見れる場所にいる客もいるのだ、大した効果はないだろう。
彼は会計を済ませ、トイレに行く。そこで包丁を抜き身の状態にしてポケットに押し込み、いつでも取り出せるようにした。
フライパンはビニール袋に入れたまま持ち歩く。ポケットは多少破れるだろうが、この際しょうがない。トイレから出ても、館内アナウンスが流れている以外は大して変わりなかった。
――東条は汗ばんだ手で、ひんやりとした感触に力を込める。 手の中が熱い、包丁の柄を握る手が異常に熱い。せっかく収まった動悸も、うるさいほどに響いていた。
あの最初の光景を思い出し、また足が竦みそうになる。あれからまだ七、八分しか経っていないのだ。......嫌な考えが過る。
自分は本当に、襲われたら反撃できるのだろうか?
奴等を前にして動けるのだろうか? そんな考えが頭の中をかき回してゆく、(……アニメイトに来ただけだぞ俺ぁ……どうしてこうなった)
彼は純粋な不満を心の中で吐き捨てる。
今日は好きなライトノベルの発売日だった。クリスマスイヴに発売などふざけているにもほどがあるが、周りのリア充に負けず見事任務を達成した。
矢先に、文字通りリア充が爆発し始めた。
これはサンタからのプレゼントだったのかもしれないが、諸共一般市民を巻き込んだのはいただけない。いくらサンタが赤が好きだからと言って、そこら中真っ赤に染め上げるのはどうかと思うのだ。東条が下らないことに頭を回しながら歩を進めていると、目的の場所に着く。
八階のレストラン街、外の景色を見れる場所だ。OFtNのある十一階に行く途中にも通った場所だが、店内の光景は然して変わっていなかった。客も店員も皆窓の周りに集まっている。
一様にして悲愴な空気が漂い、中には泣いている者や、焦った様に携帯で誰かと話している者もいる。外からは何かのサイレンが聞こえ、逃げてきた自分からすれば、彼等の見たものが容易に想像できる。
東条は上りエスカレーターに一番近い店を選び、すみませんと一声かけながら人垣の間を縫ってゆく。店に入るが店員には声もかけられない。
やっとのこと最前列につき、眼下に見えたのは、比喩抜きの地獄絵図だった。
赤い。夜の街に照らされる、道路を埋め尽くすほどの赤。
人や車ががおもちゃの様に吹き飛んでゆく。
殴り飛ばされ、群らがられ、貪られている。
正しく、それは蹂躙だった。
強者による、弱者の搾取だった。
ここからだと細かい所までは見えないのが救いか。もし見えていたら、この場所も恐慌状態に陥っていただろう。しかしそれも時間の問題だ。見えずらいと言っても、下は血の海で人間がミンチにされていることに変わりはない。
今はまだ、現実を受け止めきれない感情が恐怖に勝っているだけ。あと少し経てば、嫌でも直視することになる。
彼は化物共を注視する。(……ゴブリンだ)
体表が緑っぽいので目立つ、そして恐らく一番数が多い。うじゃうじゃいる。巨大スクリーンに向かって何やら威嚇している様な姿も見えた。
(狼に……デカいのが三体……)
狼らしきシルエットの獣は、群れで行動をしているのが上から見ると分かる。
それとは別に、人間、軽自動車、建物、ゴブリン(仮)、何でも踏み潰し殴り飛ばしているのが三体。異常なほどの筋肉の発達がここからでも分かる。
東条が多種多様な化物を観察していると、下から、微かだが大勢の人間が階段を駆け上がる音が聞こえてきた。
彼はすぐに状況を悟り、態勢を低くして人垣を縫ってゆく。何度も人とぶつかるが、歩みは緩めない。お互い生きてたらその時謝ろうと誓った。
恐らく、遂に化物どもが侵入したのだろう。
その時、店内に緊急避難警報と共にアナウンスが流れた。
『不審者が店内に侵入しましたッ。お客様方は、係りの者の指示に従い、おちついて、避難して下さい。……繰り返します――』
東条は汗で湿る己の武器を、離さぬように握りしめた。
「フッフッフッ――」
彼はアナウンスを聞き流しながら、何度も何度も自分に言い聞かせる。
いざとなったら全力で殺せ、躊躇うな、殺さなきゃ殺される。
ついさっき命がけで逃げ延びて、彼は奴らの中に渦巻くものを垣間見た。
そこに燻ってたのは、純然たる殺意。何の混じりけもない、真っ白で真っ黒な感情。
呑まれてしまう方が簡単かもしれない。
しかし、弱者として必死に背を向けたからこそ、生への欲が生まれた。
人生楽しんだもん勝ちのこの世の中で、他者のせいで、したいことができなくなるなんて絶対にあっちゃならない。
自分の欲望を満たせないほど、つまらなくてかったるい人生はない。
自分は自分の為にある、ならば、その欲を全力で守ろうと、東条はころころ変わる己の心に誓った。
――バゴっ彼はOFtNの階に戻り、トイレに入って天井にある外しの鍵を殴り壊す。
先ほどトイレに行った時、あらかじめ場所を確認しておいたのだ。
そして壊れた鍵の破片を回収し、個室のドアをよじ登り空いたスペースに潜り込む。最後に登った痕跡をできる限り消した。
(せめぇ……きたねぇ)
彼はベストポジションを位置取り、楽な態勢を作る。ハウスダスターである彼にとって、この環境はかなりきついものがあった。
今回侵入した『不審者』の正体を知っている彼からすると、指示に従う気なんてさらさらない。店内が蹂躙されるのは時間の問題、人ごみによって動けなくなるのが一番怖い。
東条は息を潜め隠れながら、フロア内に満ちていた慌ただしい空気と音が、段々と引いていくのを感じていた。
――モンスターの種類。 独断と偏見で名付けたモンスターを、動画に乗せて紹介する。 ・『ゴブリン』 『ホブゴブリン』 東条を死まで追い詰めた『ゴブリンキング』 ・群れを成して狩りをする『グレイウルフ』 そのボス『ダイアウルフ』 ・恐らく嘗ての東条の仲間達が戦った、たまに空を飛んでいる黒鳥『ヒュッケバイン』 ・東条がまだ彼等と過ごしていた頃から、屋上によく飛来してきた小型の鳥。ノエルの授業にも使われた『チーヴァ』 ・同じくよく飛来してきた、カナブンもどき。ノエルの授業にも使われた『ムグラ』 ・『オーク』 『ハイオーク』 ・大型のムカデ『グランピード』 ・黒色の大型猫モンスター『クァール』 ・領空を犯した外敵全てを数の暴力で殲滅する、四枚羽の鳥『ユパ』 ・そこら中に生え、木、草、蔓、花、様々な形を持つ植物型モンスター『トレント』 ・と一緒によく見る、近くを通った者を捕食する植物。ノエルの授業にも使われた『カーニバル』 ・風呂好きのキュートな中型生物『湯煙ラッコ』 ・東条が女子大にて蹴り殺した大型爬虫類『グアナ』 ・牛頭の魔人『ミノタウロス』 ・サイ頭の魔人『ミノライノス』 ・カバ頭の魔人『ミノポポタマス』 ・二頭の犬『オルトロス』 ・尾に毒蛇を持つ化け雄鶏『コカトリス』 ・単眼の巨人『キュクロプス』 ・そして、絶対的な魔力を纏いながらも、害意を持たず、雨や薄霧と共に移動する超自然的生物『ベヒモス』 ベヒモスの姿を見た藜組の面々は、二人の予想通り目を見開いて固まっている。 画面越しでも分かるその威容は、凡そ人類に勝ち目などない事をまざまざと突き付ける。「……おいおいおい、なんだよこりゃぁ。よく生きて帰ってこれたな」 藜が一息つきソファに凭れる。「敵意がなかった。だからノエル達も気付かなかった。雨が降ってる場所は彼女がいると思っていい」 事実、ノエルの推測は間違っていない。 世界が変わったあの日から、山手線エリアの広範囲は何故か天気に恵まれる。 それは偏に、雨雲が常に一か所に集められているからだ。 雨雲にベヒモスがついていっているのではない。ベヒモスのいるところに雨が降るのだ。 高所から見れば確認できる。移動する暗雲の存在を。「もし遭遇したらどうする?」「楽しかった記憶でも愛でるといい」「はは
東条は思う。こいつの正体は蛇ではなくハムスターだったか、と。 意地汚さ極まる言語崩壊だが、この場所に彼女の言葉のニュアンスを聞き取れない者はいなかった。 特に藜は濁った眼を見開き、再び活力を取り戻し急いでソファに座った。「それは本当か?嬢ちゃん」「んぐ。……嬢ちゃんじゃない。ノエル」「これはすまない、ノエル。で、それは本当か?」 詰め寄る藜を気にした風もなく、余裕綽々と茶を啜る彼女。 自分だけが今最も必要とされている情報を持っていることに、優越感的何かを感じている。 東条は思う。ガキかこいつは、と。いや、ガキだったか、と。「本当」 藜の口が嬉しさに歪む。喜んでいるのだろうが、傍から見ると正直怖い。 それを横目に、東条は呆れたようにノエルを睨んだ。「何でさっき言わなかったんだよ」「お菓子おいしかった」 藜に続き、今度は彼が頭を抱える番であった。 その欲望に忠実すぎる理由に、三人の目が点になる。「ハハハハハッ、おいっ、ノエル嬢にもっと菓子を運んでやれ!」 爆笑する老爺が給仕を呼びつけ、茶菓子の追加を要求する。「いいの?」「あぁ遠慮するな。たんと食え」 ノエルの目が輝く。「おじいちゃん良いじいちゃん」「……おぉ、何か今キュンときたぞ。これが孫というものなのか?のぅボス!」「知らないよ」 真のおじいちゃんに目覚めた老爺が、興奮にはしゃぎだす。 一瞬で空気を弛緩させたノエルを、東条は素直に凄いと思った。……狙ってやったかは別として。 新しく運ばれた菓子を前に、ようやく本格的な商談が始まる。「じゃあ早速聞かせてくれ」 どら焼きを両手に、ノエルが目を細めた。「猿の前に金の話。ノエルの持つ情報がそっちの納得いくものじゃなくても、ノエルは知らない。後からぐちぐち言われるのは嫌い」「ほぅ……」 三人が少しだけ驚いた顔をする。 目の前の少女が、只の食いしん坊ではない事を理解した。「いいね。いくらがお望みだ?」「一億」 芋ようかんを立てて一を表す。「いいだろう。交渉成立だ」 どんな情報かも分からないのに、一億は多すぎだろう。 そんな東条の懸念とは裏腹に、藜は二つ返事でその額に応じた。「支払方法はどうすればいい?聞けば口座がないようだけど、こちらで作ろうか?」 至れり尽くせりの内容に、東条は混乱する。
(……こいつは、ヤバい) 今でこそ先までの圧は感じないが、それでも東条の本能は警鐘を鳴らし続けている。 今すぐ逃げろ、と。 でなければ、全力で殺せ、と。 ジワリ、と冷汗が頬を伝った。 通常魔力を知覚できる者は、モンスターも人間も区別なく、魔力量の差で力量を計り、本能的に襲撃か逃走かを決める。 それが最も効率的であり、合理的であるからだ。 では何故東条や快人が、自分より魔力量の多い敵を前に立っていられるのか。 その理由がcell、合理の外にある力を有しているからだ。 自らの力を自覚し、引き出し、覚醒した彼等は、他の生物とは言葉通り『格』が違う。 人間が蟻に怯えない様に、鷹が鼠に怯えない様に、彼等は有象無象に怯えない。 ただし力が隔絶しすぎていた場合、その限りではない。 恐怖が『格』を貫き、心を蝕む。 ジャイアントキリングは何時いかなる時も起こり得る。 話を戻すと、魔法だけを扱えるモノが魔力量という目しか持たないのに比べ、彼等は魔力量に固執することなく、格という目で力量を計ることができる。 敵がcellに覚醒しているかまでは当然分からないが、覚醒者はより詳細に敵の力を見極められるということだ。 そして藜を前にした東条の本能は、この男を自分と同格か、それに匹敵すると訴えている。 奴の危険度は、本気のノエルよりも、上だ。 東条は警戒を表に出さない様に、ノエルを連れ対面のソファに座った。 紅と同じく真赤なポケットチーフをつけているのが残り二人。 目の前の男をボスとして、この三人が最高権力者なのだろう。「いやぁ申し訳ない。あまりにも凄い人が来たもんで、咄嗟に威嚇してしまった」「本当ですよ。一瞬で帰りたくなりました」 声に不自然はないだろうか? 平静は装えているだろうか? 自分の顔が隠れている事に、過去一番の感謝をした。 言葉的に見るなら、相手もそれなりにビビってくれているようだが。「はははは、まぁそう言わずに。商談といこうじゃないの」 タイミングよく、組員の女性がお茶と高そうな茶菓子を運んできた。 机に置かれると同時に、バリむしゃとノエルの口に吸い込まれていく。先の緊張感はもう忘れたらしい。 そこで、声のトーンを変え藜が此方を見る。「単刀直入に聞きたいんだけど、君達、猿に似たモンスターの情報を持ってないかい?
「本部って……」 到着した場所を見上げ、東条は一人ごちる。「驚いたか?」「えぇ、まぁ」 彼が驚くのも無理はない。 何せその場所は、日本の防衛施設の要、防衛省に他ならない。今では旧防衛省と言った方が正しいのかもしれないが。「ここからは私が案内する。お前は戻って私の部屋の掃除を続けろ。呼んだら来い」 部下にコートを脱がせる紅が、康に向けて言い放つ。「……はぁ、分かりました」「何だその溜息は」「な、何でもないです!ではっ」 うっかり漏らした溜息のせいでうっかり殺されるのは御免だと、康はハンドルを切り一目散で去って行った。 まざまざと見せられた覆ることのない上下関係に、二人も同情を禁じ得なかった。 ――「お疲れ様です!」「お疲れ様です!」 一歩進む毎に聞こえてくる定型文。 お疲れ様のゲシュタルト崩壊。 東条とノエルは、何度目かの挨拶にうんざりを通り越して関心すら湧いてきていた。 幹部である紅に向けられる挨拶は、入口を潜った直後から途切れずに続いている。 当の彼女はそれに返事すらしないため、自分達がどういうムーブをすれば良いのか全く分からない。 部下達に見送られエレベーターに乗り、ようやく静かな空間が戻ってきた。「もうすぐだ」「はい」 ベルが到着を報せ、そこから目的の部屋までもう少し歩く。 どんな人が待っているのか。 ヤクザのボスなのだから、ムキムキのスキンヘッドなのだろうか。 そんなことを考えていた、 直後、二人の肌を粟立つ感覚が襲った。 ……目の前にあるのは、一つの扉。「ここだ」「「……」」 二人を一瞥した紅は、遠慮なく扉を開け放つ。「ボス、今帰ったよ」「……はぁ、見ればわかるよ。男の子の部屋はノックしましょうって教えたよね?」 もう何度同じことを言ったか。藜が突っ伏し顔を覆った。「別にいいだろう。その年で自慰している訳じゃあるまいに」 悪びれた様子もない紅が澄ました顔で自分の後ろ付いたことで、これ以上言っても無駄か、と藜も諦める。いつものことだ。 そして、彼は未だ部屋に入ろうとしない二人に目を向ける。「どうした?茶と菓子も用意している。早速話し合おう」 濁り切った瞳で、見定める様な笑みをその顔に張り付けるのだった。
真赤なロングコートの背中についていくと、用意された一台の黒塗りのベンツに乗せられる。 運転席に座るのは、そろそろ親しみが湧いてきた康だ。「出せ」 助手席に座る彼女の一声で、車は静かに動き出した。 ――誰も口を開かない車内。 ノエルのキーボードを弾く音が、辛うじて空気を保たせている。 東条はそんな中、流れる景色を目で追い、その不可解さに少しばかりの疑問と興味を抱いていた。 車が走れるという事は、それだけの道幅があるという事。そしてそれが、一直線で本部とやらに繋がっている。 不規則にトレントが生えるこの区域で、これだけ綺麗な直通路はほぼない。 要するにこれは、人工的に造られた道路だ。 たまに小さく跳ねる車の下には、無理矢理圧し潰された様なトレントの残骸が数多く散乱している。 数mある密度の塊が、厚さ一㎝程までに圧縮されているのだ。 強力なcellに覚醒した者がいると見て、先ず間違いない。 それが目の前の紅なのか、康なのか、他の組員なのかはまだ分からないが、願わくば一目見てみたいと気持ちを高ぶらせる東条であった。「紅、煙草臭い。消して」「ハハハ、断わる」 ノエルに(これ以上刺激するのはやめてくれ)と心の中で念じながら。 §「ボス、焔李の嬢ちゃんがそろそろ着くらしいぞ?」 高官の執務室らしい部屋にいる、二人の男。 長く伸びた白髪を後ろで一つに束ねた老爺が、どっかりとソファーに腰かけ、もう一人に語りかける。 老爺の肌には長き時を生きてきた証が深く刻まれているが、弱弱しさなど微塵も感じさせない程の覇気を身に纏っている。 黒スーツに彼の老いが負けるはずもなく、粛然たる様は洗練され、見る者を引き付ける典麗さへと昇華させられている。 傍らに置かれた一振りの刀剣と相まって、その姿は宛ら現代の侍である。「……あぁ」 ボスと呼ばれた男は杖を手に取り、慣れない足取りで窓際まで進んで行く。 年は四十近くか。 きっちりと着こなされたスーツとは逆に、乱雑に掻き上げられた黒髪と、生え散った無精髭が妙なギャップを感じさせる。 捻れた美しさを持つ彼の一歩は、どこか優雅で、儚く、そして恐ろしい。 やる気の無さそうな風体から漏れ出るエロスが、彼のミステリアスさの根源である。「歓迎の準備をしようか」 ジャパニーズマフィア藜組組長
――康を抱えて外周のトレントを飛び越え、少し進むと、目的である発電所が目に入った。 康と同じく黒いスーツに赤のバッヂを付けた男女が、入口の前で待っている。「ちびるなよノエル?」「はっ、まさなんてもう漏らしてるくせに」「漏らしてねーよ」「あまり怖がらなくても大丈夫ですよ」 入口を通され、大きなソーラーパネルの間を抜け、管理室の様な場所に案内される。 康がドアをノックすると、「入れ」という、凛とした女性の声が中から響いた。「失礼します。姉御」 彼に続いて二人も入室すると、途端に充満したヤニの臭いが鼻を突いた。 室内には大量の空き缶が転がり、灰皿の上には吸い殻の山が形成されている。「姉御、お客呼ぶならもう少し片付けたらどうすか」「それはお前の仕事だろ」「初耳ですけど……」 テーブルから脚を下ろす彼女が、康を無視してすっくと立ち上がる。 身長は百七十以上あるだろうか、東条と殆ど変わらない。 黒いスーツに身を包み、赤いバッヂも他と変わらず。 ただ違うのが、はち切れそうな胸元に差された真赤なポケットチーフ。 そして最も目を引く、腰付近まで伸びた燃える様な深紅の長髪。 獣の様に鋭い目が細められ、銜え煙草の火が燻った。「……挨拶遅れて申し訳ない。が、ノエル殿、先ずはそのカメラを止めてくれないか?」「ダメ?」「ダメ、だ。こいつと会った時から今までの動画を、今ここで削除してくれ」 部屋の掃除をする康を首で指す。(おぉ~何か映画っぽい) 東条の関心を他所に、しょうがないと言った風体でノエルは動画を消し始める。「貴殿等の動画は面白いが、うちの組の内部まで流されては流石に堪らないのでな」「ん。理解」「ハハハ、感謝する」 一瞬ピりついた空気が流れたものの、許してくれたみたいで良かった。 そんなことを考えていた東条と、姉御の目が合う。「……しかしまぁ、本当に頭部だけ黒いな」「セルフモザイクですね」「便利だな。確かに貴殿の名前も、動画内ではモザイクが入っていたな。隠しているのか?」「動画内では一応。普段はまさと呼ばれています」「まさ殿か、ならば私は紅とでも呼んでくれ」「分かりました。……一つ聞きたいのですが、ここをずっと守っていたのは紅さんですか?」 改めてこの質問を、本人だろう人にぶつける。「そうだな」







