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第5話「家族」

作者: 琉球狸
last update 公開日: 2026-03-27 16:07:30

朝は、いつもと同じように始まった。

カーテンの隙間から差し込む光。

キッチンで湯を沸かす音。

テーブルに並ぶ、二人分の朝食。

――違うのは、ひとつだけ。

私は、もう“迷っていない”。

「いってきます!」

玄関で、いつも通りの声を出す。

背後から、拓也の眠たそうな返事。

「……いってらっしゃい」

振り返らない。

振り返る必要がない。

だって――もう、外から塞ぐから。

ドアを閉めた瞬間、表情が消えた。

風は少し冷たくて、気持ちがいい。

頭が冴える。

足取りは軽い。

まるで、買い物にでも行くみたいに。

でも、向かう先は――

“家族”。

インターホンを押す。

ピンポーン。

数秒の沈黙...

「……はい?」

女性の声。

少しだけ警戒を含んだ、年配の声。

「突然すみません。私、沙織さんの高校の同級生の美咲と申します。いきなりすいません。

少しお話がありまして...」

嘘は言っていない。

カメラ越しに、こちらを確認している気配。

間。

そして――

「……何の御用でしょうか?」

私は、ゆっくりと名乗る。

「――沙織さんが不貞を働いている拓也の妻です」

沈黙が、落ちた。

鍵の開く音が、やけに大きく響いた。

ドアが、開く。

そこに立っていたのは、

きちんとした身なりの女性。

――母親だろう。

その奥から、新聞を持った男性が顔を出す。

――父親。

「……どういう、ことですか」

当然の反応。

私は、深く頭を下げる。

「突然の訪問、申し訳ありません」

声は、穏やかに...

柔らかく...

どこまでも、礼儀正しく。

「ですが……どうしても、今お伝えしなければいけないことがありまして」

“今”でなければならない理由。

それは――

逃げられる前に、塞ぐため。

最後の心の拠り所になろう二人を...ね。

「……上がってください」

母親の声は、硬い。

それでも、家の中へ通される。

リビング。

整えられた空間。

家族写真。

笑っている、沙織。

あぁ...

本当に――“普通”。

「それで……話とは?」

父親が口を開く。

警戒と、不快感と。

少しの苛立ち。

当然。

私は、もう一度頭を下げる。

「まず……謝罪をさせてください」

静かに。

確実に。

「主人が、沙織さんに対して不誠実な関係を持ってしまったこと」

空気が、凍る。

「……は?」

母親の声が、かすれる。

父親の手から、新聞が落ちた。

私は顔を上げる。

「そして――その結果として」

一拍。

「沙織さんは、現在……妊娠されています」

沈黙。

理解が、追いついていない顔。

数秒後。

「……なにを、言っているんですか」

父親の声は、低く、震えていた。

怒りか、困惑か。

どちらでもいい。

「事実です。私も本人からお聞きした時は

驚きました。」

私は、静かに続ける。

「もちろん、証拠もございます」

バッグから、スマートフォンを取り出す。

躊躇は、ない。

画面を開く。

「こちらを……ご覧いただけますか」

差し出す。

父親が、受け取る。

スクロールする指が、途中で止まる。

「……これは……」

母親も覗き込む。

拓也の携帯からコピーした

二人のメッセージのやり取り...

「生理こない」

「大丈夫、俺がついてる」

「責任取る」

――決定打。

母親の口元が、震えた。

「……嘘……よね……?」

私は、ゆっくりと首を横に振る。

「私も、最初はそう思いたかったです」

少しだけ、目を伏せる。

“傷ついた妻”の顔。

でも――声は、崩さない。

「ですが……もう、事実です」

父親が、スマホをテーブルに叩きつけた。

「ふざけるな!!」

怒鳴り声。

ようやく、感情が爆発する。

でも。

私は、動かない。

「お気持ちは、分かります」

穏やかに。

「ですが……一番大切なのは」

ゆっくりと、言葉を選ぶ。

「――お腹の命、ではないでしょうか」

その一言で。

空気が、変わった。

母親の目に、涙が浮かぶ。

父親の怒りが、一瞬だけ止まる。

効いた。

「……命……」

母親が、呟く。

私は、畳みかける。

「沙織さんは……堕ろすことも考えているようでした」

その瞬間。

「なっ……!」

母親が、口を押さえる。

父親の顔が、青ざめる。

「ですが……それは……」

私は、ほんの少しだけ、声を柔らかくする。

「とても、悲しい選択だと思います」

否定しない。

責めない。

ただ、“悲しい”と言う。

それだけで――

“間違っている”ことになる。

「……だって」

私は、微笑む。

「お二人にとっては――初めてのお孫さん、ですよね?」

沈黙。

母親の肩が、大きく揺れる。

父親が、言葉を失う。

逃げ場が、消える。

「……どう、するつもりなんですか」

父親の声は、もう怒りではなかった。

“現実”に押し潰されかけている声。

私は、ゆっくりと答える。

「二人には必ず...

責任は、必ず取らせます」

一拍。

「その上で――」

「私が、全て引き受けます」

顔を上げる。

まっすぐに。

逃がさない目で。

「沙織さんには、

私たちの家で一緒に暮らしていただきます」

「出産まで、きちんと支えます」

「その後のことも……もちろん、考えています」

母親が、涙を流しながら頷く。

父親は、何も言えない。

もう――判断できない。

「……そんな……あなたが……」

母親の震える声。

私は、静かに微笑む。

「大丈夫です」

「家族ですから」

その言葉が。

この場で、一番残酷だった。

しばらくして。

私は、深く頭を下げて家を出た。

ドアが閉まる。

外の空気は、やっぱり少し冷たい。

でも――

気分は、悪くない。

スマートフォンを取り出す。

画面に映る、自分の顔。

くすり、と笑った。

「これで……逃げられないね」

小さく、呟く。

誰に向けた言葉かなんて、

もうどうでもいい。

だって。

もう全員、

同じ檻の中にいるんだから。

その頃――

家の中では。

母親が、崩れるように座り込み。

父親は、立ち尽くしたまま動けずにいた。

テーブルの上には、美咲から送られてきた

確かな証拠...。

そこに映る言葉だけが、

何度も、何度も――

突き刺さっていた。

「責任、取る」

「大丈夫、俺がついてる」

――誰が?

その問いに、答えられる人間は、

もう誰もいない。

そのはずだった。

すべては、終わったはずだった。

あの女は帰った。

話も聞いた。

現実も、突きつけられた。

――あとは、どうにかするだけだった。

親として。

娘を守るために。

「……連れて、帰る」

父親が、ぽつりと呟く。

かすれた声。

それでも、確かに残っていた“最後の意志”。

「そうよ……こんなの、おかしいわ……」

母親も、震えながら頷く。

まだ――終わっていない。

まだ――取り戻せる。

その時だった。

テーブルの上。

無機質な音が、響く。

――ピコン。

スマートフォンの通知。

父親が、ゆっくりと視線を落とす。

画面。

表示された名前。

「……美咲……」

開く。

そこにあったのは――

短い、文章だった。

「先ほどは、お時間をいただきありがとうございました」

「突然のご訪問となり、驚かれたことと存じます」

丁寧な書き出し。

あまりにも、常識的な文章。

だが。

読み進めた、その先。

「――ですので」

「これ以上のご関与は、お控えください」

「ご家族としてご心配なのは、重々承知しております」

「ですが……本件は、当事者間で既に整理を進めております」

父親の指が、止まる。

呼吸が、浅くなる。

「ここで第三者の方が介入されますと」

「かえって状況が複雑になり――」

「結果として」

「皆様にもご負担が及ぶ可能性がございます」

沈黙。

意味は、分かる。

分かってしまう。

「……負担……?」

母親の声が、掠れる。

父親の手が、震える。

そして。

画面の、一番下。

追い打ちのように添えられた――

たった一文。

「責任の所在が曖昧になることは、望ましくありませんので」

その瞬間。

何かが、完全に折れた。

「……は……」

父親の口から、乾いた音が漏れる。

それは、言葉にならない。

怒りでもない。

悲しみでもない。

ただ――

理解してしまった音だった。

踏み込めば。

関われば。

自分たちも、巻き込まれる。

「……そんな……」

母親が、その場に崩れる。

助けたいのに。

守りたいのに。

その“正しさ”が、

今はもう――

許されない。

父親の手から、

スマートフォンが滑り落ちる。

乾いた音が、やけに大きく響いた。

もう。

動けない。

「……親なのに、な……」

誰にも届かない声。

その言葉すら、

もう――意味を持たなかった。

家族であることは。

守る理由には、ならない。

むしろ――

踏み込めない理由に、変わっていた。

その頃。

外では--

美咲が、静かにスマートフォンを閉じる。

くすり、と笑う。

「........これで、いい」

誰にも聞こえない声。

だけど...

確かに、全ては閉じた。

逃げ場は、もうない。

内側も。

外側も。

全部――塞いだから。

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