母親の帰りが遅くなる夜は、いつも家の中が異様に静かだった。小さな団地の部屋、ぼんやりと灯るオレンジ色の蛍光灯が、机の上だけを狭く照らしている。カーテンの隙間からは夜の街灯が差し込むが、外の気配はほとんど感じられなかった。リビングの隅、教科書を開いたまま、鉛筆を握る手がじっとりと汗ばんでいる。
その晩も、斎藤が来ていた。学校帰りのままのスーツ姿、無造作に外したネクタイ、優しげな目つき。彼は小阪の母親の知り合いの大学生で、週に一度この部屋に来て勉強を教えてくれることになっていた。
「今日も頑張っとるな、陸」
柔らかな声で名前を呼ばれる。その響きが不意に胸を刺す。普段、学校でも家でも“陸”と呼ぶ人はほとんどいない。たったそれだけのことで、心の奥のどこかがひりついた。
斎藤は、なにげなく小阪の頭を撫でた。優しく、ゆっくりと髪を梳く。慣れた手つきに、思わず目を閉じる。くすぐったいはずなのに、妙に落ち着く気がした。誰かに触れられる感覚は久しぶりで、身体の芯がじんわりと温かくなっていく。
「ここ、ちょっと難しいな」
斎藤がそう言いながら、数学の教科書をめくる。だが、その指がいつの間にか自分の手の甲にそっと触れている。机の下、膝と膝が少しだけ重なる。ふいに指先を握られる。握り返そうか迷ったが、指をほどくこともできなかった。
「大丈夫やで、ゆっくりやったらええから」
その声に、安心したのか緊張したのか分からない鼓動が喉元を打つ。小阪は言葉を発さない。斎藤の顔をそっと盗み見る。彼は優しい笑顔のまま、目の奥には何か別の色を滲ませていた。
次の瞬間、斎藤が椅子を引いて立ち上がった。小阪もなぜかつられるように席を立つ。部屋の空気が、ほんの少しだけ張りつめた。何も言われないのに、手を引かれるまま、寝室のベッドに向かった。
部屋の明かりは、リビングほど明るくない。薄暗い灯りの下、ベッドの端に腰掛けさせられた。斎藤はしゃがみこんで小阪の顔を覗き込む。「緊張しとるか?」と低く囁く。その声に、体が小さく震えた。
「大丈夫やから」
その言葉が、どこまでも優しくて怖かった。優しくされたかった。必要とされたかった
オフィスの給湯スペースに、静かな蒸気音が漂っていた。紙コップに落ちるコーヒーのしずくが、小さく跳ねて弾ける。午後六時を過ぎて、窓の外はすっかり暗くなっていた。照明の白さが、人工的な静けさを際立たせる。人影はまばらだが、まだ誰も完全には帰れない空気があった。森は、白い紙カップを手に取りながら、何度も口を開きかけては閉じていた。コーヒーの香りが鼻をくすぐっているはずなのに、味は想像できなかった。心臓の鼓動が、耳の奥でくぐもって響いている。傍らに立つ小阪は、資料を抱え、どこか疲れた様子で斜めに立っていた。眉間の皺はないが、集中しすぎるような無表情。顔を向けられてもいないのに、森の目は自然とそこに吸い寄せられる。「……あ、どうも」小阪はコップに目もくれず、ただ挨拶のかたちだけを投げて、すぐにまた資料に目を落とした。声に温度がなかったわけではない。ただ、そのあとに続くべき会話の余地を、あえて残さなかっただけだ。森は紙カップを持ち上げる。その手の甲がわずかに震えているのを、自分で自覚する。熱い、と指先が思っているのに、握る手には力が入るばかりだった。「なあ、今夜……ちょっとだけ、時間ある?」言ったあと、すぐに胸の奥がざわつく。言葉は、思ったよりも落ち着いた調子だった。だが語尾が、不自然に揺れていたのを、自分ではっきりと感じてしまう。ごまかすように、口元を小さく緩めたが、それもすぐに引っ込める。小阪はゆっくり顔を上げた。目は伏せ気味で、表情はほとんど読めない。「……今日、ですか」その口調に拒絶はなかった。むしろ、一瞬だけ驚いたような空気さえ混じっていた。だが、わずかに唇が歪みかけたところで、それは無言のまま真顔に戻った。「うん、もしよかったら……飯とか、そんなたいそうなんじゃなくて、ちょっと、話せたらと思って」森はそう続けながら、目を合わせるのが怖くなっていた。正面から向き合えば、きっと自分の表情の裏にある期待や焦りが見透かされる。小阪にだけは、それを知られたくなかった。けれど同時に、見抜いてほしいとも思っていた。
湿った空気がまだ残るバスルーム。シャワーの音はすでに止み、湯気も少しずつ消えていく。鏡の表面にわずかに残る曇りが、今の小阪の心のなかそのもののようだった。手には、今しがた使ったタオル。無造作に首にかけたまま、小阪はもう一度、鏡の中の自分をじっと見つめた。左耳には、銀色の小さなピアス。数分前まで、その冷たい金属に指をかけていた。さっきまでの記憶が、いや、あの夜の痛みが、指先に残る。外そうとしたのは何度目だろう。鏡の中の自分が、どこか他人のように思えた。肌は少し赤く、前髪はまだ濡れて頬に張りついている。無表情のまま、視線だけがピアスに吸い寄せられていた。右手を上げる。ピアスの留め具に爪をかけ、そっと回そうとする。外せるはずだ。痛みはもう過ぎたはずだ。けれど、どうしても手が止まる。耳たぶに感じる金属の冷たさが、体の奥まで響いていく。思考は、無意識にあの夜へと戻っていった。ドアの鍵がかかった音、名前を呼ぶ声、シーツの湿り気、痛みにじむ涙。あの夜、自分は確かに何かを壊されてしまった。逃げたいと思いながら、どこにも行き場はなかった。泣き疲れて、声も枯れ、朝になっても身体のどこかが空洞のままだった。その空洞だけが、今も生きている証のように、耳の奥でじんと疼き続けていた。もう一度、ピアスに触れる。外そうとする手に、微かに震えが伝わる。だが、留め具を外すことができなかった。まるで自分で自分に「まだ終わってない」と告げるようだった。涙がひと筋、頬を伝う。けれど、嗚咽にはならない。じっと鏡の中の自分と目を合わせる。どこか遠い場所から帰ってきたような、そんな虚脱感が全身を覆う。だが、鏡の奥の自分は何も言わない。ただ、静かに、銀色の異物をぶらさげて立ち尽くしている。「まだ終わってへんやろ」誰に言うでもなく、小さく呟いた声は、バスルームの壁に吸い込まれていった。耳元のピアスは、何も答えない。ただ、変わらずひんやりと肌に触れているだけだった。そっと手を下ろす。ピアスを外すことはできなかった。外せば終われると思っていたはずなのに、その決断がどうしてもできない。壊された夜の感覚が、今も皮膚の下に残っている。もう何度も生まれ変わったふりをしてきたのに、ほんとうは一歩も進
斎藤の部屋の空気は、重く、どこか粘つくように感じられた。小阪はベッドの端に座らされ、斎藤の背中越しに小さな電子音が聞こえた。カチャリ、と鍵が回される音。いままで何度もこの部屋で夜を過ごしてきたのに、その夜だけは空気が違っていた。斎藤が振り返る。「もう、どこにも行かせへんからな」低く囁く声は、冗談めいているのに底の方で冷えていた。小阪は思わず視線を落とした。手のひらを膝の上に置き、膝頭を爪でなぞる。身体が強張っているのが、自分でも分かった。斎藤はベッドに腰を下ろし、小阪の髪を撫でた。「陸」そう呼ばれると、条件反射のように胸がひりついた。何度も、何度も「陸」と名前を繰り返し呼ばれる。そのたびに、意識は遠くなり、呼吸が浅くなる。自分が自分でなくなるような、感覚の淵に引きずりこまれていく。その夜、斎藤は優しくもなく、荒々しくもなく、ただ執拗に身体を求めてきた。触れる手は熱を帯びているのに、まなざしには空虚しかなかった。目を合わせたくなくて、天井のシミを見つめていた。指先が、肌を這う。そのたびに、名前を囁かれる。「陸」「陸」「陸」自分が呼ばれているのに、それは自分自身ではない誰かの名のように聞こえた。小阪は逃げたかった。けれど、逃げる場所はなかった。扉は鍵がかかっている。部屋の中には、窓を叩く雨の音しか響かない。どこにも助けは来ない。自分の声も、ここでは何の力も持たなかった。ベッドのシーツが濡れる音が、夜を埋め尽くしていく。何度も、何度も抱かれるうちに、身体の痛みは麻痺していった。心の奥では、「もう終わってほしい」と願いながら、それでもどこかで「ここにいさせてほしい」と縋っていた。欲しかったのは、愛でも救いでもなかった。ただ、終わりが来るまでこのまま壊れていれば、それでいいと思った。斎藤の息が乱れ、やがて静かになる。ベッドサイドの灯りだけが、ぼんやりと部屋を照らしていた。小阪は裸のままシーツに包まり、背を向けた。斎藤は寝息を立てはじめたが、その音が遠く感じられた。涙が止まらなかった。何が悲しいのかも、もう分からなかった。ただ、声が出ないほど嗚咽が続き、息をするたびに胸の奥がきしんだ。朝が来ても、窓の外の雨は止まなかった。シーツは冷えきり、体温が
斎藤の下宿に通うようになったのは、中学三年の夏休みが始まる少し前だった。母親は仕事で帰りが遅くなり、家にひとりきりでいることが増えた。家にいても居場所はどこにもなく、静けさと薄暗さだけが部屋を満たしていた。だから、斎藤から「いつでも来てええよ」と言われたとき、断る理由はなかった。いや、本当は、誰かに「来てほしい」と言ってもらいたかっただけなのかもしれなかった。斎藤の部屋は、小さなワンルームだった。窓辺に簡素なカーテンがかかっていて、夕方になると西日が差し込んだ。壁際には古い本棚とベッド、狭いキッチンには洗い物が残っている。小阪はスニーカーを脱いで、畳の上に素足を投げ出す。その瞬間、室内の埃っぽい匂いと、どこか大人びた生活の痕跡に包まれる。斎藤はいつも、ゆっくりとした手つきで缶コーヒーをふたつ差し出す。「飲む?」と聞かれて、小阪はうなずくだけだった。テーブル越しに視線が合う。斎藤は笑ってみせるが、その目には微かな曇りが浮かんでいるようだった。けれど、その曇りが自分には心地よかった。どこか満たされていないものを持っている大人、というその物足りなさが、なぜか魅力的に見えた。「宿題、やってきたか?」「うん」「見せてみ」答える声は素直だ。ノートを差し出すと、斎藤はそれをひと通り眺めてから「偉いな」と微笑む。その何気ない言葉のひとつひとつが、じわりと身体に染みていく。やがて、ふたりはベッドサイドに並んで座る。日が沈むにつれて部屋は薄暗くなり、電気をつけるのも忘れたまま、沈黙が伸びていく。沈黙の中で、斎藤がぽつりと「陸」と囁く。その低い声が、直接肌を撫でるように鼓膜に届く。名前を呼ばれるだけで、身体が緩むのが自分でもわかった。心のどこかで「自分が特別に選ばれている」と信じたかった。しかし、斎藤のまなざしに愛情らしいものはなかった。指先は優しく、言葉も穏やかだが、それはあくまで従わせるためのやさしさだった。自分がここにいる意味を、相手の欲望に委ねることしかできなかった。愛されているのではなく、ただ“所有物”として扱われているだけなのだと、どこかで気づきながらも、小阪は抗えなかった。時折、斎藤は髪を撫で、顔を覗き
母親の帰りが遅くなる夜は、いつも家の中が異様に静かだった。小さな団地の部屋、ぼんやりと灯るオレンジ色の蛍光灯が、机の上だけを狭く照らしている。カーテンの隙間からは夜の街灯が差し込むが、外の気配はほとんど感じられなかった。リビングの隅、教科書を開いたまま、鉛筆を握る手がじっとりと汗ばんでいる。その晩も、斎藤が来ていた。学校帰りのままのスーツ姿、無造作に外したネクタイ、優しげな目つき。彼は小阪の母親の知り合いの大学生で、週に一度この部屋に来て勉強を教えてくれることになっていた。「今日も頑張っとるな、陸」柔らかな声で名前を呼ばれる。その響きが不意に胸を刺す。普段、学校でも家でも“陸”と呼ぶ人はほとんどいない。たったそれだけのことで、心の奥のどこかがひりついた。斎藤は、なにげなく小阪の頭を撫でた。優しく、ゆっくりと髪を梳く。慣れた手つきに、思わず目を閉じる。くすぐったいはずなのに、妙に落ち着く気がした。誰かに触れられる感覚は久しぶりで、身体の芯がじんわりと温かくなっていく。「ここ、ちょっと難しいな」斎藤がそう言いながら、数学の教科書をめくる。だが、その指がいつの間にか自分の手の甲にそっと触れている。机の下、膝と膝が少しだけ重なる。ふいに指先を握られる。握り返そうか迷ったが、指をほどくこともできなかった。「大丈夫やで、ゆっくりやったらええから」その声に、安心したのか緊張したのか分からない鼓動が喉元を打つ。小阪は言葉を発さない。斎藤の顔をそっと盗み見る。彼は優しい笑顔のまま、目の奥には何か別の色を滲ませていた。次の瞬間、斎藤が椅子を引いて立ち上がった。小阪もなぜかつられるように席を立つ。部屋の空気が、ほんの少しだけ張りつめた。何も言われないのに、手を引かれるまま、寝室のベッドに向かった。部屋の明かりは、リビングほど明るくない。薄暗い灯りの下、ベッドの端に腰掛けさせられた。斎藤はしゃがみこんで小阪の顔を覗き込む。「緊張しとるか?」と低く囁く。その声に、体が小さく震えた。「大丈夫やから」その言葉が、どこまでも優しくて怖かった。優しくされたかった。必要とされたかった
夜更けの静けさに包まれたマンションの一室。雨は途切れることなく降り続き、ベランダの手すりを打つ音が、まるで何かを執拗に責め立てるように鳴っていた。バスルームの照明は白く鈍く、湯気の残る空気が小阪の肌をわずかに包んでいる。濡れた髪をタオルで乱雑に拭いながら、彼は鏡の前に立ちすくんでいた。黒髪の下、左耳に光る黒いピアス。風呂あがりの熱がやっと冷めてきた額から、雫が顎を伝って落ちていく。そのたび、ピアスの金属も冷えてくる。小阪は無意識のうちに、指先でそのピアスをなぞった。爪の先で軽く弾くと、わずかに微かな音がする。耳たぶに感じるその感触は、何年経っても変わらなかった。指先に触れた瞬間、まぶたがわずかに揺れる。ピアスの硬質な冷たさが、鼓動を伝って内側へ沁みていくような錯覚。雨音が、よりいっそう激しく聞こえてきた気がした。窓の外の雨は止む気配もなく、ガラスを叩いて流れるその軌跡は、まるで過去から今へと続く道筋を描いているかのようだった。小阪はそっと息を吐き、鏡の中の自分を見つめ直した。濡れたままの前髪、首筋に浮かぶ薄い血管、そして左耳に光る異物。どこか他人事のように、そのすべてを眺めていた。だが、ピアスに指をかけたまま、思考は自然と過去の一点に吸い寄せられていく。あの夜、初めてピアスの冷たさを知ったときのこと。胸の奥に疼くような痛みと、消えない痕跡。それらすべてが、いまも身体のどこかに残り続けている。この冷たい金属は、扉のようなものだった。自分で開けたのではない。誰かにこじ開けられ、何もかもが変わってしまった夜。あの日の記憶が、雨音の中にふいに混ざりこんでくる。指先が震える。耳たぶに感じるピアスの輪郭が、まるで自分の感情の輪郭そのもののように、曖昧で、けれど確かだった。外そうと思えばできるはずなのに、その手が動かない。何年も経っているはずなのに、傷はまだそこにある。鏡の奥の自分は、何も言わずにただこちらを見返している。雨音が少し強くなった。ガラス越しの街は滲み、マンションの灯りがぼやけていた。まるで、これから思い出すことすべてを、今の夜が飲み込もうとしているようだった。鏡の前で小阪は、しばらく動けなかった。指先はピアスを撫でたまま、まるで今もその夜を生きている