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4話 虚構の家族と、裏目の策略

last update publish date: 2026-10-14 17:00:42

​恩師から送られてきた考査課題は、三年の空白を突きつけるには十分すぎるほどの量と難易度だった。

リビングのテーブルの上に創薬化学の最新論文や構造解析データを広げ、葵は寝食も忘れる勢いで画面と資料に向き合っていた。

​難解な分子構造式や、最新の遺伝子解析手法。

三年のブランクは決して小さくなかったが、資料を読み進めるにつれて、かつて研究室で夜を明かした感覚が少しずつ身体に戻ってくる。死んでいた自分の心が、確かな熱を取り戻していくのを感じていた。

​(……負けられない。絶対に、このチャンスを掴むんだ)

​そんな葵の没頭を破るように、スマートフォンが震えた。画面に表示されたのは『神崎本邸』からの着信通知だった。義母からの命令は簡潔で、断る余地など最初から与えられていなかった。

​「今夜は本邸で家族揃っての食事会です。遅れずに来なさい」

​ため息を飲み込み、葵は開いていた資料を丁寧に閉じると、重い足取りで神崎家の本邸へと向かった。

​重厚なダイニングルームには、神崎家の当主である祖父、義母、そして玲司とその異母弟である陸、さらには陸の婚約者として身を寄せている西園寺莉乃の姿があった。

​「まあ、葵さん。お忙しいのは結構ですけれど、家のことより研究所のほうが大切なのかしら?」

​席につくやいなや、義母から嫌味の混じった言葉が飛んでくる。

葵が控えめに「申し訳ありません」と頭を下げると、義母は冷ややかな視線を向けたまま続けた。

​「玲司から聞きましたわよ。最近は帰宅も遅く、家を空けがちだとか。神崎家の妻としての自覚が足りないのではないかしら」

​(……玲司さんが、義母様に私の仕事のことを話したんだ……)

​胸の奥が冷たく冷えていくのを感じながら、葵はそっと隣に座る玲司に視線をやった。

しかし、玲司は完璧な手つきでナイフとフォークを動かしているだけで、葵の方を見ようともしない。弁解の言葉をくれるわけでもなく、ただ無関心を決め込んでいる。

​その時だった。

​運ばれてきたメインディッシュの皿を前に、玲司が不意に手を伸ばした。

そして、自分の隣に座る莉乃の前に置かれていた小皿を静かに持ち上げると、何事もなかったかのように葵の前へと移したのだ。

​あまりに自然な動作に、テーブルの会話が一瞬途切れた。

​「……あら」

​莉乃が可憐な声をあげ、嬉しそうに目元をほころばせる。

​「玲司様ったら……私が甲殻類のアレルギーがあること、まだ覚えていてくださったのですね? 昔から変わらないお気遣い、嬉しいですわ」

​莉乃の甘い声が、ダイニングルームに響き渡る。

葵は、自分の目の前に置かれた小皿を凝視したまま、体中の血が引いていくのを感じていた。

​玲司は昔からの癖のように、莉乃の体質や好みを完璧に把握している。

一方で、自分が三年間で一度でも彼からこのような気遣いを受けたことがあっただろうか。

玲司にとって、このテーブルの上で保護すべき特別な女性は莉乃であり、葵は単に「アレルギーのない都合のいい皿の置き場」に過ぎないのだ。

​「……失礼いたします」

​胃の奥から吐き気が競り上がり、葵は席を立った。

後ろから義母の咎めるような視線を感じながらも、逃げるように本邸の客室へと戻った。

​鏡に映る自分の顔は、病人のように青ざめていた。

夫婦として過ごした三年間の虚しさが、波のように押し寄せて葵の心を削っていく。

​一方その頃、神崎グループの社長室に移動していた玲司は、デスクの前に立ち、スマートフォンの画面を見つめていた。

​眉間に深い皺を刻んだまま、彼が呼び出したのは大学時代からの友人であり、数少ないプライベートの知人だった。

​『——夜分に珍しいな、玲司。何の用だ?』

​受話器の向こうから聞こえる友人の気安げな声に対し、玲司は重苦しい沈黙を挟んだ後、低い声で問いかけた。

​「……女の機嫌を直すには、どうすればいい」

​友人は一瞬言葉を詰まらせた後、信じられないものを見るような声で笑い出した。

​『は? お前がそんな相談をしてくるなんて珍しいな。奥さんと何かあったのか?』

​「……質問に答えろ」

​『はいはい。まあ、一般的な女性なら分かりやすいだろ。高価なジュエリーでもプレゼントするか、高級レストランでのデートにでも誘えばいいんじゃないか? 物の価値や分かりやすい誠意ってのは、誰にでも伝わるもんだからな』

​友人の適当とも言える助言を、玲司は真面目な顔で聞いていた。

​「……ジュエリーか」

​『そうだ。女ってのは大事にされている実感が欲しいんだよ。言葉で言わないお前なら、なおさら形で見せないと伝わらないんじゃないか?』

​「……分かった」

​玲司はそれだけ言うと、友人の返事も待たずに通話を切った。

​デスクの上の書類に視線を落としながら、玲司の頭の中に浮かんでいたのは、最近どこか自分から離れていこうとしている葵の姿だった。自分の申し出を拒み、身勝手に家を出ようとし、手元からこぼれ落ちそうになっている妻。

​ビジネスにおいて、欲しいものを手に入れる、あるいは繋ぎ止めるための手法は単純だ。相手の求める対価を支払うか、相応の価値を持つものを与えればいい。

​(ジュエリーを与える。それで『神崎の妻』としての立場に満足し、おとなしく家に留まるなら安いものだ)

​玲司の胸にあるのは、所有物が自分の管理下から外れようとしていることへの不快感と、それを効率的に解決しようとする冷徹な計算だけであった。

​◇

​翌朝、社長室に秘書を呼び出した玲司は、書類から目を離さずに淡々と命じた。

​「今週の海外オークションに出品される新作のジュエリーラインを確認しろ。一番希少価値の高い一品を落札するように」

​「承知いたしました。神崎様」

​秘書が深く頭を下げ、部屋を出て行こうとしたその時だった。

​玲司はふと動きを止め、冷ややかな瞳で窓の外を見つめた。

​(……一つでは、不足か)

​本邸での家族の視線、そして異母弟・陸と婚約して神崎家内部に入り込んできた西園寺莉乃の存在。神崎グループの顔として、葵が他の令嬢たちに見劣りするようなことがあっては、世間体としても都合が悪い。

​「待て」

​玲司の短い制止に、秘書が振り返る。

​「……買い取りの指示を変更する。二つ取れ。同等以上の価値があるものを、二セットだ」

​「……二セット、でございますか?」

​秘書が疑問を浮かべたような声を漏らすが、玲司は理由を説明する気など毛頭ないかのように、冷たく手を振って下がらせた。

​(これでいい。葵に相応しい『妻としての装飾』を買い与えれば、くだらない離婚や別居などという戯言も収まるはずだ)

​葵が何を望み、何に傷ついているのか——その本質に一切気づくことなく、玲司は冷酷なビジネスマンとしての手腕だけで葵を繋ぎ止められると信じ込んでいた。

​そしてその夜。

​考査課題の勉強に没頭する葵のスマートフォンに、玲司から三年間の結婚生活で一度も送られてきたことのない、素っ気ない短いメッセージが届く。

​『今夜、迎えに行く。何が食べたい』

​画面に表示された文字を、葵は何度も見つめ返した。

​いつもなら無機質な連絡事項か無視ばかりの彼が、自分の都合や希望を尋ねてきている。自分でも「バカみたいだ」と認めたくはなかった。けれど——胸の奥で、消しかけていた期待の小さな火種が、かすかに揺れてしまうのを止められなかった。

​(……ほんの少しだけでも、私のことを気にしてくれているの……?)

​葵はかすかな期待を胸に秘めたまま、画面をそっと閉じた。

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