LOGIN十五分後。
スクリーンのカウントダウンが、ゼロを示した。
会場の照明が、ピアノの周りだけを残して、ふっと落ちる。
先にピアノの前に座ったのは、桜だった。
「……それでは、演奏させていただきます」
さっきまで青ざめていた顔に、いつの間にか、完璧な微笑みが戻っている。
——立て直しが早い。さすが。
この十五分、桜は一度も私の方を見なかった。ただ黙って紙を見つめ、ときどき指先を動かしていた。
あの子なりに、必死だったのだろう。
その必死さを思うと、胸の奥が、ちくりと痛む。
けれど——その痛みを、私は丁寧に押し込めた。
桜の指が鍵盤に触れた瞬間、会場の空気が変わった。
渡されたモチーフを、柔らかく、優雅に膨らませていく旋律。華やかな装飾音。計算された強弱。
認めたくないけれど、それは確かに「美しい演奏」だった
「聞きたいこと、ですか?」「うん」 真琴は、窓の外に目を向けたまま、静かに続けた。「今日提示してた証拠、随分と用意周到だったね。桜さんと宏一さんが旅館に出入りしてる写真とか、養父さんの会社の資金の流れとか」 ——あ。 心臓が、小さく跳ねた。 ——桜と宏一の写真は、確かにフォルダに入れていた。でも。「資金の流れの件は、今日の会場では、一言も話していません」 声が、自分でも驚くほど、低くなった。「……なんで、それを知ってるんですか?」 真琴は、私の反応を見て、ふっと笑った。「巧から、少し聞いてたから」「巧は、あの証拠の中身を、全部は知りません」「そう?」 真琴は、それ以上深く追及されるのを避けるように、軽く肩をすくめた。 ——今の、はぐらかされた。 私は、じっと真琴の横顔を見つめた。 車内の薄暗い光の中で、彼の表情は、よく読み取れない。 頭の中で、バラバラだった断片が、少しずつ繋がり始めていた。 ——養父の資金洗浄の証拠。桜と宏一の旅館の監視映像。どちらも、私が自分では絶対に手に入れられなかったもの。 それを送ってきたのは、差出人「W」。 前世でも、今世でも。孤立した私を庇い、証拠を送ってくれた人。 そして——今夜、入口で足止めされた私を助け、場の空気を変え、報道陣まで呼んだ人。 ——全部、タイミングが良すぎる。 しかも、真琴は、会場で私が何を欲しているかを、先回りして言葉にしていた。 この人は、私のことを、最初から知っている。 ——そうとしか、思えない。「真琴さん」「なに?」「もしかして…&hell
会場に押し寄せた報道陣は、あっという間に人だかりを作った。「歌い手Yukiの正体が判明したというのは本当ですか!」「盗作疑惑について、ご本人からコメントを!」 フラッシュが、次々と焚かれる。 目を開けていられないほどの光の中で、私は、立ち尽くしていた。 ——誰がこんなに早く呼んだの。 配信を見ていた誰かが情報を流したのか、会場のスタッフが動いたのか。いずれにしても、状況はすでに、私の手を離れて動き出していた。 前世では、こんな光景はなかった。 あの夜、会場の外にいた私に、カメラを向ける人間なんて、一人もいなかった。 ——今、フラッシュを浴びているのが、私の方だなんて。 不思議な感覚だった。嬉しいのか、怖いのか、自分でも分からない。「な、なんで、こんな——」 桜は、青ざめた顔で後ずさりしていた。 報道陣のカメラが、次々と彼女に向けられる。「盗作は事実ですか?」「ご自身が歌い手だと名乗られた根拠は?」「養父母との関係についてもコメントを!」 矢継ぎ早の質問に、桜は、まともに答えることもできない。 唇が震えて、言葉が、出てこない。 ——あの桜が。 いつも、完璧に涙と微笑みを使い分けて、どんな場面も切り抜けてきた桜が、今、言葉を失っている。 胸の奥が、ずきりと痛んだ。 勝ったはずなのに、スカッとした気持ちには、ならなかった。 ——これは、桜が自分で選んだ結果。 分かっている。 けれど、小さい頃、一緒に笑った記憶が、ほんの少しだけ、蘇ってしまう。「桜! 待ちなさい!」 養母が、慌てて桜の腕を掴む。「違うんです、これは誤解で——」 養父が、記者たちに向かって弁明を始めていた
「たまたま調子が良かっただけです! 私だって、本気を出せば——」 桜は、なおも周囲に訴えかけるように声を張り上げていた。 けれど、さっきまでとは違う。 その声には、もう、会場を支配する力がなかった。 ——それでも、まだ諦めないんだ。 分かっていた。桜は、追い詰められたときほど、強い。 前世から、何度も見てきた。逃げ道がなくなった瞬間、あの子は涙を武器に変える。「皆さん、分かってください……」 桜の大きな瞳から、ぽろりと涙がこぼれた。「有希お姉ちゃんは、昔から私に嫉妬して、こういう嫌がらせを繰り返してきたんです。曲だって、お姉ちゃんが私の部屋から勝手に持ち出して、自分のものにしたんです……」 ——そう来たか。 思わず、息を呑む。 盗んだ側が、盗まれた側を「盗人」に仕立て上げる。前世の私も、まさにその構図で潰された。「うっ……ひどい……私、ずっと我慢してきたのに……」 養母が駆け寄って、桜の肩を抱く。「かわいそうに、桜……! 有希、あなたって子は、どこまで妹を傷つければ気が済むの!」 養父まで、苦々しい顔で頷いている。 ——やっぱり、この三人は、揃って同じ舞台に立つんだ。 会場の空気が、再び、わずかに揺らいだ。「そうよね、かわいそうに……」「妹をここまで追い詰めるなんて」「でも、さっきの演奏は本物だったぞ」「いや、演奏と盗作は別の話じゃない?」 賛否が入り乱れて、ざわめきが広がっていく。 配信のコメント欄も、同じだった。【桜ちゃん泣いてる……かわいそう】
十五分後。 スクリーンのカウントダウンが、ゼロを示した。 会場の照明が、ピアノの周りだけを残して、ふっと落ちる。 先にピアノの前に座ったのは、桜だった。「……それでは、演奏させていただきます」 さっきまで青ざめていた顔に、いつの間にか、完璧な微笑みが戻っている。 ——立て直しが早い。さすが。 この十五分、桜は一度も私の方を見なかった。ただ黙って紙を見つめ、ときどき指先を動かしていた。 あの子なりに、必死だったのだろう。 その必死さを思うと、胸の奥が、ちくりと痛む。 けれど——その痛みを、私は丁寧に押し込めた。 桜の指が鍵盤に触れた瞬間、会場の空気が変わった。 渡されたモチーフを、柔らかく、優雅に膨らませていく旋律。華やかな装飾音。計算された強弱。 認めたくないけれど、それは確かに「美しい演奏」だった。 技術は一級品。人を惹きつける見せ方も、前世から変わらず、桜は誰よりも上手い。 ——悔しいくらい、綺麗。 聴き入ってしまう自分に気づいて、唇を噛んだ。 桜は、人に「どう聴かれるか」を、本能的に知っている。どの瞬間に手を止めれば、観客が息を呑むか。どこで音を溜めれば、涙が出るか。 それは、才能と呼んで差し支えないものだった。 ただ——と、私は思う。 その旋律は、どこまでも「正解」をなぞっていた。誰もが美しいと感じる形を、丁寧に、丁寧に、組み上げていく。 そこに、桜自身の叫びは、なかった。 演奏が終わった瞬間、会場から大きな拍手が沸き起こった。「素敵……」「やっぱり、さすがね」「これが本物の才能だよ」 配信のコメント欄も、一気に桜への称賛で埋まっていく。【桜ちゃんすごい…&hel
進行役の声に、会場全体の視線が一斉に集まる。「東堂凜様は本日、体調のご都合によりご欠席されておりますが——代理として、橘真琴様よりお言葉を預かっております」 ——真琴が? 驚いて視線を向けると、いつの間にか会場の隅に立っていた真琴が、こちらに向かって軽く手を上げた。「はいはい、僕からね」 真琴はマイクを受け取ると、いつもの人懐っこい笑顔のまま、けれどどこか鋭さを含んだ声で続けた。「東堂凜は、口先だけの才能に興味はない。だけど、本物の実力には、誰よりも敏感な人でね」 会場が、静まり返る。 私は、無意識のうちに、手のひらを握りしめていた。 ——東堂凜が、ここで動く。 前世では、この晩餐会で、東堂凜が誰かを名指しすることなんてなかった。桜が「歌い手Yuki」を名乗り、拍手を浴びて、それで終わりだった。 ——流れが、変わってる。 それは、私が前世と違う行動を取ったから。けれど、その変化が、いい方向に転がるのか、悪い方向に転がるのか、この時点では、まだ分からない。 胸の奥で、期待と不安が、ごちゃ混ぜになって渦を巻いていた。「なので——ここにいるお二人に、その場で実力を証明していただきたい、とのことです」 真琴は、私と桜を交互に見た。「即興で、編曲と演奏をしていただきます。お題は、その場でお渡しします」 ——なるほど。口だけの言い分は、もう聞かないってことね。 桜の顔が、目に見えて青ざめた。「そ、そんな急に言われても——」「実力があるなら、問題ないですよね?」 真琴が、にっこりと笑いながら切り返す。 ——うわ、この人、笑顔のまま人を追い詰めるタイプだ。 桜は歯を食いしばりながらも、後には引けない状況に追い込まれていた。
「そ、そんなの……何かの間違いよ!」 桜が、震える声を絞り出す。「有希お姉ちゃんが、私を陥れようとしてるだけ! データなんて、いくらでも捏造できるじゃない!」 ——出た、いつもの被害者ムーブ。 その言葉を聞いた瞬間、私の中で、何か冷たいものがすとんと落ち着いた。 ——分かってた。この子は、絶対にこう来る。 前世でも、何度も見てきた光景だった。都合が悪くなると、事実そのものを「相手の陰謀」にすり替える。そして、それを信じ込ませるだけの愛らしさと涙を、桜は誰よりも持っている。 ——けど、今日は、それが通用しない場所にいる。 配信のコメント欄は、真っ二つに割れていた。【日付、明らかに古いのばっかりだけど】【いや捏造でしょ。桜ちゃんを陥れたいだけ】【さっきの演奏と同じ旋律、確かにあったよな】【桜ちゃんを信じる。あんなに優しそうなのに】【どっちが本当なんだよ】 一つ一つのコメントが流れていくのを見ながら、私は不思議な感覚に包まれていた。 ——前世では、疑ってくれる声なんて、一つもなかった。 世間は、常に強い方、目立つ方、可哀想に見える方の味方をする。前世の私は、その構図の中で、いつも「加害者」の役割を押しつけられてきた。 ——それが今、少しずつ、揺らぎ始めている。 けれど、揺らいだだけで、まだ覆ってはいない。 会場のざわめきが、「疑惑」の色を帯びていく。 そんな中、悲鳴のような声が響いた。「桜! 何があったの!?」 血相を変えて駆けつけてきたのは、養母だった。その後ろには、苦々しい顔をした養父の姿もある。 ——ここで来るんだ、この人たち。 二人の顔を見た瞬間、胸の奥に、じわりと重たいものが広がった。 &md