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『減退する極彩色の虹彩』

last update Terakhir Diperbarui: 2025-11-25 19:08:19

あの日、結局マイとは店の裏で話をした後、連絡先を交換して見送った。

 マイは、泣きながら放った僕の一言に、少々の困惑を見せたものの、僕が交際を認めたと受け取ったらしく。

 自身の白くて柔らかそうな頬を、驚きのスピードで赤く染め上げ、呂律が回らなくなるほど照れていた。

 その姿は、脳天まで響くような可愛らしさだった。

 そう、所詮僕は、突然現れたマイを嫌いになる事なんて出来なかったのだ。

 どこまでも不可解であり、不可思議であり、不可測な彼女の存在であれ、それを突き放す理由を、僕はどうしても探せなかったのだ。

 恋愛に勝ち負けなど無いと思いたいが、なんだか僕はマイと薪無先生の押しに、根負けした気がして、少々の不服さを抱えていた。

 はぁ、得体の知れない女子と交際する事になるとは、なんとも不甲斐ない。これでいいのか僕。

 そんな事を考えながら、今日も店の裏でタバコを吸っていると、僕のスマホが大人のおもちゃかというくらい震えていた。

 全て、マイからのメッセージだ。

 それは大体三〜五分に一回のペースで送られてくる。

 今、起きました。

 トイレに行きました。

 歯を磨きました。

 顔を洗いました。

 着替えました。

 髪を梳かしました──等。

 あげればキリがない。

 この異常さが伝わるだろうか。

 一日の始まりから終わりまで、自分がした事、身の回りであった事を全て僕に送って来るのだ。

 それがもう、二日目に突入していた。

 そして、今。

 ──肯太郎さんを見つけました。

 そのメッセージと共に、僕の左から彼女の透き通る声が聞こえた。

「肯太郎さーん!! あら! あららら! わっ!」

 また、左側を通って来る金髪ロングの乙女。

 フェンスにお尻を引っ掛けながら向かって来る姿は、さながら一昨日の光景の焼き増しだった。

 しかもまた、缶の飲み物を両手に持っているものだから、バランスが悪い。

 それは引っかかって当然だ。

 ──しかし。

 それよりも僕は、今日のマイの服装に釘付けになった。

「ウソだろ……。マジかよ、おい」

 マイが着ていたのは、腰ベルトでウエストを絞った、Aラインが綺麗な白い襟付きのロングワンピースだ。

 令嬢然とした品性の溢れるその服装に、僕が驚愕したのには訳があった。

 それは紛れもなく、小説の“あの娘“が着ていた私服だったからだ。

「肯太郎さん! 嘘じゃありませんよ! ささ、こちらをどうぞ!」

 きっとマイは、僕の驚いたリアクションが、飲み物を買って来た事だと勘違いしたんだろう。

 笑顔で片手の微糖の紅茶を差し出した。

「え、あ。ああ……ありがとう……」

 僕は生返事をして受け取るが、脳内は混乱状態だ。

 何故? どうして? 

 いや、一昨日の制服まではまだわかる。

 あれは僕が薪無先生に“あの娘“の特徴を話していたからだ。

 それをマイが事前に聞いていたとすれば、制服で現れた事には合点がいく。

 でも、これは一体……。

 マイは小説の“あの娘“を知らないはず……。

 なのに……。

 そこまで思考を飛ばしたところで、僕は昨日の薪無先生との忌々しい会話の続きを思い出した。

* * *

「はっきり言うが、少年が気にしなきゃいけないところは、こんなタバコの話じゃないよ。こっちの方が問題だ。これは治療にも関わる事だもん」

 そう言って、タバコを消した薪無先生は、また僕のカバンを開ける。

 僕は何の話か分からず、首を傾げていた。

 ──すると。

 取り出されたのは一冊の文庫本。

 ボロボロで、今にも崩れてしまいそうな表紙に、掠れた『臓物丸 直義』の文字。

 僕は目を見開いて、顔を歪める。

 そう、それは僕の“あの娘“が中にいる小説だった。

「流石にこれは、異常だと判断するよ少年」

 白いゴム手袋をはめた手で、つまみ上げられた“あの娘“。

 その姿を見た、瞬間──

 ──ブチンと、頭の中で何が切れる音がした。

 僕の目に映ったそれは、つまみ上げられた文庫本なんかじゃなかった。

 口に猿轡《さるぐつわ》をはめられた金髪の“あの娘“が、その清い体を太い荒縄で縛られ、宙吊りにされている感覚を、そこに見たのだ。

 僕は頭を抱え、爪でガリガリと頭皮を抉った。

 そのまま勢いよく椅子から立ち上がり、焦ってよろめいた足の膝を曲げ、つま先の一点に力を込める。

 弾丸の如く、真っ直ぐに彼女の下へ飛び出した僕は、迷わずに薪無先生の胸ぐらを掴んだ。

「やめろ!! それ以上“あの娘“に気安く触るな!! 僕の“あの娘“を返しやがれ!! 」

 ──だが。

 薪無先生は突如、僕の胸ぐらを掴み返し、グンッ!と腕を引く。

 鼻先が触れるほど、近距離に迫った先生の顔。

 首を後ろに捻りそうになるくらいの力強さで引き寄せられた僕は、突然の事に面をくらって唖然としてしまう。

 薪無先生は切長の目を見開き、余裕のある笑みで、僕の顔に吐息をかけた。

「ほら。だから言ったろう。荷物を取り上げといて正解だ」

 鉄線のような張りのある声。

 その熱い吐息からは、甘い紅茶の香りが漂う。

 そこには、確かな迫力と説得力があった。

 僕は先生の大胆さに怖気付いて、何も言えなくなり、下唇を噛む。

 威勢を込めていた目は、小さな痛みに耐えるくらいの、女々しい睨みしか利かせられなかった。

「忘れるなよ。君が患者で私が医者だ。私は可愛い患者である君のために最善を尽くす。だから安心してくれ。私は君の大切で、大切すぎる“あの娘“を決して凌辱したりはしないよ」

 パッと手を離される。

 その拍子に、二歩、三歩と後ろへよろけて、また椅子に戻された。

 そう、僕は先生の胸ぐらを掴んでいたはずの自分の両手を、気づかないうちに離していたばかりか、体ごと後ろへ逃げていたのだ。

 とてもじゃないが、酷く恥ずかしかった。

「……すみません、取り乱しました……それなら話を聞きます。お願いします……」

 先生はいつもの気の抜けたトーンに戻して喋る。その顔は多分笑っていたと思う。

「ごめんごめん。“あの娘“に手荒な真似をしたのは悪かったよ。私の認知が浅かった。いやね。君がとてもまともそうに見えるもんだから、変に勘違いしてしまっていたよ。許してくれ」

 僕は自分の大人げない失態を引きずり、薪無先生の目をしっかりと見れなかった。

 そんな今の僕に出来る事は、診察が終わるまで大人しく質問に応じる事だけだと考えて弱る。

「少年。怒らないで聞いてくれ。文庫本がこんなにボロボロになるなんて、これは普通の読み返しのレベルじゃない。だから、きっと……これはそういう事だよね?」

 あの薪無先生が、聞きづらそうに飛ばした質問に、ズキッと痛みを感じる。

 それでも僕は、“狂った僕“を治すために、正直になるしか無く、諦めて話をした。

「はい、そうです。僕は毎晩、“あの娘“を独りで抱いています。僕はやっぱり頭がどうかしてるんです……こんなのはまともじゃない」

 振り絞って白状する僕。

 しかし、こう言う話題の時に限って、薪無先生は笑わないのだ。

 普段軽薄でちゃらんぽらんな癖に、こういうところが、本当にずるいところだと僕は思った。

「まあ、そうだよね。うん、わかった。では、申し訳ないが、少しばかり“あの娘“に失礼するよ」

 そう言って、薪無先生は“あの娘の体“を眺め始める。

 ああ、だめだ。これは見ていられない。

 僕以外の人に“あの娘“が触られている。

 両目を、ギュッと閉じて、なるべく早く済んでくれと頭の中で僕は願った。

「出版社は……こりゃ聞いた事ないな。とても弱小そうな会社だ。著者は、臓物丸直義……ただよしは、足利直義と同じ直義だよね。なるほど、君はこの先生が好きで、影響を受けながら自分でもweb小説を書いてるって事だね」

 暗闇の中、薪無先生の声だけが聞こえる。

「はい。僕はもつまる先生の影響で小説を書き始めました。でも僕は、明るい“あの娘“を書くような、もつまる先生には到底なれない。だから、自分の求めるものがどんどんわからなくなって来たんです」

 受け答えをしながらも、僕の瞼の裏では“あの娘“が、不安そうに僕を見つめていた。

 ごめん、ごめんよ。少しの辛抱だ。

 早く一緒に帰ろうね。

「ん、ありがとう。このまま丁寧にカバンに戻しておくよ。……んで、君はこのヤバい真実に全く気が付いてないって訳だ?」

 僕は深海から戻ったように、目を開けて、深呼吸をする。

「はい? ヤバい真実? 何の事ですか?」

 すると、目の前の薪無先生は、今まで見た事ないくらい困った顔をしていた。

「少年、先に謝ろう。私はちょっと君を甘く見ていたようだ」

「は、はぁ……。何か認めてくれたって事ですか?」

 訳がわからないままジト目になった僕の肩を、薪無先生は、ポンポンと二回叩いた。

 

「ラブコメディ失調症……重症かも知れない」

* * *

 記憶を辿り、僕は白いワンピースのヒントを探していた。

 あるとしたら。たぶん、あの時……。

 もしかしたら僕が目をつぶっていた時に、“あの娘“の中身を見られていたのかも知れない。

 マジかよ、最悪だ。

 愛しの“あの娘“のスカートを捲られた気分だ。

 だとしたら本当に許せねぇ。あの痴漢野郎。

 今度会ったら容赦しねぇ。

 と、僕は拳を硬く握ったが、先生に近距離で吐息をかけられた事を思い出して、気が抜けた。

「あぁ。僕の負けだ……。この忌々しい記憶を塗り潰すくらい、今日も独りで“あの娘“を抱こう。慰めよう……それしかない」

 暗い影を落としながら呟く僕を見て、マイは不思議そうに首を傾げていたが、きっと何の事かわからなかったんだろう。

 マイは片手に自分用の飲み物を持ったまま、僕に話しかけた。

「あ、あの……、肯太郎さん! すみません!今日も汚れ、払ってもらえますか?」

 頬を赤く染め、もじもじと体を揺らしているものだから一体何かと思えば、フェンスに触れて汚れてしまったお尻をこちらに向けていた。

 いや、何で? 片手空いてるじゃん。

 と思いつつ。

 今日もまた、音が響くほどの強さでマイの腰を、パンパンッ!と払ってあげた。

「あんっ! あ、ありがとうございますぅっ! 」

 変に色っぽい声を放つマイ。

 その違和感に僕は気が付いた。

 あれ? これあれか? 

 まさか変な癖になってるやつか?

 うっとりとした潤んだ目で僕を見ながら、恥ずかしそうに肩をすぼめたマイは、持っていた缶を開けて、小さく一口、液体を啜っていた。

「うぅ。にがい……苦いです。 でもちょっとこの苦さが癖になって来ました……」

 持っているのはブラックコーヒー。

 やはり意味不明な彼女の行動に、僕は呆れ果てた。

 ヤバい……謎が謎を呼んでいる。

 こんな調子で、この僕の抱えた漠然とした不安は本当に治るのだろうかと。

 その時の僕は、頭をぐしゃぐしゃと掻く事くらいしか出来なかった。

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