Mag-log inつまるところ、この問題は──
枝分かれした、三軸が束になって出来ていた。 ──まず、一つ。 僕の初恋の“あの娘“についてだ。その容姿は、といえば。
艶のある金髪のロングに、前髪を揃えたサイド長めの姫カット。
目は垂れ目気味の、優しそうで大きな丸い目であるが、その上に引かれるキリリとした眉は、意志の強さの現れだ。
高くとも尖らない鼻を起点に、立体感のある顔つきは、少しばかり幼なげな影を残して整った、綺麗な小顔で。その肌の質はきめ細かく、とても白かった。
そんな彼女は高校の同級生であり、内面は、品行方正で笑顔を絶やさない、メンタルと行動力の化け物という印象の人物である。
そして僕は、美しすぎる彼女の事を想うあまり、彼女の事を心中に宿る“女神“だと捉えていたのだ。
だが、薪無先生は、初恋の“あの娘“の事を諸悪の根源だと仮定していた。つまりは初恋の“あの娘“こそが、このトラブルの原点であり、それによって今の僕は狂わされているというのだ。
──そして、二つ。 これは、小説の“あの娘“の事である。その実は、臓物丸直義という小説家が書いた作品に登場する人物で、容姿はほぼ初恋の“あの娘“に準じていた。
性格は少しばかり差異があり、小説の“あの娘“は、とてもテンションが高く、エネルギーの塊のようなヒロインとして描かれている。
まあ、これは娯楽性を含んだ小説ならではの味付けだろうし、そもそも臓物丸先生──もとい、もつまる先生の小説の“あの娘“と、僕の初恋“あの娘“との類似は、ただの偶然であり、直接的な接点はない。
ただ僕は、先に説明した心中の“女神“を、薪無先生の言う『類似感覚』を持ってして、小説の“あの娘“に投影し、ずっと恋焦がれ続けているという訳だ。
──さらに、三つ。
根本的で主幹的な問題は、僕の病気である。『ラブコメディ失調症』
ふざけた病名だが、致し方ない。症状は無気力さと生命力の減退。
僕はこれをひっくるめて『漠然とした不安』と名付けた。
今までふわりと見て見ぬふりをしてはいたが、結局のところ、これは紛う事なき“希死念慮《きしねんりょ》“の類である事に、流石の僕も気が付いていた。
……しかし。
これは決して、日々の不満や疲弊から来るものではない。
ただただ人生の行き着く先が見当たらないという、さらにどこまでも曖昧なものなのだ。
だから僕は、この漠然とした不安を取り除く為に、あのマキナ医院、精神整形外科に出向いた訳で。
その結果、治療に必要な処方としてご都合主義の名の下、僕に仕向けられたのが、夢乃マイという美女だった……。
僕にとってのデウス・エクス・マキナ──ご都合主義である、夢乃マイはとても美人であった。 この三軸に登場した彼女達の容姿は、いずれも酷似している。なので、表面だけを掬って見れば、あっけなく簡単で単純な事だった。
僕は僕の愛した“あの娘“達と、今。 何らかの力をもってして、出会ったのだ……。 * * * 僕のバイト先、秋葉原の隅にある小さなセル店。喘ぎ声のうるさい店内で、白いワンピースに身を包んだマイは、あれやこれやを物色し、僕に疑問を飛ばしてきた。
「肯太郎さん! 大変です! ここにはワタシの想像を遥かに超える、とても不埒なものがいっぱいです! 殿方は常にこのような思考で日々を明るく過ごしているのでしょうか?!」
まるで、下界の闇を覗いてしまった天女の如く、眼を丸くしながらマイは驚いていた。
僕はカウンターの中で小作業をしながら、ため息混じりに答える。
「常に……ってのは、いささか言い過ぎだ。でもこれが人々の日々の活力である事は認めよう。何故ならそれは、いつの時代においても、世間にこの需要が必ず存在するからだ」
「それはつまり、求められているから存在するという事でしょうか!」
「そうだよ。それがこの世のものにおける、理由と意味だ」
そう言って、僕は自分の飛ばした言葉を、強く噛み締めた。
……そうだ。 僕が理由と意味を愛するのは、なにも間違っていない。小説も人生も、すべからく。
全てがそうなんだ。求められるから存在する。
……そうか。
ならば、今の僕は……どうだろうか。見慣れた卑猥なDVDに値札シールを貼り、防犯ケースに入れた所で、僕はそれを売り場へ並べる為、カウンターを出る。
すると、そこへマイが立ちはだかった。
マイは自身の胸元に掲げた、一冊の成年漫画の表紙をこちらに向け、照れ臭そうに口元を隠していた。
「で、では……恋人となったワタシと肯太郎さんも、いずれはこのような愛の形に辿り着くのでしょうか!」
持っていたのはファンタジーモノのエロ漫画。
金髪のエルフが、ぬるぬるの触手と緑色の小人に、しっちゃかめっちゃか陵辱されていた。
おい。このような……じゃないよ。
どういう愛の形だよ……。
これに辿り着いたらまずいだろ。 やっぱりマイは何かしらズレていたが、そのズレに辛辣なツッコミを入れるのも野暮だと思い、僕はマイの言わんとする事を汲み取った。「いや、まあ……愛する恋人同士が求めあえば、それは……」
ぱぁ!と明るくなるマイの顔。
小刻みに体を揺らし、頭頂部の一本のアホ毛が揺れる。「であれば! やはりワタシは存在していたい! だから、ワタシは肯太郎さんに求められたいです! 話は早まりました! ワタシとしましょう! とっても不埒な事を!」
はあ?!
なんだその、あざとい女子の『一緒に飲みに行きましょう!』みたいなノリは! こう見えてマイは尻軽なのか?!それは、あまりにも唐突で稚拙な性交渉だ。
“あの娘“そっくりの見た目で、そんな事を言われたものだから、僕は激しく動揺して、危うく持っていたDVDを床にぶちまける所だった。
「おいおい、まてまてまて! やめろ! その容姿でエロ漫画を掲げたままそんな事を言うな!! それに世の中にはそういう事をしない恋愛の形だってあるだろ! 純愛とは、人が憧れる清楚なものだろ? 大半はそれを求めるはずじゃないのか?!」
焦って大声を上げる僕。
これ以上はスムーズに仕事が出来ないと判断して、近くの棚に持っていたDVDを全て置いた。
そしてまた、マイの方へと向き直すが、マイは先程までの明るさを失い、顔に影を落としていた。
「……それを信じた結果。ワタシはこうなってしまいました。ワタシはきっと心のどこかで、白馬の王子様が迎えに来るのを一人虚しく待っていたのかもしれません。これが暗いトンネル。そうです。だから……だからワタシは……」
一転した深刻そうな表情に、また動揺する。
早く何か言わなければと、強い焦燥感に駆られた。──しかし。
「いや……、あの、違くて。物事には順序があるからさ……勘違いしないでよ。僕はまだマイの事よく知らないし……ね?」
よく考えもせずに放ってしまった言葉が、信じられないほどダサくて、僕は自分で悶絶してしまう。
凄い速さで頬に熱が上るのを感じた程だ。
言い終わる頃にはたぶん、自分が思うよりだいぶ真っ赤に熟してしまっていたんだろう。
マイはそんな僕を見て、また明るさを取り戻した。
「まあ! そんなに頬を赤く染めて頂けるなんて! それはワタシの事を体からではなく、まずは心で抱きたいという事でしょうか! 肯太郎さんはなんと紳士な方なんでしょう! ワタシの望んだ白馬の王子様というのは、こうして出会うものだったのかもしれません!」
ああ、なんと、都合の良い解釈だろうか。僕は単純なマイの思考回路に呆れて、ため息を吐く。
「じゃあ、それで良いよ。そういう事でいい。だからもう、これ以上その容姿で卑猥な誘いをする事をよしてくれ。僕の心が変に傷つくから」
「はい! ワタシは肯太郎さんに気持ちよく、身も心も抱いてもらえるように、日々努力を重ねたいと思います! あ、でも、もし心傷で、ワタシに乱暴したくなったら言って下さいね? その時は……あのその、なるべく受け入れますから!」
これは飛び抜けるほどに、何もわかっていなさそうだった。
マイのなんとも急かした前向きさを間に受けて、やるせなくなった僕は、舌打ちをしながら頭をぐしゃぐしゃと掻く。
毎度毎度、マイにはペースを崩されてばかりだと思った。
「それでは肯太郎さん! 手始めに今週末、デートにいきませんか? 」
仕切り直しとばかりにマイが提案する。
一旦の話の区切りを感じて、冷静に戻った僕は、顎を抑え、斜め上に顔を向けた。
そのまま今週末の予定を想像したが、これといって特に引っかかるものは無かった。
「まあ、空いてるな。ただ、遠出は疲れるからしたくないよ。出来れば近辺がいい」
面倒とは思わなかったが、すぐに候補地が浮かばなかった事もあって、場所をマイに一任させる為、最低限の希望だけは伝えた。
──すると。
「では、“上野“……とかはいかがでしょうか?」
その言葉を聞き、僕は、ハッとした。
自然と押さえてしまった口元で、指先から微かに感じる、巻きタバコの残り香を嗅ぐ。
鼻を抜けるのは、紅茶の甘い香り。
彼女の艶めいた黄金色の髪を見て。 瞬時に、僕は──錯覚した。
「……そうか、上野か……。なら、僕は思い出したそんな過去を──
ぽつりと呟いていたのだ。
──あなたの事を愛しているからですよ。 そのマイの一言に。 僕の頭はもう、実態のあやふやで、すぐに溶け出してしまう綿菓子が詰め込まれたかのように、何もかもが幻の如く、不明瞭な不確かさで埋め尽くされていた。 マイは存在証明を求めていた筈だった。 シュレーディンガーの猫である筈だった。 その為の僕であり。 その為の交接であり。 それこそが、暗いトンネルから出る為の、マイの望む“結果“である筈だった。 なのに……。 そこに、確かな愛情が芽生えていた。と言う、“予想外れの期待“が、僕の胸を存分に掻き乱した。 マイの目から滑り落ちた涙が、嘘のように煌めいたのを見る。 それが地に落ちる時に、マイは口を開いた。「ワタシの交接への強い願望を前に、あなたがただただ逃げているだけだなんて、ワタシは決して思っていやしませんよ。あなたはちゃんと自分の視点からワタシを救おうとしていた。なのに、結局の問題はあなた自身にある。そこ原因を紐解く事こそが、ワタシの出来る最大限の手引きなのだと、つい先程、ワタシは心を決めた次第です」 まさに、上出来だった。 野暮な思想や言葉を全て蔑ろにする、途方もない抱擁がそこにはあった。「なんだそれは……。まさか君はこんな情け無い僕の事を、打算的な感情を一切持たずして、嘘偽りなく本当に愛していたというのか?」 また体が震え始める。 だが、それは先までの恐怖とは違った。 マイの底知れない寛容さに、震えたのだ。 そんな事あってたまるかという思いもあった。 僕がマイに求めたものは、どこまでいっても“あの娘“の影の断片だと言うのに。 それに気が付きながらも、マイは僕の事を心から想い、真っ当に恋をしていたというのならば、僕がこんなにも小さな気持ちになるのは、避けられない仕打ちだった。 涙を搾るように目を瞑ったマイは、僕との心の距離を測り、残された言い訳を全て踏み潰そうとしたのだと察した。 それからマイは、僕に向かって真剣で低い声をかけた。「肯太郎さん、よく聞いて下さい。人が人に惹かれ、恋をして、愛情を抱くのは何も当たり前の事なんかじゃありません。そこには糸のような細くて拙い、“理由や意味“があり、その先には、必ず相手と残したい“結果“が存在する……」 微笑みを隠さずに、マイは丁寧に言葉を紡いだ。「経済的、もしくは文化
僕は目眩を起こす程に、激しく視界が点滅するのを感じて、脳内に強烈な一つの思考が張り付いた。 ……マイが“あの娘“の事を、知っている。 僕がマイの人格を、“あの娘“として塗り潰そうとしていた事を、全て知っている……。 その事実を認識してしまっただけで、僕の腹にぎゅうぎゅうと収めていた、黒くて汚い内臓は今にも飛び出しそうになっていた。 強烈な吐き気を抑えようと、両手で口を塞ぐ。 とにかく視点がズレて定まらないのは、動揺しているからという理由だけじゃ、ありえない。 僕の体の中の、その奥の奥に眠る、根本の芯の部分から、否が応でも震えて止まらないのだ。 マイは僕をじっとりと見ていた。 上から僕をしっかりと見下《みくだ》していた。 そのマイの視線が、容赦なく心に突き刺さる。 それが針や槍なんて幼稚な物で言うには、生ぬるくて仕方ないと感じるしかなかった。 それは、人を最果てまで追い詰める為に、鋭く斜めに刃を付け、研がれた、分厚い切先で。 触れただけで人の皮膚を簡単に引っ剥がす、極寒の霜に覆われた鉄骨のような厳しさだった。 そんなものを脳天から真っ直ぐに振り下ろされた後には、背骨の髄を撃ち抜いて、細く張り巡らせていた重要な神経の隅に至るまで、雷《いかずち》の如き高圧の電流を素早く流し、全ての感覚を死滅させた。 そうして、やっと知る。 ……僕は夢乃マイの事を誤解していたのだと。 薪無先生に言われた通り、僕は確かに驕っていた。 今までの僕は、マイの事を純粋無垢で何も考えていない存在として、”そういうもの”だと勝手に思い込んでいたのだろう。 もしくは、もっと酷い言い方をするのであれば、マイの事を、抽象的で概念的な“都合の良い人形“とでも、深層心理の中で不器用に積み上げていたとすら振り返り、感じる事ができた。 なので、僕は僕の意志でしかこの物事は進みようが無いのだと、いつからか錯覚し、誤解していたのだ。 たった今、その事実に気付かされたという絶大なショックが、体中を縦横無尽に飛び回りながら混沌として渦を巻いた。 ──だけれども。 そんな事は、僕が真っ向から咎められるべき責任よりも大幅にそれた、実に仕方がない出来事だとも、僕は脳内で冷徹に翻《ひるがえ》り、苛立ってもいた。 何故なら所詮、この話は、僕が主観
鍵を開けたその部屋は、十二畳の1Kだった。 決して広いとは言い難いが、一人暮らしには十分だと感じられるほどの空間だ。「とりあえず、遠慮せずに上がってくれ」 僕は玄関で乱暴に靴を脱いで、いつも通り何も気にせずスタスタと上がるが、マイは僕の放った靴を手早く屈んで拾った上に、それは丁寧に揃えると、玄関の端に並べて寄せた。「失礼します! お邪魔させて頂きます!」 大きな声と共に、ぺこりと綺麗にお辞儀して、申し訳なさそうに壁に手を添えながら、後ろに足をあげ、上品にローファーを脱ぐマイ。 僕はまだ、釈然としない胸のざわつきを抱えて緊張していたが、そういう大袈裟で大胆かつ繊細なところが、なんだかマイらしくて笑えたし、やたらと可愛く思えて、少し辛くなった。 踏み入れた僕の部屋に、物という物は大して多くなんてなかった。 小説や漫画の刺さった本棚とパソコンデスク。 パイプフレームの安いシングルベッドと小さなガラクタ棚。 後は……。 存在感を放つ、一本の水槽が置かれていた。 玄関から部屋に入り、一番目につく位置に置かれた大きなそれは、上面に取り付けられた青白いライトで照らされている。 濾過《ろか》フィルターから循環して戻ってきた水が、表面に水流を作り、波立たせ、閉め切った薄暗い部屋の壁に大きな波紋を映し出していた。 さながらそれは、部屋全体を水没させたと錯覚させるほどの、幻想的な揺らめく淡い光に満たされていて、まるで外界からの影響を受けずに隔離された、永遠の空間にも感じられた。 しかし、こんなのは僕としては日常的な事で、普段から部屋の明かりをつけないものだから、特に見慣れた光景になっていたが、マイは流石にすぐに気がついて、それは強く興味を持った。「な、なんですか?! とても美しいです!」 明るくはしゃいで、うっとりとしたマイは、話を聞かない子供のように慌てて水槽へと駆け寄って跪《ひざまず》くと、ガラスに手を付き、なんなら鼻先までをちょこんと付けて、懸命に中を覗き込む。 だが、その水槽の中には、おそらくマイが期待したであろう、美麗な熱帯魚の群などは泳いでいない。 きっと落胆して肩を落とすかもしれないと懸念して、僕は自分が何も悪く無いにも関わらず、なんだか少々ばつが悪くなるのを感じた。 そこに入っていたのは、深緑色をした丸太のような風体の、
その日は僕の住むアパートの最寄りである、四ツ谷駅で待ち合わせをした。 繁華街ではないものの、サラリーマンの多い新宿通りは、どの時間帯でも人がいて、秋葉原とはまた違った雰囲気の都会感がある。 確かマイは池袋が最寄りだと言っていたので、僕はJRの方ではなく、丸の内線の改札前で待っていた。 それから程なくして、マイは現れた。 僕にとってはだいぶ見慣れてしまったマイの容姿だったが、普段のなんて事はない最寄り駅の情景と重なると、なかなかやはり人混みの中でもよく目立つもので。 長く艶めいた金髪はそれだけで目を引くし、そして何より、その身分を偽って纏った、清楚なロングスカートの制服姿は、軽く周囲をぎょっとさせるくらいには現実味を置き去りにする可憐さがあった。「肯太郎さん! 申し訳ございません! 大変お待たせ致しました!」 パタパタと駆け寄ってきたマイは、近くで見ると淡いピンクの口紅を引いていた。 僕はその唇に、今日という日にかけたマイの期待と覚悟を直視してしまいそうになり、慌てて頭頂部の気の抜けたアホ毛に目を移し、話す。「おはよう。大して待ってないから大丈夫だよ。さあて、どうしようか。すぐに僕の家に行っても、面白いものは無いからつまらないだろうし、どこか飲食にでも入って食事でもしようか?」 待ち合わせしたのは大体、正午だった。 四ツ谷という土地の性質上、サラリーマンが昼休憩を取る正午は、飲食店に彼らがごった返す。 なのでそれをあえて狙って、昼食に誘おうと思ったのだが、マイは僕の提案に勢いよく首を横に振った。「いえ! 肯太郎さんが特に空腹で無いのであれば、ワタシも空腹ではありませんので、どこにも寄らずお家にお伺いする方向で構いません!」 ああ……そうか。だとすると。 このまま直行になってしまうな……。 僕は顎に手を添えて考えたが、確かに僕も変な緊張で空腹感はなく、ここはもう白旗だった。 これの何が白旗なのかと言うと。 正直僕は、少しでも自然に時間稼ぎがしたかったのだ。 先日の僕は、覚悟を持ってマイを家に呼ぶ事に決めたのだが、その後の薪無先生との話で、あの決断が早計だと知らされた。 暗いトンネルを出る為の、もう一つの鍵。 僕の過去に直結する、その鍵を探さなくてはならなかったのだ。 けれども、そんな抽象的すぎるそれに心当たりが
「遂に終幕って感じの顔をしているね。少年」 薪無先生は左手でペンをくるくる回しながら、口角を上げる。「いえ。まだ、何も終わってませんよ。終わるとしたら、これからなんですから」 マイとの予定を明日に控えた僕は、この判断が本当に正しいのかと不安になり、薪無先生の下へと訪れていた。「じゃあ何故にそんなスッキリした顔をしてるんだい。まるでトンネルの出口が見えかけて、光が差してるみたいな様子だ」 僕の顔を見て、薪無先生は唇を尖らせて訝しんだ。 この診察室には鏡がないものだから、僕としては自分が一体どんな表情をしてるのかもわからない。 でも、きっと少し落ち着いた顔なんだろうという事だけは、何となくそれでわかった。 なので、僕はマイと一線を越える覚悟を決めた旨を先生に伝えようとするが、普通に気恥ずかしいもので、尻込みする。 いや、薪無先生ならこれで十分伝わるだろう。 そう思って、僕は端的に述べた。「明日、マイを家に呼びます」 その途端。 一瞬、驚いた顔を覗かせて、あー。と声を漏らし、徐々になんだか渋い顔に変わる薪無先生。 目を瞑って、こめかみをぽりぽり掻いた後。 先生はジト目を僕に向けた。「君は出来ないよ。セックス」 意図が伝わるどころか、その先を読んだようにスパッと一刀両断されてしまった僕は、気が抜けて、ぽかんと口を開けてしまう。「は?」 薪無先生は深いため息を大袈裟に吐いて、呆れた口調で僕に言った。「あのさぁ、前にも言ったでしょ。セックスってのはただ単純に、少年のその焦って硬くした不安をマイちゃんにぶち込めばいいって訳じゃ無いんだぜ? それとも何か? 少年は前戯も無しにいきなりぶち込む畑の人? そういう趣味?」 おい。流石に酷いだろ。 人の事を勝手に激ヤバな強姦魔に仕立て上げないでくれ。 突拍子もない酷い扱いを受けて、僕も思わずジト目を返す。 「いやいや、何もそんな言い方ないじゃないですか! 下品な言い方はよしてくださいよ! 僕はただ、マイの欲求が大きくなって、これ以上溢れ出たらいけないから何とかしようって思って……」「それは奢りだ」「……え?」 いきなり事で、いつそうなったのか僕は気が付かなかった。 薪無先生は笑っていなかった。 鋭く目を細めながら、笑い事じゃないよ。と言いたそうな圧のある目を僕に向ける。「君は
薪無先生から聞いた夢乃マイの生い立ちは、凡俗な僕にはあまりにも理解し難いものだった。 それは決して悲劇的で、衝撃的な過去等ではなく。淡々と緩やかに歪んでいく、一見自然に見えるまでの不気味さからくる不協和を感じた。 まず、マイの両親は幼い頃に他界している。 しかし、こういう言い方もどうかと思うが、それ自体に大した意味はない。 と、いうのも、両親が他界したのは、マイがとても小さな時分の事であり、マイの記憶としては、両親はもういないところから始まっているとの事で。 その後も両親がいない事に対して、特別な負の感情は抱かなかったと、本人が言っていたらしい。 マイの問題とは、こういった何かの喪失や決定的なショックで起こったものではなく、ほんの些細なところのズレと、マイ自身の難儀な性格により発現した事である。 両親の他界後は、未成年後見人として、母親の姉にあたる伯母に引き取られ、その後マイは、特に何不自由ないと言って差支えない生活をしていた。 伯母は一人での生活が長く、貯えもそれなりにあったので、マイはひもじい思いなんかもしていなかった。 だけど残念ながら、ここで一つのズレが生じる事となる。 それは伯母に“子育ての勘“が無かった事だ。 薪無先生は、物事において“勘がない“というのは、何よりシンプルで、何より大きな欠点であると話す。 すなわち、いつまでたっても“勘“が掴めないものの難易度とは、思いの外とても高くなってしまうものなのだ。 所謂、“感覚“というものと同義だろう。 自転車に乗る時、自身の体を自然に制御し、いちいち手元や足元を見なくとも、軽く前に進めるようになるように、人はその“勘“や“感覚“で物事の理解や制御を早め、習得する。 だが、マイの伯母には子育てのノウハウに関して、そういった習得する勘というものが、一切備わっていなかった。 それによってマイは周りとは少し違う、どうにも特殊な環境で育つ事になってしまっていた。 具体的に言えば、伯母はマイを、“子供“としてではなく、“個人“として解釈していた。 伯母は自我の曖昧な子供に向かい、大人と同じような自我がある前提で育ててしまったのだ。 例えば、成人した同い年の友人が、突然仕事を辞めてしまったところで、誰も頭ごなしにすぐに次を探して働けなどと、上から目線で全力をかけて叱咤する事は無