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◇新たな門出 60

Author: 設樂理沙
last update Last Updated: 2025-04-10 08:36:59

60

― 時は少し遡り ――

総帥からの圧力もある中、向阪匠吾が祖父茂に対して、ひいては花に

対しての謝罪の意味を込め、けじめをつけようと玲子との結婚話を

進めていた頃……失意の内に前職を辞めた花は祖父の働きかけで

心の平安を取り戻し、グループ企業のひとつである三居建設株式会社へと

入社した。

 配属は作業所事務部門。

 花の次の勤め先は募集などかけていない中での中途での入社だったため、

最初のうちは皆の仕事の補佐をすることで時間を紡いでいた。

 そのため自分の決められた仕事がなく、どうしても仕事の途切れる時間が

できてしまう。

 それが時々ならよいのだが、一日に何度もでき、ただデスクに座っている

だけというのはとても苦痛である。

 考えてみるに自分の課では担当者がそれほどハードな仕事では

ないのだろう。

 しかし、他部門ならどうだろう。

 猫の手も借りたいほど忙しい部署があるかもしれない。

 花はそういった忙しい部署の仕事をやらせてもらえるよう上司に

掛け合った。

 しかし、花の提案はあっさりと却下され、また翌日も暇でしょうがない

一日を……何もないデスクを見るだけの一日を……過ごすことになった。

 なるべくなら『伝家の宝刀』を抜きたくはなかったがしかし、

これは我が一門の行く末にも係わる由々しき問題。

 性格の良くない上司のようで助け合いの精神は持たないらしい。

 他部門のためにどうして自分のところの人間を貸し出さなければならないのか、というような思考の持ち主のようだった。

 実は上司にこの話を持っていく前に花はリサーチしていた。

 それによると、現場を抱えている部署では顧客対応や現場での対応に

かなり時間を取られるので現場監督はデスクワークになかなか時間を

割けず超勤が続いているようだと聞いていた。
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    103 目の前の女は俺の問い掛けには答えず、涙をためた目を見開いて穴の開くほどじっと俺を見ている。 ここで俺は大人げないことをしている自分の所業に気が付き、恥ずかしくなった。 そうだ、なんでこんなに彼女のことを構うんだ。 相馬の彼女だというのに。 自分の愚行にどっと疲れを覚えた。 ボタンから俺の指が離れ扉が開いた途端、スルリと彼女は俺の前からすり抜けて行った。相原清史郎《あいはらせいしろう》は周りから見られているイメージとは180℃違っていてウブで自分に自信のない人間だった。 そんな彼は女性に対しては中身重視。 好きになった相手とは絶対遊びで付き合えない。 相原は当初、相馬付のサポーターとして担当に着任した若くてそこそこ可愛い女子社員を見るにつけ、ご多分に洩れず多少の羨ましさを感じていた。 しかし、来る派遣社員、派遣社員、二人共長続きせずあれよあれよという間に辞めてしまい、女子社員と一緒に仕事をするというのは予想以上に難しいものなのだという認識を強くした。 彼女たちが辞めていった理由として周囲から漏れ伝わってきたのはモテ男相馬に恋心を抱いて玉砕したから、というものだった。 それ故、おばさん《おじさん》気質で周囲と同じようについ3番目に着任した掛居花の言動、つまり様子をそれとなく気にするようになっていた。 そんなふうに野次馬根性で気にかけていた女性《ひと》が娘の保育所に現れたものだからつい、興味を覚えたのだ。全く繋がりのなかった立場から細い糸で彼女と繋がれたのだから多少気持ちが浮ついてもしようがないだろう。  これは日常会話くらい話せるようにならなくてはと声を掛けるも、滑ってばかりのようで掛居から余り良い反応を得られず、普通に話せる間柄になるのには万里の長城(北海道から沖縄まで日本列島をぐるりと囲む距離)ほどもの距離があるのを感じ、寂しく思った。 そしてスマートに成り切れない自分に対して臍《ほぞ》を嚙む思いだった。

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