62 実際に業務に付いてみると現場監督は50人近くいて現場ごとの現場監督はその現場規模によりけりで、大きい現場になると3人だったり5人だったりという具合のようであった。 その時々で仕事が増えたり減ったりするため、ひとまず常時の体制は3人の正社員とパート社員数名、派遣社員2名で業務を回しているようだった。 所長と呼ばれることもある現場監督の仕事は多岐に渡るらしい。 それらは外回りと言われる現場の視察であったり接待であったりと現場事務所が立ち上がると超多忙なのだとか。・施主の要望があると施主への接待として、暑気払いだの安全大会だの 上棟式だの慰労会だの頻繁にそのようなイベントがあり飲み会・忙しい現場だと、作業所内スタッフとの懇親や慰労という名の飲み会 ・設計事務所への接待……での飲み会・自社の幹部とのつきあいでの飲み会・所長だと下請けさんからも声が掛かり飲み会など、飲み会の機会が半端なく多いのだと諸々、接待の相手先を、派遣の遠野さんから聞いて少しオオバーかもしれないけれど私は気絶しそうになった。『肝臓やられて、長生きできなさそう』というのが私の感想である。 独身の間はいいけど、メンヘラな奥さん貰っちゃったら、たぶん速攻離婚案件だよね。『独身、奥さん、離婚』 自分が思考した3つのワードにチクっと胸に痛みを感じた。『亭主元気で留守がいい』が性に合ってる女性なら旦那さんにいいよねぇ~。 例えば、自分に明確に生涯通してやりたいことのある人ならば。 これ一筋と思えるような仕事や趣味がなく、いつも旦那さんとLoveLoveしてたい女性はだめだろうなぁ~。
63一週間過ぎた辺りで派遣社員の遠野理子や小暮ゆきと一緒に昼休憩を過ごしたり できる仲になれ、社内の人間関係や彼女たちのことなども知ることができた。 遠野は24才、小暮は25才とどちらも花より若いのに どうして派遣社員なのか? というようなことも分かった。 うちの上司からも若いので正社員になればと打診はあったらしいのだが、 ふたり共に将来の夢があって敢えて派遣という形態を取っているのだとか。 遠野理子ちゃんは小説家になりたいらしく、そう決心したのは 10才の頃と聞いてびっくりした。 そうなんだぁ~、思わず自分は10才の頃何になりたかったかなぁ~と 振り返るも何もない。とほほ。 投稿サイトに掲載していて、コンテストに応募したりしているらしい。 受賞して大きな有名所から出版するのが夢なんだって。「出版したら、絶対本買うわぁ~」「もう絶対、掛居さんには一番に連絡しますよ 」「サインもお願いね」「もちろんっすよ」 小暮ゆきちゃんの夢はファッションデザイナーで、週一で専門のスクールに 通っているらしい。「デザイナーってどうやったらプロになれるの?」 「選択肢はいくつかあると思いますが、私はそっちのほうの専門学校も 出てませんしどこかと契約してもらうっていうのは難しい気がしていて…… 悩ましいなって思ってたんですけど、実はBarのお店の物置スペースを 間借りして来春から仕事GOする予定なんですよっ」「えーっ、それってラッキー? なことよね。 できればお話聞きたいなぁ~」「すこぉ~し、長くなるかも……だけどいいですか?」 「「勿論、もちろんっ……」」 私と遠野さんは一緒にハモって答えた。
64「私ぃ、ここに派遣で来る前は、実はホステスをしてたんですけどその頃からお店で自分の着る衣装には拘りがあって、それでデザインに興味が沸くようになったんですよね。 ンでなんとなぁ~くだけど、ドレスのデザインしてみたいなって思うようになって、専門のスクールに入学してちまちまっと勉強したりしていて……。 で、そんな時に、そこのお店のオーナーがBarのお店を出店するっていう話を聞きつけて……よくよく話を聞いてみると一部屋余るので物置にでもしようかなっていうことになっているらしく、そこで私、突然閃いちゃったの。 間借りしてデザインした衣装を陳列させてもらえないだろうかって。 クラブからお客様をお連れしてホステスさんたちもそのお店に来るわけだから、彼女たちに衣装見てもらって気に入ったらレンタルなり購入なりしてもらえば仕事になるんじゃないかって思ったんです」「へぇ~、すごい。 デザイナーの夢がそんな形で実現するなんてすごいわぁ~。 小暮さんって何か持ってる人なのね。 じゃあその時はここを辞めちゃうんだ?」「パートに変えてもらって働ければっていうことも考えてるのでその時は上司に相談してみようかなって思ってます」「二足の草鞋が上手くいくといいわね。 遠野さんも本が出せるといいわね。 私、ふたりのこと応援するわ。がんばっ」「「ありがとうございます」」
65 現場の事務を主力として担っている3人の社員たちは皆既婚の男性たちで 資格持ちだ。 体力と半端ない根性があれば今すぐにでも内勤をやめて現場で働けそうな人 たちで、それぞれ家庭の事情や体力の問題で現場の第一線から外れ、内勤へと 替わった者たちばかりなんだそうだ。 当面私が担当に付く現場監督は相馬綺世《そうまあやせ》。 年は30才、現場監督としてはかなり年若い部類になるみたい。 お昼の休憩時間は相変わらず派遣やパートさんたちと一緒に昼食を摂って いて、日によって会話するメンバーは違っているけれど、馴染んでくると よく訊かれるようになったのが相馬綺世さんのことだった。 確かに彼は独特の雰囲気のある人ではあるけれど、どうしてこんなに 皆彼に興味津々なのだろう? と私の中でそっちの興味が沸いた頃、 遠野さんと小暮さんとの3人で昼食後のコーヒータイムになった時のこと……。 まさに同じような質問がふたりから飛んできたのだ。 「相馬さんとのお仕事やりやすいですか?」 「うん、気さくで親切だし指示も的確なので相馬さんの担当になれて 良かったって思ってるわ」「「気さくなんですか?!」」 「ええ、やっぱり補佐する立場からすると仕事を指示してくる人が 話しにくいとやりにくいと思うのですごく助かってる」 「「へぇ~、意外」」 ふたりが口を揃えて同じことを言ったので私の方こそ意外だった。 「えーっ、ちょっと待ってぇ~。 相馬さんのこと、どんなふうに思ってるの……っていうか どんなふうに見えてるのかな?」 私が問うと、ふたりは顔を見合わせてどちらが先に私の質問に答えようかと、譲り合うのだった。 そして結局遠野さんか先に口火を切った。
66「これは私の見た感じの印象からなんですけど、一見爽やかで優しい雰囲気なので話しやすいのかなぁ~っていうイメージがあったんですけど、不思議な話……実際彼の前に出ると金縛りにでもかかったのかと思うほど上手く話せないんですよね。 こんな経験初めてで自分でそんな自分に吃驚ですよ。 仕事上の接点もほとんどないのでどうしようもないっていうか、親しくなって話をしてみたいって思ってるのにぜんぜん距離を詰められなくて、私の中ではどんどん雲の上の人になってしまってますねー。 それで彼の仕事を補佐する派遣の人が超絶羨ましかったんですけど……」 「私の前任者のことかしら?」「そうです、2人いました」 そう説明してくれたのは小暮さんだった。 遠野さんは相馬さんに淡い好意を持っているのかもしれないなと思った。 続けてまたまた小暮さんが語ってくれた。「相馬さんってそうですね。 結構話好きな面もあるようで、気さくっていうのはそうなのかもしれませんよね。 ふわふわっとしていて、マシュマロのようにポワワンってしていて、決してキツイところもないですし……う~んと、あっそうそう、少し掴みどころのないところがあるっていうのかな。 本人は決して意図的にそういう雰囲気を女子にいいように見られようとかっていう気持ちから計算して出しているわけではないんでしょうけど、この掴みどころのなさが、なかなか異性に対して吸引力半端ないんでしょうね~」 この話に乗っかかる形で今度は遠野さんが話を引き継いだ。「不思議なのは彼が自分とは別の誰かと話しているのを聞いていて『あっ、楽しそうだな。私も相馬さんとあんなふうに楽しく話せるようになりたい』って思うのに実際彼を目の前にすると楽しく話すっていうのが難しくて……」「そういうのって仕事なり趣味なりで同じ時間を過ごさないと難しいかもね。 私がもう少し相馬さんと親しくなれたらランチタイムに彼を呼んでみる?」「「わぁ~い!」」
67 「花さんがいてくれて話やすく話題を振ってもらえたら、相馬さんと話しやすくなるかも。遠野さんとその日を楽しみにしてますね」「あっ、でも掛居さん、私は別に相馬さんの彼女になろうとかっていうそういう野望は持ってませんので。 あくまでも目標は楽しくお話することです」「遠野さんの気持ちわかる。 私もそんな感じなので」「え――っ、そうなの? 相馬さんのこと2人とも狙ってないんだ」 ふたりの気持ちを聞いてガッカリしたのかほっとしたのか、自分でもよく分からない混線したような心持ちになった。 何故か? 責任のあるキューピット役になってカップルがまとまった時の喜びを味わうのか、はたまた失恋した時に慰めるという大役を担うのか……、カップルがまとまった時の喜びを味わうというようなことはまぁ、僭越過ぎるというものだけど、気軽に会話できる雰囲気を作ってあげて自分もみんなと楽しい時間を共有することになるのか……。 おっとっと、勇み足は控えなくちゃね。 あれこれ考え込んでいると「ここだけの話なんですけど……」と遠野さんから小声で話掛けられた。 「実は掛居さんの前任者というか、相馬さんの仕事を補佐してた前任者が2人いたんですけど2人とも1年足らずで辞めてるんですよね。 それを見ていて相馬さんの彼女になろうとするのは無謀ではなかろうかと思うわけですよ」「2人は相馬さんに振られて辞めたの?」 そう私が訊くと遠野さんと小暮さんの2人が首を横に振り「そこがどうなのか、神のみぞ知るというか、分かんないんですよー。だけど、なんとなくだけど……派遣の人たちが振られたのかなぁーって感じはしますけどね。 どちらも派遣で決められた期日まで勤めず家庭の事情ということで前倒しして辞めちゃってますから」『1人だけならまだしも2人続けてなので周りは掛居さんのこと、興味深々だと思いますよー』と、遠野も小暮も心の中で同じ想いを持っていたが、そこは……そこまでは言えないというか、言わずにいたのだった。
68 この日、花は自分と一緒に仕事をすることになった相馬綺世という人物がどう やら異性を惹きつけるフェロモンを出している所謂モテ男だということを知った。 顔立ちは言われてみればそこそこ整っていた……よね、と相馬の顔の造形を 思い返してみる。 あっ、背も高かったっけ。『親しくなったら一緒に話せるように誘うね』って言ったものの、自分も 仕事で係わるから業務内容のことで話を交わしているだけなので 遠野や小暮の立ち位置とさほど変わりないことに気付いた。 あぁ、安請け合いしたことが今更ながらに恥ずかしい。 でもまぁ、彼女たちの願いは付き合いたいとかっていう大きな野望じゃ ないので急がなくてもいいだろうし、とにかく自分は仕事面でちゃんと 補佐できるよう頑張ろう。 その内仕事を通して少しは親しくなれるだろう。 そうなったときに彼女たちに楽しく話せるよう、相馬との時間を セッティングすればいいだろうと花は考えた。 ◇ ◇ ◇ ◇◇相馬綺世の艱難《かんなん》 当時、29才で若手現場監督になり、事務仕事の補佐する人員を付けて もらえるようになった相馬の元へ派遣先からやって来たのは同じく29才 の槇村笙子《まきむらしょうこ》だった。 同じ学年ということでほっとしたのを記憶している。 仕事をする分には年齢の差はさほど重要ではない。 だが仕事を離れてちょっとした会話をするとなるとそこはやはり 共通の話題を振りやすいことにこしたことはないからだ。
69 自分の仕事を覚えてもらおうと相馬は一生懸命最初の1ヶ月かかりきりで 槇原にレクチャーした。 それに応えるように柔らかい物腰で大人しい感じの槇原は、時には 質問などをし、熱心に仕事を覚えようとしてくれた。 彼女が育ってくれてできる限り長期に亘り自分を補佐してくれたら こんな有難いことはないと、うれしく思っていたのに……。 ある日を境に槇原はミスを頻発するようになり『あれっ?』と 思うようなことが増え始めた。 自分としては怒るようなことはせず、丁寧にどうしてミスに繋がったのかを 説明し、気にしないようフォローしたつもりだった。 けれどその頃から気がつくと彼女とのやりとりで 『はい、いいえ、わかりました』 という短い言葉の遣り取りしかないことに気付いてしまう。 そしていつも悲し気な表情でいることにも。 気付いてしまうと 『もしかして、自分は避けられているのだろうか……』 そんなふうに思えてきて、相馬のほうも業務以外での声掛けがしずらく なってしまい、ますますふたりの距離が離れていった。 自分としては彼女に避けられるようなことをした覚えがなく、この先仕事を 一緒にやるのなら、どこかで一度ゆっくりと親交を深めるための場を作ったほう がいいのだろうなぁ、などと漠然とした思いでいたのだが、残念なことにその必要 はなくなったのである。 ◇ ◇ ◇ ◇ 本人から直接ではなく、上司から 『槇原さんが病気の家族を看護するために急ではあるが辞めることになった』 と聞かされたのだ。 それを聞いた時、相馬の反応はシンプルに『あちゃ~』だった。『あちゃ~』には、いろいろな想いが込められていた。 続けてもらいたいと思うからこそのあーでもない、こーでもない、の想いや葛藤もあったが、辞めてゆく人に何も届かないのだから、いや届けられないのだから、もはや……『何をか言わんや』の境地というものだ。 それだからそのあとには、盛大なため息しか出てこなかったのである。
113 相原さんとの初デートは音楽と美味しい食事、そして語らえる相手もいて思っていた以上に楽しい時間を過ごすことができた。 こんなに近距離で長時間、洒落た時間を共有したことがなかったので、朗らかに活き活きと話をする相原さんを見ていて不思議な感覚にとらわれた。 私はこれまで交際していない男性と一緒に食事をするという経験がなく、世の中には恋人ではない異性の同僚と一緒に食事をするという経験のある人ってどのくらいいるのだろう? なんて考えたりした。 もちろん相手のことが好きでデートするっていうのは分かるんだけどね。 まだまだ相原さんのことは知らないことだらけだけど、彼と話すのは楽しい。 彼を恋愛対象として見た場合、凛ちゃんのことはさして気にならない……かな。 だけど凛ちゃんママの関係はかなり気にしちゃうかなぁ~などと、少し後からオーダーしたワインをチビチビ飲みながらほろ酔い気分でそんなことを考えたりして、一生懸命話しかけてくれている相原さんの話を途中からスルーしていた。笑って相槌打ってごまかした。『ごめんなさぁ~い』「明日も仕事だから名残惜しいけどお開きとしますか!」「そうですね。今日は心地よい音楽に触れながら美味しいものをいただいて、ふふっ……相原さんのお話も聞けて楽しかったです」「そりゃあ良かった」 支払いを終え、私たちは店の外へ出た。「今日はご馳走さまでした。 でも休日のサポートは仕事なので次があるかは分かりませんけど、もう今日みたいな気遣いはなしでお願いします」「分かった。 休日サポートのお礼は今回だけにするよ。 さてと、家まで送って行くよ」「えっ、でもすぐなので」「一応、夜道で心配だから送らせてよ」「ありがとうございます。じゃあお言葉に甘えて」「俺たちってさ、お互いの家が近いみたいだし、月に1~2回、週末に食事しようよ。 俺、子持ちで普段飲みに行ったりできないからさ、可愛そうな奴だと思って誘われてやってくれない?」
112 お礼に、たぶんだが……何かご馳走してくれるらしいけどそれを彼は 『デート』と表現した。 シングルなのか既婚なのかは知らないけれど今でこそ子持ちパパだから デートする特定の相手がいるのかもどうかも分からないけど、独身だった頃 はあの見た目と積極的な性格を見るからになかなかな浮名を流していたので はなかろうか。 初めて社外でプライベートに会うのに『デート』という言葉をサラッと 使ったところを見ての私の感想だ。 私たちの初デート? は相原さんお勧めの駅前のカフェだった。 そこはジャズの生演奏が流れていてむちゃくちゃムーディーで恋人たちに もってこいの雰囲気があり、私には腰を下ろすのが躊躇われるほどだ。 お相手が素敵な男性《ひと》ではあるものの、残念ながら 恋人ではないから。 匠吾と付き合ってた時に巡り合いたかった……こんな素敵な夜を過ごせる お店。 昼間はどんな顔《店の様子》をしているのだろう。 駅前に立地していて自宅からも近いので次は平日の昼に来てみようかしら。 「俺たちラッキーだな」「えっ?」「何度か来たことあるけどジャズがスピーカーから流れていることはあって も生演奏は今日が初めてだからさ。うひょぉ~、やっぱ生はいいねー」「へぇ~、そうなんだ」 そっか、じゃあ平日来てもきっと生演奏はないだろうなー。 私たちはオーナー特製のピザと各々チーズのシンプルパスタと ツナときのこのパスタでボスカイオーラーというのを頼み、ジャズの演奏 を楽しんだ。 「掛居さんって家《うち》どの辺だっけ?」「言うタイミング逃してましたけど実は最寄り駅が相原さんと同じで ここから4~5分のところなの」 「まさか駅近のあの35階建てとか?」 ずばりそうなんだけど、相原さんの言い方を聞いていると『まさかね』 と思いながら訊いているのが分かる。 だって分譲で結構なお値段《価格》なのだ。 とてもその辺のサラリーマンやOLが買えるような物件じゃない。 本当のことを言うか適当な話でお茶を濁すか……どうしよう。「お金持ちの親戚が持っていて借りてるんです」「いいな、お金もちの親戚がいるなんて」 「まぁ……そうですね」
111 メールアドレスを残して帰ったものの、相原からは次の日の日曜Help要請が入らなかったので体調は上手く快復したのだろう。 今日は出社かな、週明け、そんなふうに相原のことを考えながらエレベーターに乗った。 自分のあとから2~3人乗って、ドアが閉まった。 振り返ると気に掛けていた人《相原》も乗り込んでいた。「あ……」「やぁ、おはよう」「おはようございます」 挨拶を返しつつ私は彼の顔色をチェックした。 うん、スーツマジックもあるのだろうけれど元気そうだよね。 土曜はジャージ姿で服装も本人もヨレヨレだったことを思えば嘘のように元の爽やか系ナイスガイになっている。『凛ちゃんのためにも元気でいてくださいね』 心の中でよけいな世話を焼きながら先に降りた彼の背中を見ながら同じフロアー目指して歩いた。 歩調を緩めた彼が少しだけ首を斜め後ろにして私に聞こえるように言った。「土曜はありがと。この通りなんとか復活できたよ」「……みたいですね。安心しました」 私たちの間にそれ以上の会話はなく、各々のデスクへと向かった。 昼休みにスマホを覗くと相原さんからメールが届いていた。「土曜のお礼がしたい。 残業のない日がいいので明日か明後日、いい日を教えて」「ありがとうございます。気にしなくていいのに……。 凛ちゃんのことはどうするんですか?」「デートの予定が決まれば姉に預けるよ」 お姉さんがいるんだ、相原さん。 じゃあこの間はお姉さんの方の都合が付かなかったのね、たぶん。「私はどちらでもいいのでお姉さんの都合のいい日に決めてもらって下さい」「じゃあ明日、俺の家の最寄り駅で19:30の待ち合わせでどう?」「分かりました。OKです」 すごい、私は明日相原さんとデートするらしい。 そんな他人事のような言い方が今の私には相応しいように思えた。
110 気が付くと、凛ちゃんの『あーぁー、うーぅー』まだ単語になってない 言葉で目覚めた。 ヤバイっ、つい凜ちゃんの側で眠りこけていたみたい。 私はそっと襖一枚隔てた隣室で寝ているはずの相原さんの様子を窺った。『良かったぁ~、ドンマイ。まだ寝てるよー』 私の失態は知られずに終わった。 私はなるべく音を立てないよう気をつけて凛ちゃんの子守をし、 彼が目覚めるのを待った。 しばらくして起きた気配があったので凛ちゃんを抱っこして近くに行く と、笑えるほど驚いた顔をするので困った。「えっえっ、掛居さんどーして……あっそっか、来てもらってたんだっけ。 寝ぼけてて失礼」 それから彼は外を見て言った。「もう真っ暗になっちゃったな。遅くまで引っ張ってごめん」「まだレトルト粥が2パック残ってるけど明日のこともありますし、 土鍋にお粥を炊いてから帰ろうかと思うので土鍋とお米お借りしていいですか?」「いやまぁ助かるけど、君帰るの遅くなるよ」「ある程度仕掛けて帰るので後は相原さんに火加減とか見といて いただけたらと……どうでしょ?」「わかった、そうする」 私は何だか病気の男親とまだ小さな凛ちゃんが心配でつい相原さんに 『困ったことがあれば連絡下さい』 とメルアドを残して帰った。 帰り際病み上がりの彼は凛ちゃんを抱きかかえ、笑顔で 『ありがと、助かったよ』と見送ってくれた。 私は病人と小さな子供にはめっぽう弱く、帰り道涙が零れた。 こんなお涙頂戴、相原さん本人からしても笑われるのがオチだろう。 たまたま今病気で弱っているだけなのだ。 普段は健康でモーレツに働いている成人男性なのだから泣くほど 可哀想がられていると知ったらドン引きされるだろうな。 そう思うと今度は笑いが零れた。 悲しかったり可笑しかったり、少し疲れはあるものの私の胸の中は 何故か幸せで満ち足りていた。
109「知りませんよー。 適当に話を合わせただけなので」「酷いなー。 俺との付き合いを適当にするなんて。 雑過ぎて泣けてくるぅ」 ゲッ、付き合ってないし、これからも付き合う予定なんてないんだから適当で充分なんですぅ。「別に雑に接しているわけではなく、分別を持って接しているだけですから。 そう悲観しないで下さい」「掛居さん、俺とは分別持たなくていいから」「相原さん、私、今の仕事失いたくないので誰ともトラブル起こしたくないんです。 特に異性関係は。 ……なのでご理解下さい」「わかった。 理解はしたくないけど、取り敢えずマジしんどくなってきたから寝るわ」 私と父親が話をしていたのにいつの間にか私の隣で凛ちゃんが寝ていた。 私はそっと台所に戻ると流しに溢れている食器を片付けることにした。 それが終わると夕食用に具だくさんのコンソメスープを作り、具材は凛ちゃんが食べやすいように細かく切っておいた。 それから林檎ももう一つ剥いてカットし、タッパウェアーに入れた。 スーパーで買って食べる林檎は皮を剥いて切ってそのまま置いておくと色が変色するけれど、家から持参した無農薬・無肥料・無堆肥の自然栽培された林檎は変色せず味もフレッシュなままで美味しい。 凛ちゃんが喜んでくれるかな。 そしてそこのおじさんも……じゃなかった、相原さんも。 苦手だと思ってたけどクールな見た目とのギャップが激しく、子供っぽいキャラについ噴き出しそうになる。 芦田さんに教えてあげたいけど、変に誤解されてもあれだよねー、止めとこ~っと。 ふたりが寝た後、私は自分用に買っておいた菓子パン《クリームパン》と林檎を少し食べてから持参していた缶コーヒーでコーヒーTime. ふっと時間を調べたら15時を回っていた。 さてと、重くなった腰を上げて再度のシンク周りの片づけをしてと……。 洗い物をしながらこの後どうしようか、ということを考えた。 もうここまででいいような気もするけど相原さんから何時頃までいてほしいという点を聞き損ねてしまった。 あ~あ、私としたことが。 しようがないので彼が起きるまでいて、他に何かしてほしいことがあるかどうか聞いてから帰ることにしようと決めた。
108 「ね、真面目な話、どうして保育士の仕事してるの?」「ま、簡単に言うと芦田さんにスカウトされたから、かな」「ふ~ん、相馬から苦情来ないの?」「相馬さんにはその都度仕事の進捗状況を聞いて保育のほうに入ってるので大丈夫なんですよ~」「ね、相馬ってどう?」「どうとは?」「仕事振りとか?」「相馬さんとはバッチし上手くいってますよ」「……らしいよね、周りの話を聞いてると」「周りの話って?」「相馬ってさ、甘いマスクの高身長で癒し系だろ、掛居さんの前任者2人は相馬を好きになったけど相手にされず早々に辞めてしまったっていう噂なんだけどさ」「……みたいですね。 私もチラっと聞いたことあります。 でも1人目の女性《ひと》はどうなんだろう。 相馬さんは仕事上での相性が悪くて辞められたのかもって、話してましたけど」「相馬らしい見解だな。あいつは察知能力が低いからね」『……だって。自分はどうなのって突っ込み入れそうになる』 相原さんにお粥と林檎を出し、彼が食べている間に凛ちゃんにはお粥にだし汁と味噌、卵を投下したおじやを、そしてすりおろした林檎を食べさせる。 その後、凛ちゃんの歯磨きを終えると相原さんとは別の部屋で寝かしつけをした。 眠ってしまうまでの凛ちゃんの仕草がかわいくてほっぺをツンツンしてしまった。「あ~あ、俺も添い寝してくれる人がほしいなぁ~」「早く見つかるといいですね~」 ……って凛ちゃんのママはどこ行っちゃったんだろうってちょっと気にはなるけれど、個人情報を詮索するのは良くないものね、忘れよっと。「俺に奥さんがいないってどうしてわかった?」 そんなの知らないし、奥さんがいないなんてひと言も言ってないぃ。 なんなのよ、全く。 人が折角触れないでおいてあげようって話題を、自分から振ってくるなんて頭おかしいんじゃないの。 クールな見た目とのギャップに可笑しくなってくる。
107 相原さんのお宅は120戸ほどある8階建てのマンションだった。1階のオートロックのドアの前でインターホンを鳴らす。「こんにちは~、掛居です」インターホンを鳴らして声掛けをすると彼から『あぁ、鍵は開けてあるので部屋まで来たら勝手に入ってください』と言われる。 ********「こんにちは~、掛居ですお加減いかがでしょうか」私が挨拶をしながらドアを開けて家の中に入ると、私の訪問を待っていたかと思われる相原さんが奥の部屋から出て来た。「熱が出ちゃってね。 一人ならなんとかなるだろうけど、チビ助の面倒までとなるとちょっとキツくてね。 Help要請してしまったんだけどははっ、掛居さんが来るとは予想外だった。 なんかヘタレてるところ見られたくなかったなぁ~」『へーへー、そうですか。 私も来たくなかったけどもぉ~』と子供っぽく心の中で応戦。「芦田さんじゃなくてスミマセンね。 ま、私が来たからには小舟に乗ったつもりでいて下さいな」「プッ、大船じゃなくて小舟って言ってしまうところが掛居さんらしいよね」 何よぉー、知ったかぶりしちゃってからに。 私のこと知りもしないクセに……って、反撃は良くないわよね。 私の繰り出した寒《さ》っむ~いギャグに付き合ってくれただけなんだから。「ふふっ相原さん……ということで私、凛ちゃん見てるのでゆっくり横になります? それとも何か口に入れときます?」 今は積み木を舐めて『アウアウ』ご満悦な凛ちゃんを横目に彼に訊いてみた。「う~ん、じゃあ買ってきてもらったお粥だけ食べてから寝るわ」「林檎も剝きますね。林檎、嫌いじゃないですよね?」「好きだよン」 わざとなのか病気のせいなのか、鼻にかかったセクシーボイスで私をジトっと見つめ意味深な言い方をする相原さん。「ね、相原さん……」「ン?」「ほんとに熱あるんですかぁー? 仮病だったりしてー」「酷い言われようだなー、参った。 お粥と林檎食べたら大人しくするよ」「そうですね、病人は大人しくしてないとね。 さてと、準備しますね。少しお待ちくださぁ~い」
106 「そういうことなら相原さんはやっぱり掛居さんにお願いしたいわ。 実は……掛居さんだから話すけど、私はカッコイイ男性《ひと》は緊張しちゃって駄目なのよー。 おばさんが何言ってんだーって笑われそうだけど。 そんなだからこの年になっても未だ独身なんだけどね」「芦田さん、私は笑いません。 私も相手が素敵な男性《ひと》だと同じです。 緊張しますもん」 相手に合わせて? 調子のいいことを言いながら自分自身に問いかけてみる。 私は匠吾だけを見て生きてきたので素敵な男性なんて他の人に対して思ったことがないんだよね~。 多少いたのかもしれないけど、私にとっては普通の男性《ひと》としてしか接してないと思われ、素敵な男性だと緊張するという経験は……なかったわっ。 ただ相原さんの場合は特殊というか、かみ合わなくてあまり接触したくないのよね。 だけど芦田さんの乙女チックな気持ちもよく分かるのでしようがないなぁ~。「ありがと、掛居さん。 私がいい年をしてこんな恥ずかしいこと話したの初めて。 共感してもらえてうれしいっていうか……。 じゃあ、今回の相原さんのお宅訪問の詳細はメールで送らせてもらっていいかしら」「はい、大丈夫です」「メールで説明してある項目以外は本人の意向を聞いてもらってお手伝い進めてもらえばいいです」「はい、分かりました」 電話を切り、メールをチェック。 凛ちゃんのことが気に掛かり、私は大慌てで出掛ける準備をした。 訪問する前に頼まれているモノをどこかで買わなきゃ。 さて、Let’s go.
105「お待たせしました、掛居です」「休日でお休みのところ、ごめんなさいね」「いえ、大丈夫です。自宅訪問の件ですが行けます。 伺う時間とサポート内容、場所、それから滞在時間の目安など教えていただけますか」「有難いわ、助かります。 詳細は後からメールで送るわね。 掛居さんに担当してもらうのは相原さんなの。 場所は……」 私は『相原』という名前を聞いた途端、頭やら耳の機能が停止してしまったようで、芦田さんの話してる言葉が何も入ってこなかった。 いゃあ~、人を差別するというか、この場合自分の好き嫌いで選別してはいけないこととは分かっているものの、先月の彼とのエレベーターでの出来事を思えば、どんな顔をしてサポートに入れるというのだ。「もしもし?」「あの、芦田さん、できれば他の人と……つまり芦田さんが訪問する予定のお宅と替わっていただけないでしょうか」「……」「掛居さんは私が受け持つ人とは面識がないし、というのもあるし、ちょっと恥ずかしいんだけど言っちゃうわね。 私、独身でしょ、だから男性のお宅へ伺ってサポートっていうのは恥ずかしくて」 それを言うなら私も独身、しかも花も恥じらう? まだ20代ですってば。「あ、掛居さんも独身だけど相馬さんとも親しくしているって聞いてるし、男性に耐性あるんじゃないかと思って」 そんなこと誰に聞いたんですかぁ~、保育所勤務なのにぃ~、噂って怖いぃ~。「付き合ってるのよね?」「いえ、付き合ってません」 えっ、私ってばそんなことになってるの、知らなかったー。 相馬さんは知ってるのかしら。「でも親しくしてるのはほんとよね?」「個人的に親しくしてないつもりですが……。 そうですね、彼の仕事を手伝ってるので職場では親しくさせてもらってます」