66「これは私の見た感じの印象からなんですけど、一見爽やかで優しい雰囲気なので話しやすいのかなぁ~っていうイメージがあったんですけど、不思議な話……実際彼の前に出ると金縛りにでもかかったのかと思うほど上手く話せないんですよね。 こんな経験初めてで自分でそんな自分に吃驚ですよ。 仕事上の接点もほとんどないのでどうしようもないっていうか、親しくなって話をしてみたいって思ってるのにぜんぜん距離を詰められなくて、私の中ではどんどん雲の上の人になってしまってますねー。 それで彼の仕事を補佐する派遣の人が超絶羨ましかったんですけど……」 「私の前任者のことかしら?」「そうです、2人いました」 そう説明してくれたのは小暮さんだった。 遠野さんは相馬さんに淡い好意を持っているのかもしれないなと思った。 続けてまたまた小暮さんが語ってくれた。「相馬さんってそうですね。 結構話好きな面もあるようで、気さくっていうのはそうなのかもしれませんよね。 ふわふわっとしていて、マシュマロのようにポワワンってしていて、決してキツイところもないですし……う~んと、あっそうそう、少し掴みどころのないところがあるっていうのかな。 本人は決して意図的にそういう雰囲気を女子にいいように見られようとかっていう気持ちから計算して出しているわけではないんでしょうけど、この掴みどころのなさが、なかなか異性に対して吸引力半端ないんでしょうね~」 この話に乗っかかる形で今度は遠野さんが話を引き継いだ。「不思議なのは彼が自分とは別の誰かと話しているのを聞いていて『あっ、楽しそうだな。私も相馬さんとあんなふうに楽しく話せるようになりたい』って思うのに実際彼を目の前にすると楽しく話すっていうのが難しくて……」「そういうのって仕事なり趣味なりで同じ時間を過ごさないと難しいかもね。 私がもう少し相馬さんと親しくなれたらランチタイムに彼を呼んでみる?」「「わぁ~い!」」
67 「花さんがいてくれて話やすく話題を振ってもらえたら、相馬さんと話しやすくなるかも。遠野さんとその日を楽しみにしてますね」「あっ、でも掛居さん、私は別に相馬さんの彼女になろうとかっていうそういう野望は持ってませんので。 あくまでも目標は楽しくお話することです」「遠野さんの気持ちわかる。 私もそんな感じなので」「え――っ、そうなの? 相馬さんのこと2人とも狙ってないんだ」 ふたりの気持ちを聞いてガッカリしたのかほっとしたのか、自分でもよく分からない混線したような心持ちになった。 何故か? 責任のあるキューピット役になってカップルがまとまった時の喜びを味わうのか、はたまた失恋した時に慰めるという大役を担うのか……、カップルがまとまった時の喜びを味わうというようなことはまぁ、僭越過ぎるというものだけど、気軽に会話できる雰囲気を作ってあげて自分もみんなと楽しい時間を共有することになるのか……。 おっとっと、勇み足は控えなくちゃね。 あれこれ考え込んでいると「ここだけの話なんですけど……」と遠野さんから小声で話掛けられた。 「実は掛居さんの前任者というか、相馬さんの仕事を補佐してた前任者が2人いたんですけど2人とも1年足らずで辞めてるんですよね。 それを見ていて相馬さんの彼女になろうとするのは無謀ではなかろうかと思うわけですよ」「2人は相馬さんに振られて辞めたの?」 そう私が訊くと遠野さんと小暮さんの2人が首を横に振り「そこがどうなのか、神のみぞ知るというか、分かんないんですよー。だけど、なんとなくだけど……派遣の人たちが振られたのかなぁーって感じはしますけどね。 どちらも派遣で決められた期日まで勤めず家庭の事情ということで前倒しして辞めちゃってますから」『1人だけならまだしも2人続けてなので周りは掛居さんのこと、興味深々だと思いますよー』と、遠野も小暮も心の中で同じ想いを持っていたが、そこは……そこまでは言えないというか、言わずにいたのだった。
68 この日、花は自分と一緒に仕事をすることになった相馬綺世という人物がどう やら異性を惹きつけるフェロモンを出している所謂モテ男だということを知った。 顔立ちは言われてみればそこそこ整っていた……よね、と相馬の顔の造形を 思い返してみる。 あっ、背も高かったっけ。『親しくなったら一緒に話せるように誘うね』って言ったものの、自分も 仕事で係わるから業務内容のことで話を交わしているだけなので 遠野や小暮の立ち位置とさほど変わりないことに気付いた。 あぁ、安請け合いしたことが今更ながらに恥ずかしい。 でもまぁ、彼女たちの願いは付き合いたいとかっていう大きな野望じゃ ないので急がなくてもいいだろうし、とにかく自分は仕事面でちゃんと 補佐できるよう頑張ろう。 その内仕事を通して少しは親しくなれるだろう。 そうなったときに彼女たちに楽しく話せるよう、相馬との時間を セッティングすればいいだろうと花は考えた。 ◇ ◇ ◇ ◇◇相馬綺世の艱難《かんなん》 当時、29才で若手現場監督になり、事務仕事の補佐する人員を付けて もらえるようになった相馬の元へ派遣先からやって来たのは同じく29才 の槇村笙子《まきむらしょうこ》だった。 同じ学年ということでほっとしたのを記憶している。 仕事をする分には年齢の差はさほど重要ではない。 だが仕事を離れてちょっとした会話をするとなるとそこはやはり 共通の話題を振りやすいことにこしたことはないからだ。
69 自分の仕事を覚えてもらおうと相馬は一生懸命最初の1ヶ月かかりきりで 槇原にレクチャーした。 それに応えるように柔らかい物腰で大人しい感じの槇原は、時には 質問などをし、熱心に仕事を覚えようとしてくれた。 彼女が育ってくれてできる限り長期に亘り自分を補佐してくれたら こんな有難いことはないと、うれしく思っていたのに……。 ある日を境に槇原はミスを頻発するようになり『あれっ?』と 思うようなことが増え始めた。 自分としては怒るようなことはせず、丁寧にどうしてミスに繋がったのかを 説明し、気にしないようフォローしたつもりだった。 けれどその頃から気がつくと彼女とのやりとりで 『はい、いいえ、わかりました』 という短い言葉の遣り取りしかないことに気付いてしまう。 そしていつも悲し気な表情でいることにも。 気付いてしまうと 『もしかして、自分は避けられているのだろうか……』 そんなふうに思えてきて、相馬のほうも業務以外での声掛けがしずらく なってしまい、ますますふたりの距離が離れていった。 自分としては彼女に避けられるようなことをした覚えがなく、この先仕事を 一緒にやるのなら、どこかで一度ゆっくりと親交を深めるための場を作ったほう がいいのだろうなぁ、などと漠然とした思いでいたのだが、残念なことにその必要 はなくなったのである。 ◇ ◇ ◇ ◇ 本人から直接ではなく、上司から 『槇原さんが病気の家族を看護するために急ではあるが辞めることになった』 と聞かされたのだ。 それを聞いた時、相馬の反応はシンプルに『あちゃ~』だった。『あちゃ~』には、いろいろな想いが込められていた。 続けてもらいたいと思うからこそのあーでもない、こーでもない、の想いや葛藤もあったが、辞めてゆく人に何も届かないのだから、いや届けられないのだから、もはや……『何をか言わんや』の境地というものだ。 それだからそのあとには、盛大なため息しか出てこなかったのである。
70 登録している派遣会社からここ建築関係の企業に派遣されてきた29才という 中途半端な年齢の槇村笙子《まきむらしょうこ》が、どのような経緯でここに 流れ着いたのか。大学の単位不足が原因で留年してしまい、上手く就活に乗れず、 派遣社員として働いてきた。 これまで正規雇用の仕事も何度か面接にトライしてきたものの、 採用までには至らず。 三居建設(株)に入社する前の勤務先は居心地がよくて7年勤めた。 そちらは周りの男性たちがほとんど既婚者ばかりで出会いもなく 結婚の予定もないという状況で、あと1年もすれば30の大台に乗りそうな 勢いに焦りを持ち始めた頃、ちょうどよかったと言うべきかなんと言うべきか、 親切でやさしくしてくれた上司が異動になってしまい、新しい上司がやってきた。 そしてその上司とあとひとり、隣の課である工営二課の臨時社員のおばさまが 自分のいる工営一課に異動になった。 自分はその新しい上司とは何気に反りが合わず冷たくされ、また二回りは離れ ていそうな臨時社員おばさま、森悦子女子とは別々の課だった時には良好な関係 だったのだが同じ課になった途端、自分に冷たい態度をとるようになり、そのよ うな状況の中彼女は新しく異動で来たその上司とすぐに懇意になった……いや、 取り入ったというべきか! 自分はそれまで課に1人しかいない女性ということで周囲から甘やかされていた のだけれど、それは異動でいなくなった上司が可愛がってくれていたからなんだ とあとから思い知った。 新しくきた上司が自分に冷たいとそれまでやさしかった周囲が同じようによそよそしくなっていくのが手にとるように分かったからだ。 だって、自分は皆に何もしてない、今まで通り。 ただ上司に可愛がられなくなっただけ。 人間不信に陥りそうだった。 それですっぱりとその住宅サービス(株)を辞めることにした。 するとすぐに派遣会社から三居建設(株)を紹介され 『こちらの会社は将来正規雇用の道もあるので槇原さんどうでしょうか、 いいと思いますよ』 と勧められたのをきっかけにこちらに転職したのだった。
71 配属先では相馬さんという男性《ひと》の事務補佐をすることになった。 感じのいい男性《ひと》でおまけに同い年だったので、第一印象は 『良かったぁ~』だった。 そこから彼が私の気を引こうとしたりするような素振りもなく、普通に 事務的に接してくれたのに、私のほうがだんだん意識するようになり 大変だった。 ――――― 相馬という人物は目は少しタレ気味でくりんとした子供っぽさを 残しており、それに反してガタイのほうは背が高くほどよく細マッチョで スラリとしている。 声質はイケボ―で電話越しに聞いたなら、どれほどの女性を虜にしてしま うだろうか、というほど良い声帯を持っていた。――――― 相馬さんの隣に私の席が置かれ、互いの仕事がスムースにいくよう配慮 されていたのだが、これが一層意識し始めると良くなかった? 気になる人と毎日顔を合わせ、業務上のこととはいえ言葉を交わすのだ。 周囲に恋ばなのできる相手もおらず、ひとりで悶々と恋の罠でもないだろ うけど……恋という蜜の中へとズブズブと嵌り込み身動きが取れなくなった。 あまりに苦しくてお酒の力を借りたら平常心でいられるかもと、朝、 チューハイを飲んで出勤したこともあったけれど……駄目で、どうして こんなにも自分は自意識過剰体質なのかと泣きたくなった。 あれほど仕事頑張ろうって思っていたのに。 そんな状態だったから仕事も上の空になり失敗を何度か繰り返して しまった。 そんな時でも相馬さんは嫌そうな顔もしないし、素振りさえ見せなかった。
72 ただ気のせいか失敗が続いてから、以前よりも話し掛けられる回数が減ったかもしれない。 そう思い始めると居てもたっても居られなくて、夜になると涙が零れた。 毎日異性と一緒に仕事をするなんて初めてのことで、しかもその相手が自分から見ると神々しくて眩しい存在へと時間と共に大きく変化してしまい、そんな自分の感情を持て余しオロオロしてしまうばかり。 眩しい存在だと認識しているくせに親しくなりたいという想いが日に日に強くなり、反して現実はというと、彼とはお茶を誘われるどころかちょっとした雑談さえ交わせてなくて寂しさは募るばかり。 そんなふうに悲しい独り相撲をしていた槇原は妄想して苦しくなる毎日を手放す決心をするのだった。 家族の病気を理由に辞職を申し出て1週間後に逃げるようにして辞めた。「相馬さん、急に辞めることになってすみません」「あぁ、大丈夫だから。 派遣会社から次の人をすぐに紹介してもらえるみたいだから、心配しないで。おかあさんだったかな? 看病大変だろうけど頑張って下さい。 また派遣業務に戻ったら一緒に働く機会があるかもしれませんね。 その時はまたよろしく。今日までありがとうございました」「あ、こちらこそお世話になり、ありがとうございました」 最後までやさしい相馬に、槇原の胸はやさしくされたことへのうれしさが1割、自分らしさを発揮できないまま去って行くことへの寂しさが9割だった。 ◇ ◇ ◇ ◇ こうして相馬は補佐してくれる人を本格的な夏が来る前に失った。
73――相馬の事務補佐2人目派遣社員・魚谷理生仕事と恋の変遷―― しかしそこは大手派遣会社『事務派遣コスモス』のこと、1日たりとも空白を作ることなく槇原が実質出社しなくなった翌日には新しい人材が投入された。 槇原も清楚でなかなかに可憐な女性だったが、次に派遣されてきた魚谷理生《うおたにりお》は、これまた華やかで別の美しさを持ち合わせた女性だった。 それもそのはず前職の派遣先は大手ハウスメーカーで80人の応募者の中から企業の顔である受付嬢に選ばれたという強者だ。 1人目もそこそこの綺麗所で2人目が更に美しい派遣社員となると、周囲にちょっとしたどよめきが起こっても致し方のないことだろう。 正直ぬぼーっとした相馬もきれいな人だなぁ~と内心素直に喜んだ。 だが素直に喜んだだけだ。 ここが重要で周囲がどよめいた理由とは少し違っていた。 そう、残念ながら? 年頃の男子にありがちな下心はなかったのである。 ◇ ◇ ◇ ◇ ――― 二兎を追う者は一兎をも得ず ――― さて、大手ハウスメーカーの顔であり花形の受付嬢を射止めたというのに魚谷は何故にそちらを辞めて三居建設(株)に来ることになったのか。 魚谷は大学卒業後メガバンクへ一般職で入行した。 総合職も視野に入れていたものの、早く結婚して家庭に入りたかった魚谷はキャリアを積めるチャンスを自ら捨てた。 それでも社風は風通しがよく働きやすさと福利厚生が手厚いというのもあり寿退社するまでは働くつもりでいた。 けれど社内での恋愛でつまずき思いもよらず、3年で辞めることになってしまう。 モテるが故の苦悩というものだろうか!? 二股が原因だった。 早くどちらか1人に決めなければと思いつつもズルズルと付き合い続け、結局は両方からそっぽを向かれてしまい職場に居づらくなってしまったというのがことの顛末だった。
111 メールアドレスを残して帰ったものの、相原からは次の日の日曜Help要請が入らなかったので体調は上手く快復したのだろう。 今日は出社かな、週明け、そんなふうに相原のことを考えながらエレベーターに乗った。 自分のあとから2~3人乗って、ドアが閉まった。 振り返ると気に掛けていた人《相原》も乗り込んでいた。「あ……」「やぁ、おはよう」「おはようございます」 挨拶を返しつつ私は彼の顔色をチェックした。 うん、スーツマジックもあるのだろうけれど元気そうだよね。 土曜はジャージ姿で服装も本人もヨレヨレだったことを思えば嘘のように元の爽やか系ナイスガイになっている。『凛ちゃんのためにも元気でいてくださいね』 心の中でよけいな世話を焼きながら先に降りた彼の背中を見ながら同じフロアー目指して歩いた。 歩調を緩めた彼が少しだけ首を斜め後ろにして私に聞こえるように言った。「土曜はありがと。この通りなんとか復活できたよ」「……みたいですね。安心しました」 私たちの間にそれ以上の会話はなく、各々のデスクへと向かった。 昼休みにスマホを覗くと相原さんからメールが届いていた。「土曜のお礼がしたい。 残業のない日がいいので明日か明後日、いい日を教えて」「ありがとうございます。気にしなくていいのに……。 凛ちゃんのことはどうするんですか?」「デートの予定が決まれば姉に預けるよ」 お姉さんがいるんだ、相原さん。 じゃあこの間はお姉さんの方の都合が付かなかったのね、たぶん。「私はどちらでもいいのでお姉さんの都合のいい日に決めてもらって下さい」「じゃあ明日、俺の家の最寄り駅で19:30の待ち合わせでどう?」「分かりました。OKです」 すごい、私は明日相原さんとデートするらしい。 そんな他人事のような言い方が今の私には相応しいように思えた。
110 気が付くと、凛ちゃんの『あーぁー、うーぅー』まだ単語になってない 言葉で目覚めた。 ヤバイっ、つい凜ちゃんの側で眠りこけていたみたい。 私はそっと襖一枚隔てた隣室で寝ているはずの相原さんの様子を窺った。『良かったぁ~、ドンマイ。まだ寝てるよー』 私の失態は知られずに終わった。 私はなるべく音を立てないよう気をつけて凛ちゃんの子守をし、 彼が目覚めるのを待った。 しばらくして起きた気配があったので凛ちゃんを抱っこして近くに行く と、笑えるほど驚いた顔をするので困った。「えっえっ、掛居さんどーして……あっそっか、来てもらってたんだっけ。 寝ぼけてて失礼」 それから彼は外を見て言った。「もう真っ暗になっちゃったな。遅くまで引っ張ってごめん」「まだレトルト粥が2パック残ってるけど明日のこともありますし、 土鍋にお粥を炊いてから帰ろうかと思うので土鍋とお米お借りしていいですか?」「いやまぁ助かるけど、君帰るの遅くなるよ」「ある程度仕掛けて帰るので後は相原さんに火加減とか見といて いただけたらと……どうでしょ?」「わかった、そうする」 私は何だか病気の男親とまだ小さな凛ちゃんが心配でつい相原さんに 『困ったことがあれば連絡下さい』 とメルアドを残して帰った。 帰り際病み上がりの彼は凛ちゃんを抱きかかえ、笑顔で 『ありがと、助かったよ』と見送ってくれた。 私は病人と小さな子供にはめっぽう弱く、帰り道涙が零れた。 こんなお涙頂戴、相原さん本人からしても笑われるのがオチだろう。 たまたま今病気で弱っているだけなのだ。 普段は健康でモーレツに働いている成人男性なのだから泣くほど 可哀想がられていると知ったらドン引きされるだろうな。 そう思うと今度は笑いが零れた。 悲しかったり可笑しかったり、少し疲れはあるものの私の胸の中は 何故か幸せで満ち足りていた。
109「知りませんよー。 適当に話を合わせただけなので」「酷いなー。 俺との付き合いを適当にするなんて。 雑過ぎて泣けてくるぅ」 ゲッ、付き合ってないし、これからも付き合う予定なんてないんだから適当で充分なんですぅ。「別に雑に接しているわけではなく、分別を持って接しているだけですから。 そう悲観しないで下さい」「掛居さん、俺とは分別持たなくていいから」「相原さん、私、今の仕事失いたくないので誰ともトラブル起こしたくないんです。 特に異性関係は。 ……なのでご理解下さい」「わかった。 理解はしたくないけど、取り敢えずマジしんどくなってきたから寝るわ」 私と父親が話をしていたのにいつの間にか私の隣で凛ちゃんが寝ていた。 私はそっと台所に戻ると流しに溢れている食器を片付けることにした。 それが終わると夕食用に具だくさんのコンソメスープを作り、具材は凛ちゃんが食べやすいように細かく切っておいた。 それから林檎ももう一つ剥いてカットし、タッパウェアーに入れた。 スーパーで買って食べる林檎は皮を剥いて切ってそのまま置いておくと色が変色するけれど、家から持参した無農薬・無肥料・無堆肥の自然栽培された林檎は変色せず味もフレッシュなままで美味しい。 凛ちゃんが喜んでくれるかな。 そしてそこのおじさんも……じゃなかった、相原さんも。 苦手だと思ってたけどクールな見た目とのギャップが激しく、子供っぽいキャラについ噴き出しそうになる。 芦田さんに教えてあげたいけど、変に誤解されてもあれだよねー、止めとこ~っと。 ふたりが寝た後、私は自分用に買っておいた菓子パン《クリームパン》と林檎を少し食べてから持参していた缶コーヒーでコーヒーTime. ふっと時間を調べたら15時を回っていた。 さてと、重くなった腰を上げて再度のシンク周りの片づけをしてと……。 洗い物をしながらこの後どうしようか、ということを考えた。 もうここまででいいような気もするけど相原さんから何時頃までいてほしいという点を聞き損ねてしまった。 あ~あ、私としたことが。 しようがないので彼が起きるまでいて、他に何かしてほしいことがあるかどうか聞いてから帰ることにしようと決めた。
108 「ね、真面目な話、どうして保育士の仕事してるの?」「ま、簡単に言うと芦田さんにスカウトされたから、かな」「ふ~ん、相馬から苦情来ないの?」「相馬さんにはその都度仕事の進捗状況を聞いて保育のほうに入ってるので大丈夫なんですよ~」「ね、相馬ってどう?」「どうとは?」「仕事振りとか?」「相馬さんとはバッチし上手くいってますよ」「……らしいよね、周りの話を聞いてると」「周りの話って?」「相馬ってさ、甘いマスクの高身長で癒し系だろ、掛居さんの前任者2人は相馬を好きになったけど相手にされず早々に辞めてしまったっていう噂なんだけどさ」「……みたいですね。 私もチラっと聞いたことあります。 でも1人目の女性《ひと》はどうなんだろう。 相馬さんは仕事上での相性が悪くて辞められたのかもって、話してましたけど」「相馬らしい見解だな。あいつは察知能力が低いからね」『……だって。自分はどうなのって突っ込み入れそうになる』 相原さんにお粥と林檎を出し、彼が食べている間に凛ちゃんにはお粥にだし汁と味噌、卵を投下したおじやを、そしてすりおろした林檎を食べさせる。 その後、凛ちゃんの歯磨きを終えると相原さんとは別の部屋で寝かしつけをした。 眠ってしまうまでの凛ちゃんの仕草がかわいくてほっぺをツンツンしてしまった。「あ~あ、俺も添い寝してくれる人がほしいなぁ~」「早く見つかるといいですね~」 ……って凛ちゃんのママはどこ行っちゃったんだろうってちょっと気にはなるけれど、個人情報を詮索するのは良くないものね、忘れよっと。「俺に奥さんがいないってどうしてわかった?」 そんなの知らないし、奥さんがいないなんてひと言も言ってないぃ。 なんなのよ、全く。 人が折角触れないでおいてあげようって話題を、自分から振ってくるなんて頭おかしいんじゃないの。 クールな見た目とのギャップに可笑しくなってくる。
107 相原さんのお宅は120戸ほどある8階建てのマンションだった。1階のオートロックのドアの前でインターホンを鳴らす。「こんにちは~、掛居です」インターホンを鳴らして声掛けをすると彼から『あぁ、鍵は開けてあるので部屋まで来たら勝手に入ってください』と言われる。 ********「こんにちは~、掛居ですお加減いかがでしょうか」私が挨拶をしながらドアを開けて家の中に入ると、私の訪問を待っていたかと思われる相原さんが奥の部屋から出て来た。「熱が出ちゃってね。 一人ならなんとかなるだろうけど、チビ助の面倒までとなるとちょっとキツくてね。 Help要請してしまったんだけどははっ、掛居さんが来るとは予想外だった。 なんかヘタレてるところ見られたくなかったなぁ~」『へーへー、そうですか。 私も来たくなかったけどもぉ~』と子供っぽく心の中で応戦。「芦田さんじゃなくてスミマセンね。 ま、私が来たからには小舟に乗ったつもりでいて下さいな」「プッ、大船じゃなくて小舟って言ってしまうところが掛居さんらしいよね」 何よぉー、知ったかぶりしちゃってからに。 私のこと知りもしないクセに……って、反撃は良くないわよね。 私の繰り出した寒《さ》っむ~いギャグに付き合ってくれただけなんだから。「ふふっ相原さん……ということで私、凛ちゃん見てるのでゆっくり横になります? それとも何か口に入れときます?」 今は積み木を舐めて『アウアウ』ご満悦な凛ちゃんを横目に彼に訊いてみた。「う~ん、じゃあ買ってきてもらったお粥だけ食べてから寝るわ」「林檎も剝きますね。林檎、嫌いじゃないですよね?」「好きだよン」 わざとなのか病気のせいなのか、鼻にかかったセクシーボイスで私をジトっと見つめ意味深な言い方をする相原さん。「ね、相原さん……」「ン?」「ほんとに熱あるんですかぁー? 仮病だったりしてー」「酷い言われようだなー、参った。 お粥と林檎食べたら大人しくするよ」「そうですね、病人は大人しくしてないとね。 さてと、準備しますね。少しお待ちくださぁ~い」
106 「そういうことなら相原さんはやっぱり掛居さんにお願いしたいわ。 実は……掛居さんだから話すけど、私はカッコイイ男性《ひと》は緊張しちゃって駄目なのよー。 おばさんが何言ってんだーって笑われそうだけど。 そんなだからこの年になっても未だ独身なんだけどね」「芦田さん、私は笑いません。 私も相手が素敵な男性《ひと》だと同じです。 緊張しますもん」 相手に合わせて? 調子のいいことを言いながら自分自身に問いかけてみる。 私は匠吾だけを見て生きてきたので素敵な男性なんて他の人に対して思ったことがないんだよね~。 多少いたのかもしれないけど、私にとっては普通の男性《ひと》としてしか接してないと思われ、素敵な男性だと緊張するという経験は……なかったわっ。 ただ相原さんの場合は特殊というか、かみ合わなくてあまり接触したくないのよね。 だけど芦田さんの乙女チックな気持ちもよく分かるのでしようがないなぁ~。「ありがと、掛居さん。 私がいい年をしてこんな恥ずかしいこと話したの初めて。 共感してもらえてうれしいっていうか……。 じゃあ、今回の相原さんのお宅訪問の詳細はメールで送らせてもらっていいかしら」「はい、大丈夫です」「メールで説明してある項目以外は本人の意向を聞いてもらってお手伝い進めてもらえばいいです」「はい、分かりました」 電話を切り、メールをチェック。 凛ちゃんのことが気に掛かり、私は大慌てで出掛ける準備をした。 訪問する前に頼まれているモノをどこかで買わなきゃ。 さて、Let’s go.
105「お待たせしました、掛居です」「休日でお休みのところ、ごめんなさいね」「いえ、大丈夫です。自宅訪問の件ですが行けます。 伺う時間とサポート内容、場所、それから滞在時間の目安など教えていただけますか」「有難いわ、助かります。 詳細は後からメールで送るわね。 掛居さんに担当してもらうのは相原さんなの。 場所は……」 私は『相原』という名前を聞いた途端、頭やら耳の機能が停止してしまったようで、芦田さんの話してる言葉が何も入ってこなかった。 いゃあ~、人を差別するというか、この場合自分の好き嫌いで選別してはいけないこととは分かっているものの、先月の彼とのエレベーターでの出来事を思えば、どんな顔をしてサポートに入れるというのだ。「もしもし?」「あの、芦田さん、できれば他の人と……つまり芦田さんが訪問する予定のお宅と替わっていただけないでしょうか」「……」「掛居さんは私が受け持つ人とは面識がないし、というのもあるし、ちょっと恥ずかしいんだけど言っちゃうわね。 私、独身でしょ、だから男性のお宅へ伺ってサポートっていうのは恥ずかしくて」 それを言うなら私も独身、しかも花も恥じらう? まだ20代ですってば。「あ、掛居さんも独身だけど相馬さんとも親しくしているって聞いてるし、男性に耐性あるんじゃないかと思って」 そんなこと誰に聞いたんですかぁ~、保育所勤務なのにぃ~、噂って怖いぃ~。「付き合ってるのよね?」「いえ、付き合ってません」 えっ、私ってばそんなことになってるの、知らなかったー。 相馬さんは知ってるのかしら。「でも親しくしてるのはほんとよね?」「個人的に親しくしてないつもりですが……。 そうですね、彼の仕事を手伝ってるので職場では親しくさせてもらってます」
104 夜間保育に係わるようになって3ヶ月目、秋も一段と深まり時に寒さが身に染みる季節になってきた。 あぁ、仕方がない、重い腰を上げる時がやってきたのだ。 本格的に冬物の衣類を収納ケースから取り出し、クローゼットに吊るさないとなぁ~などと花が休日の予定をぼぉ~っと考えながらまったりと寝起きのミルクティーで身体を暖めているところへ、芦田からの1通のメールが届く。 三居建設(株)の子育て支援はほんとに手厚い支援体制になっていて、子たちの親が病気になった時には保育士の手を必要としている場合、自宅訪問をしてサポートしてくれるのだとか。 芦田さんからの連絡はうちの会社ではそのような環境が整っていることの説明と今回正規雇用の保育士2人に対してHelp要請が3件入ってしまい、大変申し訳ないが可能な限り3人目のサポートに入ってほしいというものだった。 メールを読んだなら芦田さんまで電話してほしいと書かれてある。 サポート支援のことなんて今初めて聞いた。 おじいちゃんは知っているだろうか。 誰がこんなすごい制度を提案し作ったのだろう。 素晴らし過ぎるぅ~。 だけどしばし待たれよ。 私って元々保育所にいない人材でしょ。 今までは今回のようなシチュエーションはなく、無事上手く仕事が回っていたのかしら。 自分がサポーターとして社員のお宅へ出張って行けるのか行けないのか……迫られているというのにそんなふうな今まではどうしていたのだろう、なんてことばかり考えが過るのだった。 気が付くと15分ほど経過していた。 いけないっ……私は急いで芦田さんに電話を掛けた。
103 目の前の女は俺の問い掛けには答えず、涙をためた目を見開いて穴の開くほどじっと俺を見ている。 ここで俺は大人げないことをしている自分の所業に気が付き、恥ずかしくなった。 そうだ、なんでこんなに彼女のことを構うんだ。 相馬の彼女だというのに。 自分の愚行にどっと疲れを覚えた。 ボタンから俺の指が離れ扉が開いた途端、スルリと彼女は俺の前からすり抜けて行った。相原清史郎《あいはらせいしろう》は周りから見られているイメージとは180℃違っていてウブで自分に自信のない人間だった。 そんな彼は女性に対しては中身重視。 好きになった相手とは絶対遊びで付き合えない。 相原は当初、相馬付のサポーターとして担当に着任した若くてそこそこ可愛い女子社員を見るにつけ、ご多分に洩れず多少の羨ましさを感じていた。 しかし、来る派遣社員、派遣社員、二人共長続きせずあれよあれよという間に辞めてしまい、女子社員と一緒に仕事をするというのは予想以上に難しいものなのだという認識を強くした。 彼女たちが辞めていった理由として周囲から漏れ伝わってきたのはモテ男相馬に恋心を抱いて玉砕したから、というものだった。 それ故、おばさん《おじさん》気質で周囲と同じようについ3番目に着任した掛居花の言動、つまり様子をそれとなく気にするようになっていた。 そんなふうに野次馬根性で気にかけていた女性《ひと》が娘の保育所に現れたものだからつい、興味を覚えたのだ。全く繋がりのなかった立場から細い糸で彼女と繋がれたのだから多少気持ちが浮ついてもしようがないだろう。 これは日常会話くらい話せるようにならなくてはと声を掛けるも、滑ってばかりのようで掛居から余り良い反応を得られず、普通に話せる間柄になるのには万里の長城(北海道から沖縄まで日本列島をぐるりと囲む距離)ほどもの距離があるのを感じ、寂しく思った。 そしてスマートに成り切れない自分に対して臍《ほぞ》を嚙む思いだった。