40 私は妹の言い訳という名の説明を聞きながら思った。 今まで特に仲の良い姉妹でもなかったけれど、妹の口から 罪悪感など微塵もなさげに吐き出される言葉に衝撃が走り、 薄気味悪さを感じた。 メンタルが普通じゃない。 両親も妹も、皆頭おかしい。 3人とはとてもじゃないけれど建設的な話し合いなんて望めそうもないし、したとしても徒労に終わるのが目に見えてる。 この時私の胸の中に沸き上がった感情、それは『許さない』という 強い思い。 だが『許さない』という負の感情に気持ちを持っていかれるのも癪に障る ほど取るに足らないつまらないもののように思えてきて 最後に行きついた感情は『あきれた』の4文字だった。 枯れ果てるほどの涙を流したわけでもないのに心情としては すでにその境地に入っていた。 涙も枯れ果てるほど泣いたあとの呆然自失というヤツだ。「精力旺盛ってよくも平気で人の恋人寝取っておいて下品なことが 言えるものね。 お父さんたちもあんたも考えてることがちゃんちゃらおかしいわよ」 「なんとでも……負け犬の遠吠えじゃん。ご愁傷様ぁ~」 妹の吐き出した言葉のなんと酷いこと。 私はこの今回の妹の妊娠騒動まで自分の家族は普通の家族だと思って 暮らしてきたわけだけど、異常性に気付いたのが今で良かったと思った。 あと4か月と少しで、来春には大学を卒業し、内定をもらってる企業に 就職も決まっている。 自宅から通うのか独り暮らしをするのか決めかねていたけれど、今や選択肢は1つしかない。 この時蘭子は家も家族も捨てるつもりでこの家を出て行こうと腹を括った。 そしてまた信也に最後の裏付け、すなわち玲子と本当にそんなことがあったのか確認せねばならないと思うのだった。
41◇信也と玲子 蘭子とは学生同士とはいえ真剣に交際していたつもりの信也だった。 だから蘭子の自宅に招かれ母親と妹に蘭子の恋人として紹介された時も、 きちんと臆することなく挨拶をした。 そんな信也だったから父親も加わっての次の挨拶は就職後になるだろうと 考えていた。 最初の訪問時に驚いたのは妹の玲子の美しさにだった。 毒気を纏った美しさでドキマギしてしまった。 花で例えるなら姉の蘭子は知的で物静かなスズランやカンパニュラと いったところだろうか。 反して妹の玲子は色鮮やかな赤いバラかシャクヤクか毒々しさを重ねて みると真っ赤な曼殊沙華。 玲子とのメイキングラブは期待を裏切らず随分楽しめた。 かなりの人数と行為をこなしてるみたいで体位もそうだが なかなかのテクニシャンだった。 あんなの経験したら楽しむのはいいだろうけど、まず妻にはできないな。 はっきり言って何人が出入りして使ったか分からない肉便器じゃん。 今日はどんな男をひっかけてヤッてんだろうなんて、一日中心配で 仕事なんて落ち着いてできねーよ。 玲子とは5回ほどホテルへ行った。 蘭子にバレずに済むだろうか。 運よくバレずに蘭子と結婚できたら、できるだけ早めの転勤異動願いを 出して玲子のいるところからう~んと遠くに離れないと……だ。 信也が6回めに玲子と会うことはなかった。 玲子とのアバンチュールは2か月間の5回の逢瀬で打ち切りにした。 いくらなんでもずるずる続けていたら蘭子にバレてしまうだろう。 所詮割り切った遊びなのだから。*◇信也と蘭子 島本家で玲子妊娠報告のあった翌日は金曜日でその日は蘭子も信也も 何コマか授業を取っており、いつものように食堂でふたりして 落ち合うことになっていた。 昨日まで将来を誓い合っていた信也がたった一日を隔てて 赤の他人よりも質《たち》の悪い人間と化してしまった。 玲子の話が真実ならば。
42 食堂へは蘭子のほうが先に着き、席を確保して待っていた。「よっ、今日は何にするかなぁ~」「私はカレーライスにしようかな」「あっ、じゃあ俺もそれにしよっ」 信也が2人分のカレーをテーブルまで持ってきてくれた。「午後から授業あったっけ?」「1コマあったけど今日は休講になったわ」「じゃあ、食事が終わったらちょっとその辺ブラブラしない?」「何かあった?」「うんっ、ちょっと話があるんだ」「ここで今話せないこと?」「うん、ここでは止めたほうがいいかな」「ヒントだけでも」「妹のことだよ」「ブッ……」 信也が口に運んでたカレーを吹いた。「どうしたの?」「ちょっと吃驚して吹いた。予想してなかったから」「そっか」 分かりやすい人。 1%信也を信じてみてもいいかなと考えていた残りのゲージ1%が吹き飛んだ。 信也の口の中にあったご飯粒のように。 話す前に浮気? 乗り替え? が100%だと分かり、冷静に話を持ちだせそうに思えた。 大学の校内にある樹木の周りはぐるりと一周お尻を乗せられるくらいの石積みで囲ってあって、学生のいない場所を見つけて私たちふたりはそこに座った。「ね、玲子のこと、もう知ってるんだよね?」「えー、何かな? その振りっておかしくない?」「うん、じゃあ直截的に訊くね。 玲子とヤッたってほんと?」 私の質問に信也の目が泳ぎ出した。「ヤッたって……何を?」「フーン、そうきたか。玲子のヤツ私をおちょくったのかぁー」 私の呟きを聞いて信也は更にキョドリ出した。「玲子ちゃんに遊ばれたんだ。 姉妹でも蘭子たちって性格ぜんぜん似てないよな」「容姿もね。 やっぱり派手できれいな玲子みたいなのが男心くすぐられるのかしら? だから信也も私から玲子に乗り替えたいって思ったりする?」「そんなこと考えたこともないしぃ~、玲子ちゃんは個性的だからさぁ~俺じゃぁ無理だな。 俺にはさ、やっぱり控えめでやさしい蘭子が似合ってるよ。 あぁこれって別に玲子ちゃんがどうこうっていう悪口じゃないぜ。 ほら、人には破れ鍋に綴じ蓋《われなべにとじぶた》っていうように相性ってあると思うからさ」「金城くん、玲子ね、妊娠したらしいよ。 何か話聞いてなぁ~い?」「えー、俺が? 普通そんなの聞かないでしょ……」「うん、そだ
43「妹のお腹の子は金城くんが父親で玲子はあなたのこと、自分が貰ったって吹いてるわ。 これって昨日の話。 玲子とあなた、もう何度かそういう行為をしてるんだってね。 片方だけの話を聞いただけじゃあ100%本当かどうか判断できないしそれであなたに確認したの。 これって私を困らせるための玲子の妄想? それとも玲子に乗り替えたいと思ってる? 昨日妹から妊娠とあなたとの関係を聞いて、ずっと一睡もできなくて……ほんとしんどい。 でもこんなことメールや電話で訊けるようなことでもないから金城くんと顔見ながら話をしなきゃと思って。 ほんとのことをちゃんと話してね。 嘘は止めてほしい。 玲子の言ってることが本当なのか嘘なのか」 私が話している間の金城くんを見てると悲しくなった。 金城くんの行動は早かった。 腰かけてた石積みから足元の地べたに素早く移動し「蘭子、ごめん。とぼけてごめん。裏切ってごめん。 玲子ちゃんの誘惑に負けて何度か付き合ってしまったけど、俺の好きなのは蘭子だけなんだ。 妊娠のことは今知った。 今月に入ってから玲子ちゃんからの連絡は全部スルーしてたからそんなことになってるなんて知らなかった」「玲子は産む気らしいよ。 両親も玲子とあなたを応援したいんだって。 私に身、引けって言ってるわ」「えっ……そんな。ご両親がそんなことを。 俺、玲子ちゃんとは結婚できないよ」「私にはどうにもできないわ。 ただ玲子がそれで引き下がるような子ならいいけど。 内定のこともあるし、玲子とよく話し合ったほうがいいと思う。じゃ、これで。 明日から大学でも一緒にいるのはもう止めたほうがいいと思う。 あなたはもう私の恋人じゃなくて玲子のお腹の中の子の父親だからね。 じゃあ、先に帰るね」 信也の口からちゃんと玲子とのことを聞けてかなりスッキリした。 スッキリったって暗く悲しい状況ありきの範疇でのスッキリに過ぎないけど。
44 あのペテン師め! 俺はZoomで事の次第を話し合おうと玲子に連絡を入れた。「お前、どういうつもり? これは私たちだけの秘密、お姉ちゃんには内緒ねって言ってただろ? しかも俺に一言も話さないで妊娠したとか言って俺たちのことバラすなんてサイテーだな、おまえ」「なぁに真剣になっちゃってんの、テンパリ過ぎよ。 ね、お姉ちゃん、泣いてた? 縋られた? 私を捨てないでぇ~って」 なんなんだ、コイツほんと。 ふざけた野郎だ。「泣いてもないし、縋られてもない」「え~なんだつまんないの」「妊娠って嘘だろ?」「……」「姉の恋人寝取ったことがそんなに楽しいのか? 蘭子を苦しめて楽しんでるのか?」「私の誘惑にホイホイ乗ってきたあんたにそんなこと言う資格ないっしょ」「お前のエロイ身体に負けてしまったのは一生の不覚だったわ。 言っとくが今後一切お前とは会わないし勿論付き合ったりもしない」「お姉ちゃんと結婚するつもり? そんなことさせないから」「ンとにお前、クソだな。 こんなことしておいて知られていないならともかくも、白日の下に晒されて蘭子に今まで通り付き合ってほしいなんて、そんな最低なこと言えないわ。 俺はそこまで腐ってない」「フーン、じゃあ私が結婚してあげる。自棄にならなくていいよ」「ごめんだね。 それと妊娠を盾に俺との結婚強要するならこちらにも考えがあるから。 お前の妊娠したっていう話が嘘なのは証明できるから。 俺は子供の頃の病気が原因で不妊だ。 妊娠が本当なら父親は別にいるってことになる」実は信也は幼少期におたふく風邪を引き、母親の思い込みから、以後ずっと『あんたはもう子供できないかも』と言われ続けてきたのだった。それは病院で検査しての決定事項でもなかったのだが……。「信也くん、不妊だなんてそれこそ詐欺じゃん。 私、信也くんの他にも付き合ってるヤツいるからそっちなのかもね」 玲子は吹いてるだけで本当のところ妊娠などしていないと思われた。 蘭子から俺という恋人を奪うのが目的だったのだろう。 ほんとに悪い女《ヤツ》だ。 蘭子もこんな破廉恥で節操なしの妹と良識のない両親を持って大変だな。 人の家庭の事情だから介入できないけど、今度のことは心から蘭子に申し訳ないことをしたと思う。 蘭子、本当にすまない。
45 具体的に『別れよう』ってお互いに言葉には出さなかったけれど、 大学校内で妹とのことを確認したあの日を境に私と信也は別れた。 それからしばらくして玲子の妊娠は想像妊娠で 実は妊娠してなかったというオチがついた。 玲子は自分と信也が身体の関係になっているということを 大々的に私に遠慮なく堂々と声を大にして言いたいがために 意図的に放った言葉だったのだろう。 こんな愚かな妹と両親が……どうして自分の家族なんだろう。 いつか時が来たら全員捨ててやる。 妹の悪意が100%分かった日に私はそう決意した。 * 玲子の謝罪編に時は進む * ◇玲子の謝罪 万事休すでどうしようもないところまで追い込まれた玲子は 姉、蘭子の苦言を聞き、やっと向阪 匠吾への謝罪を本気で 考えるようになった。 そう決めると今の今まで謝罪などということは考えたこともなかったのに 善は急げとばかりに翌日すぐに向阪匠吾に会ってほしいと連絡を取った。 電話は気が引けてメールで問い合せをした。 返事がきたのは一時間後だったので、その間返事がもらえなかったら どうしようなどとハラハラしながら玲子は待った。 待ち合わせ場所は中山手にある『にしむら珈琲店』でということになった。 初めての場所だったため、少し早めに家を出たので匠吾よりも早く着いた。 手持無沙汰だったせいか 『向阪くんは今どこに住んでるんだろう。 自宅に招かれたら住んでるところが分かったのになぁ~』 などと、分かったところでどうにもならないのに玲子はそんなふうなことを 思ったりしつつ待ち人を待った。 ほどなくして向阪匠吾は時間きっちりに玲子の前に現れた。 「忙しいところ、今日はありがとうございます」「で? 何で今頃謝罪したいなんて思ったわけ?」 「離婚して家を追い出されたのは自分のせいだって分かってるの。 だけど……離婚したあと、就職が決まっても何故かあとからなかったことに してほしいと言われ、就職が決まらなくて。 それで……、それからある男性と縁があってね、婚約したんだけどこれもあとになってから破談になったの」「俺が手を回してるとでも言いたいの?」 向阪くんが厳しい眼差しで言葉を口にした。
46 そして続けて問われた。「それより就職だとか、婚約しただとか言ってるけど子供はどうしたの? 堕ろしたの?」 私の中では妊娠なんて遥か昔のことで、訊かれた時、はぁ~いつの話だよなんて思ってしまった。 でも実際まだ妊婦だったら臨月間際なんだよね。 玲子はふたつまとめて問いかけられ、あたふたしてしまった。「離婚したあとすぐにお腹の子は流産しちゃったの。 え~っと、それからあなたが何かしたとかは思ってない。姉がね、言うには、掛居花さんのおじいさまが力のある方でそっちのほうから何か圧力がかけられてるんじゃないかって」 いいところまで突いてきてはいるが、花の祖父が俺の祖父でもあるということを知らずにいそうな玲子を見ていて、男と女のことになると、小賢しく立ち回れるのに、色事を離れるとまるっきし駄目ダメ人間なのだということが露見し、滑稽でならなかった。 しかし、玲子と違い姉の欄子という人は少しは頭が切れるようだ。 さて、その女性は、掛居花の祖父が俺の祖父でもあると知っていて玲子に教えてないのか、知らないのか……どうなんだろうなぁ。 玲子と姉の関係性によると思うが、玲子のような性悪女のことだから姉にも何か仕出かしてたりしてな。 それにしても玲子の話によると祖父茂にとことんやられているようで匠吾は内心驚いた。 フィクサーというのはどこまでも非道になれるのだと聞いてはいたが。 自分は曲がりなりにも一応玲子に引導を渡したことで落とし前をつけた形になっていることと、義父が盾になっていてくれるので首の皮一枚で繋がっているのかもしれないなと思うのだった。
47「まぁ、掛居家のことは俺にも詳しく分からないけれど、参考までに取り敢えずどうすればいいか、ということを話しておくよ。 掛居家に対して祖父母、ご両親、そして本人の花さんたちに向け弁護士を通して正式に俺と君との間には身体の関係もなければ交際すらしておらず、同僚として一緒に酒を飲んだだけであったことを証拠として書類に記載。 またふたりの間にさも肉体関係があったかのように花さんが受け取るであろう言葉を彼女に言い放ったのは自分の悪意からであったことなどを併せて記載すること」「弁護士を通すんですね。 分かりました。いろいろとお世話になります」殊勝に玲子は匠吾に礼を述べた。「これで旧財閥の総帥でもある花さんの祖父が君を許すかどうかは俺にも分からない。 だが君にはもうその道しかないだろう。 命が惜しければできることは全部したほうがいいだろうね。 君は自分の放った言葉で何人の人間を不幸にしたのか考えたこともないだろ? 俺は愛していた花とは結婚できず両親は俺のせいで財閥の跡取りになれなくなったよ。 その辺の地方貴族の跡取りとは訳が違う。 本来なら受け取れたはずの遺産も社会的地位に絶対的権力も父さんは血の繋がらない息子のせいで全て失くしたよ。 申し訳なくて申し訳なくて……。 母さんには肩身の狭い思いをさせてしまった。 玲子、俺はね、夜何度お前の首を絞めて殺そうと思ったかしれない。 お前を一生苦しめてやりたいよ」 ◇ ◇ ◇ ◇『愛していた花とは結婚できず』って、引き摺ってたのに私と結婚したんだ? 『両親は俺のせいで財閥の跡取りにはなれなくなった』 えっ、どういうこと? 向阪くんって元々財閥だったの? 花さんの家系も財閥でしょ? 元が同じ旧財閥だと知らない玲子にはこの謎解きは難し過ぎた。『父さんは血の繋がっていない息子のせいで……』えーっ、血が繋がってなかったのぉ~? 次々と知らない情報が匠吾の口からポンポン出て来てただただ驚くばかりの玲子だった。
117 遠野さんの分かってます発言はほんとに分かっていての発言なのか、 非常に怪しい。 最後の含み笑いは私を困惑させるのに十分な威力を備えていた。 周囲には隠して付き合っている、というストーリーが彼女の頭の中で 展開されている節がある。 何故なら相原さんと付き合っているのか、という問いかけはなかったからだ。 まぁあれだ、彼女は小説を書く人だから、一般人よりは妄想たくましい 可能性はあるよね。 相原さんとデートしたことなんて絶対知られないようにしなきゃ、だわ。 何気にこういうの疲れるぅ~。「掛居さん、私、夜間保育をして少しずつ相原さんとお近づきに なりたいんです。 それで芦田さんに夜間保育をやりたいってお願いしてみようかと 思ってるんですけど、立候補したら迷惑でしょうか……迷惑になります? ご迷惑ならこの方法は止めなきゃ駄目ですよね」 私は先ほどから遠野さんの言動に驚かされてばかりなんだけど、 今の話を聞いて更に『目玉ドコー』な感覚に陥った。 なんて言うんだろう、彼女のお伺いって控えめさを装った強引な お願いにしか聞こえなくて、少し嫌な感じがする。 元々こういうキャラの女性《ひと》だったのか、はたまた片思いが 高じた所以のものなのか。 よく考えてみたら私が持っていた遠野さんのイメージなんてたまに 社食で昼食を一緒に摂るだけの間柄で何を知っているというのだ。 恋する乙女は貪欲で猪突猛進で私は恋する乙女? の力強さにある意味 感服するところもあるけれど、自分に置き換えてみるに、とてもそんなふう な形での力強さは一生掛かっても持てそうにないや。
116「皆《みんな》モチモチしていて可愛かったぁ~、大満足ぅ~。 掛居さんが抱っこしてた子って凛ちゃんですよね」「あぁ、うん。でもどうして……」 遠野さん、どうして凛ちゃんのこと知ってるのだろう。 「実は2回ほどひとりで昼休みに子供たち、見に行ったことがあって 芦田さんから聞いてたんです。 夜間保育のことか休日のサポート保育のこととか。 私、ちょっと後悔してるんですよー」「えっ?」「その理由が姑息過ぎて余り大きな声では言えないんですけど……」「なになに?」 「小説書くのに忙しいのは本当で、昼休憩の時間も惜しいくらい小説に時間 を割きたいというのも本当ですけど、あのカッコいい相原さんの娘さんが あの保育所にいるということなら話は別です。 こんな大事を知らなかったとは、迂闊でしたぁ~。 今までの時間が悔やまれます。 私なんて掛居さんより先に入社していたというのに。 掛居さん、私の言わんとするところ、分かります?」 「ええ、まぁなんとなくは。 相原さん本人に興味があるってことかな?」「え~いっ、掛居さんだから思い切って話しちゃいますね」 いやっ、話さなくてもいいかな。 だって話を聞いてしまうとなんとなぁ~くだけど後々ややこしいことに 巻き込まれそうな気がするのは取り越し苦労というものかしらん。 「相馬さんも素敵だけど今までの経緯を見ていると、とても並みの人間には 太刀打ちできない感じがして、遠い星っていう感じだから恋のターゲットに ならないでしょ? それに今や掛居さんといい感じみたいだし。 私略奪系は駄目なんですよね」 はぁ~、遠野さんの話を聞いていて私は頭が痛くなってきた。大体、今まで誰それに好意があるなんていう話を出してきたことなんて なかったというのに、いきなりの想い人発言。 しかも相原さんてぇ~、どんな反応すればいいのか困る。「あの、相原さんのことは何も反応できないけども、相馬さんとのことに 関しては、私たち付き合ってないから……」 「分かってますってぇ。むふふ」
115 「じゃあここで。 すみません、送っていただいて。 今日はいろいろとありがとうございました」「いや、これしきのこと。 しかし……ひゃあ~、まじまじとこんな間近で見るのは初めてだけどすごいね、35階建てのマンション。 今度さ、凛も連れて行くからお部屋見学してみたいなぁ~」「いいですよ。片付けないといけないので少し先になりますけどご招待しますね」「ありがたや。一生住めない物件だから楽しみにしてるよ。じゃあ」「はい、また明日」 いやぁ~、なんか相原さんのペースに乗せられて自宅の公開まで……。 私たちの距離が一遍に縮まりそ。 自分でも吃驚。 こういうのもありなの? ありでいいの? 答えはいくら考えても出ないけど、いたずらに拒絶するのもどうなのとも思うし。 それにちゃんと相原さん私の思ったこと分かってくれてるみたいだったし 取り敢えずこの夜、私は自分の胸に訊いてみた。 私は相原さんに恋してる? 恋に落ちた? NOだと思……う。 私は匠吾に向けていた……向かっていた強い恋心を元に考え、答えを導き出した。 素敵な男性《ひと》だな、とは思うけど、知らないことが多すぎる。 恋に落ちてないと昨夜、自分に向けて確認したけれど昨夜に引き続き、翌日になっても自分の気持ちが何気にルンルンしていることに気付いて、やっぱり異性とのデートは知らず知らず心が弾むものなのだなと悟った。 ただこれ以上深く考えようとするのは止めておくことにした。 そして今の自分の気持ちを大事にしようと思うのだった。 それから仕事終わりの金曜日……遠野さん、小暮さんと一緒にランチをしたあとのこと。 小暮さんはいつものようにいそいそと浮かんだアイディアを図にするべくデスクへと戻って行った。 いつもなら2人してデスクに戻るはずの遠野さんから『久しぶりにチビっ子たちを見に行きませんか』と誘われ、私たちは社内保育所へと足を運んだ。 遠野さんはいろいろな子たちと触れ合い、子供たちとの時間を楽しんでいるようだった。 私はというと、私を見付けた凛ちゃんが真っ先に飛んで来たので私はずっと凛ちゃんを抱いたまま他の子たちと触れ合い、昼休み終了の時間まで保育所で過ごした。 そんな私たちの様子をにこやかに見守っている芦田さんの姿が見えた。 子供たちと
114「えーと、私と一緒に食事して怒ってくる恋人的存在の女性がいたりってことはないですね? あとでトラブルに巻き込まれるのは困るのでここは厳しくチェックさせていただきます」「掛居さん、子持ちなんて俺がどんだけ素敵オーラを纏《まと》っていても誰も本気で相手になんてしないから。そういう心配はないよ」「えーっ、そういうものなのかなぁ~。 私は凛ちゃんみたいな可愛い子、いても気にしませんけど……。 あっ、私ったら余計な一言でした。 恋人になりたいとかっていう意味じゃなくてですねその……」 私はやってしまったかも。 微妙にこの辺のことは発言を控えた方がいいレベルだったと気付いたが時すでに遅し。 本心から別に今、相原さんLoveで恋人になれたらいいのに、なんていう恋心から言ったのではなく、常々凛ちゃん好き好き病でつい、口から零れ落ちてしまったというか、零れ落としてしまったのだけれど、なんか変な誤解を招く一言だったよね。 嫌な冷や汗が流れそうになった。 きゃあ~、絶対勘違いさせちゃったよね。『お願い~相原さん、変に受け取らないでぇ~』「いやぁ~、恋愛抜きでも凛のことそんなふうに思ってもらえるなんてうれしいよ。じゃあ子持ち30代、希望あるかな」 「はい、相原さんならばっちり」「そんなふうに言ってもらってうれしいけど……」「けど?」「なかなか出会いの場がないからねー」「ほんとに。仕事ばかりで出会いないですよねー。 世の男女はどうやって結婚するのかしら? そうだ、一度結婚したことのある先輩、どうやって出会ったんですか?」「あー、うー、その話はまた今度ってことで」「楽しみぃー!」 なんだかんだ2人で話しているうちに私たちはいつの間にかマンションの前に着いていた。
113 相原さんとの初デートは音楽と美味しい食事、そして語らえる相手もいて思っていた以上に楽しい時間を過ごすことができた。 こんなに近距離で長時間、洒落た時間を共有したことがなかったので、朗らかに活き活きと話をする相原さんを見ていて不思議な感覚にとらわれた。 私はこれまで交際していない男性と一緒に食事をするという経験がなく、世の中には恋人ではない異性の同僚と一緒に食事をするという経験のある人ってどのくらいいるのだろう? なんて考えたりした。 もちろん相手のことが好きでデートするっていうのは分かるんだけどね。 まだまだ相原さんのことは知らないことだらけだけど、彼と話すのは楽しい。 彼を恋愛対象として見た場合、凛ちゃんのことはさして気にならない……かな。 だけど凛ちゃんママの関係はかなり気にしちゃうかなぁ~などと、少し後からオーダーしたワインをチビチビ飲みながらほろ酔い気分でそんなことを考えたりして、一生懸命話しかけてくれている相原さんの話を途中からスルーしていた。笑って相槌打ってごまかした。『ごめんなさぁ~い』「明日も仕事だから名残惜しいけどお開きとしますか!」「そうですね。今日は心地よい音楽に触れながら美味しいものをいただいて、ふふっ……相原さんのお話も聞けて楽しかったです」「そりゃあ良かった」 支払いを終え、私たちは店の外へ出た。「今日はご馳走さまでした。 でも休日のサポートは仕事なので次があるかは分かりませんけど、もう今日みたいな気遣いはなしでお願いします」「分かった。 休日サポートのお礼は今回だけにするよ。 さてと、家まで送って行くよ」「えっ、でもすぐなので」「一応、夜道で心配だから送らせてよ」「ありがとうございます。じゃあお言葉に甘えて」「俺たちってさ、お互いの家が近いみたいだし、月に1~2回、週末に食事しようよ。 俺、子持ちで普段飲みに行ったりできないからさ、可愛そうな奴だと思って誘われてやってくれない?」
112 お礼に、たぶんだが……何かご馳走してくれるらしいけどそれを彼は 『デート』と表現した。 シングルなのか既婚なのかは知らないけれど今でこそ子持ちパパだから デートする特定の相手がいるのかもどうかも分からないけど、独身だった頃 はあの見た目と積極的な性格を見るからになかなかな浮名を流していたので はなかろうか。 初めて社外でプライベートに会うのに『デート』という言葉をサラッと 使ったところを見ての私の感想だ。 私たちの初デート? は相原さんお勧めの駅前のカフェだった。 そこはジャズの生演奏が流れていてむちゃくちゃムーディーで恋人たちに もってこいの雰囲気があり、私には腰を下ろすのが躊躇われるほどだ。 お相手が素敵な男性《ひと》ではあるものの、残念ながら 恋人ではないから。 匠吾と付き合ってた時に巡り合いたかった……こんな素敵な夜を過ごせる お店。 昼間はどんな顔《店の様子》をしているのだろう。 駅前に立地していて自宅からも近いので次は平日の昼に来てみようかしら。 「俺たちラッキーだな」「えっ?」「何度か来たことあるけどジャズがスピーカーから流れていることはあって も生演奏は今日が初めてだからさ。うひょぉ~、やっぱ生はいいねー」「へぇ~、そうなんだ」 そっか、じゃあ平日来てもきっと生演奏はないだろうなー。 私たちはオーナー特製のピザと各々チーズのシンプルパスタと ツナときのこのパスタでボスカイオーラーというのを頼み、ジャズの演奏 を楽しんだ。 「掛居さんって家《うち》どの辺だっけ?」「言うタイミング逃してましたけど実は最寄り駅が相原さんと同じで ここから4~5分のところなの」 「まさか駅近のあの35階建てとか?」 ずばりそうなんだけど、相原さんの言い方を聞いていると『まさかね』 と思いながら訊いているのが分かる。 だって分譲で結構なお値段《価格》なのだ。 とてもその辺のサラリーマンやOLが買えるような物件じゃない。 本当のことを言うか適当な話でお茶を濁すか……どうしよう。「お金持ちの親戚が持っていて借りてるんです」「いいな、お金もちの親戚がいるなんて」 「まぁ……そうですね」
111 メールアドレスを残して帰ったものの、相原からは次の日の日曜Help要請が入らなかったので体調は上手く快復したのだろう。 今日は出社かな、週明け、そんなふうに相原のことを考えながらエレベーターに乗った。 自分のあとから2~3人乗って、ドアが閉まった。 振り返ると気に掛けていた人《相原》も乗り込んでいた。「あ……」「やぁ、おはよう」「おはようございます」 挨拶を返しつつ私は彼の顔色をチェックした。 うん、スーツマジックもあるのだろうけれど元気そうだよね。 土曜はジャージ姿で服装も本人もヨレヨレだったことを思えば嘘のように元の爽やか系ナイスガイになっている。『凛ちゃんのためにも元気でいてくださいね』 心の中でよけいな世話を焼きながら先に降りた彼の背中を見ながら同じフロアー目指して歩いた。 歩調を緩めた彼が少しだけ首を斜め後ろにして私に聞こえるように言った。「土曜はありがと。この通りなんとか復活できたよ」「……みたいですね。安心しました」 私たちの間にそれ以上の会話はなく、各々のデスクへと向かった。 昼休みにスマホを覗くと相原さんからメールが届いていた。「土曜のお礼がしたい。 残業のない日がいいので明日か明後日、いい日を教えて」「ありがとうございます。気にしなくていいのに……。 凛ちゃんのことはどうするんですか?」「デートの予定が決まれば姉に預けるよ」 お姉さんがいるんだ、相原さん。 じゃあこの間はお姉さんの方の都合が付かなかったのね、たぶん。「私はどちらでもいいのでお姉さんの都合のいい日に決めてもらって下さい」「じゃあ明日、俺の家の最寄り駅で19:30の待ち合わせでどう?」「分かりました。OKです」 すごい、私は明日相原さんとデートするらしい。 そんな他人事のような言い方が今の私には相応しいように思えた。
110 気が付くと、凛ちゃんの『あーぁー、うーぅー』まだ単語になってない 言葉で目覚めた。 ヤバイっ、つい凜ちゃんの側で眠りこけていたみたい。 私はそっと襖一枚隔てた隣室で寝ているはずの相原さんの様子を窺った。『良かったぁ~、ドンマイ。まだ寝てるよー』 私の失態は知られずに終わった。 私はなるべく音を立てないよう気をつけて凛ちゃんの子守をし、 彼が目覚めるのを待った。 しばらくして起きた気配があったので凛ちゃんを抱っこして近くに行く と、笑えるほど驚いた顔をするので困った。「えっえっ、掛居さんどーして……あっそっか、来てもらってたんだっけ。 寝ぼけてて失礼」 それから彼は外を見て言った。「もう真っ暗になっちゃったな。遅くまで引っ張ってごめん」「まだレトルト粥が2パック残ってるけど明日のこともありますし、 土鍋にお粥を炊いてから帰ろうかと思うので土鍋とお米お借りしていいですか?」「いやまぁ助かるけど、君帰るの遅くなるよ」「ある程度仕掛けて帰るので後は相原さんに火加減とか見といて いただけたらと……どうでしょ?」「わかった、そうする」 私は何だか病気の男親とまだ小さな凛ちゃんが心配でつい相原さんに 『困ったことがあれば連絡下さい』 とメルアドを残して帰った。 帰り際病み上がりの彼は凛ちゃんを抱きかかえ、笑顔で 『ありがと、助かったよ』と見送ってくれた。 私は病人と小さな子供にはめっぽう弱く、帰り道涙が零れた。 こんなお涙頂戴、相原さん本人からしても笑われるのがオチだろう。 たまたま今病気で弱っているだけなのだ。 普段は健康でモーレツに働いている成人男性なのだから泣くほど 可哀想がられていると知ったらドン引きされるだろうな。 そう思うと今度は笑いが零れた。 悲しかったり可笑しかったり、少し疲れはあるものの私の胸の中は 何故か幸せで満ち足りていた。
109「知りませんよー。 適当に話を合わせただけなので」「酷いなー。 俺との付き合いを適当にするなんて。 雑過ぎて泣けてくるぅ」 ゲッ、付き合ってないし、これからも付き合う予定なんてないんだから適当で充分なんですぅ。「別に雑に接しているわけではなく、分別を持って接しているだけですから。 そう悲観しないで下さい」「掛居さん、俺とは分別持たなくていいから」「相原さん、私、今の仕事失いたくないので誰ともトラブル起こしたくないんです。 特に異性関係は。 ……なのでご理解下さい」「わかった。 理解はしたくないけど、取り敢えずマジしんどくなってきたから寝るわ」 私と父親が話をしていたのにいつの間にか私の隣で凛ちゃんが寝ていた。 私はそっと台所に戻ると流しに溢れている食器を片付けることにした。 それが終わると夕食用に具だくさんのコンソメスープを作り、具材は凛ちゃんが食べやすいように細かく切っておいた。 それから林檎ももう一つ剥いてカットし、タッパウェアーに入れた。 スーパーで買って食べる林檎は皮を剥いて切ってそのまま置いておくと色が変色するけれど、家から持参した無農薬・無肥料・無堆肥の自然栽培された林檎は変色せず味もフレッシュなままで美味しい。 凛ちゃんが喜んでくれるかな。 そしてそこのおじさんも……じゃなかった、相原さんも。 苦手だと思ってたけどクールな見た目とのギャップが激しく、子供っぽいキャラについ噴き出しそうになる。 芦田さんに教えてあげたいけど、変に誤解されてもあれだよねー、止めとこ~っと。 ふたりが寝た後、私は自分用に買っておいた菓子パン《クリームパン》と林檎を少し食べてから持参していた缶コーヒーでコーヒーTime. ふっと時間を調べたら15時を回っていた。 さてと、重くなった腰を上げて再度のシンク周りの片づけをしてと……。 洗い物をしながらこの後どうしようか、ということを考えた。 もうここまででいいような気もするけど相原さんから何時頃までいてほしいという点を聞き損ねてしまった。 あ~あ、私としたことが。 しようがないので彼が起きるまでいて、他に何かしてほしいことがあるかどうか聞いてから帰ることにしようと決めた。