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第5話

作者: Te Anastasia
日が経っているが、絵理の体調が回復することはなかった。悪夢から弾かれたように、彼女はハッと目を覚ました。

薬の強い副作用のせいで、泥のような眠りに二時間も落ちてしまっていたのだ。——翔を幼稚園へ迎えに行くことすら忘れて。

「嘘……今、何時!?」壁掛け時計を見上げた瞬間、絵理の血の気がサッと引いた。「どうしよう、私……っ!翔くん、きっと一人で泣いてる……!」

絵理は弾かれたようにベッドから跳ね起きた。鉛のように重く、力の入らない身体に無理やり鞭を打つ。

もつれる足で階段を駆け下りる。しかし、一階へ辿り着くよりも早く、玄関の重厚なドアが乱暴に開け放たれた。

「ママぁ……っ、うわあああんっ!」

聞き慣れた翔の泣き叫ぶ声が響き渡り、絵理の心臓が大きく跳ねた。

「絵理さんっ!!」

耳をつんざくような、鋭くヒステリックな女の怒声。

「お義母様……、それに……」

絵理は呆然と立ち尽くした。そこにいたのは、義母の雅と、元妻の梨沙だった。梨沙の腕の中では、翔が必死に暴れて泣き叫んでいる。

……え?

絵理の思考が真っ白になる。昨日、瑛司は「梨沙が事故に遭った」と血相を変えて飛び出していったはずだ。なのに、目の前に立つ彼女には、かすり傷一つ見当たらないではないか!

絵理が混乱の波に呑まれている間にも、雅が鬼の形相で詰め寄ってきた。

「あなたという人は……ッ!孫が幼稚園の前でたった一人で泣いているというのに、家で呑気に寝ていたなんて!」

「ち、違うんです、お義母様……!怠けていたわけじゃなくて、どうしても体調が優れなくて……」

「言い訳はよして!」梨沙が冷酷な嘲笑を浮かべて遮った。「翔くんの面倒を見るのが嫌なら、最初からそう言えばいいじゃない!私の可愛い息子に、なんて酷い仕打ちを!」

あまりの理不尽な非難に、絵理は力なく首を横に振った。弁明する気力すら、今の彼女の身体には残されていない。

「梨沙さん、誤解よ……決して嘘をついているわけじゃなくて、薬を飲んだら意識が飛んでしまって……」

「寝ていたですって!?」雅が激高し、絵理の肩をドンッと突き飛ばした。翔から引き離すかのように。

「まさか……翔が自分の産んだ子じゃないからって、わざとこんな酷い扱いをしているんじゃないでしょうね!?」梨沙がヒステリックに喚き散らす。

絵理は必死に否定しようとした。彼女たちの言うことなど、何一つ事実ではないのだから。

だが、残酷な大人たちのやり取りの中で、翔だけが絵理に向かって小さな両手を必死に伸ばしていた。雅と梨沙が、その小さな身体を無理やり押さえつけている。

「ママ……ッ、やだあ、ママのところいくぅ!」翔は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、助けを求めるように絵理を呼んだ。

「梨沙さん、翔は彼女の子供じゃないわ!この女はただの厚かましい継母よ!」雅が絵理を指差し、毒づいた。

ポロポロと、絵理の瞳から涙がこぼれ落ちた。逃げ場のない絶望感が彼女を押し潰していく。

その時、外で車のクラクションが鋭く鳴り響いた。玄関から、瑛司が足早に入ってくる。漆黒の鋭い瞳が、修羅場と化した玄関の惨状を順番に射抜いた。

「……どういうことだ?」

瑛司の冷徹な声に、絵理はハッとして慌てて頬の涙を拭った。

瑛司の姿を認めた瞬間、梨沙は泣き叫ぶ翔を抱きかかえたまま、すり寄るように彼に近づいた。先程までの般若のような怒り顔は一瞬で消え失せ、痛ましく傷ついた悲劇の母親の顔へと変貌している。

「瑛司……っ!まさか、あなたの奥さんが私の子にこんな酷いことをするなんて思わなかったわ!自分の実の子じゃないからって、こんなのあんまりよ……!」

梨沙は突然わあっと泣き崩れ、悲痛な声で訴えかけた。

瑛司の視線が、小刻みに震えながら俯く絵理へと突き刺さった。彼にはまだ、事の顛末が分かっていない。

「絵理」

説明しろと言わんばかりの、低く威圧的な声。

「絵理さんはね、翔を幼稚園に置き去りにしたのよ!自分が家で昼寝をするためにね!もし、変な人間に拉致でもされていたらどうするつもりだったの!?誰が責任を取るのよ!」雅がまくし立てる。

「私とお義母様が行かなかったら、翔くんはあと何時間放置されていたか……あの子、三時間も一人ぼっちで待っていたのよ?瑛司、翔くんがどれほど怖くて心細かったか、あなたに分かる!?」

梨沙が涙ながらに追い討ちをかける。

二人の告発を聞くにつれ、瑛司の顔から一切の感情が消え去り、恐ろしいほどの怒りが形作られていった。彼の目が、ただ静かに嗚咽を漏らすことしかできない絵理を鋭く睨みつける。

「……本当なのか、絵理?」

ギリッと奥歯を噛み締める音が聞こえるほど、瑛司の顎の筋肉がこわばっていた。

絵理は涙で滲んだ瞳で瑛司を見つめ返した。ふらつく足で彼に歩み寄り、その手にすがるように触れた。

「……違うの、瑛司。二人の言うようなことじゃ……ないわ。本当に具合が悪くて……薬を飲んだら、どうしても起きられなくて。神様に誓って、嘘じゃないの……信じて……」

「嘘じゃないですって!?私たちが踏み込んだ時、あなたはピンピンしていたじゃないの!」雅が怒鳴りつける。

「ええ、私もこの目でしっかり見たわ!翔くんのことが疎ましいなら、こんな陰湿な虐めみたいなことしないでよ、絵理さん!」梨沙も嘘八百を並べ立て、涙を流して見せた。

バシッ!!

瑛司は、すがりつく絵理の手を容赦なく払い除けた。細く弱り切った絵理の身体は、勢い余って後ろへとよろめいた。瑛司の顔は夜叉のように歪み、固く握りしめた拳がわなわなと震えている。

「奴らの言うことは、全部事実なんだな!?お前は俺の息子を放置したんだな!!」

絵理の身体がビクッと跳ねた。彼女は両手で口元を覆い、必死に泣き声を殺した。

「本当に……病気なのよ、瑛司……。今まであなたに嘘をついたことなんて、一度もないじゃない……っ。二人が言っていることはデタラメよ!私が、翔くんにそんな酷いことするはずない……っ」

「私たちの息子、ですって!?ふざけないで!翔は梨沙さんと瑛司の子よ!あなたの子供じゃないわ!」雅がすかさず怒鳴り返した。

「面倒を見切れないなら、私が翔くんを育てるわ……まだ何も分からない小さな子供に、こんな仕打ちをするなんて……っ」梨沙がしゃくりあげながら、見え透いた三文芝居を続ける。

瑛司が絵理の肩を乱暴に掴み、憎悪に満ちた目で彼女を睨み下ろした。

「……お前がそこまで腐っていたとはな、絵理」

瑛司の口から吐き出された呪詛のような言葉に、絵理の喉がヒュッと鳴った。

「瑛司……」

瑛司は汚いものでも触ったかのように、パッと手を離した。そして、梨沙と雅の方を振り返り、氷のように冷たく言い放った。

「……翔を連れて行け」

その決定に、二人の女は満足げに嘲笑を浮かべた。絵理に対して勝利を誇示するような薄暗い笑みを残し、彼女たちは玄関を出ていく。

「ママぁーっ!ママ、たすけてっ、ママぁーっ!!」

絵理に向かって、もがくように両手を伸ばし、助けを求めて叫び続ける翔の姿だけが、網膜に焼き付いた。

玄関に残されたのは、絵理と瑛司の二人だけになった。絵理の嗚咽は、次第に静かな涙へと変わっていく。

たった今、自分のありったけの真実を口にしたというのに、この男は欠片も信じてくれなかった。その絶望的な事実が、絵理の心をに打ち砕いた。

「……ごめんなさい」絵理は、かすれきった声で呟いた。「ただ……私が翔くんを、自分の本当の子供のように愛していることだけは……信じてほしかった……」

背を向けたまま立ち尽くす瑛司が、肩越しに鋭い視線を投げかけてきた。唇は一直線に結ばれ、彼から立ち上る明確な殺気じみた怒りに、絵理は震え上がった。

彼が何よりも翔を愛していることを、絵理は痛いほど知っている。だからこそ、二人から吹き込まれた嘘のせいで、瑛司は絵理に対して取り返しのつかないほどの激怒を抱いてしまったのだ。

「今日、翔を危険に晒しておいて、よくそんな寝言が言えたな!」瑛司が吠えた。「……お前は越えてはならない一線を越えたんだぞ、結城絵理!」

言葉の刃で絵理を滅多刺しにした後、瑛司は弁明を聞く耳など一切持たず、彼女を残して足早に去っていった。

緊張の糸がプツリと切れ、絵理は崩れ落ちるように冷たい床にへたり込んだ。肩で荒い息を吐きながら、呼吸もままならないほど胸が痛む。

もう、流す涙すら枯れ果てていた。絵理は両手で顔を覆い、腹の底から込み上げる漆黒の絶望を必死に押し殺した。

「もう……耐えられない……」

床に座り込んだまま、絵理はワンピースの布地を千切れんばかりに握りしめた。

「私にはもう……この結婚を守り抜くことなんて、できない……っ!」

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