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第2話

Author: Te Anastasia
翌朝――

「翔に新しい服を着せておけ。俺と梨沙であいつを連れ出す」

今朝、翔の身支度を整えていた絵理の背中に、瑛司の低く威圧的な声が響いた。

外泊して朝帰りしたかと思えば、一階には梨沙を待たせている。

「……分かった。夕方には帰ってくるの?」

絵理は夫に尋ねた。

黒のジャケットに袖を通しながら、瑛司は答えた。

「ああ。梨沙が一日中、翔と遊べるようにな」

絵理は押し黙った。ここ最近、息が詰まるような日々が続いている。ただでさえ夫と過ごす時間は少ないというのに、これからは翔まで梨沙に取られ、孤独な時間が増えるのだろう。

「ママ……翔、どこ行くの?なんで新しいお洋服なの?」

その幼い声に、絵理は口元を綻ばせた。不満げに唇を尖らせている息子が、たまらなく愛おしい。

「今日はパパと一緒にお出かけよ。いい?……イタズラしちゃダメ、泣いちゃダメ、大声を出してもダメ。分かった?」

絵理は優しく言い聞かせ、小指を差し出した。

「いい子にしてるって、お約束できる?」

翔はパッと顔を輝かせ、絵理の小指に自分の小指を絡ませた。

「やくそく!」

身支度を終えた翔は、新しい服にお気に入りの赤い靴を履き、ベレー帽を被って一段と可愛らしかった。

「さあ、ママが抱っこしてあげる。下に行きましょうね」

絵理は翔のふっくらとした頬にキスをした。

翔はくすぐったそうに笑い声を上げた。

「うん、ママ!」

二人で部屋を出る。二階の廊下から見下ろすと、一階のホールで待ちわびている梨沙の姿が見えた。

彼女の姿を目にした瞬間、絵理の胸はざわついたが、すぐにその感情を押し殺した。どうであれ、梨沙は翔の産みの親なのだ。二人の時間を邪魔する権利など、自分にはない。

「ママ、なんであのおばさんがいるの!?翔、嫌だ!」

一階に降り立った途端、翔は露骨に顔をしかめて叫んだ。

絵理は困ったように微笑み、小さな背中を撫でた。

「翔くん、おばさんじゃないわ。翔くんの本当のママなのよ」

梨沙がすぐに近づいてきて、翔の茶色い髪を優しく撫でた。

「翔くん、ママと一緒に行きましょう。私が本当のママよ。翔くんを産んだママなの」と、梨沙は宥めるように言った。

「ぜったい嫌だ!翔に無理させないでよ!」

翔は絵理の腕の中で暴れ、足をバタバタさせた。

小さな両腕で絵理の首に力強くしがみつき、梨沙の誘いを泣き叫んで拒絶する。

癇癪を起こす継子を見かねて、絵理は翔を抱きしめたまま一歩後ずさりした。

「梨沙さん、少し翔くんを落ち着かせましょう……この子は元々、慣れない人には警戒心が強くて」

絵理は申し訳なさそうに説明した。

「でも私は母親よ、実の母親なの!」

梨沙は納得がいかない様子で声を荒らげた。

「その子をこっちへ渡して、絵理さん!あなたに私たち親子を引き離す権利なんてないわ!」

梨沙は強引だった。突然、絵理の腕の中から無理やり翔を奪い取ったのだ。

梨沙に抱えられた瞬間、翔の泣き叫ぶ声が響き渡った。小さな手で必死に梨沙の顔を押し退けようとする。

「やだあ!翔、このおばさん嫌だ!ママがいい!ママ助けてぇ、うわーん……ママぁ!」

翔は梨沙の腕の中で激しく抵抗した。

「翔、私が本当のママなのよ。その人じゃないわ!」

梨沙は怒りと苛立ちを隠せずに叫んだ。彼女は子供の扱いに全く慣れていない。

「ママがいいい、うわあああん、ママぁ……!」

翔の泣き声はさらに激しさを増す。

泣きじゃくる翔を見るに忍びず、絵理は梨沙から彼を奪い返した。

絵理の腕の中にすっぽりと収まると、翔の泣き声は次第に落ち着き始めた。小さな両手が、絵理の白いワンピースの背中をきつく握りしめている。

「大丈夫よ、ママが抱っこしてるからね」

絵理は耳元で囁き、翔をあやした。

翔はしゃくりあげながらも、徐々に静かになっていく。絵理は、忌々しそうに奥歯を噛み締めている梨沙の方へ視線を向けた。

「翔くんは少し機嫌を損ねやすいところがあるんです。怒らせないように、ゆっくり時間をかけないと」

絵理は言葉を選びながら、梨沙に理解を求めた。

梨沙の表情はみるみる険しくなった。自分の息子が、自分よりも絵理に懐いていることが許せないのだ。

「あなたはただの継母よ、絵理さん。自分が育てたからって、子供を独占できるなんて思わないで!」

梨沙が金切声を上げた。ちょうどその時、瑛司が姿を現したのだ。

「そんなつもりは……ただ――」

「どうした」

瑛司の鋭い声に、絵理はハッと振り返った。しかし梨沙の方が早かった。彼女は足早に瑛司に駆け寄ると、悲痛な顔をして元夫の腕にすがりついた。

「絵理さんが、私に翔を抱かせてくれないのよ、瑛司」

梨沙は泣きじゃくりながら訴えた。

「私は翔の実の母親なのに。この子にずっと会いたかったのに。それなのに、どうして……」

梨沙は口元を覆って泣き崩れた。一方の絵理は、梨沙の突然の芝居に、信じられない思いで目を丸くしていた。

「絵理」

瑛司が射抜くような鋭い視線を向ける。

絵理は慌てて首を横に振った。

「ち、違うわ、瑛司!翔くんが泣いて、梨沙さんのところへ行きたがらなかったの。私は翔くんを落ち着かせようとしただけで、引き離そうなんてしてない!」

「嘘よ!あなたが私から無理やり奪い取って、翔が私に懐かないように仕向けたんじゃない!」

梨沙は涙をこぼしながら捲し立てた。

「私、あなたに何か悪いことでもしたの?」

梨沙のあからさまな芝居に、絵理は完全に窮地に立たされた。そんな悪意など微塵もなかったというのに。

瑛司の黒い瞳が、怒りに燃えて妻を睨みつけた。彼は露骨な怒気を顔に浮かべ、絵理の腕から乱暴に翔を奪い取った。

絵理はすがりつくように夫の腕を掴んだ。

「瑛司、信じて!梨沙さんの言うようなこと、本当に何もしてない!」

彼女はパニックに陥りながら訴えた。

「お前には、俺の息子に対する権利など一切ない!くだらん言い訳はもうやめろ!」

瑛司は吐き捨てるように言うと、絵理の手を冷酷に振り払った。

「でも瑛司――」

夫が顔を背けた瞬間、絵理の言葉は空しく宙に消えた。瑛司は翔を抱え、さっさと家を出て行ってしまった。リビングには、絵理と梨沙だけが取り残された。

途端に、梨沙は片眉を上げ、絵理に向かって薄気味悪い嘲笑を浮かべた。

「ごめんなさいね、絵理さん。でも……あなたの居場所がなくなるのも時間の問題みたいね」

梨沙は低く、しかしはっきりとした声で囁いた。

「覚悟しておいた方がいいわ。瑛司も翔も、私の元へ戻ってくるんだから!」

絵理は涙で潤んだ瞳で彼女を睨みつけながら、ただ立ち尽くしていた。

梨沙はそれ以上何も言わなかった。くるりと背を向けると、軽く手を振って、絵理を一人残して部屋を出て行った。

「バイバイ、絵理さん!」

梨沙の明らかなあざけりの声が響く。

玄関のドアが重い音を立てて閉まった。絵理は梨沙の卑劣なやり口に激しい怒りを覚えた。よくもあんな芝居で、自分と瑛司の仲を裂くような真似ができるものだ!

しかし、瑛司は自分の言葉を欠片も信じてくれなかった。その事実が絵理の心を打ち砕き、彼女はソファに崩れ落ちた。両手で顔を覆い、どうにもならないこの絶望的な状況に、彼女は声を上げて泣き崩れた。

息苦しさに胸を叩き続けていた絵理は、ふと、鼻から生温かい血がツーっと流れ落ちるのを感じた。

「ち……血……」

震える指でそれを拭い、絵理は絶望の中で呟いた。

「どうして……」

途端に、激しい頭痛が彼女を襲う。鼻血は後から後から溢れ出し、止まる気配がない。

絵理はゆっくりと立ち上がろうとしたが、足がガクガクと震え、まともに力が入らなかった。

「だれか……!」

絵理は振り絞るような声で、家政婦を呼ぼうとした。

壁を伝うようによろめきながら歩き出した瞬間――視界が真っ暗に染まり、彼女の身体は崩れ落ちた。

ちょうどキッチンから出てきた家政婦が、床に倒れ伏している絵理を見つけて悲鳴を上げた。

「きゃあっ、奥様!!」

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