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第6話

Author: Te Anastasia
「奥様、本当にこれでよろしいのですね?」

絵理は静かに、しかし迷いのない瞳で頷いた。「ええ。この決断を後悔することはないわ」

屋敷の裏庭に面したテラス。絵理は、向かいに座る白髪の老紳士がテーブルに差し出した書類をじっと見つめていた。

栗原健三(くりはら けんぞう)弁護士。絵理が二日前に連絡を取り、秘密裏に重要書類の作成を依頼した、彼女が唯一信頼できる人物だ。

「……承知いたしました。奥様のこれからの人生が、穏やかなものであることを祈っております」

絵理は微かに微笑みを浮かべた。「ありがとう、栗原先生。私も、そう願っているわ」

「それでは、私はこれで失礼いたします」

グレースーツに身を包んだ老紳士は立ち上がり、革の鞄を手に取って静かにその場を後にした。

一人残された絵理は、テラスの椅子に腰掛けたまま、テーブルの上の書類を痩せ細った指先でそっと撫でた。

そよ風が、血の気のない蒼白な頬を撫でていく。絵理は静かに目を閉じた。もはや決心を覆すつもりは毛頭ない。どうせ自分には、残された時間などほとんどないのだから。

「奥様」傍らに控えていた家政婦が声をかけた。「旦那様がお帰りになりました。たった今、ご到着されたようです」

絵理は無言のままだった。

あの修羅場から数日、瑛司は屋敷に寄り付かなくなった。代わりに梨沙が我が物顔で屋敷を出入りするようになり、翔もすっかり彼女に懐き始めている。

その残酷な現実が、絵理の心を握り潰し、すべてを諦める決定打となったのだ。

絵理はゆっくりと立ち上がった。華奢な肩に羽織った黄色い花柄のショールをぎゅっと掻き合わせる。

「……瑛司は今、どこにいるの?」

「書斎にいらっしゃいます」

「……ありがとう」

神崎邸の豪奢な廊下を、絵理は静かに進んでいく。手には、先ほどの書類が強く握りしめられていた。

表情の一切抜け落ちた青白い顔。だが、絵理は残された僅かな生命力を振り絞り、毅然と夫に向き合おうとしていた。

書斎の重厚なオーク材のドアの前に立ち、ノックしようと手を持ち上げたその時——内側から漏れ聞こえてきた声に、絵理の動きはピタリと止まった。

「ねえ瑛司、翔くんのお誕生日は、さっき見せたホテルでお祝いしましょうね?」

中から聞こえてきたのは、梨沙の声だった。

「……好きにしろ」気だるげな瑛司の声。

「でも、絵理さんも呼ぶの?私、彼女のことはどうしても信じられないわ。あの子、翔くんのことなんてちっとも愛してないのよ。ただあなたに執着してるだけ。私たちの子供には少しも愛情を持っていないわ」

「どうであれ、絵理は俺の妻だ、梨沙」瑛司が鋭い声で釘を刺す。

「ええ、分かっているわ。でも——」

その言葉は、突然開かれたドアによって遮られた。部屋にいた二人の視線が、入り口に立つ絵理の姿に突き刺さる。

絵理はためらうことなく、夫のデスクへと歩み寄った。

「……瑛司。少しだけ時間をもらえる?」絵理は静かな瞳で尋ねた。

「絵理——」

「どうしても伝えたい大事なことがあるの」瑛司の言葉を遮り、絵理は淡々と告げた。「二人だけで話したいわ」

絵理は視線をスライドさせ、梨沙を無表情で見据えた。その澄んだ瞳には、もはや嫉妬も怯えも微塵も存在しない。

梨沙は口角を歪めて嘲笑すると、デスクに置いてあった自分のバッグを手に取った。

「言われなくても出て行くわよ、『奥様』!」これ見よがしな皮肉をぶつける。

濃紺のドレスを着た梨沙は、わざとらしい足音を立てて書斎を出て行った。

広い書斎には、瑛司と絵理だけが残された。絵理の深く透き通るような瞳が、夫の完璧な造作の顔を静かに見つめる。

絵理が一歩近づこうとした瞬間、瑛司が冷たく言い放った。「俺は忙しいんだ、絵理」

「ほんの少しでいいの……」

チッ、と苛立たしげな舌打ちが響く。瑛司は絵理を見ようともせず、ノートパソコンのキーボードを叩き続けている。

「話なら後にしろ。邪魔をするな」氷点下の声。

「出て行け。十分後に外で聞く!」あからさまに追い払おうとする。

その残酷な冷遇に、絵理の胸の中で、張り詰めていた最後の糸がプツリと切れた。

絵理は手元の書類を見つめると、それを静かにオーク材のデスクの上——瑛司のタイピングする手のすぐ脇にコトリと置いた。

男の冷ややかな瞳が、不意に置かれたその紙束に向けられる。次の瞬間、瑛司の手がピタリと止まり、信じられないものを見るように顔を上げた。

「……離婚協議書、だと!?」

数秒の沈黙。絵理は哀しみで満ちた瞳で夫を見つめ返した。「ええ……瑛司、もう終わりにしよう」

絵理の口から出た言葉に、瑛司の顎の筋肉がギリッと隆起し、明確な怒りがその端正な顔を歪めた。

瑛司は勢いよく立ち上がると、到底受け入れられないというように、鋭い目線で妻を睨み下ろした。

「この紙切れは一体何のつもりだ、絵理!」書類を掴み上げ、低い声で威圧する。

絵理は薄く、ひどく儚い笑みを浮かべた。

「この結婚は、最初からあなたが望んだものじゃなかった。

……翔くんのママ、あなたがずっと愛していた人が戻ってきたわ。あなたが待ち焦がれていたことでしょう?」

絵理は自分を射殺すような夫の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

「私がどれだけ足掻いても、あなたの心に私の居場所なんて、一生ないんだから」

「何ふざけたことを言っている!」瑛司が歯を剥き出しにして唸る。その指が、握りしめた離婚協議書をくしゃりと歪ませた。

「私……もう、この結婚に耐えられないの」絵理の声が微かに震えた。

「別れたら、私はS国へ帰るわ。故郷に戻って、向こうでおばあちゃんとおばさんと一緒に暮らす。もう二度と、あなたの目の前には現れない。だから……あなたは梨沙さんと翔くんと三人で、幸せに生きて……私抜きでね」

絵理は俯いた。涙で視界が滲む中、震える指先で左手の薬指から結婚指輪をゆっくりと外し、冷たいデスクの上に置いた。

「あなたの貴重な時間を、今までたくさん奪ってごめんなさい。でも、もう自由よ。あなたの人生を邪魔する目障りな女は、もういなくなるわ」

瑛司の顔に凄まじい怒気が立ち昇る。ギリギリと歯ぎしりをする音が響き、握りしめられた両手の中で、書類は無惨にクシャクシャに潰れていく。

「……この、愚かな女がッ!!」瑛司が咆哮し、デスクを激しく殴りつけた。ドンッという轟音が部屋を震わせる。

絵理は驚きで目を見張った。瑛司は狂乱したように手元の離婚協議書をビリビリと細かく引き裂き、空中に向かって怒り任せに投げ捨てたのだ。白い紙吹雪が、二人の間にひらひらと舞い落ちる。

「俺とそう簡単に縁が切れるとでも思っているのか!?」瑛司は毒を吐き出すように言い放ち、狂気じみた冷笑を漏らした。

次の瞬間、瑛司の大きな両手が伸び、絵理の華奢な両肩を乱暴に掴み上げた。

「あっ……瑛司……っ」

瑛司の唇が怒りで青白く引き結ばれ、その指先が骨を砕かんばかりに食い込んでくる。あまりにも鋭く恐ろしい眼光が、絵理の心臓を射抜いた。

「よく聞け……俺とお前の間に、離婚などという選択肢は永遠にない!!お前がどれだけ涙を流して懇願しようと、そんな戯言は絶対に許さないからな!!」

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