(泣いたら負け)明穂は目尻をグッと拭うと、リビングのチェストから障害者手帳、保険証書、実印、銀行通帳をガサガサと鞄に詰め込んだ。部屋を見回すと、結婚式で微笑む二人のフォトフレームが目に飛び込む。胸がズキンと痛んだ。明穂は無言で立ち上がり、震える手でそれを掴むと、大きく振りかぶって床に叩きつけた。(・・・・・・!)バキッとガラスが割れる音が響き明穂の頬に血の筋がついた。大智が2階からドタドタと駆け下りてきた。ガラスの破片の中で無表情に佇む明穂を見て、目を見開く。「おいっ!おまえ何してんだよ!」「幸せになれると思ったの・・・・・・」「動くな!」「幸せだと思ってたのに・・・・・」「動くなって!」パリパリとガラスを踏んだ明穂の足裏から血が滲む。大智は慌てて靴を履き、明穂に駆け寄るとその華奢な身体をグイッと抱き上げた。「幸せだと思ってたの・・・・・」大智は明穂を抱えたままソファにドサッと腰を下ろした。明穂は大智の胸にしがみつき、抑えきれず嗚咽を漏らした。大智の指先は一瞬戸惑ったが、すぐに明穂の背中に回り、力強く抱き締めた。「これから俺が幸せにしてやるから」「・・・・・」「泣くな、あんな奴のために泣くな」「うん」「泣いたら負けだ、泣くな」静かな部屋に、明穂の慟哭が響いた。「・・・・よし、これで全部積み終えたな」「ありがとう」「冬物の服、いいのか?」「また買い直す」「お、俺が買ってやるよ」「え、悪いよ」「何だよ、そんときゃ俺ら夫婦だろ!」大智の声に力がこもる。目を腫らした明穂は、力無く微笑んだ。心が少し軽くなった気がした。「ところで、これどうすんだ? いきなり全部持ってったら、おまえのとーちゃんマジで寝込んじまうぞ」「大丈夫、夕方お母さんと買い物行くみたいだから」「じゃ、その間に部屋に運ぶか」「うん」そ
翌日、大智は昼飯に素麺をズルズルと思い切り啜《すす》ると、明穂の部屋でドカッと胡座をかいた。長い前髪が目にかかる黒いTシャツにジーンズ姿の大智は、昔付き合ってた頃のやんちゃな笑顔そのままで、明穂の胸が思わずドキッと高鳴った。懐かしい空気が部屋に漂う。「なに、ギャップ萌えだろ」大智がニヤリと笑う。「あー」明穂は目を逸らした。「萌えたな」「否定はしないわ」「あー、おまえのことギュッと抱き締めてぇ」明穂はサッと一歩後ずさった。心臓がバクバクしてるのに、平静を装うのが精一杯だ。「昨夜のあれ、なんなのよ」「親父たちのショックを和らげるためにブチかましたんだよ」「寝込んだらしいじゃない!」「吉高の事知ったら、マジで脳卒中起こすな」「縁起でもないこと言わないで!」大智は新しいSDカードをデジタルカメラにカチッと差し込み、長い前髪をクシャッと掻き上げた。ちょっと真剣な目つきに変わる。「明穂」「なに」「その女に見覚えはないのか」「分からない」「だよなぁ」明穂はハッと気づいた。大事なことを言い忘れてた。「あっ!」「なんだよ、変な声出すなよ!」「紗央里さんに会ったことある!」「はぁ?見覚えねぇって言ったじゃねぇか!」「紗央里さんかどうかは分からないけど、ウチに来た女の人がいたの!」「なんだよそれ」「荷物持ってきたのよ」「荷物ぅ?」「お腹が切られたぬいぐるみが入ってた」「バ、バカじゃねぇのか!そんな大事なこと早く言えよ!」大智の目が一気に鋭くなった。明穂の言葉に動揺しながら、寝込んでいる父親の部屋に突進し、車の鍵をガサッと奪い取った。「行くぞ!」と叫び、明穂を後部座席に押し込むように乗せた。車が急発進する瞬間、明穂は窓の外を見つめながら、胸騒ぎが止まらないのを感じた。「大智、免許証持ってたんだ?」
大智は不倫の証拠となるSDカードをスーツの胸ポケットにしまい、「明日、新しいカードを持って来るから待ってろよ!」と軽快に言い残し、階段を下りて行った。向日葵の弁護士バッジが、階段の明かりにきらりと光った。「ご馳走さんでした!」「また来てね」 母親の声が温かい。「明日も来るわ」「あ、そう。お素麺で良い?」
「はぁ〜、食った食った! おばさんの飯は美味い!」大智の声が実家のリビングに響き、母親が笑顔で応じた。「そんな褒めてもなにも出ないわよ」「て、メロン持ってんじゃん」
大智が行方知れずになってしばらくした頃、吉高は深紅の薔薇を手に明穂の家に訪れた。「明穂ちゃん、僕と結婚してくれないかな」吉高のその言葉が、明穂の心に今も刺さっていた。あの時、彼女は吉高を選び、結婚した。だが、実はその間も大智は明穂に手紙を送り続けていた。届くはずの言葉は、吉高の手で物置の段ボールに封印されていた。
=この電話はお繋ぎする事は出来ません、電波の= 大智の携帯電話は繋がらなかった。受話器から流れる無機質なアナウンスが、明穂の胸に小さく刺さった。 「あら、繋がらなかったの」