誕生日のサプライズ

妊娠証明書を手に、木蓮は市役所の窓口で母子手帳を受け取った。職員の女性が柔らかな笑顔で「おめでとうございます」と言うと、木蓮は照れくさそうに「ありがとうございます」と答えた。二冊の可愛らしいピンクの手帳は、まるでこれから始まる新しい物語の表紙のようだった。手帳をバッグにそっとしまい、木蓮の心は喜びと期待でざわめいた。双子の命が自分の中で育っている………その実感が、胸の奥で温かく広がる。市役所のロビーを抜け、ガラス越しに見える三月の空が、いつもより澄んで見えた。

黒塗りのベントレーに戻ると、運転手の島田が後部座席のドアを恭しく開けた。彼は木蓮の妊娠を知り、額に汗を滲ませながら、普段以上に慎重にハンドルを握った。車が静かに走り出すと、木蓮は窓の外に流れる街並みを眺めながら、明日の誕生日を想像した。婚約者の和田将暉に、双子の赤ちゃんのことを伝える瞬間。きっと彼の穏やかな瞳が、驚きと喜びで輝くだろう。

「島田さん、ちょっと買い物がしたいの」

「わっ、私も付いて参ります！」

島田の声が弾み、木蓮はくすりと笑った。スーパーマーケットに着くと、木蓮は将暉のためのサプライズを頭に描いた。明日の誕生日、彼の大好きな赤ワインと、手作りのケーキで祝福しよう。ワインは将暉が愛してやまないロマネ・コンティを選ぶことにした。

棚に並ぶボトルを吟味しながら、木蓮は彼がワイングラスを傾ける姿を想像した。深紅の液体が揺れるたび、彼の笑顔が浮かぶ。島田はボトルを慎重に手に取り、まるで宝物のように買い物カートに乗せた。

「奥様、お身体を大切に」と心配そうに言う彼に、木蓮は小さく首を縦に振った。

「ケーキもお焼きになるんですか？」

島田が小麦粉の袋を屈んでカートに乗せると、木蓮は幸せそうに微笑んだ。

「ザッハトルテよ。オーストリアのチョコレートケーキなの。濃厚で、将暉さんが大好きなの」と、ショコラペーストの瓶を手に取った。

棚の前で、木蓮はふと立ち止まった。ザッハトルテのレシピを思い出しながら、かつて睡蓮と一緒にキッチンで笑い合った日々を思い出した。姉妹でクッキーを焼き、粉だらけになって笑ったあの時間。双子の赤ちゃんが生まれたら、どんなお菓子を一緒に作るだろう。ショコラの甘い香りが、未来の家族の笑顔と重なる。

「島田さんの奥様にも、今度プレゼントするわ」と木蓮が言うと、島田は照れくさそうに「恐縮です」と頭を下げた。

車に戻る途中、木蓮はバッグの中の母子手帳にそっと触れた。二冊の手帳は、まるで双子の赤ちゃんがすでに彼女に語りかけているようだった。明日の誕生日、将暉とどんな会話をしようか。双子の名前はどうしようか。ふと、遠くアメリカにいる睡蓮のことを思った。彼女にも、この温かい手帳を見せてあげたい。いつかまた、姉妹で笑い合える日を願って、木蓮はそっとお腹に手を当てた。

その晩、将暉は急な出張だと言って帰らなかった。電話越しの彼の声は、いつもより少し疲れているようだった。

「明日には戻るよ」

妊娠のことを今すぐ伝えたい気持ちが、ウズウズと湧き上がる。「我慢、我慢、明日のサプライズよ」と自分に言い聞かせ、木蓮はキッチンに立った。カウンターに並べた小麦粉、ショコラペースト、バター。ザッハトルテのレシピを思い出しながら、彼女はそっと微笑んだ。オーブンの予熱を始めると、キッチンに甘い香りが漂い始めた。木蓮は動くはずのない双子たちが、お腹の中で大喜びしている姿を想像した。小さな手でケーキをつまもうとする姿、チョコレートで口の周りを汚しながら笑う顔。

「いつかこの子たちにもケーキを作ってあげたいな。でも、小さな子にこの濃厚なザッハトルテはまだ早いわね」

つぶやきながら、彼女は小麦粉を丁寧に篩にかけた。白い粉がふわりと舞い、キッチンの明かりにきらめく。まるでこれから始まる新しい家族の時間が、ふんわりと形を成していくようだった。木蓮はこの瞬間、幸せの絶頂にいた。母子手帳を手に抱いたときの温もり、将暉の穏やかな笑顔を思い浮かべるだけで、心が満たされた。

明日の誕生日、食卓にはロマネ・コンティと手作りのケーキが並び、彼女は「パパになるよ」と囁く。きっと彼は驚き、抱きしめてくれるだろう。双子の名前を一緒に考え、どんな未来を描こうかと語り合うのだ。

ふと、遠くアメリカにいる睡蓮のことを思った。子どもの頃、姉妹でキッチンに立ち、クッキーを焼きながら笑い合ったあの夏の日。睡蓮にもこの喜びを伝えたい。いつか、彼女と再会し、双子の小さな手を握らせてあげたい。

シンクのそばに置いた母子手帳が、柔らかな光を反射している。木蓮はそっとそれに触れ、ピンクの手帳に刻まれた未来を想像した。

双子が走り回るリビング、将暉と三人で公園を散歩する午後。そんな幸せな情景が、まるで目の前に広がるようだった。彼女はショコラペーストを溶かしながら、鼻歌を口ずさんだ。キッチンの窓から見える夜空には、星がまたたいていた。

この時の木蓮は、深淵の未来が待っていることなど予想だにしなかった。幸せの甘い香りに包まれ、彼女の心はただ、温かな光に満ちていた。

木蓮の誕生日は、霧雨だった。朝から降り続く細やかな雨が、窓辺に薄い水滴を残していた。曇天は時が経つにつれ色濃くなり、夕方には黒い雨雲が空を覆った。やがて風が窓ガラスを揺らし、水滴が激しく打ち付ける。

「折角の誕生日なのに……」

木蓮はリビングのソファーに踞り、ため息をついた。美しい夕焼けも、瞬く星空も、厚い雲に隠された夕暮れ時。テーブルの上には、昨夜焼いたザッハトルテと、ロマネ・コンティのボトルが静かに待っている。だが、秒針の音が今日に限ってやけに耳に響く。リビングの時計は、ゆっくりと時を刻んでいた。将暉の帰りは、いつもより随分遅かった。出張の疲れか、それとも何か別の理由か。

木蓮はソファーのクッションを抱きしめ、栗色の長い巻き毛に顔を埋めた。

「…………まさか、誕生日だって忘れてないよね」

つぶやく声は、どこか不安げだ。バッグの中の母子手帳を思い出し、そっとお腹に手を当てる。双子の鼓動を想像すると、胸の奥が温かくなった。昨夜、ケーキを焼きながら夢見たサプライズ。将暉が驚き、笑顔で抱きしめてくれる瞬間を何度も頭に描いた。双子の名前を一緒に考える、幸せな夜になるはずだった。

玄関先で車が停まる音がした。木蓮はハッと顔を上げた。運転手の島田が車から降りる音、傘を広げる音、そして革靴の足音が近づいてくる。今夜はなぜか、すべての音が異様にはっきりと聞こえる。将暉の重い靴音に続き、軽やかな足音が重なった。

「誰？こんな時間に……」

時計はすでに午後十時を回っている。インターフォンの機械的な音が、リビングに冷たく響いた。「お帰りなさい、遅かったね」木蓮はドアに向かって声をかけ、立ち上がった。

だが、その瞬間、背筋が凍った。玄関の扉が開き、将暉の背後に立つ人影に目が釘付けになる。まるで鏡に映った自分を見ているような錯覚。薄茶の巻き髪が、雨に濡れて揺れている。

「………睡蓮！？」

将暉の背後に立っていたのは、紛れもなく双子の妹、睡蓮だった。二年ぶりの再会。彼女の瞳は、かつての明るさを失い、どこか遠い場所を映しているようだった。木蓮の心臓が激しく打ち、喜びと戸惑いが交錯した。なぜ今、なぜここに。

睡蓮の手には小さなスーツケース。雨に濡れたコートから滴る水が、玄関のタイルに小さな音を立てる。木蓮は一歩踏み出し、声を絞り出した。「睡蓮、どこにいたの？」だが、言葉は空気を震わせるだけで、答えはまだ遠くにあった。リビングの時計が、静かに秒針を刻み続けた。