FAZER LOGIN凌生に関する話題は、丸1週間SNSのトレンドから消えなかった。その後、凌生はしばらく姿を消した。どこにいるのか、誰も知らなかった。そんなある日の夕方、知らない番号から電話がかかってきた。「香月詩乃さんでしょうか。潮見野消防局の救助隊です。葉室凌生さんが海に飛び込むと言っていて、あなたに会いたいと繰り返しています。こちらでも説得を続けていますが、かなり不安定な状態です。可能であれば、こちらまで来ていただけませんか?」数秒黙った。「行きません」「人命に関わることです。どうかご協力を……」「それは救助隊の方にお任せします」そう言って、すぐに電話を切った。30分後。SNSのトレンド1位に上がったのは、【葉室凌生、「海に飛び込む」と宣言し騒動に】という話題だった。動画の中で、凌生は海岸の岩場に立っていた。海水はすでにふくらはぎまで達している。強い風にあおられ、体が何度もぐらついていた。そばでは救助隊員が必死に声をかけている。けれど凌生は聞こうともせず、カメラに向かって叫んだ。「詩乃!来てるのか!?来ないなら、俺、本当に飛び込むからな!」コメント欄には、凌生を気の毒がる声もあった。【ここまで追い詰められてるのに、元カノも少しくらい来てあげればいいのに】一方で、冷ややかな反応も多い。【これただの脅しじゃん。自業自得でしょ】伊佐見さんから、少し心配そうなメッセージが届いた。『もし本当に飛び込んだら、行きますか?』『死なないですよ』私はそう返した。『私が情にほだされるか、試してるだけです』そのまま、自分の仕事を続けた。さらに1時間ほど経つと、動画が更新された。今度は、凌生が本当に岩場から海へ飛び込んでいた。幸い、救助隊員がすぐ近くで待機していたため、ほどなく引き上げられた。それでも凌生は、助けられた途端に救助隊員へ食ってかかった。岸に倒れ込み、全身ずぶ濡れのまま叫んでいる。「なんで助けたんだよ!もう死なせてくれ!」しばらくすると、叫ぶ力もなくなったらしい。目からすっかり光が消えていた。「会いたい……俺はただ、詩乃に会いたいだけなんだ……あいつがいないと無理なんだよ。全部、昔みたいに戻したい……」今夜の騒ぎでつら
けがが治る頃には、私の生活もようやく元に戻り始めていた。ただ1つ、私の作品だけはまだ青燈芸能と凌生の手に残ったままだった。そのことを思うたび、悔しくて食事ものどを通らないことがあった。あの頃の私は、どうしてあそこまで恋に夢中になって、何も考えられなくなっていたのだろう。そんな私の気持ちを、伊佐見さんはいつも察してくれた。「詩乃さんの曲は、別の形でちゃんと戻ってきます。もう少しだけ待っていてください」「何か方法があるんですか?」気になって聞くと、伊佐見さんは少し悪そうに笑った。「問題を解決するときって、あまり行儀よくやりすぎないほうがいいこともあるんです」翌日。匿名のアカウントがSNSに長文を投稿し、凌生がこれまで「自作曲」として発表してきた楽曲の制作プロジェクトファイルを公開した。元のデモ音源には、はっきりと私の歌声が残っていた。【葉室凌生は曲なんて作れない。香月詩乃が作った曲のコードを少しいじって、自分名義の曲として出していた。会社の上層部も全部知っていた。でも「天才シンガーソングライター」という売り方のほうが人気が出るから、ずっと隠してきた】その投稿をきっかけに、ネットは一気に炎上した。少し前から、ひまりの暴露で凌生への反感はかなり高まっていた。そこへ今回の件が重なり、批判が一気に噴き出した。昔のインタビューまで掘り返された。凌生が「曲のインスピレーションは日常から生まれる」と語っている動画には、【詩乃の日常から、でしょ】そんなコメントが並んだ。以前、人気だけの歌手を「クリエイターとは呼べない」と批判していた映像まで見つかり、【自分が一番偽物だったじゃん】と皮肉られた。ファンは一気に離れていった。大手ファンアカウントの管理人まで活動休止を宣言し、ファンコミュニティも次々に閉鎖された。それでも擁護を続けるファンは、今度は一般のユーザーから容赦なく叩かれていた。スポンサー各社は凌生を起用した広告を次々に取り下げ、出演予定だった番組の告知からも名前が消えていく。これまで凌生を高く評価していた音楽評論家たちも、相次いで謝罪した。【彼のチームに騙されていました】伊佐見さんが、どこか嬉しそうに私を見る。「牧瀬くんのほうから僕を訪ねてきたんです。詩乃
「凌生。私が今までされたこと全部、指輪1つでなかったことにできると思ってるの?」ようやく口を開いた。自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。視界の端で、伊佐見さんの強張っていた顎からふっと力が抜けた。凌生は、信じられないという顔で私を見ていた。「伊佐見さんとは何もない。それに、私と凌生も、もう何の関係もないよ」いつの間にか周囲には人が集まり、空気も読まずにはやし立て始めた。「結婚しちゃえ!」「受けてあげなよ!」そんな声が飛び交う中でも、私は凌生の顔を立てるつもりはなかった。「もう、好きじゃない」一語一語、はっきりと告げる。「浮気したときから。私が立場を利用してあなたに迫ったなんて嘘をついたときから。私が地面に顔を踏みつけられていたのに、あなたがカラオケで別の女を抱いてたときから。もう、好きじゃなかった」凌生の顔から、完全に血の気が引いた。私は背を向け、伊佐見さんの車へ歩いていく。後ろで何かが地面に落ちる音がした。続いて、こらえきれなくなった凌生の泣き声が聞こえてくる。「行かないで……俺、お前がいないと無理なんだ……」振り返らなかった。その日のうちに、凌生のプロポーズ動画がSNSへ投稿された。風が強く、凌生の声は途切れ途切れにしか聞こえない。はっきり聞き取れたのは、最後のひと言だけだった。「俺と結婚してくれないか?」そのあとに映っていたのは、迷いもなく背を向けて立ち去る私の姿だった。人気アーティストが人前でプロポーズを断られたことで、凌生を気の毒がる声が集まった。皮肉なことに、それまで落ちていた世間からの好感度まで少し持ち直したらしい。【どれだけ素敵な人でも、恋愛では傷つくんだね。凌生見てたら、なんか自分まで吹っ切れた】【そろそろ新曲来そう。推しがこんな振られ方したら、絶対泣ける曲書くでしょ】【ちゃんと反省してプロポーズまでしたのに、それでも振るとか、この女ちょっと冷たすぎない?】コメントを1つずつ眺めながら、呆れるやらおかしいやら、何とも言えない気分になった。早くも凌生の次の「神曲」を期待して、新しい失恋ソングの誕生を喜んでいる人までいる。伊佐見さんが心配そうに私を見た。「大丈夫ですか?」どうしてそんなことを聞くのか分から
足をかばいながら、ゆっくり凌生の前まで歩いていった。「痩せたね」そのひと言で、凌生はすぐに目を赤くした。視線が、私の髪に止まる。腰まであったウェーブヘアは、あの日、凌生のファンに切られてしまった。今は耳にかかるくらいのショートヘアだ。顔にかかった髪を耳にかける。「伊佐見さんが腕のいい美容師を手配してくれたの。このショート、きれいに整えてもらって、すごく気に入ってる。短くしてみて分かった。前の長い髪って、見た目はきれいでも、すごく手がかかって大変だったんだなって。そう思わない?」凌生にも、何を言っているのか分かったらしい。首を横に振り、声を詰まらせた。「髪なら、また伸ばせる。全部、まだ元に戻せるから」「でも、私はもう元には戻りたくない」まっすぐ凌生を見た。「凌生。きれいに終わらせたいなら、私の曲の権利を返して。誰かに売るつもりはない。ただ、自分が作ったものに、自分の名前を残したいだけ」凌生は空を見上げた。涙をこらえているようだった。しばらくして、ようやく口を開く。「昔のお前は、そんなこと気にしなかっただろ。お前はいつも、『私が作ったものは凌生のものでもある』『凌生の成功は私の成功でもある』って言ってたじゃないか。お前の曲に込めた気持ちを歌えるのは、俺だけだって。なのに、なんで今さらそんなこと言うんだよ。あの伊佐見に何か吹き込まれたのか?あいつとはいつから付き合ってる?」思わず、ため息が出そうになった。まただ。自分が後ろ暗いからって、私まで同じ人間にしたがる。すぐに答えずにいると、凌生はそれを肯定だと思ったらしい。「じゃあ、これでおあいこってことでいいだろ?お互いのこと、もう責めるのはやめよう」そう言うと、しわだらけのスーツの内ポケットから、小さなベルベットの箱を取り出した。蓋を開ける。ダイヤの輝きが、目に刺さった。「詩乃……」凌生は片膝をついた。声はかすれ、ほとんど聞き取れない。「これ、最初からお前に渡すつもりで買ったんだ。ひまりが勝手に持っていった。俺の服を漁って見つけたんだ。あいつにはもう責任を取らせた。外で遊んだ相手は、誰も本気で俺を思ってくれなかった。俺のことを本当に大事にしてくれたのは、お前だけだった」最
退院の日は、雲ひとつない晴天だった。伊佐見さんに支えられながら歩いていると、隣ではまた、事件の進み具合を細かく説明してくれていた。「診断書はもう警察に提出してあります。被害届も受理されています。今後の手続きは弁護士にも相談してありますから、詩乃さんが1人で全部対応する必要はありません」ここまでしてもらって、私にできるのは何度も「ありがとう」と言うことくらいだった。けれど、私がそう口にするたび、伊佐見さんは少し困ったような顔をした。「詩乃さん、早く元気になってください。それが一番のお礼です」病院の正面玄関を出たところで、2人同時に足を止めた。階段の下に、凌生が立っていた。ずいぶん痩せている。しわだらけのスーツが、ひと回り細くなった体にぶかぶかに見えた。何日も着替えていないようだった。この数日、凌生も穏やかには過ごせなかったのだろう。SNSのトレンドは、凌生への批判で埋め尽くされていた。暴露したのは、ひまりだった。自分も被害者に見えるような書き方で、2人のメッセージのやり取りと、プライベートで撮った写真を一気に公開したのだ。スクショには、凌生がひまりに『かわいいよ』と甘い言葉を送り、『詩乃はただの社員だから、気にするな』と書いているやり取りまで残っていた。ひまりは、それにこう添えていた。【私も騙されていました。彼からはずっと、彼女はいないと聞かされていました】世間の反応は一気に変わった。それまで私が立場を利用して凌生に迫ったと叩いていた人たちも、今度は凌生へ矛先を向け始める。【ってことは、二股かけてたってこと?】【じゃあ前の動画も、自分で流して一般人をネットリンチさせたってこと?】【ふざけんな。高いギャラもらってる芸能人の都合のいい駒になるためにSNS見てるんじゃねーんだよ!】それでも凌生のファンは、必死になって擁護していた。【凌生くんだって被害者でしょ!ひまりが勝手に近づいただけ!】【香月詩乃だって、そんな被害者ヅラできるほどまともじゃないでしょ】【実力あるアーティストなんだから、恋愛スキャンダルくらい別によくない?凌生が新曲出したら、アンチだって結局こっそり聴くくせに】確かに、その通りだった。紫苑音楽賞・最優秀男性アーティスト賞を2度取った歌手なんて、
警察官に鋭く制され、今にも殴り合いになりそうだった2人も、さすがにそれ以上は動けなかった。そのうちの1人が私のそばまで来ると、数枚の写真を見せた。「香月さん、確認をお願いします。あなたを連れ去って暴行したのは、この4人で間違いありませんか?」写真には、あのときの4人が写っていた。1人ずつ顔を確かめ、最後に小さくうなずく。「はい……この4人です」警察官は写真を閉じた。「4人ともすでに身柄を確保しています。いずれも高校生で、現在、個別に事情を聴いています」その言葉を聞いた瞬間、凌生が警察官に食い下がった。「あいつら、なんで詩乃にあんなことしたんですか?」警察官は落ち着くよう手で制した。そして、少し険しい顔で続けた。「4人の供述では、葉室さん本人から『香月さんにつきまとわれている』と聞いていたそうです」凌生の表情が凍りついた。「俺は……殴れなんて言ってない」「もちろん、その点も確認しています」警察官は淡々と答えた。「ただ、彼女たちはこう話しています。『香月さんは、葉室さんとは普通に付き合っていると言っていた。でも信じられなかった』『その場で葉室さんに電話をかけてもらったら、葉室さん本人が関係を否定して、ずっとつきまとわれていると言った』『だから嘘をついていると思って、手を出した』と」凌生は何も言えなくなった。ゆっくりとこちらを見る。伊佐見さんも、そこでようやく何があったのかを理解したらしい。表情を険しくし、私をかばうように前へ出た。警察官2人が顔を見合わせる。それから、凌生に向き直った。「葉室さん。詳しくお話を伺いたいので、署までご同行をお願いします」







