Mag-log in周防智哉(すおう ともや)を遠くから想うだけだった私・水瀬栞(みなせ しおり)は、10年かけてやっと彼の婚約者になった。 この10年間、私はずっと彼の背中を追い続けてきたと思う。本来なら掴めたはずの将来を捨て、気づけば智哉の影のように生きていた。 「智哉のことが好きすぎて、自分をなくしている」周りにはずっとそう言われてきたし、実際その通りだった。 高校時代、私が推薦で進めるはずだった大学を蹴り、それまで縁もなかった建築の道へ飛び込んだことを、建築設計事務所で知らない人はいない。なぜなら、少しでも智哉の近くにいたかったから。 けれど、彼はいつだって私に冷たかった。 たった一度を除いて…… 1年前、智哉に同行して山間部の現地調査へ出向いたとき、私たちは土砂崩れに巻き込まれた。 大きな岩が彼めがけて落ちてくるのが見えた瞬間、私は無我夢中で智哉を突き飛ばしたのだ。 意識を失う直前、最後に見えたのはひどく取り乱した彼の顔。 意識が戻ったのは3日後だった。両脚を骨折し、背中は崩れてきた岩でひどい傷を負った。手術は3回も行われ、体内には十数本のボルトが入り、一歩間違えば一生後遺症が残っていたという。 退院の日、病室の前で待っていた智哉は、何の飾りもないシンプルな指輪を握っていた。そして、プロポーズとは思えないほど淡々とした口調で私に差し出す。 「栞。君は俺の命を救ってくれた。だから、俺は君と結婚する。結婚したら夫としての責任は果たすし、これからは俺が君を支えるから」 それでも当時の私は、嬉しくてたまらなかった。結婚さえすれば、いつか彼も私を愛してくれる、本気でそう信じていたから…… だから、あのときの智哉の目に愛情がなかったことにも気づかなかった。 それどころか、10年待ち続けて、ようやく想いが報われたのだと浮かれていた。 しかし、秋葉天音(あきば あまね)が現れ、全てが変わってしまったのだった。
view more半年後、琴水町で進めていた三つの校舎と診療所が、無事に完成した。使い始めの日、町は朝からお祝いムードに包まれていた。子どもたちはランドセルを背負って新しい校舎へ駆け込み、明るい教室や真新しい机を前に、嬉しそうにはしゃいでいる。診療所の前では、住民たちが木原課長や私の手を握り、何度も「ありがとう」と言ってくれた。私は人の輪の中に立ち、その光景を眺めていた。青空の下、少し離れたところでは、航が子どもたちと一緒に凧を上げている。風をつかんだ凧がぐんぐん空へ昇っていくと、航が嬉しそうにこちらへ駆けてきた。「先輩、見ました?小学校の先生が、こんなに高く上がったの初めてだって言っていました!」そう言って、私に温かいお茶の入ったペットボトルを差し出してくる。受け取るときに触れた手は、初めて会った日と変わらず、乾いていて温かかった。お茶を受け取り、彼の瞳に映る自分を眺めながら、私は静かに微笑んだ。航の気持ちにまだ答えを出したわけではないが、もう遠ざけようとも思わなかった。大切にしたいと思える温かさなら、少しずつ受け入れていけばいい。智哉はその後も東都の建築設計事務所に残り、チーフとして働き続けていた。昔の知人から聞いた話では、以前よりずいぶん人当たりが柔らかくなったらしい。結婚の話をすることもなくなり、その代わり、地方の学校や診療所など、地域の暮らしに関わる仕事を積極的に手がけるようになったという。地方の建築プロジェクトの記事で彼の名前を見かけると、たまに思い出すことがあった。智哉もどこかで、智哉なりのやり方で過去と向き合っているのかもしれない。人づてに聞いた話では、地方再生や建築支援のニュースが流れると、智哉はときどき手を止めて見入っているようで、そしてしばらくすると、また何も言わず図面に向かうそうだ。後悔したことは、きっと消えないが、それでも彼はその後悔を抱えたまま、以前とは違う道を歩き始めたのだと思う。さらに1年が過ぎた秋の終わり、東都から一通の手紙が届いた。差出人は智哉だった。手紙に余計なことは何も書かれておらず、自分が設計した山間部の小学校が無事に完成したこと、子どもたちがとても喜んでくれたことのみの報告が綴られていた。そして、添えられていたのは、飾り気はないが、丈夫そうな校舎の写真。そこで暮らす人たちのことを考えて設計
智哉は拒まず、私が差し出した雑炊を口にしたが、その間も、まるで見落としてきた時間を今さら埋めるように、ずっと私の顔を見ていた。病室には、スプーンが器に触れる小さな音だけが響いていた。消毒液の匂いは相変わらずだったけれど、以前のような息苦しさはもうない。食べ終わったのを見届け、器を片づけてから立ち上がる。「私、まだ仕事が残ってるから、そろそろ事務局に戻るね。星野くんもここにいてくれるし、何かあったら看護師さんを呼んで」その瞬間、智哉が私の手首をつかんだ。強くはない。むしろ、縋るような力だった。「栞……もう少しだけいてくれないか?」私は手首に触れる彼の指を見下ろし、そっと外した。「智哉。私にはここでやることがあるの。子どもたちは新しい校舎を待ってるし、町の人たちも診療所ができるのを楽しみにしてる。またお見舞いには来るけど、ずっとここにはいられないよ」智哉の手が宙で止まった。その手は、しばらくして力なく下がり、「……分かった」と、小さく答える。智哉は琴水町立病院に2ヶ月入院していた。その間、私は毎日1時間ほど時間をつくって見舞いに行った。ある時は手作りの雑炊を差し入れ、ある時は書き上げたばかりの校舎の図面を広げ、町で起きたたわいもない出来事の話を聞かせる。私はいつも通り話していただけなのに、智哉はときどき不思議そうに私を見ていた。たぶん、東都にいた頃の私は、こんな顔で笑っていなかったのだと思う。智哉はたいてい、黙って私の話を聞いていた。ときどき短く相槌を打つくらいで、あとはずっと私の顔を見ている。しかし、その目に何が浮かんでいるのか、今の私にはもう分かっていた。智哉が失ったのは、ただの婚約者じゃない。かつて彼だけを見つめ、彼のためなら何でもできると信じていた女を、彼自身の手で遠ざけたのだ。彼の行き場をなくした後悔は、いつしか細かな気遣いに変わっていった。「無理するな」「この辺は標高も高いんだから、少しでも具合が悪かったら休め」「背中の傷もあるんだから、頑張りすぎるなよ」そんなことを、何度も繰り返すようになった。航も、ほとんど毎回一緒に見舞いに来てくれた。ベッド周りを整えたり、智哉とプロジェクトの設計について話したり……彼が智哉と話す口調はあくまで丁寧だったけれど、智哉から私を守っていることは明らかだった。その気持ちには、
智哉は全身泥だらけだった。額は深く切れ、血が泥水と混ざって頬を伝っているうえに、左腕は明らかに不自然な角度で曲がり、破れたシャツの下からは大きな青あざも見えた。航も智哉の様子を確認し、表情を険しくする。「先輩、骨折してると思います。それに、胸部もかなり強く打ってるので、早く病院に運ばないと!」しばらくして通りかかった地元の作業車に助けを求め、琴水町立病院まで運んでもらった。私は荷台で智哉の頭を支え、揺れでぶつけないようにしていた。乾き始めた泥が顔にこびりつき、彼の顔にいつもの整った表情は見る影もない。眉を寄せたまま、顔色はひどく悪く、呼吸も浅い。それでも、胸の奥に昔のような気持ちの起伏はなく、ただ複雑な気持ちだけが静かに残っていた。智哉が命懸けで私を守ってくれたことにより、何かが元に戻るわけではないけれど、この10年の最後に決して軽くは扱えないものが残ってしまった気がする。病院に着くと、智哉はすぐに処置室へ運ばれ、そのまま手術になった。廊下のベンチに並んで座った私と航は服も髪も泥だらけで、ところどころ血までついている。航はプロジェクト事務局へ連絡を入れ、状況を説明した。電話を切ったあと、しばらく迷ってから私を見る。「先輩、彼は……」「今は、無事に手術が終わるのを待とう」手術は3時間続いた。「命に別状はありませんが、左腕と左脚の骨折、それから肋骨が2本折れています。軽い脳震盪もありますので、しっかり安静にさせてください」という医師の言葉を聞いて、張り詰めていた身体からようやく力が抜けた。病室へ移された智哉は、点滴につながれ、額の傷には処置が施されている。顔色はまだ悪かったけれど、手術前より呼吸は落ち着いていた。どれくらいの時間が経ったのだろうか、智哉のまぶたがわずかに動いた。ゆっくり目を開き、しばらく焦点が定まらないまま天井を見ている。やがて私に気づき、掠れた声で言った。「栞……無事だったか?」私は静かに頷いた。「あなたが助けてくれたから、私は大丈夫。ありがとう。先生が、かなり怪我をしてるからしばらく安静にって」すると、智哉が指先を動かした。もしかしたら、私に触れようとしたのかもしれない。けれど身体を動かした途端、傷に響いたらしく、彼は苦しそうに顔をしかめた。少し呼吸を整えてから、低い声で言う。「悪かった
「あなたは何も悪くないよ」「そんなことない!」智哉はすぐに否定し、私の肩に手を伸ばした。けれど私は身体をずらして避けたため、行き場をなくしたその手が力なく下がる。私は淡々と言った。「あなたが私と結婚しようとしたのは、罪悪感があったからで、今ここまで来たのも同じ。ずっとそばにいた私が急にいなくなって、不安になっただけ」智哉の顔から血の気が引いた。唇がわずかに震えていたけれど、何も言い返してこない。彼の頬を伝う雫が、雨なのか涙なのかは分からなかった。そのとき、航がそっと傘を差し出してくれて、何も聞かず、そのまま私の隣に立つ。智哉は私を見て、それから航へ視線を移した。手にしていた報告書を強く握りしめる智哉。濡れた紙が、くしゃりと歪んだ。「もう、本当に無理なのか?」その声は絶望で沈んでいる。私は静かに首を振った。「智哉。私はここで、自分の人生を生きたい。だから、あなたはあなたの場所で生きて、私も自分で選んだ場所で生きるから。それが一番いいと思わない?」雨脚は少しずつ弱くなっていた。航に促され、私は車に乗り込む。走り出してからバックミラーを見ると、智哉はまだ同じ場所に立っていた。全身ずぶ濡れのまま、追いかけてもこない。航はハンドルを握ったまま私をちらりと見たが、何も聞かなかった。ただエアコンの温度を少し上げる。「先輩、冷やさないようにしてくださいね」その直後だった。前方の斜面から、ぱらぱらと小石が落ちてくるのが見えた。次の瞬間、地鳴りのような轟音が響く。「まずい、土石流です!」航の表情が一気に険しくなったかと思うと、山の斜面を、泥と岩が混じった濁流が一気に流れ下ってきた。轟音は瞬く間に近づき、車体まで細かく震え始めた。「星野くん、下がって!」叫ぶと同時に、航はすぐギアを入れ直してアクセルを踏み込んだ。けれど雨でぬかるんだ道ではタイヤが空転し、思うように車が動かない。土石流はあっという間に距離を詰めてきていて、黒い土砂の波は目の前百メートルまで到達していた。そのとき、斜面から転がってきた岩が車の前部に激突した。激しい衝撃とともに車体が大きく揺れ、エアバッグが開く。胸を強く押され、目の前が暗くなった。「先輩、早く!高い場所へ!」我に返るより先に、航が私の腕をつかんで車外へ引っ張り出した。数歩走った
Rebyu