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10年越しの恋を捨てて、私は遠い町へ行く

10年越しの恋を捨てて、私は遠い町へ行く

By:  挽歌Kumpleto
Language: Japanese
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周防智哉(すおう ともや)を遠くから想うだけだった私・水瀬栞(みなせ しおり)は、10年かけてやっと彼の婚約者になった。 この10年間、私はずっと彼の背中を追い続けてきたと思う。本来なら掴めたはずの将来を捨て、気づけば智哉の影のように生きていた。 「智哉のことが好きすぎて、自分をなくしている」周りにはずっとそう言われてきたし、実際その通りだった。 高校時代、私が推薦で進めるはずだった大学を蹴り、それまで縁もなかった建築の道へ飛び込んだことを、建築設計事務所で知らない人はいない。なぜなら、少しでも智哉の近くにいたかったから。 けれど、彼はいつだって私に冷たかった。 たった一度を除いて…… 1年前、智哉に同行して山間部の現地調査へ出向いたとき、私たちは土砂崩れに巻き込まれた。 大きな岩が彼めがけて落ちてくるのが見えた瞬間、私は無我夢中で智哉を突き飛ばしたのだ。 意識を失う直前、最後に見えたのはひどく取り乱した彼の顔。 意識が戻ったのは3日後だった。両脚を骨折し、背中は崩れてきた岩でひどい傷を負った。手術は3回も行われ、体内には十数本のボルトが入り、一歩間違えば一生後遺症が残っていたという。 退院の日、病室の前で待っていた智哉は、何の飾りもないシンプルな指輪を握っていた。そして、プロポーズとは思えないほど淡々とした口調で私に差し出す。 「栞。君は俺の命を救ってくれた。だから、俺は君と結婚する。結婚したら夫としての責任は果たすし、これからは俺が君を支えるから」 それでも当時の私は、嬉しくてたまらなかった。結婚さえすれば、いつか彼も私を愛してくれる、本気でそう信じていたから…… だから、あのときの智哉の目に愛情がなかったことにも気づかなかった。 それどころか、10年待ち続けて、ようやく想いが報われたのだと浮かれていた。 しかし、秋葉天音(あきば あまね)が現れ、全てが変わってしまったのだった。

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Kabanata 1

第1話

結婚式まで、あと10日。

私は建築設計事務所の管理部門が入るフロアで、印刷したばかりの申請書を手に坂本部長を訪ねた。

私が来たことが意外だったのか、坂本部長は少し驚いた顔をする。

私は申請書を坂本部長の前に置いた。「部長。地方創生のインフラ再建プロジェクト、まだ人員に空きはありますか?私も参加したくて」

差し出した申請書を見て、坂本部長が目を見開く。

「君、もうすぐ周防チーフと結婚式を挙げるんじゃないのか?」

「もう決めたんです。私もメンバーに入れてください」私がどうにか笑ってみせると、坂本部長はしばらく黙って私を見ていたが、やがて事情を察したように小さくため息をつき、申請書に承認のサインを書いてくれた。

「参加者は来週正式に発表される。出発は8月初旬だ……まだ時間はあるから、もう一度よく考えろ。気が変わったら、いつでも言いに来い」

「ありがとうございます」

承認済みの申請書を手に建物を出て、階段を下りたところで車のエンジン音が聞こえた。

見慣れた智哉の黒い社用車が、ゆっくりと正面玄関に横づけされる。

助手席から先に降りてきたのは天音だった。淡いベージュのワンピースに身を包み、陽の光を受けた長い髪が柔らかく揺れている。

天音は車の反対側へ回ると、降りてきた智哉の腕にごく自然な仕草で自分の腕を絡めた。

智哉もそれを自然と受け入れる。

その光景を見た瞬間、私は昔のことを思い出した。一度、40度近い熱を出した時、智哉に頼み込んで病院まで連れていってもらったのだが、途中で眩暈がして倒れそうになった私は、咄嗟に彼の腕につかまろうとした。けれど、触れた途端に振り払われてしまったのだった。

目を覚ましたのは病院だった。

あとから聞いた話では、私が倒れると智哉は通りかかった同僚に任せ、そのまま帰ったらしい。

10年も一途に追い続けて、ようやく想いが実ってよかったね、と誰もが言う。

でも、この10年で手に入れたものは彼の愛情ではなく、彼の冷たさだけということは私しか知らない。

智哉はもともと、誰に対しても無愛想で冷たい人だったわけじゃない。

ただ、その優しさが私に向けられることがなかっただけ。

天音なら彼のデスクの前でポテトチップスを食べようと、彼のマグカップを勝手に使っても怒られない。それどころか、智哉が何より大切にしている設計スケッチを散らかしたって、何も言われないのだ。そして智哉は、淡々とその後始末を私にさせるだけだった。

Palawakin
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Rebyu

松坂 美枝
松坂 美枝
クズ男が爽やかに改心した珍しい話 罪悪感で一緒にいたようなもんだったけど、お互い怪我してわだかまりもなくなり前を向いて生きていけるようになったのは良かったんじゃないかな
2026-09-26 10:11:52
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0
しょう
しょう
久しぶりにややまともな感性をお持ちの男が出て来た。(他の短編作品比なので甘い評価なのは承知) モブもまともだったので、ヒロインがあり得ない誹謗中傷にさらされないのが救い。 そのせいか、読みやすく、最後の結末も後味良かったと思う。 タグ、夫を取り戻す修羅場は違くない?
2026-09-26 12:14:53
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ノンスケ
ノンスケ
10年越しの恋と裏切り。彼女に取れば10年の片思いが実ったところだったのに、他の女に奪われてしまった。でも彼女のすごいのは、自分の名誉を守り、仕事を守り、信用できなくなった男を見限ったこと。そして珍しく、男の方もきちんと反省して、真っ当な考え方に戻ったことかな。
2026-09-27 04:23:51
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14 Kabanata
第1話
結婚式まで、あと10日。私は建築設計事務所の管理部門が入るフロアで、印刷したばかりの申請書を手に坂本部長を訪ねた。私が来たことが意外だったのか、坂本部長は少し驚いた顔をする。私は申請書を坂本部長の前に置いた。「部長。地方創生のインフラ再建プロジェクト、まだ人員に空きはありますか?私も参加したくて」差し出した申請書を見て、坂本部長が目を見開く。「君、もうすぐ周防チーフと結婚式を挙げるんじゃないのか?」「もう決めたんです。私もメンバーに入れてください」私がどうにか笑ってみせると、坂本部長はしばらく黙って私を見ていたが、やがて事情を察したように小さくため息をつき、申請書に承認のサインを書いてくれた。「参加者は来週正式に発表される。出発は8月初旬だ……まだ時間はあるから、もう一度よく考えろ。気が変わったら、いつでも言いに来い」「ありがとうございます」承認済みの申請書を手に建物を出て、階段を下りたところで車のエンジン音が聞こえた。見慣れた智哉の黒い社用車が、ゆっくりと正面玄関に横づけされる。助手席から先に降りてきたのは天音だった。淡いベージュのワンピースに身を包み、陽の光を受けた長い髪が柔らかく揺れている。天音は車の反対側へ回ると、降りてきた智哉の腕にごく自然な仕草で自分の腕を絡めた。智哉もそれを自然と受け入れる。その光景を見た瞬間、私は昔のことを思い出した。一度、40度近い熱を出した時、智哉に頼み込んで病院まで連れていってもらったのだが、途中で眩暈がして倒れそうになった私は、咄嗟に彼の腕につかまろうとした。けれど、触れた途端に振り払われてしまったのだった。目を覚ましたのは病院だった。あとから聞いた話では、私が倒れると智哉は通りかかった同僚に任せ、そのまま帰ったらしい。10年も一途に追い続けて、ようやく想いが実ってよかったね、と誰もが言う。でも、この10年で手に入れたものは彼の愛情ではなく、彼の冷たさだけということは私しか知らない。智哉はもともと、誰に対しても無愛想で冷たい人だったわけじゃない。ただ、その優しさが私に向けられることがなかっただけ。天音なら彼のデスクの前でポテトチップスを食べようと、彼のマグカップを勝手に使っても怒られない。それどころか、智哉が何より大切にしている設計スケッチを散
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第2話
愛されているか、そうでないかというものは、こんなにも分かりやすい。私は事務所には戻らず、そのまま家へと帰った。結婚が決まったばかりの頃、私は期待に胸を躍らせながら智哉と物件を見て回ったけれど、彼は私にカードを1枚放り投げ、「好きにしろ」とだけ言った。リビングの壁には、私たちのウェディングフォトが飾られている。智哉に撮影に来てほしいと何度頼んだか、もう覚えていないが、彼は最後まで私と写真を撮ってはくれなかった。だから結局、撮影スタッフが智哉と体格の似た男性を用意してくれ、その人と撮った写真に智哉の顔を合成した。荷物をまとめ終えた頃には、頭がぼんやりして、立っているのもつらくなった。また熱が出てきたようだ。そのとき、スマホの画面に智哉の名前が表示された。「取りに戻りたいものがあるんだけど、家にいるか?」メッセージを眺めているうちに、いつの間にか眠ってしまった。どれくらい経っただろう。鍵の開く音で目を覚ますと、リビングにオレンジ色の明かりが灯り、眩しさに目を細めた。外の冷たい空気をまとったまま、片手には仕事用の鞄を提げた智哉が帰ってきた。がらんとした部屋を見回した彼の視線が、壁から外して隅に立てかけておいたウェディングフォトで止まる。ほんのわずかに彼の眉が寄った。私はいつもの癖で立ち上がろうとしたが、足に力が入らず、よろめいた。智哉が反射的に腕を支えてくれたのだが、私の肌に触れた瞬間、彼はすぐに手を離した。支えを失った私は、そのままソファに崩れ落ちる。「ひどい顔してるな」気遣うというより、ただ目についたことを口にしただけのような声だった。私は彼と目を合わせないまま答える。「大丈夫、少し熱があるだけだから」「なんで荷物なんかまとめてるんだ?」「智哉、結婚式はやめよう」さすがに予想していなかったらしく、智哉は数秒黙りこんだ。「天音のことか?俺とあいつは、ただの先輩と後輩でしかない。それに、天音は君とは違うんだ。14歳で一人で海外に出て、自分の夢も仕事への意欲もあるし、ましてや四六時中、恋愛のことばかり考えてるような女じゃない」私は何も答えなかった。智哉もそれ以上話す気はないらしく、そのまま書斎へ入っていくと、昔のスケッチブックを1冊手に戻ってきた。玄関を出る直前になって、ようやくこちら
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第3話
16歳のあの日、図書館で初めて智哉を見たときのことを思い出す。彼は窓際の席に座っていて、差し込む光が彼を包み、柔らかな輪郭を優しく照らしていた。うつむいてスケッチブックにペンを走らせる姿はあまりに真剣で、世界には彼と絵しかないかのようだった。その瞬間、私の心拍数は跳ね上がった。それから私は、何かにつけて智哉を目で追うようになった。成績は学年でもトップクラス。絵が得意で、将来の夢は建築家。人付き合いは得意ではなく、必要以上に誰かと関わろうとしない。知れば知るほど、もっと近くに行きたくなった。高校3年間、私は智哉と同じ大学へ進むことだけを目標に勉強した。進路を決めるときも迷いはなかった。推薦で進学できる大学を蹴り、第1志望に東都建築大学と書いた。担任にも止められ、両親にも猛反対された。「水瀬、君の成績ならもっと上を目指せるし、将来性のある分野だってほかにいくらでもあるだろう。建築の世界は大変だぞ」それでも、当時の私には何も響かなかった。頭にあったのは、ただ一つ。智哉と同じ場所へ行きたい、それだけだった。大学に入ってからも、私は相変わらず彼の後ばかり追いかけていた。智哉が取る選択科目を選び、彼が入ったサークルに入り、図書館ではできるだけ近くの席を探した。友人には何度も呆れられた。「栞、智哉みたいな人、どう見たって恋愛に興味ないじゃん。ずっと追いかけてたって、最後に傷つくのは栞だよ」私は聞く耳を持たなかった。もっと頑張れば、諦めずにそばにいれば……いつかきっと、智哉の心を動かせると信じていた。卒業を控えた頃、智哉は国内でも有数の建築設計事務所から内定をもらった。私にも外資系企業から条件のいい内定が出ていたけれど、それを辞退して、彼と同じ事務所を受けた。面接では志望動機を聞かれた。「なぜ、この建築設計事務所を選んだんですか?」だから、私は迷わず答える。「ここには、私が追いつきたい人がいるからです。ずっと目標にしてきた人のそばで、もっと学びたいと思っています」そう言いながら、面接官の端に座る智哉を見た。彼は手元の評価シートに何かを書き込んでいて、最後まで一度も私を見なかった。それでも私は採用され、智哉のアシスタントになった。それから5年、資料をまとめ、細かな雑務を
Magbasa pa
第4話
3日間の休みを終え、私は建築設計事務所へ出勤した。オフィスに入ってすぐ、給湯スペースから同僚たちの話し声が聞こえてきた。「聞いた?秋葉さん、入ったばっかりなのにもうデザイン部の次長だって。周防チーフが所長に直々に推薦したらしいよ」聞こえなかったふりをして、自分の席へ向かう。席に着いて資料を開こうとしたところで、今度は隣のスペースが騒がしくなった。「見て、これ!秋葉さんが賞を取った作品だって。所長がわざわざ大きく印刷させて、展示スペースに飾るらしいよ」「すご……これなら金賞取るのも納得かも」何気なく顔を上げると、数人の同僚が大判の設計図を囲んでいた。窓から差し込む光が紙面を照らし、そこに引かれた線も、細かな書き込みも、はっきりと見える。その図を見た瞬間、心臓が凍りついた。視線が設計図に釘付けになり、全身の血の気が引いていくのがわかった。あの図は……私が半年以上かけて完成させたもの!一本一本の線も、細かな注記も、すべて覚えている。何度も徹夜を重ね、17回も修正して、ようやく納得できる形に仕上げた。ただの設計図じゃない。これまで建築に携わる中で学んだこと、考えてきたこと、そのすべてを注ぎ込んだ作品で、ようやく見つけた私自身の夢の形でもあった。だから智哉にさえ、まだ見せていなかった。結婚式が終わったら見せて、驚かせるつもりだった。見て、智哉。私だって、こんな設計が描けるようになったんだよ。もうあなたの後ろをついて歩くだけじゃない。私だって、自分の力で輝けるんだよ――そう言いたかった。なのに今、その作品には堂々と別人の名前が記されていた。「秋葉天音」印刷された鋭利な名前が、毒を含んだ刃のように私の胸を貫いた。「ほんとすごいよね。さすが金賞って感じ!」「さすが周防チーフ。よくこんな才能ある人を見つけてきたよね」周囲ではまだ誰かが話していたけれど、もう内容は頭に入ってこなかった。耳鳴りがして、視界が暗くなる。私は倒れないよう、とっさにデスクへ手をついた。その場に立ち尽くし、強く握りしめた手のひらに爪が食い込んでも、痛みさえ感じない。それ以上に、胸の奥が冷え切っていく感覚のほうがずっと強かった。私はデスクに手をついたまま、どうにか声を絞り出した。「その設計図……私が描いたものです。半
Magbasa pa
第5話
「これは何か月もかけて仕上げた、私の作品です。構想から完成まで、全部自分でやりました。それなのに、どうして水瀬さんのものになるんですか?」そう言いながら、天音の目にはみるみる涙がたまっていった。今にもこぼれそうな涙を浮かべたまま、傷ついたように私を見る。「私……分かってます。私が周防先輩と仲がいいから、水瀬さんが私を嫌ってること……」天音は鼻をすすり、涙声で続けた。「でも、だからってこんな嘘をついて、私の評判を落とそうとするなんてひどすぎます。私にとって設計は仕事で、夢なんです。それをこんなふうに……」最後まで言い切ることなく、天音は泣き崩れた。途端に、周囲が騒然となる。「水瀬さん、いくらなんでも嫉妬でそこまでする?」「自分に描けないからって、人の作品を盗作扱いするのはさすがに……」「周防チーフの前でよく言えるよね」「秋葉さん、かわいそう。入ったばっかりなのに……」好き勝手な言葉が四方から飛んできて、針のような無数の視線が私を突き刺していく。けれど、私は誰の顔も見なかった。ただ智哉だけを、じっと見つめ続ける。少しでも迷ってほしかった。10年もそばにいたのだから、本当にそうなのかと疑って、せめて私の話を聞こうとしてほしかった。けれど、そんな色は微塵もない。智哉は眉を寄せ、冷ややかな目で私を見ていた。そこに私への信用など一切なく、隠そうともしない嫌悪感と苛立ちだけが漂っている。「栞、いい加減にしろ」静かな声だったが、ざわついていたフロアにはっきりと響いた。「君がどの程度の設計をするか、俺は分かってる。この図面はコンセプトも技術も完成度も、今の君に描けるレベルじゃないから、君の作品であるはずがないだろ」その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが壊れた音がした。高いところから落としたガラスが石の床に打ちつけられたように、冷たく、砕け散り、二度ともとには戻れない悲鳴のような響き。10年追い続けて、5年間同じ職場で働き、命を懸けて彼を守ったことさえある。それでも智哉にとって私は、所詮その程度だったらしい。私がどれだけ努力してきたかも、どれだけ成長したかも、彼は一度も見ていなかった。彼の中で、私と「優秀」ということは結びつかないみたいだから。天音はまだ肩を震わせながら泣き続けていた。
Magbasa pa
第6話
5年前から使い続けているもので、これまで携わったプロジェクトの記録はもちろん、形にならなかったアイデアや、ふと思いついた設計のヒントまで、何でも書き留めてある。私は最近のページを開き、全員に見えるよう掲げた。「このノートに、あの設計を完成させるまでの過程が全部残っています」自分でも驚くほど声は落ち着いていて、まるで他人の話をしているような気分だった。「最初に着想を得たところから、途中の修正案、最終的な仕上げまで。修正したのは全部で17回です。いつ、どこを、どうして直したのかも、その都度記録してあります」私は一度言葉を切った。周囲の同僚たちの色々な表情を視界に入れながら、最後は智哉を見つめた。「それでも証拠にならないと言うなら、もう一つあります。私が設計図を描くとき、下書きを始める前に必ず用紙の右下へ鉛筆で名前と日付を書くことは、知っている人もいると思います。5年前からずっと続けている癖ですので」智哉の表情が、わずかに変わった。天音も肩を大きく揺らし、瞳の揺れを隠すように、すぐに俯く。「そ、そんなの……最初から私を陥れるつもりだったんじゃないんですか!」さっきまでの弱々しい声が、一気に甲高くなった。「そんなノート、あとからいくらでも作れる……好き放題言わないでください!」けれど今度は、周囲の反応が先ほどまでとは違っていた。「でも、あのノート……かなり細かく書いてない?日付もちゃんとつながってるみたいだし、今作ったって感じじゃないよね」「秋葉さんって海外でデザインを勉強してきたんじゃないの?人のデザイン盗む必要があるのかな?」「じゃあ、本当に秋葉さんが……?」「でも、周防チーフは水瀬さんのレベルじゃあの設計図は書けないって言ってたし……」「周防チーフ、秋葉さんとかなり親しいし……もしかして……」声を潜めてはいるものの、疑いの矛先が変わったのは明らかだった。同僚たちの視線が、私と天音の間を行き来する。天音の顔は真っ赤になり、涙が次々と頬を伝っていた。やがて耐えきれなくなったように両手で顔を覆うと、天音はそのまま泣きながらオフィスを飛び出していった。智哉も迷うことなく、その後を追っていく。最初から最後まで、彼は私を一度も見なかったし、言葉もかけてくれず、弁解の機会さえ与えてくれなかっ
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第7話
半分は智哉、半分は私。智哉が写っているほうは、ファイルに戻した。自分が写っているほうだけ、バッグの一番奥にしまう。「水瀬さん……もしかして、辞めるの?」背後から、同僚がおそるおそる声をかけてきた。私は振り返らず、残っていた専門書を段ボールに入れながら答えた。「うん。今の仕事を引き継いだら辞めるつもり」再び、オフィスが静まり返った。いくつもの視線が背中に刺さったけれど、もうどうでもいい。荷物をまとめ終えたところで、足早に戻ってきた智哉と鉢合わせた。ひどく険しい顔をしている。顎に力が入り、怒りを押し殺しているのが一目で分かった。「ちょっと来い」彼の声は氷のように冷たかった。私は足を止めることも、視線を向けることもなく淡々と言った。「今、時間ないから」その一言に、空気が張り詰めた。私がこんな態度を取るとは思っていなかったのだろう。智哉は一瞬言葉を失い、次の瞬間、私の手首をつかんだ。強い力で締めつけられ、骨が軋むように痛む。「離して」それでも智哉は手を緩めなかった。そのまま強引に私を引っ張り、自分のオフィスへ連れていく。背後でドアが大きな音を立てて閉まり、外からの視線が遮られた。智哉のオフィスは広く、壁一面の窓から東都の街並みを見渡せる。壁一面の窓からは、日差しがたっぷりと降り注ぎ、室内は明るい。それなのに、私にはひどく寒く感じられた。「大勢の前で天音を盗作扱いするなんて、いくらなんでもやりすぎだ」智哉はそう言って、私の手を乱暴に放した。勢いでよろめき、私は肩からドアにぶつかる。その衝撃が背中の古傷に響き、鋭い痛みが走った。思わず息が詰まったが、私はドアの縁に手をついて身体を起こした。そして顔を上げ、静かに彼を見つめる。「盗作扱い?」私はその言葉を繰り返し、小さく息をついた。「智哉。私たち、10年も一緒にいるよね。それなのに、私がどんな人間か本当に分からないの?」智哉は一瞬黙ったが、すぐに眉を寄せる。「君が俺とのことで天音をよく思っていないのは分かってる。でも、だからってこんなやり方は駄目だ。天音はまだこれからなんだぞ。盗作なんて噂が立ったら、あいつの将来が潰れるだろ?」「じゃあ、私の設計図は?あれは私が半年以上かけて仕上げたものなんだよ。何度も徹
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第8話
智哉の表情がさっと変わった。さっきまでの怒りがわずかに揺らぎ、初めて迷いらしきものが浮かぶ。彼は何かを言おうとしたらしく、口を開いたが、結局は眉間にしわを寄せたまま、ぶっきらぼうに言い放った。「もし……仮にあれが本当に君の設計だったとしても、もう賞は発表されてるし、事務所としても実績として公表してるんだ。今さら全部ひっくり返して、誰に何の得がある?」そのとき、廊下から慌ただしい足音が聞こえた。続いて、誰かの叫び声が響く。「大変です!秋葉さんが屋上から飛び降りるって!」私も智哉も動きを止めた。次の瞬間には、智哉はもうドアを開けていた。私のことなど忘れたように廊下へ飛び出し、そのまま走り去っていく。ドアが閉まる一瞬、廊下に消えていく彼の足取りがおぼつかない後ろ姿が見えた。それは、酷く必死で、うろたえた背中だった。私は屋上へは向かわなかった。天音が死ぬと言って引き止めてもらおうが、そのあとどうなろうが、もう私には関係ない。自分のデスクへ戻り、最後の引継書を印刷すると、署名をしてデスクの上に置いた。そして一度も振り返らず、建築設計事務所を後にする。外へ出ると、強い陽射しに私は思わず目を細めた。もっと苦しいと思っていたし、胸が張り裂けるほど悲しくて、歩けなくなるくらい泣くものだと思っていた。しかし何も感じず、今は全てが終わったという虚無感が残っているだけ。まるで10年間ずっと続いていた熱が、ようやく下がったような気がした。ホテルに戻ってスーツケースを取り、そのまま駅へ向かうと、乗れる中で一番早い列車に乗った。誰にも別れは告げなかったし、名残惜しいとも思わない。ただこの10年間を過ごした街から離れ、何度傷ついても追いかけ続けた、あの人から遠くへ行きたかった。列車がホームを離れていく。窓の外を流れていく景色を眺めているうちに、昔のことを思い出した。学生の頃、智哉と一緒に地方の建築コンペへ向かったことがあるのだが、あのときも列車だった。向かいの席に座って、窓にもたれて眠る彼の横顔を、気づかれないよう何度も盗み見ては、幸せに慕っていた。あの頃の私は、これから何かが始まるのだと信じていたのに……けれど今思えば、あのときからずっと、結末は決まっていたのかもしれない。いくつもの路線を乗り継ぎ、よ
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第9話
「都会みたいに便利じゃないけど、しばらくここで我慢してくれ」木原課長は少し申し訳なさそうに笑った。「何か必要なものがあったら遠慮なく言ってくれれば大丈夫だからね」「十分です。ありがとうございます」スーツケースを置き、窓辺に薄く積もった埃を指でなぞる。不思議と、久しぶりに心が落ち着いていた。荷ほどきを済ませた翌日から、私は木原課長と航に連れられて現地を回り始めた。移動中、木原課長が資料を開き、何枚かの写真を見せてくれた。写っていたのは、ひどく老朽化した小学校で、窓には応急処置のブルーシートが張られ、机や椅子も古びて傾いている。それでも、そこで教科書を開く子どもたちの目は驚くほど生き生きとしていた。設計事務所にいた5年間、私は数えきれないほどの図面を描いてきた。ランドマークになるような大型施設、高層オフィス、豪華な住宅……どれも見栄えがよく、隙のない設計を求められてきたけれど、目の前の写真ほど胸に残るものはなかった。「今回の設計は使いやすさはもちろん、耐震性もかなり重要になってくるんだ」前方から木原課長の真剣な声が聞こえてきた。「この辺りは地形も厳しいし、雪も多い。都市部と同じ考え方では通用しないんだ。だから、水瀬さんには専門家としてぜひ力を貸してもらいたいって思ってるんだよ」航から渡された資料を受け取り、もう一度写真に目を落とす。そのとき、胸の奥から強い思いが込み上げてきた。雨や雪をしのげる家をつくりたい。子どもたちが安心して勉強できる、明るくて丈夫な校舎をつくりたい。高齢者が何時間もかけて町まで出なくても、必要な医療を受けられる環境を整えたい。それからの私は、ほとんど毎日工事予定地や集落を歩き回った。航と一緒に測量をし、住民の家に上がらせてもらって話を聞く。「冬でも暖かい家がいい」「年を取っても使いやすいようにしてほしい」そんな一つ一つの声を、ノートに書き留めた。夜は事務局へ戻っては図面に向かい、描いて、直して、また描き直す。気づけば窓の外に月が高く昇っていることも珍しくなかった。山の日差しは思った以上に強かった。数日もすると肌はすっかり焼け、頬は乾いた風で荒れ、測量器具や資材を扱う手にも薄いまめができた。それなのに、不思議とつらくなかった。夜、ベッドに横になって風の音を聞きながら、窓の
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第10話
山の天気は変わりやすい。あっという間に雨脚が強くなり、大粒の雨が頬を叩いた。航は慌ててリュックからレインコートを取り出すと、先に私にかぶせた。自分は丸めた図面を抱え、近くの作業小屋へ駆け込んでいく。そのときだった。激しい雨の向こうに、一人の男が立っているのが見えた。見間違えるはずがない。それは、智哉だった。髪は半分以上濡れ、黒いシャツが体に張りついている。彼は雨の中から、まっすぐ私を見ていた。いつも冷静だったその顔に、見たこともないほどの焦りが浮かんでいた。「栞」雨音にかき消されそうなその小さな声は、かすかに掠れている。図面を避難させた航が戻ってきて、智哉に気づく。彼はすぐに眉をひそめ、私の前へ出た。航は私を後ろに庇いながら、智哉を睨みつけた。「誰ですか?」しかし、智哉は航の問いには答えずに、ただ私を見つめ続ける。「どうして何も言わずにいなくなった?」「地方創生のプロジェクトへの参加申請も出したし、事務所の仕事も引き継いだ。ちゃんと手続きして辞めたんだから、黙っていなくなったわけじゃないでしょ?」静かに答えた私の声は、雨の音にかき消されていった。智哉の喉が動いた。雨に濡れた髪から雫を落としながら、何歩か近づいてくる。「俺は結婚式を中止するなんて認めてない。栞、俺と帰ろう」私は唇を歪め、自嘲気味に笑った。「あなたは何の立場で私にそう言っているわけ?」雨脚がさらに強くなり、レインコートを激しく叩く。私の言葉を聞き、智哉はその場に立ち尽くした。冷静を装うその瞳には、今までにないほど焦りの色が広がっていた。しばらく何も言えずに私を見つめていたが、やがて一歩踏み出し、手を伸ばしてくる。しかし、その手が私に届く前に航が私との間に入った。私を庇うように立った航は、冷ややかな声で言った。「迷惑ですよ。水瀬先輩は今、このプロジェクトのメンバーであって、あなたの助手ではありません」智哉の手は宙で止まったが、それでも視線は私から離れない。そして、その喉から搾り出される声は、とても掠れたものだった。「俺が悪かった……君を信じるべきだったし、あのとき天音の盗作を分かっていながら見過ごそうとしたのも間違ってた。それに……10年間、君が俺を想ってくれていたことにも、ずっと向き合ってこなかった」智哉が自分から私の1
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