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第5話

Auteur: 鋭子
ただの偶然だろう。

深く考えることもなく、私は目の前のプロジェクトに没頭し続けた。

江海グループのM&A案件は、予想よりもずっと早く進展した。中核となるレポートは三稿まで推敲を重ね、その最終版を提出した日のうちに、相手側は意向書にサインをした。

案件は、無事に成立した。

異例なことに、言司が花城グループ名義で打ち上げを主催した。

この八年間、私が十数件もの重要な案件を成功に導いてきた中で、彼が労いの席を設けたことなど一度もなかったというのに。

私は長机の中ほどに腰掛け、資産運用部の同僚たちと静かにグラスを合わせた。

一方の七海は言司の隣に陣取り、満面の笑みで甲斐甲斐しく料理を取り分けている。まるで、花から花へと舞う幸せそうな蝶のようにせっせと動き回っていた。

「久我社長、このガーリックシュリンプ、すごく美味しいですよ。ぜひ召し上がってみてください」

グラスを持つ私の手が、ピタリと止まった。

ニンニク?

言司は重度のニンニクアレルギーを持っている。

ほんの少し口にしただけでも全身に発疹ができ、ひどいときには喉が腫れ上がって呼吸困難に陥る。

思わず、視線を上げた。

しかし、すぐに手元へ目を戻す。

声には出さなかった。

見間違いだろうか。

微かに潤んでいた言司の瞳が、すっと冷たく翳ったのだ。

彼は箸を置き、苛立ちを隠そうともしない声で言った。

「俺はニンニクアレルギーだ。自分で取った料理は自分で食べなさい。俺の取り皿には乗せないように」

七海の満面の笑みが引きつり、耳の先まで真っ赤に染まった。

宴席で、言司は相当なペースで酒をあおっていた。

お開きになる頃には、一人でまともに立っていられないほど泥酔していた。

運転代行を二度呼んでも捕まらず、見かねた七海が慌てて支えようとしたものの、彼はその手を冷たく払いのけた。

結局、私が彼をマンションまで連れ帰ることになった。

玄関まで肩を貸して支え、リビングのソファに放り込み、ブランケットを一枚無造作に掛けた。

靴は脱がさなかった。温めたタオルで顔を拭いてやることも、酔い覚ましのゆず茶を作ってやることも、しなかった。

踵を返そうとした瞬間、手首を強く掴まれた。

「詩音」

薄く開かれた言司の目は、充血して真っ赤だった。

「まだ、七海のことで怒っているのか」

私は、自分の手首を掴む彼の手を静かに見下ろした。

「考えすぎよ。もう寝てください。駄々をこねないで」

手首を握る力がふっと抜け、言司は呆然とした表情のまま固まった。

「駄々をこねる」――その言葉を、彼はかつて私に向かって百回以上も投げつけてきた。

私が傷ついたとき、理不尽に責められたとき、泣きながら「あなたは私のことを少しも大切にしてくれない」と訴えたとき。そのたびに返ってきたのは、決まってその一言だった。

「いい加減、駄々をこねるのはやめてくれないか」

……

それからの日々、私は毎日遅くまで会社に残り、残業を続けた。

仕事が忙しいから、という理由だけではなかった。

マンションの中で、何かが確実に変わり始めていたからだ。

ゴミ箱はいつも空になっていた。誰かが定期的に捨てているのだ。

シンクに前日のカップが放置されることもなくなった。

冷蔵庫には私のお気に入りの牛乳が補充され、しかも常に最新の消費期限のものに替わっていた。

深夜に帰宅したある夜には、靴箱の上に新しいスリッパが置かれていた。以前のものよりずっと底が厚く、ふかふかとしたスリッパが。

かつての私なら、嬉しさのあまり一晩中眠れなかっただろう。

でも今は、そういった些細な変化のすべてが、ただただ煩わしかった。

むしろ会社に残って残業しているほうが、ずっと息がしやすく、気が楽だったのだ。

言司がなぜ、あれほどまでに仕事へと逃げ込んでいたのか。私はそのとき初めて、少しだけ理解できたような気がした。

ある夜、私はデスクに突っ伏したまま寝落ちしてしまっていた。

ふと目を覚ますと、肩に誰かのジャケットが掛けられている。

傍らには言司が立っていた。

その顔色は、ぞっとするほど青ざめていた。

私はぼんやりとした頭のまま上体を起こし、彼の視線と交差した。

言司は、パソコンのモニターをじっと見つめていた。

画面は、真っ暗なままだった。

「お前は、全然残業なんかしていなかったんだな」

声はひどく低かったが、絞り出すようなその響きはかすかに震えていた。

「……っ、ずっと、嘘をついていたんだな」

私は真っ暗な画面をちらりと見やり、ふと全身の力が抜けるのを感じた。

それでもいい。

もう、何も取り繕う必要なんてないのだから。

引き出しから二通の封筒を取り出し、デスクの上に並べた。

それが目に入った瞬間、言司は全身をこわばらせ、その場に固まった。

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