Semua Bab あなたの後悔に、私は署名しない: Bab 1 - Bab 10

11 Bab

第1話

久我言司(くが げんじ)のために八年間、日陰の存在として、部下として、身を粉にして尽くし続けてきた。私をそんな夢物語から現実に引き戻したのは、会社の清掃員のおばさんだった。深夜の残業中。私は温かい海鮮粥と胃薬を、言司のデスクにそっと置いた。「久我社長、冷めないうちに召し上がってください。また胃が痛くなりますから」言司はモニターの財務報告書から目を離そうともせず、「ああ」という空返事すら寄越さない。粥の器を少しでも彼の手元へ近づけようとした、そのときだった。傍らでゴミ箱を片付けていた清掃のおばさんが、ふと作業の手を止めた。「お嬢さん、もういいんじゃないですか。社長なら、別の子が持ってきたお弁当をもう召し上がりましたよ。あのきれいなお弁当箱は、まだうちのカートに捨ててあるんですから」私の手が、宙で凍りついた。言司がキーボードを叩く音も一瞬途切れ、わずかに眉間が寄せられる。五十代の清掃員。ただ黙々と社内を清掃しているだけのおばさんにすら、とっくに見抜かれていたのだ。――この男は、私のことなどこれっぽっちも愛していないのだと。立ち上る海鮮粥の湯気を見つめていると、ふと、そんな思いが頭をよぎった。青春のすべてを捧げたこの八年間が、まるで滑稽な茶番劇のように思えてきたのだ。私は静かに手を伸ばし、粥を容器ごとゴミ箱へ落とした。「そうですね。社長のお口に合う味も、どうやら変わってしまったみたいですから」言司の瞳に、明らかな不快感が走る。「詩音、いい加減にしてくれ。残業中にこんなものを持ち込まれても、邪魔なだけだ」今までの私なら、そんな言葉を聞いた瞬間、すぐに頭を下げて謝っていただろう。恐縮しながら粥を置き、彼が食べ終えるまで部屋の隅で息を潜めていたはずだ。でも今日、私はその場に立ち尽くしたまま、清掃カートに載ったままの弁当箱をじっと見つめていた。ピンクの包みに、小花柄のリボン。誰かが時間をかけ、心を込めて用意したものだと、一目でわかった。清掃のおばさんが小さくため息をつき、カートを押しながら立ち去っていく。去り際、一度だけこちらを振り返ったその目に浮かんでいたのは、紛れもない同情の色だった。「詩音、何をぼーっとしているんだ」言司がようやくこちらへ顔を向けた。むろん、心配してのことではない。苛立ち
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第2話

スーツにアイロンをかけてやる人間は、もういない。ネクタイを選んでやる人間も、いない。革靴を磨いてやる人間も、いない。午前七時、主寝室のドアが開く。パジャマ姿で現れた言司は、寝癖のついた頭のまま、がらんとした食卓を目の当たりにして眉をひそめた。「朝ごはんは?」私は最後の一口を飲み干し、静かにカップを食洗機へと片付ける。「私、お腹空いてないから」「俺の飯はどうしたって聞いてるんだ」まるで部下を詰問するような口調だった。いや、実際の部下に対しては、もう少し丁寧に接しているかもしれない。私は口元を拭うだけで、何も答えなかった。言司はしばらく私を見つめていたが、やがて苛立たしげに寝室の扉をバタンと閉めた。十分後。スーツに着替えた言司がブリーフケースを手に取り、玄関へと向かう。私の傍らを通り過ぎる瞬間、その足がぴたりと止まった。きっと、以前のように追いかけてきてネクタイの曲がりを直し、バッグにミネラルウォーターを入れてくれるのを待っているのだろう。しかし私はソファに腰を下ろしてスマホを眺めたまま、視線すら上げなかった。彼の方から、低く鼻で笑う音が聞こえた。苛立ちを無理やり抑え込んだような、棘のある冷たい笑い声だった。次の瞬間、玄関のドアが乱暴に閉められ、その強烈な音が室内に響き渡った。言司は怒っている。このまま放っておけば、またいつもの冷戦状態に突入するだろう。けれど、アプローチするのに二年、機嫌を取るのにさらに八年を費やしてきたのだ。今度こそ、自分自身を甘やかしてやりたかった。……思えば、自分をないがしろにしてきた年月は、あまりにも長すぎた。大学時代、言司は経済学部で誰よりも眩い光を放っていた。家柄も良く、容姿端麗で、成績も優秀。どこにいても、自然と周囲の視線を集める存在だった。私もまた、彼に目を奪われる大勢の中のひとりだった。ディベート大会で堂々と持論を展開する姿を覚えている。白いシャツ姿で並木道を歩く姿も。落とした教科書を何気なく拾い上げ、振り返りもせずに去っていった姿も。ただそれだけで、私は彼にどうしようもなく惹かれてしまったのだ。そこから二年にわたる、一方的でひたむきな日々が始まった。毎朝六時に起きて教室の席を確保した。彼がいつも座る列の、ちょうど一つ後
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第3話

二年目。私は彼のマンションへと引っ越した。プロポーズの言葉も、特別な儀式もなかった。ただ、「俺の家へ越して来い。飯や洗濯を任せられるからな」という一言だけがあった。一緒に暮らすこと自体が、彼に受け入れられた証なのだと思った。母から電話があり、「いつ挨拶に来るのか」と尋ねられた。私はとっさに、いくつもの言い訳をひねり出した。忙しいから、出張中だから、プロジェクトが佳境だから、と。「私に会う時間さえ作れないの?」と母は言った。「お母さん、彼は本当に忙しいのよ」と私は答えた。電話を切ったとき、言司はソファに寝転がったままゲームに興じていた。こうした瞬間に胸をよぎる違和感を、私はいつも手早く飲み込んできた。「愛していないわけじゃない。ただ、愛情表現が不器用なだけなんだ」と自分に言い聞かせて。三年目。彼の母親がマンションの掃除が行き届いているかチェックしに訪れ、、私が選んだカーテンを指差して「安っぽくて恥ずかしい」と吐き捨てた。彼女の気に入るものに買い換えた。七万円近い、高級なカーテンだった。その月、私は二十日間もカップ麺だけをすすって過ごした。四年目。社内表彰が行われ、私の影の業績は全部署の中でトップだった。しかし、優秀社員として壇上に名前を呼ばれたのは、言司だった。その輝かしい業績は最初から、すべて彼の名前で積み上げてきたものだったからだ。五年目。ヘッドハンターから連絡が入った。新設された投資銀行が、パートナーとして私を招きたいという打診だった。一晩中迷い抜いた末、最後に言司へそっと打ち明けた。スマホを置き、私を見つめた彼は言った。「お前が行ったら、誰が俺を助けるんだ」私はそのオファーを断った。六年目。彼の母親が、一枚の合意書を私の目の前に突きつけた。【第一条:白瀬詩音は久我言司との間に婚姻関係が存在しないことを確認し、本同居は自発的なものであり、いかなる法的拘束力も生じないことを認める。第二条:関係解消後、白瀬詩音は久我家に対していかなる金銭的補償、慰謝料、財産分与も請求しない】言司は隣に立ったまま、ただの一言も発しなかった。サインを済ませて廊下に出た私は、階段の踊り場にしゃがみ込んだまま、三十分ものあいだ動けなかった。やがて涙を拭い、キッチンへと戻り、彼の大好きな肉じゃがを
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第4話

社長室の入り口には、言司が立っていた。シャツの襟ボタンは外れ、ネクタイはまだ曲がったままだ。彼はその場を一瞥し、私が七海の胸元へ書類を押しつけている光景を見て、すっと目を細めた。「白瀬詩音、何をしているんだ。小林七海は新入りのインターン生だ。お前はベテランなんだから、後輩の指導は適切に行え。私情を仕事に持ち込むな」声のトーンこそ穏やかだったが、その一言一言が、明らかに七海を庇うためのものだった。社長室の前で、十数人の社員が見守る中で。かつての私であれば、目を赤くして頭を下げ、「すみません、気をつけます」と謝罪していただろう。しかし今日の私は、ただ静かに頷いただけだった。「おっしゃる通りです。私には確かに能力が不足しており、インターン生ひとりを満足に指導することもできませんでした」そう言ってバッグから一枚の書類を取り出し、傍らのデスクへぱっと置いた。「異動申請書です。サインをお願いします。私は投資運用部へ戻ります」言司の表情が、目に見えて変わった。申請書に目を落とすと、その口の端がわずかに引きつる。「馬鹿なことを言うな」彼は申請書を押し返した。「社長室に八年もいて、誰よりも業務に通じているお前が、なんで異動する必要があるんだ」「久我社長。私がここにいた八年間でやってきたことは、ただひとつだけです。あなたのために、分析レポートを書き続けることでした」私の声は決して大きくなかったが、その場にいる全員の耳に真っ直ぐに届いた。「昨年の海通M&A案件、その核心となるリスク管理モデルは私が作りました。一昨年の中遠投資案件、財務分析フレームワークを構築したのも私です。三年前の譲豊再編案件では、最終的な発表用スライドを私が徹夜で仕上げました」私は、言司の目を真っ直ぐに見据えた。「ですが、それらのレポートに署名されていた名前は、すべて『久我言司』でした」周囲の誰かが、小さく息を呑む音がした。言司の顔が、怒りと焦りで赤みを帯びる。七海は、コーヒーカップを持つ手を小刻みに震わせていた。「お前……っ」歯を食いしばり、喉の奥から声を絞り出すように彼が言った。「白瀬詩音、自分が今、何を言っているのかわかっているのか」「一から十まで、すべてバックアップを取ってあります」自分でも驚くほど、私の
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第5話

ただの偶然だろう。深く考えることもなく、私は目の前のプロジェクトに没頭し続けた。江海グループのM&A案件は、予想よりもずっと早く進展した。中核となるレポートは三稿まで推敲を重ね、その最終版を提出した日のうちに、相手側は意向書にサインをした。案件は、無事に成立した。異例なことに、言司が花城グループ名義で打ち上げを主催した。この八年間、私が十数件もの重要な案件を成功に導いてきた中で、彼が労いの席を設けたことなど一度もなかったというのに。私は長机の中ほどに腰掛け、資産運用部の同僚たちと静かにグラスを合わせた。一方の七海は言司の隣に陣取り、満面の笑みで甲斐甲斐しく料理を取り分けている。まるで、花から花へと舞う幸せそうな蝶のようにせっせと動き回っていた。「久我社長、このガーリックシュリンプ、すごく美味しいですよ。ぜひ召し上がってみてください」グラスを持つ私の手が、ピタリと止まった。ニンニク?言司は重度のニンニクアレルギーを持っている。ほんの少し口にしただけでも全身に発疹ができ、ひどいときには喉が腫れ上がって呼吸困難に陥る。思わず、視線を上げた。しかし、すぐに手元へ目を戻す。声には出さなかった。見間違いだろうか。微かに潤んでいた言司の瞳が、すっと冷たく翳ったのだ。彼は箸を置き、苛立ちを隠そうともしない声で言った。「俺はニンニクアレルギーだ。自分で取った料理は自分で食べなさい。俺の取り皿には乗せないように」七海の満面の笑みが引きつり、耳の先まで真っ赤に染まった。宴席で、言司は相当なペースで酒をあおっていた。お開きになる頃には、一人でまともに立っていられないほど泥酔していた。運転代行を二度呼んでも捕まらず、見かねた七海が慌てて支えようとしたものの、彼はその手を冷たく払いのけた。結局、私が彼をマンションまで連れ帰ることになった。玄関まで肩を貸して支え、リビングのソファに放り込み、ブランケットを一枚無造作に掛けた。靴は脱がさなかった。温めたタオルで顔を拭いてやることも、酔い覚ましのゆず茶を作ってやることも、しなかった。踵を返そうとした瞬間、手首を強く掴まれた。「詩音」薄く開かれた言司の目は、充血して真っ赤だった。「まだ、七海のことで怒っているのか」私は、自分の手首
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第6話

並べたのは、二通の書類だ。一通は、ゴールドマン・サックスのアジアパシフィック部門から届いた、パートナーとしての招聘状。そしてもう一通は、私自身が書き上げた退職願だった。私は言司の顔を真っ直ぐに見て、どこまでも軽やかな声で言った。「辞めるわ」言司はしばらく呆然と立ち尽くしていたが、やがてハッと我に返り、ゴクリと喉を鳴らした。「ゴールドマンに行くのか?」少しかすれた声だった。「アジアパシフィックの、パートナーにだと?」私は静かに頷く。「江海の案件がまとまってから、ヘッドハンターから三度もアプローチがあったのよ」言司の指が、退職願の端をなぞる。力が入りすぎているのか、指の腹が白く鬱血していた。「却下だ」彼は、退職願を力強く押し返した。「詩音、少し冷静になれ」「今冷静だけど。この八年間で、最も冷静な決断よ」言司は私をじっと見つめ返した。その瞳の奥底で、今まで一度も見たことがないような何かが激しく揺れ動いていた。「辞めるのは構わない。だが、引き継ぎが完全に終わってからにしろ。江海案件の後続対応を一番正確に把握しているのはお前だ。この期に及んで、すべてを放り出すつもりか」私は、ふっと軽く笑った。「ふっ。小林七海さんに頼めばいいじゃない。あれだけ上手に久我社長に尽くせるんだから。お茶出しや食事の用意は完璧なんだから、レポート作成やモデル構築だって、きっとお手の物よ」言司の顔色が、みるみるうちに険しくなる。「……そこまで関係をこじらせるつもりか」「こじらせたのは、私ではないわ」私は、退職願を再び彼の目の前へと押し戻した。「サインしてください。これが、最後のお願いよ」言司は、その薄い紙切れをじっと見下ろした。長い間、食い入るように見つめていた。それからおもむろに万年筆を取り出し、署名欄の上に荒々しい筆致で一行だけ書きなぐった。【却下。理由:中核人材につき、退職を一切認めない】私はほんの少しだけ、呆然とその文字を見つめた。言司は退職願を折りたたみ、スーツの内ポケットへとねじ込んだ。「引き継ぎ期間は一ヶ月だ。その間は、どこへも行かせない」そう言い捨てると、踵を返して社長室へと戻っていった。翌朝。人事部長の田中が、直々に投資運用部へと足を運んできた。「白瀬
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第7話

対処できる人間は、社内に二人だけだった。ひとりは、私。そしてもうひとりは、三年前に言司によって会社を追われていた。部長が額に脂汗を浮かべ、私のデスクへすっ飛んできた。「白瀬さん、どうかお願いです。あなた以外に、この急場を凌げる人間はいないんです!」私は作成途中だった引き継ぎ資料を、ゆっくりと脇へ押し退けた。「いいですよ。でも、条件が一つだけあります」「なんでもおっしゃってください」「私の名前を、プロジェクトメンバーのリストに明記してください。アシスタントやコーディネーターとしてではなく、『チーフアナリスト』として」部長は一瞬だけ虚を突かれたように固まり、それから何度も力強く頷いた。「もちろんです。そうあるべきでした。ずっと、ずっと前から」丸二日かけて株主間協定モデルを再構築し、さらに徹夜で株式持ち合いのスキームを完璧に修正した。三日目の午後。分厚い修正案が、相手方弁護士団のもとへと提出された。首席弁護士は資料を隅から隅まで読み終えると、ゆっくりと眼鏡を外した。「この修正案、いったい誰が作成したんですか」部長が私を指差した。「白瀬詩音です。我が花城グループ投資運用部の、チーフアナリストです」弁護士は私をひと目見て、深く頷いた。「素晴らしいですね。相当なレベルです。前回、久我社長が持参された案よりずっと優れています」ふと気づくと、会議室のドアのところに人影があった。いつからそこに立っていたのかはわからない。言司がドア枠に寄りかかり、手をスラックスのポケットに突っ込んでいた。その無表情からは、一切の感情が読み取れない。私は資料をバッグに片付け、会議室の外へ向かった。彼の傍らを通り過ぎようとしたとき、言司は一歩も動かず、道を開けようとしなかった。「案、見たぞ。よくできている」少しだけ間を置いて、彼は続けた。「以前、お前が作っていたものと、同じくらいだな」私は体を横に向け、彼とドア枠のわずかな隙間をすり抜けた。その瞬間、彼のシャツの袖口が私の手の甲をかすめ、わずかにざらりとした冷たい感触が走った。「お褒めいただき、ありがとうございます。ですが今回は、レポートに署名されているのは私の名前です」振り返ることはせず、そのまま真っ直ぐに歩き続けた。背後からは、し
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第8話

私はコップに水を注ぎ、彼女の前に置いた。「久我さん。私が会社を辞めるのは、ただそうしたいからです。誰かと取引をするためではありません」彼女は、鼻先でせせら笑った。「とぼけないでちょうだい。あなたみたいな子、私はいやというほど見てきたわ」彼女はバッグから一枚の小切手を取り出すと、テーブルの上へ押しつけた。「二百万円よ。これを受け取って、守秘義務の念書にサインして、きれいさっぱり出て行きなさい。言司との関係をあちこちで言いふらすような真似はしないでね。こちらが恥をかくから」私は、その小切手を冷ややかな目で見下ろした。二百万円。私の八年分の青春を、たった二百万で買い叩こうとしているのだ。私は指先で小切手をスッと押し返した。「六年目に、私にサインさせた合意書がありますよね。あそこには、『関係解消後、白瀬詩音は久我家に対していかなる金銭的補償も請求しない』と明記されていました。私はそれにサインした。ですから、あなたのお金を受け取るわけにはいきません。ただ、あの合意書にはもう一条、すっかりお忘れかもしれない条項がありました。『久我家は、いかなる形においても白瀬詩音のキャリア形成、および私生活に干渉してはならない』と」奈美江の顔色が変わった。「それは、あなたが勝手に……」「ご自身の弁護士に起草させたものです。後半の条項など、どうせ使われる日は来ないだろうと高を括っていたのでしょうね」私は静かに立ち上がった。「久我家のお金など、一円たりともいりません。ですが、私の退職にこれ以上干渉されるというのなら、私はあの合意書を労働審判所に提出します。そのとき世間に恥を晒すのは、私ではありませんよ」奈美江の唇が、小刻みに震えた。小切手をひったくるようにバッグへねじ込むと、ヒールの音を荒々しく鳴らしながら玄関へと向かう。ドアのところでピタリと立ち止まり、忌々しげに振り返った。「……詩音さん、後悔しないでちょうだい。久我家という後ろ盾を離れたら、あなたなんて何者でもなくなるのよ」私は薄く笑みを浮かべた。「ふふ。私がまだ『何者でもなかった』頃、三つの大手投資銀行がこぞって私を引っ張り合っていました。むしろ私が『何者でもなくなった』のは、久我家に尽くすようになってからのことです」奈美江は屈辱で顔を真っ赤に染
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第9話

「ええ、わかっていますが、それがどうかしましたか」私は静かに立ち上がった。「三年前、私はあのパワポ資料を七日間徹夜して仕上げました。プレゼンの前夜には四十度の高熱を出し、病院で点滴を打ちながら、スライドの最終修正を行いました。そして翌日。仕立てのいいオーダーメイドのスーツを着こなしてステージに立ったあなたを、周囲の人間は皆、プロフェッショナルだ、緻密だ、天才だと口々に褒め称えましたね。あのとき私は、客席の隅に座ったままでした。熱はまだ、まったく引いていなかったんです。それなのにあなたは、私にコップ一杯の水すら持ってきてはくれなかったんです」フロア中が、水を打ったように静まり返った。床に針が落ちる音さえ聞こえそうなほどの沈黙の中、資産運用部の全員が、息を呑んで二人のやり取りを見つめている。言司の喉仏が、二度上下した。「……すまなかった」たったその一言を口にするためだけに、彼は全身の力を振り絞ったように見えた。私は真っ直ぐに彼を見つめ返した。八年間。彼から謝罪の言葉を聞いたのは、これが初めてのことだった。なんという皮肉だろう。彼が頭を下げたのは、私に対する罪悪感からではなく、会社の四十億を守るためなのだ。「オリジナルデータは、私のプライベートクラウドに保存されています。万が一のために、個人でバックアップを取る習慣がありましたので」その言葉に、言司の目にぱっと希望の光が宿った。「クラウドのアクセスパスワードは、後ほど部長にお送りします。ただし、一つだけ条件があります。譲豊再編案件に関するすべての提出書類の作成者名を、元の正しい名前に戻してください――白瀬詩音に」言司は射抜かれたように私を見た。その瞳の奥深くで、何かが音もなく砕け散るのがわかった。「……わかった」呟くような、小さな声だった。だが私の耳にははっきりと届いていた。それが単なる条件への承諾などではないことが。それはどちらかと言えば、完全な白旗――降伏宣言に近い響きだった。私は彼から視線を外し、デスクの上にあった最後の書類を淡々と片付け始めた。「バックアップデータの復元から検証、再提出まで、最短で二日あれば足ります。三日という期限なら十分間に合うはずです。データの復元手順は、引き継ぎ資料の七ページ目に詳細に記載してありま
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第10話

私は意外さに固まった。「詩音さんがお粥を届けにいらしたあの夜。清掃のおばさんが言っていたお弁当箱は、確かに私が置いたものだったわ。でも久我社長は、見向きもせずに『持って帰れ』と冷たく言って。私、それが悔しくて……自分でゴミ箱に捨てたの」七海は深く頭を下げた。「おばさんは、社長が食べ終わって捨てたのだと勘違いしたみたいで。実際には、一度も蓋を開けられてすらいなかった」私は段ボール箱を抱えたまま、頭の中が真っ白になるのを感じた。「じゃあ、あの朝、会社の皆の前で自慢していたのは……」「わざとよ」七海が顔を上げる。その目は少しだけ赤く潤んでいた。「私、詩音さんのことが、ずっと羨ましかったの。入社した初日から、周りの先輩たちがみんな噂していた。久我社長の傍にいるあの人は、ただの秘書じゃないって。八年間も連れ添っていて、仕事も桁違いにできて、誰にも崩すことのできない揺るぎない地位を築いているんだって。だから、あなたを動揺させて、失敗させて、自分から身を引くように仕向けたかった。久我社長が私の方を気に入っているのだと、そう思い込ませようとした」七海は小さく鼻をすすった。「でも、詩音さんは決して崩れなかった。私が想像していたより、ずっと、ずっと強い人だったわ」ビルの谷間から強いビル風が吹き抜けて、私が抱えていた段ボール箱の蓋をひらりとめくり上げる。「七海さん」「……はい」「あなたが本当に社長を好きだというのなら、私の真似だけはしないで。愛する人のために、自分自身を消してしまわないで」七海はしばらく呆然と固まっていたが、力強く頷いた。そして私は再び前を向き、歩き出した。エントランスから十数歩進んだところで、見覚えのある黒いセダンが路肩に停まっているのに気がついた。スモークガラスがゆっくりと下がる。運転席には、言司が座っていた。エンジンもかけず、当然エアコンもつけないままで。スーツの上着は助手席へ無造作に放り投げられ、ネクタイは半分ほどだらしなく緩められている。ずいぶん長い間そこで待っていたようだった。「乗れ。送っていく」私は開いた窓越しに彼を見下ろした。容赦ない日差しが彼の顔を照らし出し、白目に走る無数の赤い充血の筋までがはっきりと見て取れた。その顎のラインは、ひどく強張って張り詰
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