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第9話

Auteur: 鋭子
「ええ、わかっていますが、それがどうかしましたか」

私は静かに立ち上がった。

「三年前、私はあのパワポ資料を七日間徹夜して仕上げました。プレゼンの前夜には四十度の高熱を出し、病院で点滴を打ちながら、スライドの最終修正を行いました。

そして翌日。仕立てのいいオーダーメイドのスーツを着こなしてステージに立ったあなたを、周囲の人間は皆、プロフェッショナルだ、緻密だ、天才だと口々に褒め称えましたね。

あのとき私は、客席の隅に座ったままでした。熱はまだ、まったく引いていなかったんです。それなのにあなたは、私にコップ一杯の水すら持ってきてはくれなかったんです」

フロア中が、水を打ったように静まり返った。床に針が落ちる音さえ聞こえそうなほどの沈黙の中、資産運用部の全員が、息を呑んで二人のやり取りを見つめている。

言司の喉仏が、二度上下した。

「……すまなかった」

たったその一言を口にするためだけに、彼は全身の力を振り絞ったように見えた。

私は真っ直ぐに彼を見つめ返した。

八年間。

彼から謝罪の言葉を聞いたのは、これが初めてのことだった。

なんという皮肉だろう。

彼が頭を下げ
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  • あなたの後悔に、私は署名しない   第11話

    「四年目に言ってくれていても、間違いなく残っていたでしょうね。六年目のときだってそう。あなたのお母さんが私にあの屈辱的な合意書にサインを迫ってきたとき、あなたが隣で一言『サインするな』と庇ってくれたなら――私はそれでも、あなたの傍に残っていた。でも、今はもう違うの」言司の手が、力なくハンドルから滑り落ちた。大切な何かを根こそぎ抜き取られてしまったような、そんな空虚な顔だった。私はタクシーのドアを開け、後部座席へと乗り込んだ。車が滑り出したとき、バックミラー越しに、言司の黒いセダンがまだ元の場所に停まっているのが見えた。タクシーが交差点を曲がり、完全に視界から見えなくなるまで、あの車が動くことはなかった。……三ヶ月後。ゴールドマン・サックスのアジアパシフィック本部ビル。四十七階の全面ガラス張りの窓の外には、息を呑むような大都会のスカイラインが果てしなく広がっている。私は、自分専用のオフィスで座っていた。パーテーションで区切られただけのワークスペースではない、完全な個室だ。ドアのプレートには、真新しい文字でこう刻まれている。【白瀬詩音 パートナー】デスクの上には、着任してすぐに手がけた初の大型案件――国際M&Aプロジェクトの膨大な資料が積まれている。その取引規模は、あの花城グループの年間売上高の、実に三倍にも上る数字だった。デスクに置いたスマホが震えた。見知らぬ番号からの着信だった。「白瀬詩音様でいらっしゃいますか。私、経済誌『ファイナンス・ウィークリー』の記者と申します。先日白瀬様が主導された大型の国際M&A案件につきまして、ぜひ単独取材をさせていただきたくご連絡いたしました。それからもう一点、事実確認をさせていただきたいのですが――現在ネット上に流出している花城グループの内部文書によりますと、過去八年間にわたる複数の中核プロジェクトにおいて、その実質的な立案者が白瀬様ご自身であったと示されているようですが……」「取材の件、お受けいたします。また、過去の署名に関する事実関係につきましても、完全な証拠データをそちらへ提供することが可能です。ただ、記事の中で一点だけ明記していただきたいことがあります」「何でしょうか?」「あのプロジェクト自体の高い質は、表紙に誰の名前が書かれていたか

  • あなたの後悔に、私は署名しない   第10話

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  • あなたの後悔に、私は署名しない   第9話

    「ええ、わかっていますが、それがどうかしましたか」私は静かに立ち上がった。「三年前、私はあのパワポ資料を七日間徹夜して仕上げました。プレゼンの前夜には四十度の高熱を出し、病院で点滴を打ちながら、スライドの最終修正を行いました。そして翌日。仕立てのいいオーダーメイドのスーツを着こなしてステージに立ったあなたを、周囲の人間は皆、プロフェッショナルだ、緻密だ、天才だと口々に褒め称えましたね。あのとき私は、客席の隅に座ったままでした。熱はまだ、まったく引いていなかったんです。それなのにあなたは、私にコップ一杯の水すら持ってきてはくれなかったんです」フロア中が、水を打ったように静まり返った。床に針が落ちる音さえ聞こえそうなほどの沈黙の中、資産運用部の全員が、息を呑んで二人のやり取りを見つめている。言司の喉仏が、二度上下した。「……すまなかった」たったその一言を口にするためだけに、彼は全身の力を振り絞ったように見えた。私は真っ直ぐに彼を見つめ返した。八年間。彼から謝罪の言葉を聞いたのは、これが初めてのことだった。なんという皮肉だろう。彼が頭を下げたのは、私に対する罪悪感からではなく、会社の四十億を守るためなのだ。「オリジナルデータは、私のプライベートクラウドに保存されています。万が一のために、個人でバックアップを取る習慣がありましたので」その言葉に、言司の目にぱっと希望の光が宿った。「クラウドのアクセスパスワードは、後ほど部長にお送りします。ただし、一つだけ条件があります。譲豊再編案件に関するすべての提出書類の作成者名を、元の正しい名前に戻してください――白瀬詩音に」言司は射抜かれたように私を見た。その瞳の奥深くで、何かが音もなく砕け散るのがわかった。「……わかった」呟くような、小さな声だった。だが私の耳にははっきりと届いていた。それが単なる条件への承諾などではないことが。それはどちらかと言えば、完全な白旗――降伏宣言に近い響きだった。私は彼から視線を外し、デスクの上にあった最後の書類を淡々と片付け始めた。「バックアップデータの復元から検証、再提出まで、最短で二日あれば足ります。三日という期限なら十分間に合うはずです。データの復元手順は、引き継ぎ資料の七ページ目に詳細に記載してありま

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