LOGIN岩森市に降り立つと、空気にはひんやりとした冷たさが混じっていた。岩森の、物寂しい秋を目にするのは、もうずいぶん久しぶりだった。コートをきつく身体に巻きつけながら、私はまだどこへ行くか決められずにいた。家に帰るのは怖い。でも、帰らなければ、この広い岩森市のどこにも私の居場所はないように思えた。「心咲」誰かが私を呼んだ?自分の耳がおかしくなったのかと思い、首を振って、そのまま歩き続けた。「心咲!」私は勢いよく振り返った。そこに立っている人を見た瞬間、涙が溢れた。「お父さん……お母さん!」この数年間、私は徳宮家によって家族との連絡を断たされていた。けれど実は、明美が私の名を借りて、ずっと両親の面倒を見てくれていたのだ。両親は、私が元気だったかなんて聞かなかった。ただ、こう尋ねた。「お腹、空いてるか?」私は頷いた。すると両親は笑って聞いた。「何が食べたい?」私は、港市では食べられなかった岩森の名物や昔から好きだった軽食を、次から次へと口にした。両親は笑って言った。「とっくに用意してあるよ」私は、涙が止まらなかった。「ごめんなさい……ごめんなさい」私がわがままだった。私が自分勝手だった。……港市では、一輝が救助された。大量の海水を何度も吐き出したあと、それでもなお、もがいて海へ飛び込もうとした。明美は、彼の頬を思いきり平手打ちした。「よく見なさい。もうあの子は行ってしまったのよ。そんな姿を誰に見せるつもり?」一輝は、虚ろな目をしたまま、ぴくりとも動かなかった。そうだ。もう人はいない。自分は誰のために、こんな芝居をしているのだろう。明美は本当なら、もう一輝のことに口を出すつもりはなかった。けれど、この数年で一輝は日に日に父親に似てきていた。彼女は少し後悔していた。もっと早く介入していれば、一輝と心咲は、こんな結末を迎えずに済んだのではないか。「この件が片付いたら、あとは好きにすればいいわ」そう言って、明美は資料の束を放り出した。一輝は、心咲が残したものだと思った。けれど家に戻り、それを宝物のように大切に開いてみて、ようやく知った。すべてが嘘だった。青葉は、ただの詐欺師だった。心咲が持っていた魅力を盗み取り、それを真似
無事に離れるため、私は二人の仲を裂くことにした。だが、青葉に会うのは簡単ではなかった。そんな時、一輝が青葉から電話を受け、帰ってきてほしいと急かされた。私はそこで、ある計画を思いついた。「彼女が妊娠したから何?」吐き気を堪えながら、私は一輝に無理やり口づけた。「言っておくけど、私だって子どもくらい産めるんだから!」……丸2日、一輝が私のそばに留まり、青葉に一度も連絡しなかった。すると、私が会いたかった人のほうから、わざわざ姿を現した。私は昔から、愛人になれるような女が、一輝の思っているほど純真だなんて信じていなかった。特に、カグヤちゃんが死んだ時のことを後から何度も思い返してみると――あまりにも出来すぎていた。青葉のことは知らなくても、何年も自分の手で育ててきたカグヤちゃんのことなら、誰よりも私が知っている。私はカグヤちゃんの遺体を解剖してもらった。案の定、肺にはある化学物質が残留していた。馬を発情させる薬だった。そして、あの日、カグヤちゃんに近距離で触れたのは青葉だけ。最も疑わしいのは、彼女だった。「ふん。私がやったっていう証拠でもあるの?」青葉は慎重だった。けれど、不自然に強張った表情が、かえってすべてを物語っていた。青葉がここへ来た目的は、私を刺激して港市から追い出すことだった。「たとえ一輝に私がやったって知られたところで、どうなるっていうの?私のお腹にいるのは徳宮家の跡継ぎよ。子どもも産めないあなたが、いつまでも人の場所を奪って居座ってないで。利口なら、とっとと港市から出て行きなさい。もう一輝につきまとうのもやめて」私は笑った。そして私も、彼女を煽ることにした。「まだ知らないのね。一輝は、あなたが子どもを産んだら、その子を私に育てさせるって言ってたわ。あなたは海外で一生暮らすの。もちろん、一生その子には会えない」「そんなの嘘よ!でたらめ言わないで!」青葉の声が裏返った。私はスマートフォンを取り出し、録音を聞かせた。青葉は、一輝がそこまで私を愛しているとは思いもしなかったのだろう。自分の子どもまで奪って、私に育てさせようとするなんて。彼女は、子どもさえ手に入れば、それを切り札にして、一輝の妻として安泰にできると思っていた。ところが
青葉は慌てた。心咲はこれで完全に退場し、自分がようやく一輝の妻の座に収まれると思っていた。だが、彼女は心咲が一輝の心の中でどれほど大きな存在なのかを見誤っていた。一輝は浮気癖のある男だ。だから、二人の間にある愛情もきっと薄っぺらいものだと思っていた。まさか一輝が、ただの女好きではなく、女好きでありながら一途な男だったなんて。幸い、彼女にも切り札は残してあった。そう。すべては青葉の計算だった。監督に裏で迫られていたところを、一輝に偶然見られたことも。40億円を積まれても心を動かされず、苦労を厭わず、端役を演じ続けていたことも。あの貧しい恋人さえも。すべて、嘘だった。彼女はずっと前から、一輝と心咲の過去を徹底的に調べ上げていた。一輝の女好きな性格と、心咲への執着を利用して、青葉は心咲の仕草や性格を真似ることで、一輝の注意を引くことに成功した。初恋より、さらに男を惑わせるものがあるとすれば――それは、若き日の彼女だ。だが、まさか長年連れ添った妻の存在感が、ここまで強大だったとは。青葉は、ついに切り札を切るしかなくなった。「私、妊娠したの」一輝は、案の定その場で固まった。徳宮家は何代にもわたって、一人息子しか生まれていない。慎一郎には十数人の愛人がいたが、最後に残った跡継ぎは一輝ただ一人だった。心咲は何度も妊娠したものの、一度も子どもを産むことができなかった。一輝は口にこそ出さなかったが、心の中では子どもを望んでいた。青葉の家系の女性はもともと妊娠しやすい体質だった。しかも彼女は一輝のために、ずっと前から身体を整えていた。今度こそ、心咲に一輝を引き留める術など残っていない。――そう、青葉は思っていた。……もし私が青葉の考えを知っていたら、思わず笑ってしまっただろう。彼女は、本当に何も分かっていない。私は、一輝を引き留めたいなんて、これっぽっちも思っていないのだから。ただ、一輝はこの街で絶大な権力を握っている。たとえ家から逃げ出せたとしても、港市から離れることはできない。どうすれば逃げ出せるか考えていた、その時だった。家に、思いもよらない人物がやって来た。「……お義母さん」明美は相変わらず優雅だった。そして私に1枚の船のチケットを差し出し
一輝は唇を固く結び、長い沈黙のあと、ようやく口を開いた。「認める。俺は青葉を愛してしまった。だが、それはお前を愛していないということじゃない」「それで?」私は彼の心の奥底にある、醜い考えを容赦なく暴いた。「私の愛のほうが、あなたの愛よりずっと深いと分かっているから、そんなに安心していられるんでしょう?私があなたから離れられないと思っているから、何度も何度も私を傷つけられた。そうでしょう?」一輝は言葉を失った。そして、その顔から少しずつ血の気が引いていった。ほら。彼は全部、分かっていたのだ。私はまた、彼に閉じ込められた。一輝は私の頬を撫でながら、独り言のように呟いた。「俺はただ、お前に後悔してほしくなかったんだ」私はもう、彼と一言も話したくなかった。私が変わってしまったことを受け入れられない一輝は、痛々しい背中だけを残して去っていった。彼が真っ先に青葉のもとへ向かわなかったのは、初めてのことだった。代わりに車を走らせ、徳宮家の屋敷へ戻った。戸籍謄本に刻まれた青葉の名前を見つめながら、一輝は思った。――この名前を戸籍から抜けば、もう一度やり直せるのではないか。その時、背後から母親の冷たい声がした。「あなたは、お父さんにそっくりね」明美は一輝の父の位牌を見つめ、その顔に嫌悪を滲ませた。「惚れっぽくて、情にもだらしない。だから、あなたたちは愛する人を失う運命なのよ」一輝の父、徳宮慎一郎(とくみや しんいちろう)は事業のために明美の一族との政略結婚を選び、初恋の女性を捨てた。それなのに権力を手に入れると、今度はその初恋の女性と人目を忍んでよりを戻そうとした。初恋の女性は「本当の愛」に自信を持ち、何度も明美を挑発した。だが、どうなったか。1年も経たないうちに、慎一郎は港市一の人気歌姫へ心変わりした。慎一郎の初恋の女性は気性が激しかった。自分こそが真実の愛だと思っていたうえに、明美よりも先に慎一郎と付き合っていたことから、自分が愛人だとは決して認めようとしなかった。だが、慎一郎の移り気な性分は、そんな彼女の自尊心を容赦なく打ち砕いた。怒りと絶望のあまり、彼女は身ごもったまま海へ身を投げ、自ら命を絶った。慎一郎は悲嘆に暮れ、激しく後悔した。食事も水も喉を通
徳宮家の一員になるには、新聞に告知を出して正式な儀式を執り行う必要がある。一輝は、事前に私の意見を聞いてきた。もう手放すと決めていたのだから、当然私は反対しなかった。彼がどうしようと、それは彼の自由だ。私の答えは、明らかに彼が望んでいたものだ。それなのに一輝は、どこか不機嫌そうだ。「どうして、全然怒ってないんだ?」私は逆に問い返した。「じゃあ、今から反対したら?あなたは私のために取りやめてくれるの?」私の答えを聞くと、彼は黙り込んだ。けれど、私の言葉を聞いたせいか、むしろ表情は少し和らいだ。私には分からなかった。自分から先に私たちの関係に心変わりを持ち込んだくせに、私が他へ心を向けることは許さない。この歪んだ関係から離れて初めて、私はようやく気づいた。一輝の愛が、どれほど身勝手なものだったのか。彼は私を愛している。けれど、一途ではいられない。私が彼を愛するなら、私には彼だけを愛することを求める。私はふと悟った。彼が初めて不倫した時に、別れておくべきだったのだ。一輝の最初の不倫は、事故のようなものだった。私たちが結婚して、まだ1年しか経っていなかった頃。彼は誰かに嵌められ、薬を盛られた。そして、用意されていた女と一夜を共にした。週刊誌のスクープ記事には、彼とその女のベッド写真が一斉に載った。私は怒りのあまり流産し、体を休めて回復を待つことさえ投げ出し、すぐに港市を出ようとした。一輝は分かっていた。私が一度港市を離れたら、二度と戻ってこないと。だから彼は雨の中に跪き、1日もの間、必死にブラシで自分の身体を擦り続けた。皮膚が擦り切れ、血と肉が滲むまで。私はもう、見ていられなかった。彼は私の脚にしがみつき、声を枯らして叫んだ。「きれいにした。俺は本当に、全部きれいにしたから。頼むから、行かないでくれ」それが、私が初めて彼に譲歩した時だった。その日から一輝は、自分が私を傷つけたことを悔いて、以前にも増して私を大切にするようになった。けれど、心は彼を受け入れても、流産と大きな悲しみを経験した身体は、なかなか彼を受け入れようとはしなかった。一輝が2度目に不倫したのは、それから半年後だった。夜の営みをめぐって私たちが大喧嘩をした後、彼は腹を立て、幼馴染の女と酒を飲
「ずいぶん耳が早いんだな」私が現れたことに、一輝はさほど驚いていないようだった。「反対しに来たのなら、これだけは言っておく。徳宮家のことを、お前に決める権利はない」一輝は警戒するように青葉を庇い、その身体を自分の後ろへ隠した。反対って、何に?私はわけが分からず、胸の奥に不安がよぎった。一輝の母、徳宮明美(とくみや あけみ)は私を一人で部屋に呼び、戸籍謄本のあるページを指さした。そこにはこう記されていた。【徳宮青葉 続柄 養女】頭から冷水を浴びせられたように、全身が凍りついた。私は信じられない思いで、何度もその文字を見つめた。「一輝の意向では、青葉とは婚姻の届けが出せない以上、彼女に名分を与えるために、養子縁組で入籍させたということなの」明美の口調は淡々としていた。まるで、こういう光景をすでに見慣れているかのように。「あなたも知っているでしょう。一輝の父親が亡くなってから、徳宮家はすべて一輝のもの。あの子を止められる人間なんて、もういないのよ」10年前、確かに私は一輝と婚姻届を出した。けれど、徳宮家に何百年と続く伝統的な考え方では、家族に認められた者だけが真の徳宮家の奥方と見なされるのだった。法律上、私は一輝の妻だった。それでも、彼の一族は私を認めなかった。つまり私は、名ばかりの妻。私はそのことを、ずっと恥に思っていた。一輝は、必ず私を家族に認めさせると固く誓った。けれど私は10年努力しても、何の結果も得られなかった。青葉はたった10日で、当然のように徳宮家の一員になったのだ。そうだったのだ。彼は忘れていたわけじゃない。ただ、「妻」の座が、もう私のものではなくなっただけ。一輝は、本気で彼女を愛してしまった。私は、一輝が誰かを愛する時の姿を知っている。だから、彼に愛されなくなったという現実だけは、どうしても受け入れられなかった。たまに他の女に心を奪われるくらいなら、見ないふりもできた。けれど、彼が今も私だけを愛しているなんて、自分自身に嘘をつくことはできない。私は、完膚なきまでに負けた。バッグの中でくしゃくしゃになっていた賭けの誓約書を、私は少しずつ広げた。普段は冷淡な明美が、そこに書かれた文字を目にした瞬間、整った無表情に初めて動揺が浮かんだ。「