LOGIN徳宮一輝(とくみや かずき)が新たに目をつけた女は、気性が激しかった。 40億円を積まれても、その女は貧しい恋人と別れようとはしなかった。 腹を立てた一輝は、彼女を半月湾の別荘に閉じ込めた。 7日もの間。 使用人から聞いた話では、徳宮様はなかなかのやり手らしい。死んでも屈しないような女でさえ、最後にはしおらしく従順にしてしまうのだという。 事が済むと、一輝はいつものように私・清水心咲(しみず みさき)のところへ来て、慣れた様子で謝った。 これで何度目の不倫なのか、もう私には数えることも区別することもできなかった。 ちょうど今だって、先月彼のベッドに上がった若い秘書のことで、私は一輝と冷戦中だった。 けれど彼はとっくにその秘書に飽き、新しい女に乗り換えていた。 そう思うと、私の嫉妬さえ、ひどく滑稽で無意味なものに感じられた。 いつからだろう。彼は不倫の言い訳すらしなくなった。 ただ面倒くさそうに、「正式な妻はお前一人だ。それじゃ足りないのか?」と、そう言うだけ。 いつしか私自身、そんな彼を納得させるのではなく、自分自身に言い聞かせるようになっていた。 不倫をしない男なんていない。ましてや港市そのものを手中に収める一輝なら、なおさらだ。 ただ遊んでいるだけ。心さえ私のもとにあるなら、それでいい。 そう思っていた。 だが知ってしまったのだ。あの女はたった10日で、一輝に自分の名前を徳宮家の戸籍に書き込ませたということを。 その時、私は悟った。一輝は本気で心を動かされたのだ、と。 その後、私は一輝の母親を自ら訪ねた。 「私の負けです。私はこの街を離れます」 「愛に勝ち負けなんてないんだよ」 彼女は私を見つめ、惜しむような目をした。けれど、引き止めはしなかった。 ただ、静かに尋ねた。 「……戻ってくるつもりはあるの?」 かつて一輝と結婚するため、私は徳宮家の屋敷の前に一晩中跪いた。 両親と縁を切ることも、一文無しになることも厭わなかった。 そして、二度と港市を離れないと誓った。 けれど今、これが最後だと思いながら、私は潮風を頬に受けていた。 もう二度と、ここへ戻ることはない。私は、そう確信していた。
View More岩森市に降り立つと、空気にはひんやりとした冷たさが混じっていた。岩森の、物寂しい秋を目にするのは、もうずいぶん久しぶりだった。コートをきつく身体に巻きつけながら、私はまだどこへ行くか決められずにいた。家に帰るのは怖い。でも、帰らなければ、この広い岩森市のどこにも私の居場所はないように思えた。「心咲」誰かが私を呼んだ?自分の耳がおかしくなったのかと思い、首を振って、そのまま歩き続けた。「心咲!」私は勢いよく振り返った。そこに立っている人を見た瞬間、涙が溢れた。「お父さん……お母さん!」この数年間、私は徳宮家によって家族との連絡を断たされていた。けれど実は、明美が私の名を借りて、ずっと両親の面倒を見てくれていたのだ。両親は、私が元気だったかなんて聞かなかった。ただ、こう尋ねた。「お腹、空いてるか?」私は頷いた。すると両親は笑って聞いた。「何が食べたい?」私は、港市では食べられなかった岩森の名物や昔から好きだった軽食を、次から次へと口にした。両親は笑って言った。「とっくに用意してあるよ」私は、涙が止まらなかった。「ごめんなさい……ごめんなさい」私がわがままだった。私が自分勝手だった。……港市では、一輝が救助された。大量の海水を何度も吐き出したあと、それでもなお、もがいて海へ飛び込もうとした。明美は、彼の頬を思いきり平手打ちした。「よく見なさい。もうあの子は行ってしまったのよ。そんな姿を誰に見せるつもり?」一輝は、虚ろな目をしたまま、ぴくりとも動かなかった。そうだ。もう人はいない。自分は誰のために、こんな芝居をしているのだろう。明美は本当なら、もう一輝のことに口を出すつもりはなかった。けれど、この数年で一輝は日に日に父親に似てきていた。彼女は少し後悔していた。もっと早く介入していれば、一輝と心咲は、こんな結末を迎えずに済んだのではないか。「この件が片付いたら、あとは好きにすればいいわ」そう言って、明美は資料の束を放り出した。一輝は、心咲が残したものだと思った。けれど家に戻り、それを宝物のように大切に開いてみて、ようやく知った。すべてが嘘だった。青葉は、ただの詐欺師だった。心咲が持っていた魅力を盗み取り、それを真似
無事に離れるため、私は二人の仲を裂くことにした。だが、青葉に会うのは簡単ではなかった。そんな時、一輝が青葉から電話を受け、帰ってきてほしいと急かされた。私はそこで、ある計画を思いついた。「彼女が妊娠したから何?」吐き気を堪えながら、私は一輝に無理やり口づけた。「言っておくけど、私だって子どもくらい産めるんだから!」……丸2日、一輝が私のそばに留まり、青葉に一度も連絡しなかった。すると、私が会いたかった人のほうから、わざわざ姿を現した。私は昔から、愛人になれるような女が、一輝の思っているほど純真だなんて信じていなかった。特に、カグヤちゃんが死んだ時のことを後から何度も思い返してみると――あまりにも出来すぎていた。青葉のことは知らなくても、何年も自分の手で育ててきたカグヤちゃんのことなら、誰よりも私が知っている。私はカグヤちゃんの遺体を解剖してもらった。案の定、肺にはある化学物質が残留していた。馬を発情させる薬だった。そして、あの日、カグヤちゃんに近距離で触れたのは青葉だけ。最も疑わしいのは、彼女だった。「ふん。私がやったっていう証拠でもあるの?」青葉は慎重だった。けれど、不自然に強張った表情が、かえってすべてを物語っていた。青葉がここへ来た目的は、私を刺激して港市から追い出すことだった。「たとえ一輝に私がやったって知られたところで、どうなるっていうの?私のお腹にいるのは徳宮家の跡継ぎよ。子どもも産めないあなたが、いつまでも人の場所を奪って居座ってないで。利口なら、とっとと港市から出て行きなさい。もう一輝につきまとうのもやめて」私は笑った。そして私も、彼女を煽ることにした。「まだ知らないのね。一輝は、あなたが子どもを産んだら、その子を私に育てさせるって言ってたわ。あなたは海外で一生暮らすの。もちろん、一生その子には会えない」「そんなの嘘よ!でたらめ言わないで!」青葉の声が裏返った。私はスマートフォンを取り出し、録音を聞かせた。青葉は、一輝がそこまで私を愛しているとは思いもしなかったのだろう。自分の子どもまで奪って、私に育てさせようとするなんて。彼女は、子どもさえ手に入れば、それを切り札にして、一輝の妻として安泰にできると思っていた。ところが
青葉は慌てた。心咲はこれで完全に退場し、自分がようやく一輝の妻の座に収まれると思っていた。だが、彼女は心咲が一輝の心の中でどれほど大きな存在なのかを見誤っていた。一輝は浮気癖のある男だ。だから、二人の間にある愛情もきっと薄っぺらいものだと思っていた。まさか一輝が、ただの女好きではなく、女好きでありながら一途な男だったなんて。幸い、彼女にも切り札は残してあった。そう。すべては青葉の計算だった。監督に裏で迫られていたところを、一輝に偶然見られたことも。40億円を積まれても心を動かされず、苦労を厭わず、端役を演じ続けていたことも。あの貧しい恋人さえも。すべて、嘘だった。彼女はずっと前から、一輝と心咲の過去を徹底的に調べ上げていた。一輝の女好きな性格と、心咲への執着を利用して、青葉は心咲の仕草や性格を真似ることで、一輝の注意を引くことに成功した。初恋より、さらに男を惑わせるものがあるとすれば――それは、若き日の彼女だ。だが、まさか長年連れ添った妻の存在感が、ここまで強大だったとは。青葉は、ついに切り札を切るしかなくなった。「私、妊娠したの」一輝は、案の定その場で固まった。徳宮家は何代にもわたって、一人息子しか生まれていない。慎一郎には十数人の愛人がいたが、最後に残った跡継ぎは一輝ただ一人だった。心咲は何度も妊娠したものの、一度も子どもを産むことができなかった。一輝は口にこそ出さなかったが、心の中では子どもを望んでいた。青葉の家系の女性はもともと妊娠しやすい体質だった。しかも彼女は一輝のために、ずっと前から身体を整えていた。今度こそ、心咲に一輝を引き留める術など残っていない。――そう、青葉は思っていた。……もし私が青葉の考えを知っていたら、思わず笑ってしまっただろう。彼女は、本当に何も分かっていない。私は、一輝を引き留めたいなんて、これっぽっちも思っていないのだから。ただ、一輝はこの街で絶大な権力を握っている。たとえ家から逃げ出せたとしても、港市から離れることはできない。どうすれば逃げ出せるか考えていた、その時だった。家に、思いもよらない人物がやって来た。「……お義母さん」明美は相変わらず優雅だった。そして私に1枚の船のチケットを差し出し
一輝は唇を固く結び、長い沈黙のあと、ようやく口を開いた。「認める。俺は青葉を愛してしまった。だが、それはお前を愛していないということじゃない」「それで?」私は彼の心の奥底にある、醜い考えを容赦なく暴いた。「私の愛のほうが、あなたの愛よりずっと深いと分かっているから、そんなに安心していられるんでしょう?私があなたから離れられないと思っているから、何度も何度も私を傷つけられた。そうでしょう?」一輝は言葉を失った。そして、その顔から少しずつ血の気が引いていった。ほら。彼は全部、分かっていたのだ。私はまた、彼に閉じ込められた。一輝は私の頬を撫でながら、独り言のように呟いた。「俺はただ、お前に後悔してほしくなかったんだ」私はもう、彼と一言も話したくなかった。私が変わってしまったことを受け入れられない一輝は、痛々しい背中だけを残して去っていった。彼が真っ先に青葉のもとへ向かわなかったのは、初めてのことだった。代わりに車を走らせ、徳宮家の屋敷へ戻った。戸籍謄本に刻まれた青葉の名前を見つめながら、一輝は思った。――この名前を戸籍から抜けば、もう一度やり直せるのではないか。その時、背後から母親の冷たい声がした。「あなたは、お父さんにそっくりね」明美は一輝の父の位牌を見つめ、その顔に嫌悪を滲ませた。「惚れっぽくて、情にもだらしない。だから、あなたたちは愛する人を失う運命なのよ」一輝の父、徳宮慎一郎(とくみや しんいちろう)は事業のために明美の一族との政略結婚を選び、初恋の女性を捨てた。それなのに権力を手に入れると、今度はその初恋の女性と人目を忍んでよりを戻そうとした。初恋の女性は「本当の愛」に自信を持ち、何度も明美を挑発した。だが、どうなったか。1年も経たないうちに、慎一郎は港市一の人気歌姫へ心変わりした。慎一郎の初恋の女性は気性が激しかった。自分こそが真実の愛だと思っていたうえに、明美よりも先に慎一郎と付き合っていたことから、自分が愛人だとは決して認めようとしなかった。だが、慎一郎の移り気な性分は、そんな彼女の自尊心を容赦なく打ち砕いた。怒りと絶望のあまり、彼女は身ごもったまま海へ身を投げ、自ら命を絶った。慎一郎は悲嘆に暮れ、激しく後悔した。食事も水も喉を通