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第2話

Penulis: 小雨
すべての手続きを終えたあと、朝菜はぼんやりとした意識のまま、家に帰り着いた。

広すぎる部屋。

そこにはもう、征史の姿はなかった。

ただ、寒々しい静けさだけが満ちている。

冷蔵庫には、貼り付けたままのメモがあった。

征史の、癖のある柔らかな字で。

【食いしん坊ちゃん、冷たいものは食べちゃダメだよ】

【寒いから、ちゃんと厚着してね】

【世界で一番素敵な朝菜、どうか元気でいて】

部屋のあちこちに、彼の痕跡は残されていた。

大きな抱き枕のクマ。

征史が作詞してくれた手作りの落書きCD。

オーダーメイドの一粒ダイヤの指輪。

ガラスのように透き通ったブルーのクリスタルシューズ。

彼が編んでくれた、ピンクのうさぎのぬいぐるみ――

どこを見ても、彼がいた。

征史は、本当に細やかな人だった。

どんな小さな記念日も、欠かさず祝ってくれた。

毎年毎年、違うサプライズで自分を笑顔にしてくれた。

朝菜は、まっすぐに、心から彼を愛していた。

――それなのに。

気づけば、自嘲の笑みが漏れていた。

朝菜は荷物を一つ一つ丁寧に詰めていった。

あの千億円相当の指輪でさえも――彼女は貧困地域の子どもたちにすべて寄付した。

……ただ一つ、クリスタルシューズだけは残した。

朝菜は目を伏せ、小さくつぶやいた。

――最後の名残として、これだけは。

そのとき、スマホにビデオ通話が入る。発信者は征史だった。

彼の声は焦っていた。

「朝菜、なんで俺が贈ったプレゼント、全部寄付しちゃったの?」

朝菜の声は冷静で、穏やかだった。

「さっき、動画を一本見たの。貧しい地域の子どもたちが、お腹も満たせず、寒さに震えてるのを見て……なんか、すごく胸が苦しくなって」

その言葉に、征史は明らかに安堵した声を漏らす。

「さすが朝菜、優しいな……でも婚約指輪だけはダメだよ?あとで現地に電話して、二十億円分の物資を寄付するよ」

朝菜は天井を見つめながら、静かに言った。

「……そう。ところで、今どこにいるの?」

「え、ああ……こっちは緊急手術があってさ。たぶん今日はちょっと遅くなるかも。朝菜、眠かったら先に寝てて?」

「そう……」朝菜は言葉を継いだ。

「でも、今そっちから……女の人の声が聞こえた気がする」

征史は、息をのんだ。

彼の体は、今まさに真っ白な病院のベッドに横たわっていた。

その上には句美子が、彼にすり寄りながらいたずらっぽく舌を出していた。

彼女は唇を小さく動かし、無音でこう囁いていた――

「気持ちいい?」

征史は慌ててスマホを伏せ、深く息を吸い込むと、

優しげな声を作って応えた。

「……朝菜、聞き間違いだよ」

朝菜はそれ以上多くを語らず、いくつか言葉を交わしただけで電話を切って、荷物をまとめた始めた。

明日の朝には、この家を離れ、田舎の祖母の元へ帰るつもりだった。

軽くシャワーを浴び、ベッドに潜り込む。

……しかし、夜半。

耳元に、甘ったるく卑猥な声が響いた。

「んん……早すぎるよ、征史……もう我慢できない……」

隣のベッドから、微かに衣擦れの音が聞こえる。

男がネクタイを外す、鋭い音。

「誰に向かって口をきいてる、ちゃんと『兄さん』って呼べ」

その瞬間、朝菜は目を見開いた。

朦朧としていた頭が、一気に覚醒する。

朝菜が妊娠してから、征史は万が一にも彼女のお腹を傷つけないようにと、寝室にベッドを二つ置いた。

けれど――

今、かすかに開けた視界の先で、見たものは。

二つの影が、絡み合っていた。

ぐしゃりと心を踏みつけられるような、耐え難い屈辱感が込み上げる。

――どうして、そんなことができるの。

だけど、体に力が入らなかった。

まぶたを開けているだけでも、やっとだった。

句美子はわざとらしく、征史の肩に甘噛みして、くすぐるように囁いた。

「ねえ、兄さん。もし姉さんが目を覚ましたら、どうする?」

征史は低く笑った。

「朝菜は妊娠してからよく眠る。こんな時間に起きるわけないだろ?……じゃなきゃ、こんなことお前にさせない」

「だったら――」

句美子はわざと息を弾ませながら、長く甘い声を引き伸ばした。

「ねぇ、兄さん、姉さんを起こしてこれたら……口で、ごほうび、あげる~」

征史は眉を上げ、楽しそうに微笑む。

「小悪魔め。そんなこと言って、あとで後悔するなよ?」

「えへへ、兄さん、できるかなぁ?」

小悪魔のように挑発する句美子に、征史はほんの一瞬迷ったあと、ぺしりと彼女の太ももを叩いた。

「……待ってろ」

朝菜の体は、無意識にびくびくと震えた。

しばらくして、誰かの影がそっと近づいてきた。

ベッドの端に、征史が膝をついた。

優しく、彼女の肩に手を置く。

「朝菜」

その声は、信じられないほど優しかった。

でも、朝菜は動かなかった。

瞼も、唇も、指先すらも、微動だにしなかった。

そのとき、征史はふと気づいた。

彼女の頬には、一筋の涙の跡。

眉をひそめ、低くつぶやいた。

「……悪い夢でも見たのか」

征史はそっと、朝菜の額に手を当てた。

次の瞬間、顔色を変える。

「朝菜……!?熱があるじゃないか!」

朝菜は目を開けなかった。

意識が朦朧とする中で、彼に身を任せるしかなかった。

冷たいタオルを換えられ、抱き上げられ、口元に薬を押し当てられる。

それが、どれくらい続いただろう。

征史は焦りながらも、懸命に世話を焼き続けた。

そんな中、甘ったるい声が割って入る。

「ねえ、兄さん……」

句美子だった。

征史は顔を上げることもなく、冷たく言い捨てた。

「今はそれどころじゃない……どけ」

句美子はそれでもめげなかった。

するりと征史の腕に絡みつき、甘えるように言った。

「邪魔しないよ。姉さんの看病は兄さんがして……私は、兄さんを癒してあげる」

そう言って――

句美子は征史の太ももに顔を埋めた。

征史の体が、びくりと強張った。

だが、拒絶することはしなかった。

朝菜には、征史の喉がごくりと鳴る音がはっきり聞こえた。

心臓が、高鳴っているのも。

胃の中に流し込まれた薬が、逆流してきそうだった。

吐き気がした。

でも、どうしても吐けなかった。

見えない場所で、句美子が小指で朝菜の脚を、くい、と引っかいた。

まるで、「知ってるよ、起きてるんでしょ?」と囁くように。

征史の体はさらに硬直する。

震える声で絞り出した。

「……もういい、句美子」

しかし句美子は、濡れた瞳で見上げてきた。

「……兄さん、いやだった?」

征史は短く答えた。

「……いやじゃない」

そのまま、彼は朝菜をベッドに寝かせると、句美子を抱き上げ、浴室へと急ぎ足で消えていった。

――シャワーの音が、壁越しに激しく響く。

けれど、それでも、二人の声は聞こえてきた。

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