LOGIN癌の治療を諦めた日、俺、鳴海恒介(なるみ こうすけ)は腎不全を患う婚約者のために、誰にも告げず腎臓提供の同意書に署名した。 ところが、両親に養子として迎えられた崎山州平(さきやま しゅうへい)がその手柄を横取りし、あろうことか俺が彼女を捨てて金を持ち逃げしたと嘘までついた。 実の両親すら俺を恩知らずと罵り、婚約者と州平を結婚させようと躍起になった。 そして、婚約者の瀬野明音(せの あかね)が州平からのプロポーズを受けようとしていたある日、彼女のもとに斎場から電話が入った。 俺の遺骨は3年間、誰にも引き取られないまま保管され、まもなく保管期限を迎えるという知らせだった。 残された唯一の遺品は、臓器提供同意書。その提供先の欄には、明音の名前がはっきりと記されていた。
View More州平が明音の指に指輪をはめ終えると、彼女の口から具体的な結婚式の話が出た。州平は興奮と驚きが入り混じった声で聞き返した。「結婚式?明音、もう僕との式のことまで考えてくれているの?」明音は薬指の指輪を見下ろし、静かな声で答えた。「プロポーズを受けたんだもの。早いほうがいいでしょう?」州平は有頂天になり、明音を抱きしめて耳元で甘い言葉をささやいた。「明音、すごくうれしいよ。安心して。僕が一生幸せにする。絶対に、一生忘れられない盛大な結婚式にするよ」州平から見えないところで、明音はすっと笑顔を消していた。それでも親しげに彼の背中に腕を回し、同じように約束した。「ええ、私も州平に、一生忘れられない式を贈るわ」俺の胸がざわついた。今日の明音の州平に対する態度は、言葉では説明できないほど奇妙だった。それからしばらく、州平は式の準備に奔走した。仕事と結婚式の両方に追われ、二人が直接会う回数は少しずつ減っていった。たいていの場合、州平がブーケのデザインや引き出物の候補を画像で送り、明音がメッセージで返事をするだけだった。州平からの連絡には、明音はほとんどすぐに返信していた。だが、俺がそばで見ているあいだ、彼女が心から笑う姿は一度も見なかった。そのうえ明音は、俺が生前、臓器提供の手術を受けた病院へ頻繁に通うようになった。家族に知られないよう、俺は明音とは別の、少し離れた病院で手術を受けたのだ。不思議なことに、その病院の中へだけは、俺の魂は入ることができなかった。俺は入口の外に取り残され、明音が出入りするのをただ見守るしかなかった。それと同時に、自分の魂が少しずつ薄れていくのを感じていた。明音はまだ、俺の遺骨を埋葬していないのだ。時間は飛ぶように過ぎ、ついに明音と州平の結婚式の日がやってきた。両家の親族や友人が多数招待され、二人の幸せな瞬間を見届けようと席についていた。だが、式が指輪の交換へと進んだそのとき――突然、警察が式場へ踏み込み、祭壇の前にいた州平をその場で取り押さえた。州平は訳が分からず、上ずった声を上げる。「警察?なっ……何かの間違いじゃありませんか!」州平が必死に弁解しようとしたそのとき、明音は分厚い資料の束を取り出し、氷のように冷たい声で言い放った。「間違ってなんかいないわ。捕ま
明音は軽く咳払いをし、言い訳をした。「マナーモードにしていて、気づかなかったの。ごめんなさい、州平。倒れたのも大したことないのよ。最近ずっと残業続きで、疲れがたまっていただけみたい」州平はベッドのそばへ腰を下ろし、明音の手を握った。「無事で本当によかったよ。体が一番大事なんだから、しばらく仕事を休んでゆっくりしたら?」明音の手が強張り、彼を拒絶しているのが俺にも見てとれた。彼女はさりげなく手を引き抜き、無理に笑みを作った。「ええ、そうするわ……州平、私ね」明音は州平の目をまっすぐ見つめ、ためらいながらも口を開いた。「一つ聞きたいことがあるの。3年前、恒介が出ていったとき……彼は本当に、あんなひどいことを言っていたの?」明音に見つめられ、州平は居心地悪そうに目をそらした。気まずいときに決まってやる、鼻の頭を触る仕草を見せながら答える。「明音、どうして急に兄さんの話をするの?もう兄さんの名前も聞きたくないって言っていたじゃないか」州平は一度外した視線を、再び明音へ向けた。しかし彼女は視線を逸らさず、州平の顔を見つめたまま静かに言葉を続けた。「何でもないの。ただ、気を失っているあいだに悪夢を見たの。恒介が出てきたわ。血まみれで、死んでも死にきれないって言っていた……だから、どうしても気になって。今思えば、私が腎不全だと分かる前、恒介は本当に私に優しかった。もし別れる気なら、直接私にそう言うはずよ。何も言わずに消えるなんて、恒介らしくないもの」そばに立っていた母が、突然不快そうに顔をしかめた。「明音、それは州平を疑っているってこと?この子があなたをどれだけ大切にしているか、私たちはそばでずっと見てきたのよ。どうして今さら、あんな恩知らずの話なんかするの。州平を傷つけないでちょうだい」州平は首を横に振り、いつもの理解ある態度を装った。「お母さん、そんな言い方はやめてください。兄さんにも、何か言えない事情があったのかもしれません。でも兄さんはもう亡くなった。海外へ行ってから何があったのかなんて、誰にも分からないんです。僕だってずっと辛かったんですよ。兄さんのことは、本当の兄弟だと思っていたんですから」明音は手を振り、州平のもっともらしい話を遮った。「もういいわ、州平。あなたの言いたいこと
明音は泣き続けた。魂となった今の俺は、彼女のそばから離れることができない。病院の廊下にあるベンチへ腰を下ろし、行き交う人々を眺めた。誰もが足早で、その多くが悲痛な面持ちをしている。ふと、昔聞いた言葉を思い出した。――祈りが最も集まる場所は、教会でも寺でもない。病院の手術室へ続く廊下だ。ここでは毎日、生と死の別れが繰り返されている。それなのに俺は、誰にも看取られず、異国の地であまりにもあっけなく死んだ。息を引き取るあの瞬間、俺のために祈ってくれる家族も、涙を流してくれる人もいなかった。どれほど時間が過ぎたのか。明音はようやく泣きやみ、苦しそうに体を起こした。不意に何かを思い出したように、うわ言のようにこぼす。「遺骨……恒介の遺骨……!」彼女は血相を変えて立ち上がり、再び先ほどのレストランへ向かって車を走らせた。店にはもう州平の姿はなく、待ちぼうけを食らった彼は両親を連れて帰ったころだろう。明音はごみ箱を片づけた店員を見つけるなりその腕をつかみ、尋常ではない様子で問い詰めた。「さっきのごみ袋、どこへ捨てたの!?」「お店の裏にある、緑色の大型ごみ箱に捨てましたけど……」店員が答え終わるか終わらないかのうちに、明音は人目も気にせず外へ飛び出し、並んでいたごみ箱を次々にひっくり返した。彼女はきれい好きで、少し潔癖なところさえあった。それなのに今は、お気に入りの服が生臭い生ごみにまみれても、まるで気にする素振りさえない。いくつものごみ箱をあさり、ようやく俺の遺骨が入った袋を見つけ出した。明音はごみ袋を、世界で一番尊いものを扱うように、震える手で慎重に開いた。だが、ごみや汚れの中からどれほど必死に拾い集めても、取り戻せたのはほんの一握りだけだった。明音はどこかで清潔な容器を見つけ、拾い集めた遺骨を大切に収めた。魂が抜けたような顔で、彼女はふらふらと当てもなく街を歩き出した。俺は黙ってその後ろをついていった。今の明音は、幽霊である俺よりもずっと生気がなく、亡霊のように見えた。やがて彼女の足取りはおぼつかなくなり、糸が切れたようにふらりと体が傾いた。俺は反射的に手を伸ばしたが、今の俺には彼女を抱きとめる体がない。明音の体は俺の腕をすり抜け、何の支えもない冷たいアスファルトへと崩れ落ちた。
そう言う彼女の声を聞いただけで、胸が締めつけられた。俺は迷わず、すぐに帰れる便を取った。深夜3時、明音の家の前に着いた。風邪薬を手に、長旅の疲れも隠せずに現れた俺を見て、明音は抱きつき、顔を涙で濡らした。言葉にならないほど、しゃくり上げている。「恒介、ばかじゃないの?こんな時間に戻ってきて、仕事はどうするの?上司にひどく叱られるでしょう」俺は指先で明音の涙をぬぐい、優しく微笑んだ。「大丈夫だよ。君より大切なものなんてない。それに、遠距離は嫌だと言っていただろう。だから海外支社の仕事は辞めてきたんだ。これからはずっとそばにいるよ」明音は何も言わず、俺をさらに強く抱きしめた。しばらくして、俺の肩に頬を寄せ、かすかな声でささやいた。「恒介、私たち、ずっと一緒にいようね」その夜はとても寒く、初雪が降った。白い雪が俺たちの周りに舞い落ちていた。それでも心はひどく温かかった。まるで世界中を手に入れたような気がした。それから長いあいだ、俺はあの雪の夜に抱き合った光景を何度も思い返してきた。明音は約束どおり、ずっと俺を愛し続けてくれると、俺は固く信じていた。――本当に俺を深く愛してくれていたのなら、なぜあいつの言葉なんかをあんなにも簡単に信じたのだろう。他人のたった数言だけで、俺は明音の中で絶対に許せない人間になり果てた。回想から意識が引き戻されると、明音の車はすでに病院の入口へ着いていた。「お客様、そこは駐車禁止です!」入口の警備員が飛び出し、明音へ声をかけた。しかし彼女は聞く耳を持たず、車を降りるなり病院の中へ駆け込んだ。明音が死に物狂いで走るたび、彼女の後を追う俺の魂も同じように加速した。すれ違う人影さえぼやけて見えるほどだった。「先生、私は瀬野明音です。3年前の、あの臓器提供同意書を……見せていただけませんか?」診察室へ飛び込んだところで、明音はようやく足を止めた。胸を押さえ、荒い息を吐きながら必死に呼吸を整えようとする。「瀬野さんですね。まずは落ち着いてください。再診のご予約ですか?ああ、臓器提供同意書ですね。探してみますので、少々お待ちください」医師は書類の束から、当時の同意書を見つけ出した。医師が用紙を取り出した瞬間、明音は待ちきれないようにそれをひったくった。誰かに奪われ